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第11話 竜の国の平伏と、皇帝の追跡

 ドラグファングの中央洗い場と化した岩窟で、しん、と空気が止まっていた。


 誰もが、見ている。


 巨大な黒竜――竜帝。

 その前に立つ、人族の娘。

 しかもその娘は、つい先ほどまで婚礼衣装に包まれていたはずの花嫁で、いまは借り物の作業衣へ着替え、袖をまくり、特大の長柄ブラシを両手でしっかり握っている。


 あまりにも異様な光景だった。


「……あの」

 若い竜人のひとりが、おそるおそる口を開く。

「姫君。本当に、陛下を……」


「はい」

 メルヴィは即答した。

「洗います」


 断言だった。


 しかも、そこにためらいが一切ない。

 巨大な黒竜を前にしても、“掃除対象がとても大きい”くらいの認識でしかないらしいところが、実に彼女らしかった。


「もっとも症状が重い方を後回しにすると、全体の士気に関わります」

 メルヴィは真面目な顔で続けた。

「それに、竜帝陛下が一番大きいのですから、いちばん最後にするとこちらの体力も先に尽きます」


 すべてもっともだった。


 もっともすぎて、誰も反論できない。


 長老たちが顔を見合わせる。

 従者たちがごくりと唾を飲み込む。

 竜帝本人だけが、少しだけ虚を突かれたような顔で、メルヴィを見下ろしていた。


 竜としての巨体のままでも、その赤い瞳に浮かぶ色が、先ほどよりだいぶはっきりしている。風穴が開き、中央の蒸し風呂状態が少し緩んだだけでも、理性が戻りつつあるのだろう。


「……おれを」

 竜帝が、喉の奥を低く鳴らしながら言った。

「ほんとうに、あらうのか」


「はい」

 メルヴィはきっぱりうなずく。

「今さら何をおっしゃるのです」


 再び、洗い場全体がしんと静まり返った。


 まるで、そこだけ別の時間が流れているようだった。

 だが当のメルヴィは、その空気の重さをまったく気にしていない。


「泡立て布をもう少し増やしてください」

 彼女は周囲へ顔を向ける。

「あと、薬湯をもう一桶。最初に首元、その次に肩と翼の付け根、つづいて前肢の関節です。首元が一番臭いのでそこから先にいきます」


 最後の一言で、竜帝のまぶたがぴくりとした。


 周囲の従者たちも、一瞬だけ視線を逸らす。

 みな薄々わかっていたのだろう。だが、誰も皇帝へ向かって「首元が一番臭い」とは言えなかっただけで。


「では、いきます」


 宣言と同時に、メルヴィは特大ブラシを構え、竜帝の首筋へぐいっと踏み込んだ。


 次の瞬間。


「ごしごしごしごしごし――」


 容赦がなかった。


「うおっ」

「い、行ったぞ……!」

「姫君が本当に陛下をこすっておられる……!」


 竜人たちのあいだから戦慄のさざ波が広がる。


 だがメルヴィは真剣そのものだった。


「やはりここが最も深刻です! 泡、もっとお願いします! 表面だけでなく、鱗の重なりの奥へ入っております!」

「は、はいっ!」

「首の下に桶を! 黒ずんだ水が落ちますので!」

「お、おおっ!」


 泡立てた布で押し洗いし、浮いてきた汚れを特大ブラシで掻き出し、すかさずぬるま湯を流し、乾いた布で水気を取る。工程は単純だが、対象があまりにも巨大すぎた。


 しかも、ひどい。


 首筋の鱗の重なりは、ただ黒ずんでいるのではなかった。湿気と皮脂と埃が奥深くで固まり、長い年月をかけて積み上がった“頑固な汚れの層”になっている。


 メルヴィの顔が、仕事人のそれになる。


「はい、やっぱりです。ここはかなり長いこと触られておりません」

「そ、そうなのか……?」

 近くで手伝っている従者が青ざめる。

「陛下の首元であるぞ……?」

「首元だからです」

 メルヴィはきっぱり言った。

「見えているようで見えていない場所は放置されやすいのです。大きい方ほど、自分では届きにくいですし」


 理屈は理解できる。

 理解できるが、それを竜帝相手に何の躊躇もなく言ってのける人族の娘は初めてだった。


 竜帝はというと、最初こそ巨大な体をこわばらせていたが、やがてその緊張が少しずつほどけていくのが見て取れた。


「……っ」

 喉の奥から、低い音が漏れる。


「痛いですか?」

 メルヴィが顔も上げずに尋ねる。


「……いや」

 竜帝は少しの沈黙のあと、低く答えた。

「へんな、かんじだ」


「途中経過です」

 メルヴィは即答する。

「すぐ良くなります」


 ずいぶん大雑把な励ましだった。


 だが、やがて流れ落ちる水の色が変わり始める。

 最初はどす黒く濁っていたのが、徐々に薄くなり、首筋のまだらな黒ずみの下から、本来の鱗の色がのぞいてきた。


「見ろ……!」

「落ちているぞ!」

「黒死が剥がれておる!」

「いや、これは……もとの鱗の色か……!?」


 どよめきが広がる。


 竜帝の鱗は、ただの黒ではなかった。

 磨かれ、水気が取られ、光を受けると、夜の海を溶かし込んだような深い艶を帯びる。曇りが取れただけで、それは神話の獣めいた威容を取り戻しつつあった。


 メルヴィはうんうんとうなずいた。


「はい。やはり元はたいへん綺麗です」


 その一言に、周囲の竜人たちの表情が変わる。


 みな長いあいだ、竜帝の変わり果てた姿を“呪いゆえに仕方ないもの”として見ていた。

 だが、いま目の前で黒ずみが落ち、本来の美しい鱗が戻っていくのを見ると、どれほど長く自分たちが淀みと諦めの中で暮らしていたのか、痛いほどわかってしまう。


「感動している場合ではありません」

 メルヴィはさくっと言った。

「次は肩です。そこを放置すると、また首元から流れてきた汚れがたまります」


「は、はいっ!」


 従者たちが一斉に動く。


 肩、翼の付け根、前肢の関節、爪の周囲。

 どこもかしこも、湿気と汚れがこびりつきやすい場所ばかりだった。


「ここもです。やはりです」

 メルヴィは翼の付け根へブラシを入れながら言う。

「大きい方ほど、翼の根元は蒸れます。しかもご自分では見えません」


「…………」

 竜帝がなぜか微妙に視線を逸らした。


 図星だったのだろう。


「こういうところは、補助する方が必要です」

 メルヴィは周囲へ向けて続ける。

「信頼できる方を二、三名決めて、定期的に確認してください」

「記録せよ!」

 長老のひとりが即座に叫ぶ。

「首元、肩、翼の付け根、関節、爪だ! 定期確認が必要!」

「はいっ!」


 いつの間にか、長老たちは完全に“メルヴィ式竜体衛生管理”の書き取りに入っていた。


 しばらくして、全身洗浄の第一段階が終わるころには、洗い場の床には黒ずんだ水が何桶もたまり、従者たちは汗だく、竜帝はぐったり、メルヴィだけが妙に元気だった。


「まだです」

 感動に浸りかけた空気を、彼女は一刀両断する。

「洗っただけでは駄目です。濡れております」


 一同が背筋を正す。


「ここからが重要です。乾いた布でしっかり拭いて、風を通して、最後に保護用の油を薄く」

「記録せよ!」

「もう書いております!」

「もっと大きく書け!」


 もはや戦場である。


 従者たちが総出で竜帝の体を拭き始める。

 巨大な翼を広げ、風穴から通る冷気をほどよく当て、鱗のあいだへ水気を残さないよう、二度三度と布を替える。


 その最中、竜帝の巨体がふいに白い光に包まれた。


「陛下……?」

 誰かが息を呑む。


 黒竜の輪郭がゆっくりと縮んでいく。

 骨格が変わり、翼と角を残しながら、人の形へ近づいていく。


 やがてそこに立っていたのは、長身の竜人の男だった。


 浅黒い肌。

 濡れた黒髪。

 鋭い赤い瞳。

 額に立派な角をいただき、背にはまだ大きな翼が残っているが、その姿は息を呑むほど端整で、神話に語られる竜王そのもののような威厳を備えていた。


 洗い場のあちこちから、感嘆の声が漏れる。


「おお……!」

「人の姿に……!」

「陛下が、ここまで明瞭に……!」

「なんとお美しい……!」


 竜帝自身も、自分の手の甲や腕を見下ろしていた。

 黒ずみは薄れ、肌のくすみも消え、指先まで軽いらしい。


「……軽い」

 彼は低く呟く。

「体が、嘘のようだ」


「よかったです」

 メルヴィは素直にうなずいた。

「ですが、まだ途中です。油断するとまた蒸れます」


 その言葉に、竜帝はゆっくりと顔を上げた。


 赤い瞳が、まっすぐメルヴィを捉える。


「おまえは」

 竜帝は、やや低く、だが先ほどよりよほど明瞭な声で言った。

「なんだ」


 非常にざっくりした問いだったが、気持ちはわかる。


 国を蝕む呪いだと思っていたものを「ただの黒カビです」と断じ、風穴を開け、秘石を移し、皇帝たる自分を丸洗いして本来の姿まで取り戻させたのだ。何者かと問いたくもなる。


「メルヴィです」

 彼女は素直に名乗った。

「エルドラード帝国の終身名誉聖教官です」


「それだけでは足りぬ」

 竜帝は一歩近づいた。

「おまえは、我が国を救った」


「まだ途中です」

「いや」

 竜帝は首を振る。

「もうわかる。これは、救いだ」


 周囲の長老たちが一斉にうなずいた。


「まことに……」

「姫君は我らの恩人」

「いや、もはや恩人などという言葉では足りぬ……!」


 その熱量に、メルヴィは少したじろいだ。


「い、いえ、その……私は、じめじめして黒ずんでいるところを放っておけなかっただけで……」


「だからこそだ」

 竜帝の声には、理性を取り戻した王らしい強さが戻っていた。

「我らが呪いと恐れて膝を折ったものを、おまえだけが見極めた」


「はい、黒カビでした」

「……そうだな」


 一瞬だけ、竜帝の顔に複雑な色がよぎる。


 自国を十年苦しめた災厄の正体が、黒カビ。

 認めたくはない。だが、認めざるを得ない。


 しかし彼は、すぐに持ち直した。


「メルヴィ」

「はい」

「我が番になれ」


 洗い場の空気が、ぴしりと凍った。


 長老たちが目を見開く。

 従者たちが息を呑む。

 若い竜人たちに至っては、なぜか口を押さえて半歩下がった。


「陛下!?」

「い、いま何と!?」

「番!? いま!?」


 だが、当のメルヴィは。


「駄目です」

 即答だった。


 あまりにもあっさりしていた。


 竜帝が固まる。

 周囲も固まる。


「なぜだ」

 竜帝が真顔で問う。


「濡れたままです」

 メルヴィは同じく真顔で答えた。

「せっかく綺麗になったのに、そのまま立っているとまた関節と翼の根元が湿ります。まず座ってください。それから背中側がまだ甘いです。乾いた布を追加でお願いします」


 完全なるスルーだった。


 求愛を拒絶したというより、“いまその話をしている場合ではない”という判断で、優先順位の下へ容赦なく放り投げた結果である。


 長老たちが慌てて筆記係へ叫ぶ。


「背中側がまだ甘いと記録せよ!」

「番の件よりそちらが先だ!」

「関節と翼の根元の水気を残すな!」


 竜帝は生まれて初めて、求愛よりアフターケアを優先された。


 しかも、なぜか少し納得してしまうのが悔しい。


「……布を」

 竜帝が低く言う。

「もっと、持て」


「はっ!」


 従者たちが一斉に走り出した。


 メルヴィは次の指示を飛ばす。


「竜帝陛下が終わったら、次は長老の皆さまです。年長の方ほど深いところへ入り込んでいる可能性があります」

「わ、我らも!?」

「当然です」

「……はは」

 長老のひとりが、なぜか感極まったように笑った。

「国を救った姫に、老骨まとめて洗われる日が来ようとは……」


「変な言い方をしないでください」


 洗い場の空気は、もはや絶望ではなく活気に満ちていた。


 右を見ても左を見ても、誰かが布を絞り、誰かが風を送り、誰かが「こちらも落ちたぞ!」「卵床の湿りが減っている!」と声を上げる。ドラグファング全体が、少しずつ、本当に息を吹き返していくようだった。


     


 一方その頃。


 エルドラード帝国の東方軍山麓要塞では、別の意味で空気が張りつめていた。


 帝都からの転移中継は無事に成功し、白銀の光の中から現れたオフィウスは、ほとんど一瞬で現地指揮へ移っていた。東方霊峰群の地図、乱気流の観測報告、ドラグファング近辺の古い交易記録。それらが作戦卓へ次々と広げられていく。


 要塞司令官が額の汗をぬぐいながら言う。


「霊峰上空は乱気流が激しく、通常の飛竜部隊では接近が難しいかと」

「本峰に近づくほど、竜人族の領空結界も濃くなります」

「大部隊で押し込めば気取られるだけです」


「知っている」

 オフィウスは短く答えた。

「通せるだけを通す」


 結婚式の正装のままだ。

 それでも、誰もそこへ触れなかった。問題は服装ではない。まとっている気配の方がよほど異常だからだ。


 山麓要塞の空気は冬そのものだった。

 春の山地だというのに、オフィウスが立つ周辺だけ、吐く息が白い。書類の端に霜が降りそうなほどだ。


 ラグナスは、現地の報告書を捌きながら疲れ切った顔で言う。


「霊峰外縁までなら、高高度飛行に慣れた選抜隊が入れます。ですがその先は、騎ごと叩き落とされかねません」

「なら外縁まででいい」

 オフィウスは答える。

「そこから先は私が行く」


「またそういうことを」

 ラグナスが額を押さえる。

「せめて護衛を二騎は」

「遅い」


「陛下」

 ラグナスは本気で言った。

「花嫁を救うために皇帝ご自身が墜落しては、目も当てられません」


 オフィウスは地図へ視線を落としたまま言う。


「私は墜ちない」


 その言い方が、いやに真っ直ぐで、ラグナスはつい口を閉じてしまう。

 できないと言い切れない。これまでの彼を見ていると、本当にやりかねないからだ。


 そこへ、ザフィールが外套を翻して入ってきた。


 すでに熱砂仕様の軽装へ着替え、腰には湾曲した剣。あの男なりに、本気で追跡へ同行するつもりらしい。


「飛行隊の手配は?」

 ザフィールが問う。


「こちらです」

 司令官が地図上を示す。

「外縁の岩棚までが限界かと。そこから先は騎を置いて登るしか」

「登る、か」

 ザフィールは眉をひそめる。

「竜の巣はやはり面倒だな」


 オフィウスが冷ややかに言う。


「面倒を持ち込んだ自覚はあるか」


「耳が痛い」

 ザフィールは肩をすくめた。

「だが今はその話をしている場合でもないだろう」


「……そうだな」

 ラグナスがぼそっと言う。

「珍しく、その通りです」


「おい」


 そんなやり取りを挟みつつも、追跡の準備は整っていく。


 選ばれたのは、最小限の飛行隊だった。

 高高度の気流に耐えられる特殊装備の飛竜と、その扱いに長けた者だけ。山麓要塞から霊峰外縁までは彼らが運び、あとは皇帝自らが先行する。


 司令官が最後の確認を終えたとき、オフィウスはふいに顔を上げた。


「行く」


 その一言で、周囲の者が一斉に動き出す。


 格納洞へ出れば、選抜された飛竜がすでに鞍を整え、唸るように低く喉を鳴らしていた。山岳飛行用の軽装鎧を身にまとい、爪にも特殊な滑り止めが施されている。


 オフィウスは最前列の飛竜へ迷いなく乗る。

 ザフィールも続いた。


「遅れるな」

 オフィウスが振り返りもせず言う。


 ザフィールが口の端を上げる。

「今日のお前はやけにそれを言うな」


「当然だ」

 オフィウスの声はひどく冷たい。

「私の花嫁を待たせている」


 ラグナスはその背を見送りながら、深く深く息を吐いた。


「どうか、ひとつの山脈を丸ごと凍らせるのだけはおやめください……」


 祈りのような独り言だった。


 次の瞬間、飛竜隊が一斉に洞口から飛び出す。


 東方の霊峰群へ。

 荒れる気流の中を、黒い影が一直線に駆け上がっていった。


     


 ドラグファングの変化は、思った以上に速かった。


 中央祭壇から太陽の秘石が仮移設され、再び風穴が一つ、二つと開けられ、各住区の掃除班が動き始めると、国全体の空気が目に見えて変わっていく。


 まず、息がしやすい。


 次に、視界が明るい。


 結露で曇っていた岩壁の表面が乾き始め、火皿の炎はよく燃え、黒ずんで見えなかった石色がところどころ戻ってきた。住区の寝具を運び出して風へ当てるだけで、鼻につく重い臭いがわずかに薄くなる。


 そして何より、体が軽い。


「翼が……」

 若い竜人のひとりが、自分の翼を広げて呆然と呟く。

「翼が軽い……!」


「本当だ」

「肩の重みが違うぞ」

「喉の奥のつかえが薄い」

「息がしやすい……!」


 歓声に近いざわめきが、あちこちで起きる。


 長いあいだ“呪いだから仕方ない”と諦めてきた不調が、風と洗浄だけで目に見えて軽くなっていく。

 それは彼らにとって、もはや奇跡に等しかった。


 長老たちはメルヴィの言葉をそのまま布告へ変え始めていた。


「寝具は必ず干せ!」

「乾いていない布を重ねるな!」

「洗った後は拭き上げと乾燥までを一工程と心得よ!」


 どこかで誰かが「黒死対策の新法だ!」と叫んでいたが、やっていることはとても地道で生活感にあふれていた。


 その中心で、メルヴィは次々と現場を回っていた。


「卵床の藁は全部入れ替えてください」

「はいっ!」

「そこはまだ壁が湿っています。寝台を少し離して」

「了解です!」

「火皿を増やすのではなく、風を通してください。熱だけ足すとまた蒸します」

「な、なるほど……!」


 もはや“姫君”というより、“国家規模の大掃除を指揮する現場監督”である。


 そこへ、さきほど卵を抱えていた翡翠角の少女が、今度は少し明るい顔で駆けてきた。


「姫様!」

「はい」

「卵床を替えたら、あの……卵の表面の、じっとりした感じが減りました!」

「それはよかったです」

 メルヴィは本当にうれしそうに笑った。

「よくやりましたね」


 その笑顔を見て、周囲の竜人たちがまたざわつく。


 姫様、と呼び始めた者がいつの間にか増えていた。


「姫様」

「姫様、こちらの壁面も見ていただけますか」

「姫様、この薬草湯の濃さはこれでよろしいでしょうか」


 本人は全く意識していないが、ドラグファングはものすごい勢いでメルヴィへ懐き始めていた。


 その最たるものが、竜帝自身だった。


 彼は人型へ戻ったあとも、なにかとメルヴィの近くへ現れた。

 背中の拭き上げ。翼の根元の再確認。保護油の塗布量の相談。どれも必要なことではあるのだが、明らかに“必要以上に近くへ来る口実を探している”感じが滲んでいる。


「メルヴィ」

 竜帝が低く呼ぶ。

「背中側は、もうよいのか」


「まだ少しです」

 メルヴィは後ろへ回り込み、翼の付け根を確認した。

「ここです。ほら、まだわずかに湿っています」


「……そうか」


 声が妙に満足げだった。


 周囲の長老たちは、遠い目をしている。

 竜帝陛下が、こんなにも素直に背中を差し出している。しかも、やたらと呼ぶ。これはもう、完全に落ちているのではないか。そう思わない方が無理だ。


「メルヴィ」

 また竜帝が呼ぶ。


「はい」

「番の件だが」

「後にしてください」

 メルヴィは食い気味に返した。

「いまは孵化場が先です」


 完璧なスルーである。


 長老たちが思わず筆記を止めた。

 竜帝は一瞬黙り、それから何とも言えない顔でうなずく。


「……わかった」


 わかってしまうのもどうなのか。


 だがそれだけ、いまのドラグファングにとって“国全体を立て直す”ことが最優先になっているということでもあった。


 そして、その空気の変化は、外縁の見張り台にも現れていた。


 霊峰の外を警戒していた若い竜兵が、風穴から吹き込む外気の冷たさにふと眉をひそめる。


「……何だ」


 高山の外気とは違う。

 もっと澄んでいて、鋭く、清潔な冷気。


 次の瞬間、遠くの雲海の向こうに、黒い影がいくつも現れた。


「飛行影!」

 見張りの声が響く。

「東側外縁、高度高し! 人族の飛行騎!」


 洞窟国家のあちこちでどよめきが起きる。


「人族だと!?」

「追手か!」

「まさか、ここまで……!」


 中央洞の入り口近くにいたメルヴィは、その騒ぎに顔を上げた。


 外から吹き込む冷たい風の質が、変わったのを感じる。

 ただの山の空気ではない。どこまでも鋭く、迷いなく、冬の匂いをまとった冷気。


 彼女は、はっと目を見開いた。


「……陛下」


 小さく呟く。


 その声に、近くにいた竜帝がぴくりと反応した。


「おまえの皇か」

「た、たぶん……」

 メルヴィは少し遠い目になった。

「ええと、たぶん、かなり怒っておられます」


 長老たちの喉がごくりと鳴る。


 ほどなくして、外縁の広い岩棚へ報せが届いた。


「人族の飛行隊、外縁に接近!」

「だが大部隊ではない!」

「数騎だ!」

「先頭の一騎が……速い!」


 竜帝が、ゆっくり外を振り向く。


 霊峰を取り巻く乱気流の向こう。

 山肌に沿うように飛ぶ黒い飛竜の群れ。その中でも、先頭の一騎だけが、まるで他を置き去りにするような速度で一直線にこちらへ向かってくる。


 岩風と霧が、その周囲だけ凍りつくように白い。


 メルヴィは額へ手を当てた。


(ああ……来てしまわれました……)


 来るとは思っていた。

 来るどころか、世界の果てまででも追ってくるだろうとも思っていた。

 だが、実際にそれを見ると、やはり迫力が違う。


 外縁の岩棚へ飛竜が急降下し、その背から一人の男が飛び降りた。


 黒と銀の礼装。

 乱れぬ銀髪。

 氷色の双眸。

 まとっている気配だけで、周囲の温度を下げる男。


 氷の皇帝オフィウス・ルヴァン=エルドラード。


 その一歩で、霊峰の空気がぴんと張りつめた。


 少し遅れて別の飛竜から降りたザフィールが、大きく息を吐く。


「……速すぎるだろう、お前」


「遅い」

 オフィウスは一瞥もくれない。


 その視線は、ただまっすぐメルヴィだけを捉えていた。


「……メルヴィ」


 低い声が、岩棚へ届く。


 それだけで、メルヴィは思わず背筋を伸ばしてしまった。

 あれは怒っているときの陛下の声だ。しかも、かなり抑えていてこれである。


「ご、ごきげんよう、陛下」

 思わず、そんな挨拶が出てしまう。


「無事か」


「は、はい。攫われはしましたが、いまは大丈夫です。こちらの国は呪いではなく、ただの大規模な蒸れと黒カビでして、風穴を開けて秘石を移して、いま皆さまを――」


「後で聞く」


 ぴしゃりと切られた。


「まず」

 オフィウスの氷色の目が、ゆっくり周囲を見渡す。


 竜帝。

 長老たち。

 洗い場。

 大きな桶。

 特大ブラシ。

 そして、作業衣姿で腕まくりしているメルヴィ。


 その一瞬で、たぶん彼は全部察した。


「私の花嫁に」

 ひどく静かな声だった。

「何をさせている」


 空気が、凍りついた。


 竜人たちが一斉に背筋を強ばらせる。

 メルヴィは「あ、やっぱりそこですか」と思った。


 攫ったことにも当然怒っているだろう。

 だが、この人はそれと同じか、それ以上に、「自分の花嫁が作業衣で巨大ブラシを持って、国じゅうの掃除をしていた」という事実に反応する。


 それがオフィウスという男だ。


 竜帝がゆっくりと一歩進み出る。

 赤い瞳には、もはや濁りはほとんどない。洗われ、風を通され、理性を取り戻した竜の王として、真正面から氷の皇帝を見返している。


「人の皇」

 竜帝が低く言う。

「その娘は、我が国を救った」


「それと」

 オフィウスの声は冷たい。

「私の花嫁に重労働をさせてよい理由が、どこにある」


 竜人たちのあいだに、戦慄が走る。


 そこなのか。

 いや、そこでもあるのだろう。

 だが、攫われたことそのものと並んで、“働かせたこと”が真正面から逆鱗なのか。


 ザフィールが、その空気を横で見ながらぼそりと呟く。


「……やはりそう来たか」


 彼はもうわかっている。

 この男が本気で怒るポイントを。


 メルヴィは慌てて一歩前へ出た。


「あ、あの陛下! 皆さまは私に無理やりさせたわけではなく、むしろ止めようとしておられました! 私が勝手にやっていただけでして!」


「それが問題だ」

 オフィウスは即答する。

「なぜ君は、攫われた先でまで自分から重労働へ向かう」


「困っておられましたので……」

「知っている」


 知っているのだ。

 知っていて、なお怒っている。


 その気配が、周囲の冷気となって肌を刺す。


 竜帝もまた、一歩も引かない。

 背の翼をゆるやかに広げ、王としての威を静かに立ち上らせる。


「我は番を求めた」

 竜帝が言った。

「この娘は、それほどの者だ」


「断られていたな」

 オフィウスが淡々と返す。


 痛恨だった。


 長老たちが揃って「うっ」と息を詰まらせる。

 ザフィールが思わず目を逸らす。

 メルヴィだけが「そこも聞こえていたのですか」と困った顔をした。


 冷気と竜威が、じり、と音を立てるようにぶつかりかける。


 このままでは、まずい。


 メルヴィはその空気を感じた瞬間、ほとんど反射で叫んだ。


「駄目です!!」


 全員がびくっとした。


「いまここで暴れないでください!」

 メルヴィは本気の声を張り上げる。

「せっかく通した風穴が崩れます! 粉塵が舞えば洗ったところが全部やり直しですし、秘石を移したばかりの祭壇へまた熱と湿気がこもります!」


 岩棚にいた全員が、思わず真顔になった。


 ……たしかに。


 いまここで皇帝同士がぶつかれば、霊峰がどうなるか以前に、さっきまでの大掃除の成果が吹き飛ぶ。


 竜帝がぴたりと動きを止める。

 オフィウスもまた、その場でわずかに目を細めた。


「……粉塵」

 オフィウスが低く繰り返す。


「はい!」

 メルヴィは必死にうなずく。

「それに壁の黒ずみも、まだ残っておりますので! いま振動を与えるのは大変よろしくありません!」


 長老たちが思わずうなずきかける。


「た、確かに……」

「いま岩壁を崩されるのは困る……」

「風の流れが安定し始めたところだぞ……!」


 ついにドラグファングの価値観が、皇帝同士の威の張り合いより、換気と粉塵管理を優先し始めた。


 ザフィールが、こめかみを押さえながら苦笑する。


「本当にすごいな、お前は」

 誰に向けた言葉かは、たぶんメルヴィ自身もわからない。


 だがその一言のあとも、場の緊張は完全には解けなかった。


 オフィウスの視線は依然として鋭い。

 竜帝の視線もまた逸れない。


 ただ、ぶつかる寸前の一線で、どうにか止まっている。


 メルヴィはその間に立ちながら、心の底から思った。


(ああ……これは、次が大変です……)


 絶対に大変になる。

 ものすごく、大変になる。


 そしてその予感は、たぶん一つも外れない。

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