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第2話 氷の皇帝、素朴な少女のすべてに陥落する

 ラズ=ヴェルド辺境の異変が、正式な報告として帝都へ届いたのは、メルヴィが古城暮らしを始めてから二十日ほどが経った頃だった。


 北方観測塔、第三測域室。

 十基並ぶ大型水晶盤のうち、もっとも禍々しい値を示し続けてきた一枚が、ここ数日で信じがたいほど澄み切った青を灯している。


「北方瘴気濃度、基準値をさらに下回りました」


「ありえん」


「周辺霊脈の乱流も収束。しかも、局地的に精霊反応が増加しています」


「精霊、だと?」


 報告を受けた高官たちは、一様に顔色を変えた。


 ラズ=ヴェルドは災厄以降、瘴気の巣窟だったはずだ。

 土地は枯れ、水は濁り、鳥獣すら寄りつかない。そこへ精霊反応が戻るなど、常識では説明がつかない。


「調査隊を出すべきでは」


「通常の調査隊では駄目だ。万一、瘴気が形を変えただけなら全滅する」


「では……」


 室内に、ひやりとした沈黙が落ちた。


 誰もが同じ名を思い浮かべていた。

 そして、その人物はちょうどそのとき、帝城最奥の執務室で、いつもどおり氷みたいな無表情のまま書類に判を押していた。


 皇帝オフィウス・ルヴァン=エルドラード。

 若くして帝位につき、戦場では一度も敗れず、政敵には容赦なく、貴族たちからは畏怖を込めて「氷の皇帝」と呼ばれている男である。


 整いすぎた容貌は近寄りがたいほど美しく、淡い銀の髪は窓辺の光を帯びて鋭く光る。

 だが、その美しさが人を惹きつけるより先に、底知れぬ冷たさが相手を竦ませる。


「陛下。北方ラズ=ヴェルドにて異常事態が」


 側近のラグナスが一礼して報告書を差し出した。

 オフィウスは視線だけを向ける。


「異常事態?」


「はい。死の地と化していたはずの旧離宮領域で、瘴気が急減しています。観測値の乱れではなく、継続的な浄化反応です」


「原因は」


「不明です」


 それだけで、部屋の空気がさらに張り詰めた。

 皇帝の前で“わからない”と答えるのは、臣下にとってあまり愉快なことではない。


 だがオフィウスは怒鳴りもしなければ、感情を露わにもしなかった。

 ただ、書類を閉じる。


「出る」


「……は?」


「私が確認する」


 ラグナスは一瞬、顔をしかめた。

 本当に一瞬だけ。普通の人間なら見逃すほどの微かな変化だった。


「恐れながら、危険です。正体不明の浄化現象など、罠である可能性も――」


「だから私が行く」


 淡々とした声音。

 そこには一片の揺らぎもない。


 オフィウスはもともと、人を信用しない。

 臣下の忠義も、貴族の媚びも、聖職者の祈りも、どこか遠いものとして見ている。

 生まれながら皇太子であり、若くして血と裏切りに満ちた権力闘争を潜り抜け、帝位を守るために笑顔より沈黙を選んできた男だ。誰かに任せて済むなら任せる、などという柔らかい発想は最初からない。


「討伐仕様で編成しろ。精鋭騎士団三十。術師隊十。最低限でいい」


「御意」


「それと」


 オフィウスは報告書の下に挟まっていた別紙を抜き取った。

 管理区域の現況記録。人事局から自動転送されたものだ。


「現任管理者……九等古城管理員、メルヴィ・アシュベリー」


 読み上げた瞬間、側近たちの表情が微妙に揺れた。

 よりにもよって九等官。左遷先に置かれる、ほとんど雑用係同然の役職である。


「この者は、いつから赴任している」


「約三週間前です。中央魔導省からの配置転換かと」


「三週間」


 オフィウスは紙を見下ろしたまま、わずかに目を細めた。


 三週間で死の地が浄化されるなど、常識ではありえない。

 偶然か、それとも何者かの擬装か。

 少なくとも、無視できる話ではない。


「その九等官が生きているなら、話を聞く価値はある」


 そう言って立ち上がる皇帝の横顔に、期待も好奇心も見えない。

 ただ危険を摘み取る者の、冷ややかな判断だけがあった。


 同じ頃。

 当の九等官メルヴィは、古城の裏庭で巨大な根菜を引き抜こうとしていた。


「ぬ、ぬぬ……っ!」


 土に両足を踏ん張り、両手で葉を掴んで渾身の力を込める。

 ここ数日で土壌の浄化が進み、以前は死んでいた畑跡から勝手に作物めいたものが育ち始めたのだ。もちろん、普通の作物ではない。葉の縁がほんのり発光している。


「これは食べられるのでしょうか……でも、毒々しくはないんですよね……っ、あっ」


 すぽん、と勢いよく抜けた根菜を抱えたまま、メルヴィは尻もちをついた。

 顔にも髪にも土が飛ぶ。


「いたた……」


 だが、すぐに根菜を掲げてにこっと笑う。


「大収穫です!」


 裏庭には、見違えるほど緑が戻っていた。

 かつて黒ずんでいた土は柔らかくなり、噴水から引いた水路の周囲には草花が芽吹き、白い小鳥まで枝にとまっている。精霊たちも相変わらず彼女の周囲をふわふわ飛び回り、まるで手伝っているつもりなのか、洗濯物を乾かす風まで起こしてくれる。


 ただし、メルヴィ本人はそれを“辺境にもたまには物好きな妖精っぽい何かがいる”程度にしか認識していなかった。


 その日の彼女は、古城管理員というより、完全に住み込みの世話係の格好だった。

 袖をきっちりまくったワンピースに、生成りのエプロン。髪は簡単に後ろでまとめ、頬には泥の筋。

 王都なら「はしたない」と眉をひそめられかねない姿である。


「さて、次は北の回廊ですね。二階はだいぶ終わったので、今日は三階の封鎖区画まで開けられるかもしれません」


 古城の魔導板によれば、清浄度の上昇に合わせて管理権限が順調に解放されていた。

 赴任三日目で九等上席。

 一週間後には八等待遇・辺境設備保全官補。

 さらに十日前、古城の古い自動評価によって、七等相当の仮権限申請が中央へ送られたらしい。


 らしい、というのは、メルヴィにもよくわかっていないからだ。

 魔導板に表示される文言は時々やたら難しく、彼女が理解しているのは「掃除すると偉くなる」「綺麗を維持すると手当が増える」くらいである。


「でも七等って、すごいですよね……。王都にいた頃は、八等の先輩ですら雲の上みたいでしたし」


 しみじみ呟いてから、ふと遠くを見る。

 王都での三年間を思い出しても、胸が痛まなくなってきたことに最近気づいた。人に認められなかった悔しさは残っているけれど、この城でやるべきことが多すぎて、沈んでいる暇がないのだ。


「今日も頑張りましょう」


 そう言って箒を担いだ瞬間、精霊たちが一斉に空を見上げた。


 次いで、遠雷のような地鳴り。

 辺境の平原の向こうから、甲冑の列が現れる。


 黒と銀を基調にした精鋭騎士団。

 先頭には巨大な軍馬にまたがる一団の中でも、ひときわ目を引く男の姿があった。


「……討伐隊?」


 メルヴィは思わず身を固くした。


 やって来た一行もまた、目の前の光景に足を止めていた。


「……何だ、ここは」


 誰かが呆然と呟く。

 それは無理もない反応だった。


 彼らが来るはずだったのは、瘴気に満ちた死の地。

 近づけば吐き気を催し、土は腐り、水は呪われ、古城には魔物が巣食う――そんな地獄のはずだった。


 ところが実際に広がっていたのは、透き通る泉と若草に縁取られた白い古城、そして空中に舞う精霊たちの神聖な楽園だったのである。


 城壁にこびりついていたはずの黒い瘴気は消え、空気は高原の朝みたいに澄んでいる。

 枯れていた木々には新芽が差し、城門脇には白花まで咲いていた。


「報告と違いすぎる」


「いや……報告どおりなのかもしれません。異常な浄化現象という意味では」


「魔物の気配も激減しています」


「精霊密度が高すぎる……神殿級だぞ」


 騎士や術師たちがざわつく中、ただ一人、オフィウスだけは表情を変えなかった。

 けれどその薄氷のような瞳は、じっと古城を見据えている。


 そして、門前にぽつんと立つ人物へと視線が向いた。


 小柄な少女。

 泥で少し汚れた頬。

 実務一辺倒の簡素な服に、使い込まれたエプロン。

 片手には箒。もう片方の腕には、今朝抜いたばかりの発光根菜。


 討伐対象の主とも、浄化を成した大聖女とも、まるで噛み合わない姿だった。


「……誰だ」


 オフィウスの問いに、メルヴィははっとしてぺこりと頭を下げた。


「きゅ、九等古城管理員のメルヴィ・アシュベリーです! ええと、皆さまは……?」


 名乗られた瞬間、騎士団の空気が変わった。

 まさか本当に生きていた。しかも普通に。しかもどう見ても、この城で暮らしている。


 ラグナスが前に出ようとした、そのときだった。


 城壁の陰から、ぐるる、と低い唸りが響く。

 次の瞬間、熊ほどもある黒毛の獣が飛び出してきた。口から瘴気を漏らす、辺境特有の汚染獣だ。


「陛下!」


 騎士たちが一斉に剣へ手をかける。


 だが、それより早くメルヴィが動いた。


「また来たんですか、この子!」


 彼女は箒を逆手に持ち、たったっ、と駆け寄る。


「駄目ですってば、今朝せっかく洗った回廊を泥だらけにしたでしょう!」


 べしっ。


 なんとも締まらない音がした。

 しかし次の瞬間、箒の先から淡い光が走り、巨大な汚染獣は驚いたように目を見開いたまま、ぽんっと白煙を上げて吹き飛んだ。着地した場所の草はむしろ青々と蘇っている。


 騎士団全員が凍りついた。


 術師長が震える声で呟く。


「あれは……浄化打撃……?」


「そんな馬鹿な。瘴獣を箒で……」


 メルヴィは獣が逃げ去った方向を見て、ほっと息をついた。


「すみません、お見苦しいところを。最近、少し大きい害獣が増えていて」


 少し大きい、で済ませる相手では断じてない。

 騎士たちは顔を引きつらせたが、メルヴィは本気でそう思っている顔だった。


 そのとき、オフィウスは自分の胸の内に起きた異変を、うまく言葉にできずにいた。


 美しいものは見慣れている。

 磨き上げられた宝石も、着飾った令嬢も、完璧な礼法で微笑む女たちも、帝城にはいくらでもいた。だが彼の心は一度も動かなかった。


 なのに今、目の前にいる少女は泥だらけで、髪も少し乱れていて、皇帝の前だというのに怯えて跪くより先に害獣を追い払ってしまう。

 礼儀としては落第だ。

 品位だけ見れば、帝都の社交界では笑いものにされるだろう。


 ――なのに。


 なぜだ。

 この姿が、こんなにも目を奪う。


 誰の評価も求めず、ただ目の前の厄介ごとを片づけて、汚れた手のまま当たり前のように笑う。

 その無防備さが、真っ直ぐさが、息を呑むほど愛おしく見える。


 オフィウスは生まれて初めて、胸の鼓動が理性を追い越す感覚を知った。


「……陛下?」


 異変に気づいたラグナスが小さく呼ぶ。

 だがオフィウスの視線は、メルヴィから動かなかった。


 彼女が申し訳なさそうにエプロンで手を拭き、困ったように首を傾げる。

 その仕草ひとつで、どうしようもなく心が騒ぐ。


 美しい。

 いや、違う。そういう単純な語では足りない。


 尊い。

 守りたい。

 もっと見ていたい。

 なぜ今まで、この世にこんな存在がいると誰も教えなかった。


 完全に、落ちた。


 本人だけがそれを認めていないまま、オフィウスは馬から降りた。


「皇帝オフィウスだ」


「…………え?」


 間抜けな声が漏れたのは、無理もない。

 目の前の騎士団が一斉に頭を垂れたことで、メルヴィはようやく事態の大きさを理解したらしかった。


「こ、皇帝陛下!? し、失礼いたしましたっ」


 慌ててぺたんと膝をつこうとした彼女の足元が、朝に撒いた水でまだ少し湿っていた。

 つるっ、と滑る。


 オフィウスは反射で手を伸ばし、その小柄な体を抱き留めた。


「危ない」


「ひゃっ」


 ふわりと持ち上がる軽さ。

 腕の中で目を丸くするメルヴィ。

 頬に泥。睫毛の先にも少し土。近くで見ると、日差しに焼けたわけでもない白い肌に、仕事の跡だけがぽつんとついている。


 あまりにも不用心で、あまりにも可憐で、オフィウスは危うく息を忘れるところだった。


 一方のメルヴィは、皇帝に抱き留められているという現実に頭が追いつかない。


「あ、あの、陛下……っ」


「怪我は」


「だ、大丈夫です!」


「ならよかった」


 たったそれだけの言葉を告げる声音が、周囲を知る者たちには信じられないほど柔らかかった。


 騎士たちがざわめく。

 ラグナスはついに額へ手を当てた。長年仕えてきたが、皇帝が他人にこんな声を向けるのを一度も聞いたことがない。


 メルヴィはようやく解放され、真っ赤になって二歩ほど下がる。

 オフィウスはその反応すら胸に刺さっていた。恥じらう様子まで愛らしい。どういうことだ。


「この地を浄化したのは、お前か」


 問いは低く、静かだ。

 だがメルヴィは困ったように笑った。


「浄化、というほど大げさなことでは……。私はただ、お城を少し掃除していただけで」


「少し」


 騎士団の全員が心の中で同時に否定した。


「はい。最初は玄関と中庭だけのつもりだったのですが、やっているうちに水が通って、部屋も使えるようになってきて……」


 彼女は本当に“掃除の延長”として話している。

 国の災厄級案件を、洗濯当番の報告みたいな気軽さで。


 オフィウスの胸の内で、何かが決定的に壊れた。


 可愛い。

 ありえないくらい可愛い。

 しかも功績をひけらかすどころか、自分が何をしたのか理解していない。そんなもの、好きにならない方が無理ではないか。


「中を見せろ」


「は、はい。あの、まだ全部は片づいていないのですが」


「構わない」


 メルヴィはおずおずと先に立ち、城門をくぐった。

 その後ろ姿を見つめるオフィウスの目が、すでに少し危ない。


 玄関ホールに入った騎士たちは、またしても言葉を失った。

 外観だけでなく、内部まで完全に再生されている。大理石の床は光を返し、壁面装飾は蘇り、空気には神殿にも似た清浄な気配が満ちていた。


「ありえない……」


「旧離宮級の浄化を、たった一人で?」


「しかも術式痕が不自然に少ない。まるで土地そのものが喜んで従っているような……」


 術師たちが青ざめる中、メルヴィは恐縮していた。


「その、来客の準備が間に合わず申し訳ありません。床は朝もう一度磨いたのですが、二階東回廊はまだ少し……」


 皇帝を前にして言うことが床の磨き具合なのか。

 ラグナスはもはや感心を通り越して呆然としていた。


 そのとき、玄関脇の魔導板がぴかりと光る。


『現任管理者メルヴィ・アシュベリー。領域浄化率六二%到達。臨時階位評価更新。七等相当・辺境聖域管理補佐官への昇格を勧告。承認権限者の確認を要求』


「えっ」


 メルヴィが硬直する。

 騎士団がざわつく。

 そして承認権限者、という文言と同時に、板は目の前の人物へ向かって淡い光を伸ばした。


『皇統認証確認。最高承認権限者:オフィウス・ルヴァン=エルドラード』


 沈黙が落ちた。


 メルヴィは青くなって振り返る。


「へ、陛下! これは、その……ええと、たぶん古い表示で、私はただ掃除を……」


「黙っていろ」


 冷たくもなく、かといって拒絶でもない、妙に低い声だった。

 オフィウスは魔導板の文面を読み、ほんの少しだけ口元を動かした。


「七等相当で足りるものか」


 聞こえたのは、側近たちだけだった。


 だが彼はあえてその場では過剰な引き上げをしなかった。

 突然高位を与えれば、かえって彼女が怯える。今はまだ、彼女が当然の報酬を受け取る流れを整える方が先だと、本能的に理解したからである。


「承認する」


 皇帝の指先が魔導板に触れた瞬間、金色の紋章が浮かび上がった。


『承認完了。メルヴィ・アシュベリーを七等相当・辺境聖域管理補佐官待遇として記録。手当増額、施設利用権拡張、直属保護権限付与』


「直属保護権限?」


 ラグナスが眉を上げる。

 古代王家の施設らしい妙な権限だが、要するに管理者へ危害を加える行為を禁じる自動措置なのだろう。


 メルヴィはぽかんとしていた。


「な、七等……?」


 王都で雲の上だった七等官。

 それがいきなり自分に。

 あまりのことに実感がわかない。


「不服か」


「い、いえそんな! でも、私などが……」


「お前だからだ」


 即答だった。


 あまりにも迷いのない言葉に、メルヴィは目を見開く。

 オフィウスは自分で言っておいて、胸の奥が妙に熱くなるのを感じていた。事実を述べただけだ。誰であろうと、この功績なら七等でも低い。だが、それ以上に――彼女が報われるのが嬉しい、と感じてしまっている自分がいる。


「……ありがとうございます」


 メルヴィはおそるおそる頭を下げた。

 その仕草すら可愛い。どうかしている、とオフィウスは内心で自分を罵ったが、効果はなかった。


 その後、彼女は城内を案内した。

 食堂、使用人区画、泉へつながる中庭、再生し始めた書庫、そしてまだ半分しか片づいていない三階回廊。


「このあたりは瘴気が濃かったので、拭いても拭いてもすぐ黒ずんで大変でして。でも、最近はかなり落ち着いてきました」


「お前一人でやったのか」


「はい」


「補助は?」


「いません」


「……そうか」


 オフィウスは低く答えた。


 不敬に近いほど素朴な案内だったが、彼にとっては一つ一つが心臓に悪い。

 彼女は普通に扉を開け、普通に埃の残り具合を気にし、普通に「ここの窓は風通しがいいんです」と笑う。その全てが、無駄に完成された作法や媚びた美辞より、よほど鮮烈に彼を揺さぶった。


 そして極めつけは、三階の封鎖区画だった。


 重たい扉の前で、メルヴィが困ったように振り向く。


「あの、ここはまだ完全に掃除しきれていなくてですね」


 言い終える前に、扉の隙間からどろりと濃い瘴気が溢れた。

 中に潜んでいた上位の瘴獣が、侵入者の気配に反応したのだ。


「下がれ」


 騎士たちが前へ出る。

 オフィウスもまた、腰の剣に手をかけた。


 だがメルヴィは「あっ、床が」と呟き、先に飛び出していた。


「そこで暴れないでくださいー!」


 べしっ。

 またしても箒である。


 重い打撃音とともに、扉から這い出た黒い獣影が浄化の光に包まれ、断末魔もなく消し飛ぶ。余波で瘴気までまるごと洗い流され、三階回廊の窓から一気に陽光が差し込んだ。


 金色の光の中、泥のついた頬のまま、メルヴィが胸を撫で下ろす。


「よかった……これでまた拭き直しが減ります」


 オフィウスは、完全に駄目だった。


 もう無理だ。

 理性ではどうにもならない。

 この少女のどこを見ても、愛おしい以外の感想が出てこない。


 ラグナスは主君の横顔を見て、すべてを察した。

 長年仕えてきた勘が告げている。終わった、と。


「陛下」


「何だ」


「お顔が、少々」


「黙れ」


 だが口調に怒気がない。

 むしろ隠しきれないものを誤魔化そうとしているだけだ。


 案内がひと通り終わるころには、日が傾き始めていた。

 メルヴィはどう扱っていいかわからず、玄関でおろおろしている。


「あの、皆さま。本日はどうなさいますか? まだ客間は二部屋しか整っていないのですが、簡易寝台なら食堂にも……」


「世話を焼く必要はない」


 オフィウスが言う。


「視察は長引く。私はここに滞在する」


「……はい?」


「詳細を確認する必要がある」


 それは明らかに建前だった。

 ラグナスは遠い目をした。確認したい詳細とは何か、もはや誰の目にも明らかである。


「陛下自ら……ここに?」


「問題があるか」


「い、いえ! ただ、その……」


 メルヴィは慌てて頭の中で部屋の状況を整理する。

 皇帝を泊められる部屋などない。というか、この古城で一番ましな部屋ですら、つい昨日まで瘴気まみれだったのだ。


「あの、少しお待ちください。今から最上階は無理ですが、二階南室なら急げば整えられます!」


 言うや否や、彼女は雑巾とバケツを抱えて走り出そうとした。


 オフィウスはすかさずその腕を取る。


「待て」


「ですが、陛下を汚れた部屋に泊めるわけには――」


「お前がするな」


「え?」


「私の騎士がやる」


 騎士団がざわっと揺れた。

 皇帝が自ら“彼女に仕事をさせるな”と言外に示している。


「で、でも」


「君の手は、もう十分働いた」


 あまりに自然に出た言葉だった。


 空気が止まる。

 ラグナスは咳払いで誤魔化した。

 メルヴィはぽかんと目を丸くし、それからじわじわ顔を赤くする。


「そ、そんな……手なんて、ただの手ですし」


「ただではない」


 きっぱり。

 あまりに断定的で、メルヴィはそれ以上何も言えなかった。


 結局、騎士団総出で部屋を整えることになった。

 王国最精鋭の騎士たちが、皇帝の無言の圧に従って必死に雑巾掛けをするという奇妙な光景が繰り広げられる一方、メルヴィは食堂で来客用の茶を淹れていた。


 茶器を並べる手元を、オフィウスは離れた場所からじっと見ている。

 もう危険なレベルで見ている。


「陛下」


 ついにラグナスが諦め顔で囁いた。


「自覚はおありですか」


「何の」


「かなり」


「何がだ」


「……いえ、結構です」


 言っても無駄だと判断したらしい。


 やがて、メルヴィが盆を抱えてやってきた。


「お待たせしました。あり合わせで恐縮ですが」


 彼女が差し出したのは、古城の泉の水で淹れた温かな茶と、今朝収穫した根菜を薄く焼いた素朴な菓子だった。

 皇帝に出すにはあまりに質素。

 だがオフィウスはそれを受け取り、一口飲んだ途端、静かに息をついた。


「……うまい」


 偽りのない感想だった。

 水が良いのか、彼女の淹れ方がいいのか。たぶん両方だろう。


「本当ですか? よかった」


 無邪気にほころぶ笑顔。

 それだけで、今日一日張り詰めていたものが全部ほどける気がした。


 オフィウスは茶杯を置き、静かに告げる。


「メルヴィ・アシュベリー」


「は、はい」


「本日より、お前の身分は七等相当として帝国が保護する。旧離宮の浄化と管理は、国家事業に準じると見なす」


「国家、事業……」


「報酬も人員も手配する。望む物があれば言え」


 メルヴィは困ったように瞬きを繰り返した。

 王都で雑に扱われていた九等官が、いきなりそんなことを言われても、現実味がない。


「ええと……では、丈夫な雑巾と、長柄ブラシを少し……あと、石鹸も多めにあると助かります」


 食堂が静まり返った。


 普通なら、ここで金貨や宝飾や地位を望む。

 なのに彼女が求めたのは、掃除道具だった。


 オフィウスはこめかみを押さえた。

 駄目だ。好きすぎる。


「全部持って来させる」


「ありがとうございます!」


 嬉しそうに笑う。

 その笑顔だけで、皇帝は北方の倉庫という倉庫を掃除道具で埋め尽くしても構わない気分になっていた。


 その夜、古城上空には星が驚くほど近く見えた。

 死の地から聖域へ変わりつつある土地は、夜の空気まで透明にしている。


 メルヴィは、自分に与えられた七等待遇のことをまだ半信半疑のまま、食堂の隅に置かれた新しい辞令写しを何度も見返していた。


「七等……本当に……?」


 それは皇帝直筆の簡易命令書で、古城の管理権と国家保護を保証する旨が簡潔に記されている。

 夢みたいだった。


 一方、別室ではラグナスが真顔でオフィウスに問うていた。


「陛下。視察は何日ほどの予定で?」


「未定だ」


「どの程度の未定で?」


「必要なだけ」


「必要とは」


「彼女の安全と環境が完全に整うまでだ」


 側近は静かに目を閉じた。

 終わった。完全に終わった。


 しかもそれだけではない。

 皇帝の机上にはすでに、中央魔導省から回ってきたメルヴィの人事記録が広げられていた。三年間昇進なし。手柄の記録は曖昧。上司名義で処理された案件がいくつもある。


「……随分と、雑に扱われていたようだな」


 低い声に、室温が下がる。

 氷の皇帝が本当に冷える瞬間である。


「調べますか」


「徹底的に」


 短い返答。

 それだけで、誰かの人生が終わる予感がした。


 だが当のメルヴィは、そんなことも知らず、寝る前に今日の出来事を手帳へ整理していた。


 一、皇帝陛下が来られた。

 二、七等待遇になった。

 三、害獣がまた増えていたので対策要。

 四、掃除道具が増えそうで嬉しい。

 五、陛下は意外とお茶がお好きかもしれない。


 最後の一文を書いて、彼女は少し笑った。

 冷徹で恐ろしいと噂される皇帝は、たしかに近寄りがたい美貌の持ち主だったけれど、不思議と彼女には厳しく当たらなかった。むしろ、転びそうになったときも、掃除を止められたときも、妙に大事にされていた気がする。


「優しい方、なのかな……?」


 首を傾げながら、寝台へ入る。


 その頃、廊下の向こうでオフィウスは一人、閉ざされた窓から中庭を見下ろしていた。

 泉のほとりに、精霊たちがまだ舞っている。

 その中心で、今日一日見続けた少女の姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。


 泥のついた頬。

 無造作にまとめた髪。

 箒を振るう真剣な横顔。

 褒められて戸惑う顔。

 七等待遇に目を丸くした顔。

 湯気の向こうで笑った顔。


「……重症だな」


 生まれて初めて、オフィウスは自分で自分にそう言った。


 戦場でも、政争でも、ここまで理性を乱されたことはない。

 なのにたった一人の少女が、いとも簡単に彼の世界の温度を変えてしまった。


 彼はまだ知らない。

 これが一時の興味や執着ではなく、もっと深く、もっと救いようのない感情へ育つことを。


 そして彼女もまた、知らない。

 自分が箒一本で追い払った日々の害獣より、もっと厄介なものを引き寄せてしまったことを。


 ――すなわち、冷徹無比と恐れられる皇帝の、取り返しのつかない初恋である。


 翌朝から、オフィウスは「視察」の名目で古城に居座り始める。

 騎士たちは半ば呆れ、半ば震えながらそれに従い、中央ではメルヴィの人事を洗い直す命が密かに下されるだろう。

 彼女の身分は七等から、さらに先へ。

 その出世の階段は、もう止まらない。


 だが、そんな激流の始まりを前にしても、メルヴィの朝は実に平和だった。


「さて。皇帝陛下がお泊まりなら、廊下の艶出しをもう一度しないとですね!」


 寝ぼけ眼でそう呟き、雑巾を抱えて立ち上がる。


 その一方で、隣室の皇帝は真顔でこう命じていた。


「彼女より先に私が起きる。雑巾もモップも持たせるな」


 側近ラグナスは、遠い目で天井を見た。


「……承知しました、陛下」


 聖域となり始めた古城に、新しい騒がしさが満ちていく。

 無自覚に奇跡を起こす少女と、無自覚ではいられないほど恋に落ちた皇帝。

 二人の距離が縮まるには、まだ少しだけ時間が必要だった。


 けれど少なくとも、この日を境に。

 メルヴィ・アシュベリーはもう、“窓際の九等官”ではなくなっていた。


 死の地を蘇らせた七等相当の管理補佐官。

 そして、氷の皇帝がその全存在をかけて見つめ始めた、たった一人の特別な人。


 古城の窓辺で、白い花がまた一輪、静かに咲いた。

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