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第12話 霊峰での対峙と、強引すぎる婚姻誓約

 誰一人として、声を返す者はいなかった。


 高く穿たれた風穴から、鋭い高山の風が吹き込む。濡れた岩棚を撫でるその風の鳴き声だけが、広大な空洞に細く響き渡っていた。

 無造作に置かれた木桶から水滴が落ち、水たまりに波紋を作る。つい先刻まで、布を固く絞る水音や、慌ただしい足音、「そちらは拭き上げが甘いです!」と声を張るメルヴィの指示で活気づいていたはずの場所が、たった一言で、厚い氷に閉じ込められたかのように静まり返っていた。


 竜人たちは、肌を刺す冷気の中でようやく気づき始めていた。


 この氷の皇帝は、自らの花嫁を攫われたこと「だけ」に怒っているのではない。


 視線の先には、メルヴィが立っている。

 借り物の粗末な作業衣をまとい、両袖を肘までまくり上げている。乱れた髪の隙間から覗く頬には、うっすらと黒い煤汚れまでこびりついていた。彼女がその細い手で巨大なブラシを握りしめ、泥にまみれながらこの国じゅうを立て直していたこと。

 その事実そのものに、目の前の男は底知れぬ怒りを抱いている。


 静寂の中、長老のひとりがごくりと喉を鳴らす音が、異様に大きく響いた。


 別の若い竜人は、ハッとして反射的に手にしていた水桶を背中側へ隠した。隠したところで濡れた床を見れば一目瞭然なのだが、その動揺は痛いほどに伝わってくる。


 少し離れた岩陰。腕を組み、その硬直した光景を眺めていたザフィールの銀髪が風に揺れ、彼が片方の眉をわずかに上げた。

 その隣へようやく追いついたラグナスが、ひどく疲れた様子で深く目を閉じる。


「……やはり、そこですよね」


「そこだろうな」


 ザフィールが、口元だけを動かして小声で返す。


「お前の主は、妙なところで一貫している」


「妙なところではなく、あれが本筋なのです」


 極限まで張り詰めた空気の中では、二人のひそやかなやりとりすら、岩壁に反響して妙によく響いた。


 竜帝の巨躯を前に、オフィウスがゆっくりと歩みを出した。


 濡れた石床を革靴が踏む。人型へ戻ったその姿は、洗浄と乾燥の工程を経たことで、先ほどまで泥と呪いにまみれて苦しげだった黒竜とは見違えるほど精悍だった。

 浅黒い肌に張り付く濡れた黒髪。背に折り畳まれた漆黒の巨大な翼。額に天を突くように生えた鋭い角。王としての圧倒的な威圧感を取り戻したその姿で、彼はまっすぐ、金色の瞳を持つ竜帝を見据えた。


「……なるほど」


 地の底を這うような、低い声だった。


「そこが、おまえの逆鱗か」


 オフィウスは答えない。


 ただ無言のまま、さらにもう一歩、前へ出る。

 踏み出した靴の先が濡れた岩の表面に触れた瞬間、チリ、と微かな音を立てて、放射状に薄い霜が走り抜けた。


 それだけで、彼の纏う冷気の異常性が知れ渡った。


 竜帝は、わずかに目を細める。


「攫ったことは、無論、我が非だ」


 竜帝の重々しい声が空洞を震わせた。


「だがいまのおまえは、それ以上に、この娘がここで何をしていたかに怒っている」


「両方だ」


 オフィウスの声は極限まで低く、そして刃のように冷たかった。


「だが後者は、私の目の前にある」


 メルヴィの唇が微かに震え、思わず「陛下」と呼びかけかける。

 だが、オフィウスはそちらを見向きもしない。青く透き通る氷色の双眸は、ただひたすらに竜帝の姿を射抜いたままだ。


「君の国が救われた過程は、後で聞く」


 オフィウスの足元から立ち昇る冷気が、うねりとなって周囲の熱を奪っていく。


「理を失っていた事情も、長年苦しんでいた事情も、その後でいくらでも説明しろ」


 背筋を凍らせるような、ひやりとした風が吹き抜けた。


「だが少なくとも、私の花嫁は、ここで働いていた」


 感情の起伏を一切排した、淡々とした口調だった。

 それなのに、激昂して怒鳴り散らされるよりも、その静かな一文の方がずっと恐ろしい。


 メルヴィは、体の芯から冷えるような感覚を覚えながら、ああこれは本当にまずい、と心の底から思った。


 攫われたことについて責められるのなら、まだ流れとして理解できる。

 けれど陛下はいま、目の前に広がる洗い場と、転がる木桶と、散乱するブラシと、彼女自身の袖口の濡れ具合まで、その視界に入るすべての状況を克明に把握したうえで怒っているのだ。


 それはつまり、ごまかしのきかない、純粋で絶対的な怒りだった。


 相対する竜帝もまた、その事実を正確に理解したのだろう。


 彼はゆっくりと首を巡らせてメルヴィを振り返り、その泥にまみれた借り物の作業衣姿を一瞬だけ視界に収めたあと、もう一度、正面のオフィウスへと向き直った。


「そうだ」


 竜帝は、一切の弁解をせずに認めた。


「この娘は働いた。誰よりも働いた。風穴を見つけ、秘石を動かし、国じゅうへ指示を出し、我が身まで洗った」


 背後に控える長老たちが、絶望のあまり一斉に頭を抱えたくなる気配が、衣擦れの音となって広がった。

 そこを、そんなにもはっきりと、ご丁寧に羅列してしまうのか。

 案の定、オフィウスの周囲の空間が軋み、空中の水分が凍りついて冷気がさらに一段階濃くなった。

 ラグナスが、胃のあたりを抑えるようにそっと額に手を当てた。


「言い方というものが……」


「だが嘘ではないな」


 ザフィールが肩をすくめ、低く返す。


「嘘ではありませんけれども」


 そのとき、オフィウスの視線が、ようやく竜帝から外れ、メルヴィへと向けられた。


 射抜くようなその眼差しを受けただけで、メルヴィの背筋が反射的にぴんと伸びる。


 怒っている。

 だが同時に、ひどく心配もしている。

 相反するはずの両方の感情が、あまりにもわかりやすく、その氷色の瞳の中に揺らいでいた。


「こちらへ来い」


 オフィウスは短く命じた。


 メルヴィは、戸惑いにぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「え、でも」


「来い」


 二度目の声は、さらに短く、強かった。


 逆らってはいけない声だ、とメルヴィは直感で理解した。おずおずと濡れた床を踏んで一歩踏み出すと、オフィウスは自身の肩から重厚な外套を外し、ためらうことなく彼女の華奢な肩へとかけ回した。


 冷え切った作業衣の上から、ずしりとした重みと、体温の残る温かな布が落ちてくる。


「あ」


 メルヴィが驚きに目を見開く。


「冷えている」


 オフィウスは静かにそう言った。


「自覚はあるか」


 言われて初めて、メルヴィは自分の指先が小刻みに震え、氷のように冷え切っていることに気がついた。

 湿気と冷気に満ちた洞窟で絶え間なく動き回り、風穴が開いたあとも高山の風に吹かれながらずっと作業を続けていたのだ。無我夢中で忘れていたが、彼女の体には確実に疲労と冷えが蓄積していた。


「……少しだけ、かもしれません」


「少しではない」


 言いながら、オフィウスは彼女の濡れた手を取った。

 彼の大きな掌から、彼女の指先へとじんわりと熱が伝わってくる。周囲を凍らせる氷の魔力とは正反対の、冷たさを奪わない穏やかな気配が、彼女の血流を温めていく。


 その光景を目の当たりにした竜人たちのあいだに、ざわ、と小さなどよめきが走った。


 先刻まで、空間を凍てつかせるほどの怒りの矛先を向けていたはずの皇帝が、次の瞬間には、自らの外套を与え、花嫁の手の冷えを丁寧に確かめている。

 あまりにも過保護で、あまりにも一貫している。


 竜帝は、その静かな光景を数拍見つめたあと、深く、低い息を吐き出した。


「……我が非を、改めて認めよう」


 その声の響きで、凍りついていた空洞の空気が少しだけ動いた。


 王が自ら、頭を下げる前の響きだった。


「我は長く理を失い、浄きものに飢え、人の国へ飛んだ。婚礼の場と知りながら、この娘を攫った」


 竜帝はオフィウスへ向き直り、黄金の瞳を真っ直ぐに向ける。


「言い逃れはせぬ」


 それだけ言って、巨躯を包む豪奢な衣を翻し、彼はゆっくりと片膝を硬い石床へと突いた。


 周囲の竜人たちが、一斉に息を呑む。

 誇り高き竜の帝が、人の皇へ。しかも自分たちの領土である霊峰の外縁で、膝を屈したのだ。


「陛下……!」


 長老のひとりが、信じられないものを見るように震える声を漏らした。


「我が国を救った恩人でもある」


 竜帝は淡々とした声で告げる。


「それを攫い、労させた。ならば王として詫びるべきだ」


 その言葉が合図となったように、背後に控えていた長老たちも一斉に前へ進み出た。

 最年長の長老が、衣の音を立てて深々と膝をつき、床に手をつく。


「氷の皇帝オフィウス陛下」


 長老の声はかすかに震えていたが、空洞の隅々にまで届くほどはっきりとしていた。


「まず、我らドラグファングの非礼をお詫び申し上げる。竜帝陛下が理を失い、人の国へ飛び、婚礼の場より姫君を攫ったこと。いかなる事情があろうと、これは我らの大罪です」


 別の長老が、床に額をこすりつけるようにして続く。


「加えて、姫君が我らを救うために自ら動かれたとはいえ、結果として重い作業を負わせたことも、我らの不明であった」


「望まれるなら」


 さらに別の長老が、深く頭を垂れた。


「財であれ、誓約であれ、いかなる償いも差し出しましょう」


 メルヴィはぎょっと目を丸くした。


「だ、駄目です! そんな、大げさな……!」


 オフィウスはまだ答えない。

 オフィウスの周囲だけ、時間が止まっているかのようなその静けさが、かえって恐ろしい。

 メルヴィは慌てて手を伸ばし、オフィウスの礼装の袖を強くつかんだ。


「陛下」


「……何だ」


「私は、もう大丈夫です」


 メルヴィはオフィウスを見上げ、必死に言葉を探して紡いだ。


「もちろん、攫われたのはよろしくありませんし、式を壊されたのも大問題です。でも、皆さまは本当に困っておられました。竜帝陛下も、苦しんでおられました」


 オフィウスの横顔は、彫像のように動かず、ただ黙って彼女の言葉を聞いている。


「それに、こちらの国の方々はきちんと謝ってくださっています」


 メルヴィは、背後に平伏する長老たちへ視線を向けながら続けた。


「ですから……私は、それ以上を望みません」


 張り詰めていた竜人たちのあいだから、ほっと胸をなでおろすような息の音が漏れた。


 ザフィールが少し離れた場所で腕を組み、静かにメルヴィの姿を見つめている。

 ラグナスもまた、その言葉を聞いて、強張っていた肩の力をわずかに抜いた。

 オフィウスだけが、しばらく無言だった。

 やがて、彼はゆっくりとメルヴィへ視線を落とす。


「怖くはなかったのか」


 その問いだけは、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、ひどく静かで穏やかだった。


 メルヴィは少しだけ目を丸くして、それから、困ったように眉を下げてふわりと笑う。


「怖かったです」


「……そうだろう」


「でも」


 彼女は視線を揺らし、広大な空洞のありさまを見渡しながら言った。


「着いてみたら、とてもそれどころではなくて……」


 ラグナスが再び額を押さえた。


 それはそうだろう。

 この人は、我が身の恐怖より先に、目の前の劣悪な環境の改善へと意識が向いてしまう性質なのだ。


「壁も床も、寝具も、卵床も、竜帝陛下の鱗も、全部ひどくて」


 メルヴィは、真っ直ぐにオフィウスを見つめ返して真剣に言う。


「放っておけませんでした」


「それが君だな」


 オフィウスが、低く呟いた。


 怒っているのか、呆れているのか、それとも諦めているのか。

 その声には、たぶんその全部が混ざり合っていた。


 少しの沈黙のあと、彼は視線を上げ、ようやく床に平伏する長老たちへと向き直った。


「謝罪は受ける」


 オフィウスの凛とした声が、岩壁に反響する。


「賠償も不要だ。彼女が望まぬ以上、私はそれ以上を求めない」


 長老たちの肩が、安堵にわずかに震えるのが見えた。


「ありがたき……」


「だが」


 オフィウスの声の温度が、一瞬にしてひときわ冷たくなる。


「君たちは、この恩を一生忘れるな。彼女がいなければ、君らの国はまだ呪いとやらに膝をついていた」


「はっ……!」


 長老たちが、石床にさらに深く頭を垂れた。

 竜帝もまた、金色の瞳を上げて低く言う。


「忘れぬ」


 その短く重厚な返答には、一国の王としての確かな重みがあった。


 そこでようやく、空洞を支配していた張り詰めた空気が本格的に緩みかける。

 メルヴィも、肩からすっと力が抜け、少しだけ安堵の息をつきかけた。


 だが。


「そのうえで」


 オフィウスが、静かに、しかし断固たる響きで続けた。


 ラグナスが眼鏡の位置を直し、「来たか」という顔になる。

 ザフィールも、腕を組んだまま「やはりそうなるか」と目を細める。


「一つだけ、こちらの要求がある」


 長老たちが、再び緊張を顔に張り付かせて面を上げる。


「何なりと……」


 オフィウスは、メルヴィの肩へかけた外套を優しく整えながら、一切の迷いなく言い放った。


「婚姻誓約を、今ここで行う」


 風穴から吹き抜けていた風が、その瞬間だけピタリと止まったような気がした。


「……はい?」


 メルヴィの口から、間の抜けた高い声が漏れる。


 竜人たちが石像のように固まる。

 長老たちも息を止めて固まる。

 帝国騎士たちだけが、「ですよね」とでも言いたげな、微動だにしない顔で前を見据えていた。


 ザフィールが、とうとう片手で顔を覆った。


「やはり、それを言うか……」


「言うと思っておりました」


 ラグナスが、感情の読めない声で淡々と返す。


「私もです」


 その場にいる全員の中で、メルヴィだけが完全に事態から置いていかれていた。


「え、ええと、お待ちくださいませ、陛下……!」


 彼女は慌ててオフィウスの前に回り込む。


「婚姻誓約とは、いま、ここで、ですか?」


「そうだ」


「ここはドラグファングです」


「だから何だ」


「帝都ではありません」


「証人がいれば成立する」


 あまりにも迷いのない、流れるような問答だった。


「式は帝都でやり直す」


 オフィウスは平然と続ける。


「今回の大婚儀は中断された。正式な祝祭も、儀礼も、改めて整える必要がある」


 それはその通りだ。

 大聖堂のステンドグラスは砕け散り、列席者は混乱の極みにあり、何より主役である花嫁は攫われたのだから、あのまま式を続行できるはずがない。


「だが」


 氷色の双眸が、逃げ場を塞ぐようにまっすぐメルヴィを捉える。


「婚姻の成立だけは、もうこれ以上遅らせない」


 その言葉の端々に混じる強烈な私情は、もはや誰の目にも隠しようがなかった。


 一度目はザフィールに攫われた。

 今度は竜帝に攫われた。

 その結果、オフィウスの中で「いかなる手段を使ってでも、まず婚姻成立という事実を確定させる」という目的が、他の何よりも優先されているのだと、そこにいる全員が痛いほど理解した。


 竜帝が、ふっと苦く笑った。


「なるほど」


 地を這うような低い声だった。


「二度と、誰にも差し挟ませぬつもりか」


「当然だ」


 オフィウスは竜帝に一瞥もくれず、言い捨てるように返す。


「今度こそ、誰にも妨げさせない」


 ザフィールが、盛大にため息をついた。


「……俺への当てつけも入っているな」


「入っている」


 オフィウスは即答した。


 メルヴィは顔をりんごのように赤くしながら、しかし反論の言葉を見つけられずに口をもごもごさせていた。


 嫌ではない。

 驚いている。

 状況の展開に追いついていない。

 でも、嫌ではない。


 そのことを、自分自身でもはっきりとわかってしまうのが、ひどく困る。


 ラグナスが、静寂を破るように小さく咳払いをした。


「陛下。せめて段取りだけは整えさせてください」


「急げ」


「急ぎますとも」


 こういう非常時のラグナスは、有能すぎて逆に恐ろしい。


 彼は即座に意識を事務方へと切り替え、周囲へ的確な指示の矢を飛ばし始めた。


「帝国側随員、中央祭壇の動線確保! 敷布を!」


「はっ!」


「長老殿方、ドラグファングで誓約の場として最も清浄な場所は?」


「中央祭壇ならば……いまもっとも清められております!」


「ではそこです。整えてください」


「承知した!」


「ザフィール殿下」


「何だ」


「証人になっていただきます」


「……まあ、そうなるだろうな」


 妙な慣れと諦念のもと、怒涛の勢いで陣形が組まれ、話がどんどん進んでいく。


「ま、待ってくださいませ!」


 メルヴィが声を張る。


「私はまだ、心の準備が……!」


 その悲痛な訴えに、オフィウスの動いていた視線が止まり、ようやく彼女だけを映す柔らかい目になる。


「準備なら、私はずっとしていた」


 真顔だった。


 それはもう、痛いほどの熱量を持って伝わってくる。


「君を皇后にしたいと決めた日から」


 彼は、周囲の喧騒など存在しないかのように静かに言う。


「いや、正確にはもっと前からだろうな。私はずっと、君を私の隣へ置きたいと思っていた」


 メルヴィの頬が、先ほどよりもさらに熱を帯びる。


「ただ君の準備を待っていた」


「……陛下」


「だが、もう十分だ」


 その声音はどこまでもやわらかいのに、一切の揺るぎがない。


「君が嫌ならやめる」


 オフィウスは言った。


「だが、嫌ではないだろう」


 逃げ道を塞ぐような、ずるい聞き方だ、とメルヴィは思った。


 嫌ではない。

 それどころか、本当は嬉しい。

 あまりの急展開に戸惑っているだけで。

 その胸の奥の感情を自覚した瞬間、彼女はもう、強く否定の言葉を口にすることはできなかった。

 少し離れた位置でその様子を見ていたザフィールが、ふっと苦く笑う。


「だろうな」


 誰にともなく呟く声だった。


 そして彼はゆっくりと一歩前へ出ると、メルヴィの前で立ち止まり、軽く頭を下げた。


「俺が言うのも妙な話だが」


 いつものような、人を食ったような芝居がかった調子のない、まっすぐな声だった。


「今度こそ、ちゃんと祝う側に回る。証人でも何でもやろう」


 メルヴィは目を見開いて彼を見上げる。


「ザフィール殿下……」


「前は攫った」


 王子は自嘲気味に苦笑する。


「今回は見届ける。それで勘弁してくれ」


 未練が完全に消え去ったわけではないのだろう。

 でも、彼の中で確かな線は引いた。

 その決意がきちんと伝わる、澄んだ声音だった。


 メルヴィは少しだけ肩の力を抜き、ほっとして、ありがとうございます、と小さく返した。


 その間にも、中央祭壇は目にも留まらぬ速さで整えられていった。


 つい先ほどまで太陽の秘石が鎮座し、国じゅうを蒸し焼きにしていたその場所は、いまや高山の冷涼な風が吹き抜ける清浄な祭壇へと変わりつつある。

 石床の汚れは洗い流され、黒ずみは落ち、天井に新しく開かれた巨大な風穴からは、眩しいほどの青空と陽光が降り注いでいた。


 長老たちは半ば夢見心地で敷布を整えながら、同時に、歴史的瞬間に立ち会うという妙な真剣さを帯びていた。


「ここで……」


「竜の国の中央祭壇で、人の皇と、その皇后が……」


「しかも我らが姫様に救われた直後だぞ」


「後世に残る……!」


 姫様、という呼び方が、ごく自然に定着している。


 メルヴィはそれも含めて、目の前で進む光景の現実味が薄かった。

 気が張っていたのもあり、気づけば、ふらりと少しだけ足元が揺らいだらしい。


「疲れたな」


 オフィウスの声が、すぐ頭上から降ってくる。


「い、いえ、まだ大丈夫です」


「大丈夫ではない」


 次の瞬間には、ふわりと視界が高くなっていた。

 彼は当然のように、メルヴィの膝裏と背中に腕を回し、軽々と抱き上げていた。


「ひゃっ!?」


「歩かせない」


「い、いまここでですか!?」


「今だからだ」


 泥まみれの作業衣姿の花嫁を、濡れたままの豪奢な礼装をまとった皇帝が抱き上げて、祭壇へと歩みを進める。

 絵面としてはだいぶ強烈だった。


 竜人たちが一斉にどよめきの声を上げ、帝国騎士たちはもはや見慣れた光景だとでもいうように無表情のまま道を開けた。ザフィールは「徹底しているな」と呆れ返り、ラグナスは「でしょうね」としか言えない顔で前を見据えていた。


 メルヴィは首まで真っ赤に染めながらも、最後には暴れるのを諦め、観念したようにオフィウスの肩へそっと手を添えた。


「……重くありませんか」


「軽い」


「そういう意味ではなく」


「軽い」


 やはり、間髪入れずの即答だった。


 光の差し込む中央祭壇には、長老たちがすでに整列して待っていた。


 最年長の長老が、衣を擦らせて厳かに前へ進み出る。


「我らドラグファングには、人の国の婚姻儀礼そのものはございません。だが、山と風と水を証人とする誓約ならば、古き時代より王家の契りとして残っております」


「十分だ」


 オフィウスが短く応じる。


 長老は深く一礼した。


「では、我らは証人となりましょう。竜の国を救った姫君と、その姫君を求めて霊峰まで来られた氷の皇帝の契りを」


 メルヴィはそっと祭壇へ下ろされると、足に力が入らずさすがに少しふらついた。

 だが、オフィウスの腕がすぐに腰を支え、彼女を倒れさせない。


 頭上の風穴から吹き込む風が、二人の髪を柔らかく揺らす。

 見上げる空は高く、どこまでも青い。

 もう、この竜の国の空気は、以前のような息苦しい重さを持っていなかった。

 長老が、空洞全体に響き渡る声で朗々と告げる。


「山を前に誓え。風を前に偽るな。水を前に汚すな。互いを認め、互いを守り、同じ歩みを選ぶか」


 オフィウスは、視線を逸らすことなく迷いなく答える。


「選ぶ」


 その声は、ひどく静かで、岩を貫くように強い響きを持っていた。


 長老の視線が、メルヴィへと向く。


「姫君」


 その場の全員が見つめている。

 竜人たち。

 帝国騎士たち。

 ラグナス。

 ザフィール。

 竜帝。

 そして何より、すぐ隣に立つオフィウスが。


 見上げる氷色の瞳は、どこまでも真っ直ぐだ。

 そこにはもう一片の迷いも疑いもなく、まるで最初からずっとそう決まっていたみたいに、ただ彼女という存在だけを求めている。


 メルヴィは小さく息を吸い込み、心を決めて、はっきりとうなずいた。


「……私も、選びます」


 その瞬間。


 風穴から勢いよく吹き込んだ風が、祭壇の上で大きくひと巡りして渦を巻いた。

 二人が立つ足元の石床に、うっすらと淡く光る白い紋様が浮かび上がる。清められた中央祭壇が、彼らの誓約を確かに受け入れたという証だった。


 長老たちが、一斉に深く頭を垂れる。


「これにて、山と風と水を前に、誓約は成った」


 帝国騎士たちが膝をつき、周囲を取り囲む竜人たちも次々に平伏していく。

 ザフィールだけが一拍遅れて、苦笑しながら右手を胸へ当て、優雅に頭を下げた。


「おめでとう、と言っておく」


 彼は言った。


「本当に、ちゃんとな」


 メルヴィは、その飾らない言葉に少し照れながらも、ありがとうございます、と小さく頭を下げて返した。


 オフィウスは彼女の手をしっかりと握って離さないまま、ゆっくりと周囲の光景を見渡した。


「帝都での大婚儀は改めて執り行う」


 彼は高らかに宣言する。


「だが婚姻は今ここで成立した。彼女はもう、誰が見ても私の皇后だ」


 その言い方があまりにも、周囲の介入を一切許さない絶対的な“決着”で、メルヴィはまたしても頬を熱くした。


 竜帝が、ふっと目を伏せて苦く笑う。


「完全に遅かった、ということか」


「遅い以前の問題です」


 メルヴィが即座に身を乗り出して返す。


「番の件は、そもそもお受けしておりません」


 竜帝がわずかに肩を落とし、平伏していた周囲の竜人たちがなぜか揃って「ああ……」と小さくうなだれた。

 だがそのあと、竜帝は顔を上げ、真っ直ぐにオフィウスへ向き直った。


「人の皇」


「何だ」


「皇后殿を攫ったこと、そして労苦を負わせたこと、改めて詫びる」


 それは、王が王へ、一切の誤魔化しなく真正面から告げる謝罪だった。


「今後、ドラグファングはエルドラードへ牙を向けぬ。皇后殿への恩を忘れぬ」


「忘れるな」


 オフィウスは短く、事実だけを受け取るように返す。


 そこでメルヴィが、すっと片手を挙げた。


「それから」


 全員の視線が、再び彼女へ集中する。


「今後は、定期的な換気と清掃をお願いいたします。とくに卵床、寝具、翼膜の乾燥管理、背中側の補助体制は継続してください」


 感動的な誓約の余韻が漂う場が一瞬しんとして、それから、長老たちが弾かれたように一斉にうなずいた。


「はっ!」


「記録してございます!」


「姫様の手順書はすでに写本を!」


「日次、週次、月次の管理表も作成中です!」


 相変わらず、彼らは仕事が早い。


 オフィウスが、繋いだ手を引き寄せながら、少しだけ呆れたようにメルヴィを見下ろす。


「誓約の直後に、それか」


「大事なことです」


 メルヴィの眼差しは真面目そのものだった。


「ここで気を抜くと、また蒸れます」


 張り詰めていたザフィールが、とうとうこらえきれずに声を上げて笑った。


「本当にぶれんな」


「笑っている場合ではありませんよ、殿下」


 ラグナスが、感情を殺した声で淡々と返す。


「ここから帝都で大婚儀のやり直しがあるのです。私の胃はまだ休めません」


「気の毒になってきたな」


「今さらです」


 誓約が済んだことで、空洞を支配していた重圧は霧散し、ようやく場の空気は大きく緩んだ。


 オフィウスは視線を落とし、メルヴィの頬へそっと指先を触れさせる。そこにはまだ、先ほどの労働の証であるうっすらとした黒い汚れが残っていた。

 彼の指先がかすめると、淡い氷の魔力の気配とともに、その小さな汚れが綺麗に拭い去られる。


「……あ」


 メルヴィが目を瞬く。


「もう何もするな」


 オフィウスは静かに、しかし有無を言わさぬ響きで言った。


「今日は十分働いた」


「でも、まだ少し、中央洞の壁面に」


「明日だ」


「ですが」


「明日だ」


 反論を一切許さない声音だった。


 そして彼は、当然のようにもう一度、メルヴィの身体をふわりと抱き上げる。


「ひゃっ、またですか!?」


「まただ」


「皆さまが見ておられます!」


「見せている」


「陛下!」


 竜人たちがまたもやどよめき、長老たちはなぜかありがたそうに手を合わせ拝みそうな顔をし、ザフィールは「徹底しているな」と半ば呆れて天を仰ぎ、ラグナスは「でしょうね」としか言えなかった。

 霊峰を吹き抜ける風は、もうどこまでも清潔だった。

 体に纏わりつく湿った重さは薄れ、風穴から覗く空には輝くような光が差している。

 ドラグファングは、長い間「呪い」と思い込んでいた不衛生な淀みから、ようやく抜け出し始めていた。


 その国の、真ん中で。


 攫われた花嫁は、泥にまみれて国を掃除して救い、

 氷の皇帝は、それを追ってきて強引に婚姻誓約まで済ませ、

 竜の皇帝は、求愛に敗れたうえで国家ごと莫大な恩義を背負うことになった。

 控えめに言っても、だいぶ、ひどい一日である。

 だが不思議と、その場にいる誰もが、憑き物が落ちたように少しだけ晴れやかな顔をしていた。


 メルヴィはオフィウスの腕の中で身を預け、風穴の向こうに広がる空を見上げる。


「……帝都へ戻ったら、式はやり直しなのですよね」


「ああ」


「またドレスを着るのですか」


「着る」


「重いです」


「今度は軽くさせる」


「本当にできますか?」


「やらせる」


 メルヴィは、その身も蓋もない答えに、少しだけ声を立てて笑ってしまった。


「では、終わったらすぐ、お掃除着に着替えます」


「その前に休め」


「少しだけです」


「少しも駄目だ」


 いつもの、心地よいテンポの言い合いが戻ってくる。


 そのやりとりを聞きながら、ザフィールは小さく肩をすくめた。


「勝てるわけがないな」


 誰にも聞こえない、風に溶けるような声でそう呟く。


 竜帝がその横顔を一瞥し、低く喉を鳴らして笑った。


「おまえも、遅かったようだ」


「うるさい」


 ザフィールは即座に言い返したが、その声音にはもう、棘のような険がなかった。


 こうして。


 結婚式当日に竜の皇帝に攫われた花嫁は、竜の国の風穴を直し、黒カビまみれの国土を立て直し、そのど真ん中で氷の皇帝に婚姻誓約を強行されることになった。

 そして、誰よりも大変だったのはたぶん、このあと帝都へ戻って「大婚儀やり直し」の準備を一から組み直さなければならないラグナスである。

 もっとも、その苦労人が額を押さえ、深い深いため息をつきながらも、最後にはこう思ってしまうのだから仕方ない。


 ――まあ、陛下もメルヴィ様も、少しは報われてよかったのかもしれませんね。


 高くそびえる霊峰の上を、清潔で冷たい風が、どこまでも吹き抜けていった。

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