第10話 原因究明! 竜の国の「呪い」の正体と大掃除
花嫁を抱えた巨大な黒竜は、帝都の空を一気に東へ裂いて飛んでいた。
上空の風は冷たいはずなのに、メルヴィの周囲だけは妙にぬるく、湿っていた。
それは黒竜の巨体から絶えず立ち上る熱と湿気のせいだろう。純白の婚礼衣装は風にあおられてばさばさと騒がしく、長いヴェールは何度も竜の前肢へ絡みそうになり、そのたびにメルヴィの心臓がきゅっと縮む。
「ですから、もう少し丁寧に持ってくださいませ! 私、荷物ではありません!」
黒竜は返事をしない。
ただ、苦しげな息を吐きながら、なおも翼を打ち続ける。
近くで見ると、その状態は大聖堂の中で見たよりもさらに深刻だった。
黒々と艶やかなはずの鱗は、じっとりと湿って曇り、ところどころ黒ずんで、白く粉を吹いたように荒れている。鱗の重なりの奥には、長いあいだこびりついた汚れ特有の影が沈み、首筋や翼の付け根からはとくに強い異臭が漂っていた。
(これは……かなりです……)
メルヴィは涙目になりながらも、しっかり観察していた。
もちろん怖い。
結婚式の最中に攫われて、いま自分は巨大な黒竜の爪の中なのだ。怖くないはずがない。帝都に残してきた皆のことも心配だし、何よりオフィウスの顔を思い出すと別の意味で胃が痛い。
あのときの陛下は、本当に、ものすごく怒っておられた。
たぶん、いまごろ帝都のどこかが少し凍っている。
だが、それはそれとして。
(この竜さん……本当に苦しいのですね)
黒竜の吐く息は荒く、ときおり翼の動きが乱れる。
獲物を得て高揚している捕食者の様子ではない。何かに追い立てられ、何かへ縋るように必死になっている者の気配だった。
「……あの」
メルヴィは、恐る恐る声を張った。
「聞こえておりますか」
黒竜の片耳らしき場所が、ぴくりと動く。
「まず、攫うのは大変よろしくありません。非常によろしくありません。あとで陛下がもっとよろしくない感じになります」
黒竜は返事をしない。
「でも、もし苦しいのでしたら……少し、落ち着いてください。そんなに息が荒いと、よけいにつらいでしょう」
言いながら、メルヴィはそっと指先へ小さな生活魔法を集めた。
攻撃ではない。
ごく弱い浄化と清浄の魔力。普段なら、染みになった汚れの輪郭を浮かせたり、拭き筋を残しにくくしたりする程度の、あくまで生活の延長の魔法だ。
彼女は、触れられる範囲ぎりぎりの鱗の端へ、その光を慎重に押し当てた。
じわ、と白い光がにじむ。
次の瞬間、黒竜の巨体がびくんと震えた。
「ひゃっ」
落とされるかと思って、メルヴィは慌ててしがみつく。
だが黒竜は暴れなかった。むしろ一瞬だけ飛び方が安定し、喉の奥から鳴っていた苦しげなごろごろ音が、少しだけ静まる。
「……あ」
メルヴィは目を丸くした。
(やっぱり)
この竜は、大聖堂の浄化の光へ本能的に引かれていたのだ。
花嫁姿の自分を狙ったというより、自分の周囲に集まっていた清らかな魔力と祝福に、苦しさのあまり縋りつこうとしたのだろう。
黒竜は再び低く喉を鳴らした。
さっきより少し弱々しく、そしてほんの少しだけ落ち着いたように。
「……そうでしたか」
メルヴィは小さく呟く。
攫われたことは大問題である。
結婚式を壊されたのも大問題だ。
けれど、目の前で苦しんでいるものを前にすると、やはり見て見ぬふりはできない。
やがて眼下の景色が変わり始めた。
帝都周辺の整えられた街道も農地も、みるみるうしろへ遠ざかる。
代わりに現れたのは、切り立った山々の連なりだった。その中でもひときわ高く険しい霊峰が、空へ牙のように突き立っている。
「……わぁ」
怖さとは別に、思わず声が漏れた。
山の頂近くには、天然の断崖と巨大洞窟が幾重にも口を開けていた。そこには無数の灯りが見える。ただの巣ではない。山そのものをくり抜き、段々に住区を築いた洞窟国家だ。
だが、その壮麗さに感心するより先に、メルヴィの鼻は別のことを察していた。
「……むわっとしております」
霊峰へ近づくほど、空気が妙に重い。
高所のはずなのに涼やかさがない。
ぬるく湿った風が洞窟の口から吹き出し、岩肌はどこも濡れ、ところどころ黒っぽく変色している。まるで山全体が、内側からじわじわ蒸されているみたいだった。
(ああ……これは、絶対に換気が足りません……)
黒竜が大きく羽ばたき、最大の洞窟口へ滑り込む。
その瞬間、ぬるい湿気がどっと全身を包んだ。
「……っ」
メルヴィは思わず顔をしかめる。
暗い。
ぬるい。
湿っている。
風がない。
そして、臭う。
掃除好きの本能が全力で警鐘を鳴らす、実によろしくない環境だった。
巨大な洞窟の内部は、一つの都市だった。
広大な空洞の上下左右に岩棚が張り出し、それをつなぐ石段や橋が幾重にも架かっている。竜が休むための広い台地と、竜人たちが住む石造りの住居群が、洞壁へ層のように連なっていた。
だが、その壮観さを、今は湿気と淀んだ空気が台無しにしている。
壁面からは水滴が絶えず落ち、床のあちこちはうっすらぬめり、あちこちの火皿は湿気のせいで燃え方が鈍い。住居の壁にも柱にも黒いしみが広がり、天井近くには煙とも蒸気ともつかないものがどんより滞留していた。
黒竜が中央の大きな岩棚へ降り立つと、周囲にいた竜人たちが一斉にどよめく。
「陛下!」
「竜帝陛下が戻られた!」
「そのお方は……」
「人族……!?」
「浄光の気配がする……!」
竜人たちは、男女ともに整った顔立ちをしていた。浅黒い肌、角、翼、尾。人に近い姿ながら、ところどころ竜の特徴を持つ者が多い。だが、どの顔にも疲労が濃かった。肌はくすみ、髪は湿気で重く、衣の裾はしっとりとして、鱗を持つ者は皆、黒ずみや荒れに悩んでいるようだった。
黒竜はひとつ低く唸ると、ようやくメルヴィを床へ下ろした。
「はぁっ……」
両足が地面についた瞬間、メルヴィはへなへなと座り込みそうになる。
だが周囲には見知らぬ竜人たちがいるし、目の前には巨大な黒竜がいる。気を抜いてよい状況ではない。
彼女は必死でドレスの裾を整えながら立ち上がった。
「……あの」
その一言で、洞窟内の視線が一斉に集まる。
「まず申し上げますが、結婚式の最中に人を攫うのは大変よろしくありません」
竜人たちがざわついた。
「け、結婚式……?」
「花嫁を攫ったのか、陛下は」
「なんということだ」
「いや、しかし、陛下はもう正気では……」
「それから」
メルヴィは真顔で周囲を見回す。
「ここ、ものすごく湿っております」
今度は別の意味でざわついた。
「な……何を」
「見ればわかる」
「いまその話をするのか」
「ええ、見ればわかります。だから申し上げているのです」
メルヴィはきっぱり言った。
「湿気がひどすぎます。風の通りがなく、熱がこもり、水気が逃げておりません。そのうえ汚れが蓄積して、あちこちで黒ずみが広がっています。これでは体調を崩して当然です」
あまりに堂々たる“掃除目線”に、竜人たちは逆に言葉を失った。
そのとき、黒竜の巨体がゆらりと揺れた。
「陛下!」
「お支えしろ!」
何人かが駆け寄る。
黒竜は苦しげに息を吐き、前肢をついた。鱗の隙間からは黒い靄のようなものが立ち上り、その臭いがさらに濃くなる。
「古の黒死が……また」
白髪混じりの長い髪と大きな角を持つ老竜人が、震える声で言った。
「ついに浄なる気配を求め、人の国へ飛び出してしまわれたか……」
黒死。
呪い。
その言葉に、メルヴィはぴくりと反応した。
「皆さまは、これを“呪い”と呼んでおられるのですね」
老竜人が彼女を見る。
「そうだ、人族の姫よ。ここ十年、我らドラグファングは古の呪いに蝕まれている。鱗は腐り、翼は重くなり、肌病は広がり、卵は育たず、年長の者ほど理性が薄れる。神官も術師も手を尽くしたが、何ひとつ根を絶てぬ」
「十年……」
メルヴィは小さく繰り返した。
「陛下はもっとも強大ゆえ、もっとも深く侵された。近頃は自我も曖昧になり、浄光だけを求めて荒れ狂うことが増えておった。まさか、人界の大聖堂へまで……」
それであの乱入か。
理屈としてはわかる。わかるが、結婚式を壊された側としては到底「そうですか」で済ませられない。
ただ、目の前の竜帝の苦しさが本物なのも確かだった。
「少し、近づいてもよろしいでしょうか」
メルヴィが言うと、竜人たちはぎょっとした。
「危険だ!」
「陛下はまだ完全に正気ではない!」
「高いところを拭こうとするわけではありません」
メルヴィは真顔だった。
竜人たちの困惑が深まる。
どうもこの人族の姫は、危険に対する物差しがおかしい。
メルヴィはそろそろと黒竜へ歩み寄り、慎重に首元の鱗へ手を伸ばした。
竜帝の赤い瞳が、半ば開いて彼女を映す。拒絶はしない。
彼女は鱗の表面に溜まった湿りを指先でなぞった。
ぬるい。
べたつく。
うっすら黒い。
そして指先に、粉っぽく崩れるものがつく。
「……ああ」
嫌な確信が、ほぼ確信になる。
今度は床へしゃがみ込み、石の継ぎ目の黒ずみ、壁際のぬめり、水滴のつき方、火皿周りの湿りを次々と確かめる。さらに顔を上げ、天井近くの空気の流れを探ろうとして、すぐに眉をひそめた。
「空気が、死んでおります……」
その言葉に、長老格らしい老竜人が息を呑む。
「空気が、死んでいる?」
「ええ。熱が上へ溜まっているのに、抜け道がありません。下は下で水気が滞留し、壁も床も乾く暇がない。これでは何を置いても腐りやすくなりますし、鱗や皮膚にもよくありません」
彼女は立ち上がると、洞窟全体を見回した。
「質問してもよろしいでしょうか」
「……言え」
老竜人が緊張した顔でうなずく。
「もともと、ここは風穴を活かして保っていた洞窟国家ですよね?」
「そうだ」
「なのに、どうしてここまで湿度が高いのでしょう。黒死の呪いが始まる前に、何か環境を変えませんでしたか」
竜人たちは顔を見合わせた。
「環境を変える……?」
「呪いと関係あるのか」
「まさか……」
やがて、別の老竜人がはっとしたように顔を上げる。
「……十年前だ」
全員の視線が集まる。
「卵の孵化が近年不安定になり、寒い季節に冷えすぎるとのことで、他国から秘宝を取り寄せた。東海の火山帯で採れる“太陽の秘石”だ。絶えず熱を放ち、卵を温め続ける霊鉱」
「どこへ置きましたか」
メルヴィが間髪入れずに尋ねる。
「国の中心部だ。孵化場にも近く、全体へ熱が回るよう、中央祭壇に奉納した」
メルヴィはすっと目を細めた。
「その下に、水はありませんか」
「水?」
「地下水脈です。あるいは温泉脈、湧水、地中の湿り気でも」
今度は別の竜人が答える。
「ある。昔から、山の奥底を流れる水脈がここ一帯を潤していた。高峰で暮らせるのも、その恩恵だ」
「やはり」
メルヴィは額へ手を当てた。
「秘石は、今もそこに?」
「当然だ。卵を守る聖石ゆえ、誰も動かしては――」
「それです」
メルヴィはきっぱり言った。
「地下水脈の真上に、絶え間なく熱を出す巨大な石を置いたせいで、国じゅうが四六時中“蒸し風呂状態”になっているのです」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
「蒸し風呂……?」
「何を言っている」
「呪いではありません」
メルヴィははっきり断言した。
「少なくとも主因は、古代の呪詛などという立派なものではないです。ただの環境不良です。かなり規模の大きい、ひどい環境不良です」
竜人たちのあいだに衝撃が走る。
「環境、不良……?」
「我らを十年苦しめた黒死が?」
「ただの……?」
「ただの、とは申しません。深刻です」
メルヴィは首を横に振る。
「熱源で地下の水分が常に蒸発し、その蒸気が洞窟にこもる。風は抜けない。熱も逃げない。そこへ生活の汚れと体液と埃が蓄積する。鱗の隙間、翼の膜、寝具、卵床、壁面、あらゆる場所に黒ずみが広がるのは当然です」
そして、伏せている黒竜を見上げた。
「理性が鈍るのもおかしくありません。ずっと息苦しくて、眠りが浅くて、全身が重くて、不快であれば、誰だって参ります」
老竜人たちが顔色を変える。
「それでは……」
「古の呪いではなく……」
「我らが、自ら国を蒸していたと……?」
「はい」
メルヴィは容赦なくうなずいた。
「そして、その結果として発生しているのは、ただの黒カビです」
誰もすぐには反応できなかった。
黒死の呪い。
神官も術師も解けなかった国家的災厄。
その正体が、まさか。
ただの、超特大の黒カビ。
しかも原因は、自分たちで置いた熱石と、悪すぎる換気。
メルヴィはぽかんとしている竜人たちを前に、実務的な口調で続けた。
「ですので、対処法ははっきりしています。まず、太陽の秘石を今すぐ中央祭壇から移してください。次に、風の抜け道を確保します。昔の風穴や通気路で塞がっているものがあるはずです。なければ開けます。それから、国じゅうの黒ずみを洗浄・除菌・乾燥です」
「……い、今すぐ?」
若い竜人が呆然と呟く。
「聖石を動かすのか?」
「今すぐです」
メルヴィは真顔で言う。
「今すぐでないと、また蒸します」
説得力が妙な方向で圧倒的だった。
そのとき、伏せていた黒竜――竜帝が、のそりと頭を上げた。濁っていた赤い瞳が、ゆっくりメルヴィを捉える。
低く、掠れたような声が響く。
「……ひとの、おんな」
竜人たちがはっとする。
「陛下!」
「お言葉を……!」
竜帝の声は、巨大な岩が擦れ合うように重かった。
「おまえ、は……それを、なおせる、か」
メルヴィは一瞬だけ迷う。
攫われた身だ。結婚式を壊されたのだ。
普通なら、そんな問いに素直に答える義理はない。
けれど、困っているものを放っておけないのが彼女の悪い癖であり、よいところでもある。
「はい」
メルヴィはうなずいた。
「おそらく」
その一言で、洞窟の空気が変わった。
「長老」
彼女はすぐ顔を上げる。
「中央祭壇へ案内してください。秘石の位置、水脈との距離、風穴の痕跡を見ます。古地図があるならそれも」
「ま、待て、姫君」
老竜人が慌てる。
「聖石の移動は、一族会議が――」
「会議をしているあいだにも蒸します」
「しかし祭壇は神聖な場所で――」
「カビております」
「うっ」
あまりにも容赦のない現実だった。
「神聖な場所ほど、清潔であるべきです」
メルヴィは言い切る。
「それとも黒ずみと生乾き臭を“伝統”として守られるおつもりですか」
老竜人たちが揃って顔をしかめる。
残したくはない。
絶対に嫌だ。
言われてみれば、その通りなのだ。
「案内を」
メルヴィは今度は少しだけやわらかく言った。
「原因がわかったのですから、あとは順番に片づけるだけです」
そこへ、小柄な竜人の少女が、おずおずと前へ出た。翡翠色の細い角を持つ、まだ若い娘だ。腕の中には、布に包まれた卵を抱えている。
「……あの」
少女は不安げにメルヴィを見た。
「本当に……呪いでは、ないのですか」
「はい」
メルヴィはしゃがみ込み、彼女と目線を合わせた。
「少なくとも、今皆さまを苦しめている大半は、そうです」
「卵も……助かりますか」
その問いは、あまりにも切実だった。
メルヴィは卵を見つめる。
布の表面まで、少し湿っている。
「温めること自体は間違っていません」
彼女は慎重に言う。
「でも、熱すぎて湿りすぎているのです。卵も生き物ですから、蒸され続けるのはよくありません。ほどよい温度と、ほどよい乾きと、清潔な寝床が必要です」
少女の目に希望と不安が同時に浮かぶ。
「ですから、それも含めて整えましょう」
メルヴィは微笑んだ。
「大丈夫です。まず換気です」
竜人たちには、なぜそんなに真っ先に換気なのかよくわからない者も多かった。
だがメルヴィにとって、空気はすべての土台だ。空気が死んでいる場所に、清潔も健康もない。
やがて老竜人たちも腹をくくったらしい。
「……よかろう」
最初に話した長老が深くうなずく。
「姫君を中央祭壇へ! 太陽の秘石の移設準備を急げ! 古い風穴の図を持て! 孵化場の番人にも伝令だ!」
命令が飛び交い始める。
それまで重苦しく淀んでいた洞窟都市に、初めて“対処のための忙しさ”が生まれた。
メルヴィはその様子を見て、ほんの少しだけほっとした。
皆が動いてくれれば、こちらもやりやすい。
だが次の瞬間、別の問題に気づく。
「……あの」
彼女は自分の裾を見下ろした。
純白。
長い。
重い。
そしてここは、湿った洞窟国家である。
「この格好では、非常に作業しづらいです」
竜人たちがまたしてもぽかんとした。
「……作業」
「姫君みずから、なさるのか……?」
「もちろんです」
メルヴィはきっぱり言う。
「指示だけでは足りません。現場を見て、触って、洗って、乾き具合を確かめないと」
あまりにも当然のように言うので、一部の竜人は感動し、一部は困惑し、一部は“人界の姫とはそういうものなのか”と真面目に悩み始めた。
長老は慌てて周囲へ怒鳴る。
「誰か! 姫君に動きやすい衣を! 濡れてもよい靴もだ! いや待て、人族の体格に合うものがあるか!?」
「布ならございます!」
「ですが少し湿って――」
「乾いたものを持て! 乾いたものを!」
洞窟国家中が“乾いたもの”を探して走り出す。
そのあいだにも、メルヴィは中央祭壇を見に行った。
道中の景色は、やはりどこも似たような有様だった。
住居の壁に走る黒ずみ。湿った寝具。曇った金具。ぬめる床。翼を干す棚ですら、なぜかじめっとしている。
メルヴィは歩きながら次々に質問を投げた。
「こちらの住区は何年前に拡張しましたか」
「火皿は昼夜つけっぱなしですか」
「寝具はどこで干しておられます」
「通気路の清掃は何年しておりませんか」
「卵床は毎年総入れ替えしていますか」
「雨季や雪季の湿度変化は記録しておりますか」
答えれば答えるほど、状況は彼女の予想どおりだった。
中央祭壇へ着くと、そこには巨大な赤金色の鉱石が鎮座していた。
人の背丈どころではない。小さな家ほどもある結晶塊が、台座の上でじりじりと熱を放っている。周囲の空気はそこだけ明らかに暑く、床の石の割れ目からは絶えず水気が立ちのぼっていた。
「……ここです」
メルヴィは断言した。
「主犯です」
長老たちが息を呑む。
「この石の熱で、下の水脈が常に温められております。蒸気は上がる、でも風は抜けない。だから国じゅうが蒸れるのです」
彼女は祭壇の周囲を確かめるように歩く。
「しかも熱が中央へ溜まりすぎています。構造もよろしくありません」
「では、どうすれば」
「移します」
メルヴィは即答した。
「孵化場そのものを見てから最終調整は必要ですが、少なくとも国のど真ん中に置くのはやめるべきです」
長老たちが一斉にうなずく。
「運べ!」
「台座ごと持ち上げろ!」
「岩運びの得意な者を呼べ!」
屈強な竜人たちが集まり、鎖と滑車、それに竜人らしい腕力で、太陽の秘石の移設を始める。だが相手は巨大な霊鉱だ。簡単には動かない。
その間に、メルヴィは壁面と天井を見上げていた。
「この上、昔は穴が開いていませんでしたか」
「……あった」
年長の竜人が、はっとしたように言う。
「大昔、冬の冷気が入りすぎると閉じた風穴だ。だが落石で半ば埋まり、今では誰も使わぬ」
「どちらです」
「祭壇の真上、あの黒い張り出しの奥だ」
メルヴィが目を凝らすと、たしかに天井近くに不自然な岩のふくらみがあり、その周囲だけ煙の色が少し濃い。空気が抜けたがっているのに、出口を失っている場所の気配だった。
「開けます」
「今から!?」
「今からです」
メルヴィはうなずく。
「秘石を動かしても、抜け道がなければまたこもります」
彼女は仮に渡された長柄の棒を手に取ると、先端へ生活魔法を集中させた。
もともと戦闘用ではない。だが彼女の規格外の魔力量と“詰まりを取り除く”という明確な目的が合わさると、ときにありえないことが起きる。
「そこに詰まっているものを、取り除きます」
白い光が棒の先へ集まり、細く伸びて、真上の岩の裂け目へ吸い込まれていく。
ごご、と重い音が鳴った。
「姫君! 危ない!」
「下がれ!」
だがメルヴィは棒を離さない。
「もう少し……そこです……!」
ぱきん、と何かが割れる音。
次の瞬間、長年一度も動かなかった洞窟の空気が、突然大きく流れた。
天井近くの岩塊が弾け飛び、裂け目の向こうへ青白い外光が差し込む。続いて、霊峰の冷たい外気が猛烈な勢いで洞窟内へ吹き込み、反対側からは熱気と湿気が一気に吸い上げられていった。
「きゃっ!」
メルヴィの髪がぶわっと舞い上がる。
竜人たちが目を見張った。
「風が……!」
「抜けた!」
「何年ぶりだ、この風は!」
ごうごうと音を立て、蒸気が上へ吸い出されていく。
祭壇周辺のぬるい重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
メルヴィは風を顔いっぱいに受けて、深くうなずいた。
「はい。まず一つです」
その顔は、攫われてきた花嫁というより、ようやく大掃除の工程表を頭の中で組み終えた現場責任者の顔だった。
「秘石の移設、風穴の再開通、各住区の洗浄、寝具と衣の乾燥、卵床の総入れ替え、そして竜の皆さまの鱗と翼の手入れ。やることはたくさんあります」
竜人たちがごくりと唾を呑む。
「皆さま、忙しくなりますよ」
メルヴィはにこりと笑った。
「国じゅう、まとめてお掃除です」
その宣言に、長老たちは半ば畏怖し、半ば感動しながら平伏しかけた。
だが当のメルヴィは、すでに次の工程へ頭を切り替えている。
「まずは大きなブラシと、布と、水桶をできるだけたくさん。それから除菌に使える灰と薬草。吸水のよい布も必要です」
「は、はいっ!」
「あと」
メルヴィは振り返り、少し離れた場所で伏せている竜帝を見た。
「もっとも症状が重い方から対処します」
竜人たちの視線が一斉に竜帝へ向く。
「……え」
「まさか」
「最初に、陛下を……?」
「もちろんです」
メルヴィはきっぱり言った。
「一番大きくて、一番つらそうで、一番全体への影響が大きいのですから」
その言葉の圧に、誰も反論できない。
ちょうどその頃、帝都では。
東門地下の転移中継陣が、白銀の光を唸らせながら起動していた。
オフィウスは大聖堂で封じた鱗片を手に、術者たちの円陣の中央へ立つ。
結婚式用の正装のままだ。黒と銀の礼装は乱れていない。乱れていないのに、まとっている空気だけが恐ろしいほど冷たい。
「東方霊峰ドラグファング」
彼は短く告げる。
「最寄りの山麓要塞まで飛ぶ」
「御意!」
術者たちが一斉に応じる。
ラグナスは駆け込んできた報告書を片手に、息を整えながら言う。
「ドラグファング本峰は閉鎖国家です。転移妨害の結界も強い。直接飛ぶのは不可能と見られます」
「なら最寄りでよい」
「山麓要塞から先は乱気流です。飛行戦力を絞る必要が」
「最速で整えろ」
「整えております!」
返すラグナスの声も、もう半分やけくそだった。
そこへザフィールが現れる。礼装の上へ外套を羽織り、いつの間にか剣まで下げていた。
「俺も行く」
ラグナスが即座に顔をしかめる。
「殿下まで何を」
「借りがある」
ザフィールは短く言った。
「前回は俺が奪った。今度は助ける側に回る」
オフィウスは一度だけ彼へ視線をやる。
氷色と金褐色の目が、短く交差する。
「遅れるな」
オフィウスが淡々と言った。
ザフィールはわずかに口の端を上げる。
「そのつもりはない」
術式が完成し、転移陣の光が強まる。
帝都から東方へ。花嫁奪還のための追跡が、静かに始まっていた。
一方、ドラグファングでは。
ようやく持ってこられた竜人用の作業衣を、メルヴィはどうにか自分の体へ合わせてもらっていた。少し大きいが、重たい婚礼衣装よりは遥かにましである。髪も高く結い直し、袖をまくると、彼女はようやくいつもの調子を少し取り戻したように見えた。
「では、始めましょう」
その声に、周囲の竜人たちが背筋を伸ばす。
誰かが大きな水桶を運び、誰かが薬草を煮出し、誰かが乾いた布を山のように抱えて走る。長老たちは古地図を広げ、若い者は住区ごとに掃除班を割り振り、孵化場では卵床の総点検が始まった。
その忙しさの中で、メルヴィはひときわ大きな長柄ブラシを受け取る。
人族用ではない。
竜の体表を洗うために急きょ引っ張り出されたものだ。柄だけで彼女の背丈ほどあり、普通の人間なら持ち上げるだけでも大変そうだった。
だが彼女は、重さを確かめるように一度握り直すと、しっかりとうなずいた。
「はい。これならいけます」
そして、伏せたままこちらを見ている黒竜――竜帝へ向き直る。
竜帝の赤い瞳が細められる。
まだ苦しそうではあるが、先ほどより呼吸はだいぶ落ち着いていた。風穴が開き、中央の蒸気が少し抜けただけでも違うのだろう。
メルヴィは大真面目な顔で言った。
「では、竜帝陛下から洗います」
洗い場の空気が、ぴたりと止まった。
「……」
「……」
「……え」
誰かが間の抜けた声を漏らす。
「陛下を」
「洗う……?」
「本当に、いま、そう言ったか?」
「はい」
メルヴィは当然のようにうなずく。
「もっとも症状が重い方を後回しにしてはいけません」
竜人たちがざわめく。
竜帝を洗う。
この国の頂点を。
絶対の黒竜を。
そんな発想は、ドラグファングの歴史上たぶん一度もなかった。
だがメルヴィはまったくためらっていない。
「首元と翼の付け根、それから関節の裏が特に深刻そうです」
彼女は真剣に竜帝を見上げる。
「あと、爪の間も危ないです。見えにくいところほど汚れは残りますから」
長老たちが、なぜか神託でも聞いたような顔になる。
竜帝本人だけが、少し呆然としていた。
「……おれを」
黒竜の喉が低く鳴る。
「ほんとうに、あらうのか」
「はい」
メルヴィはきっぱり言った。
「今さら何をおっしゃるのです」
その一言に、ドラグファング中が息を呑んだ。
だが次の瞬間、メルヴィは特大ブラシを持ち直し、にこりともせず、実に当然の現場顔で告げる。
「まずは首筋からです。泡立て布を持ってきてください。あと、乾いた布は後ろへ多めに。洗っただけでは駄目ですから」
周囲が慌てて動き出す中、黒竜の赤い瞳だけが、じっと彼女を見つめていた。
その視線の意味を、まだ誰も知らない。




