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二人

作者: 永久福
掲載日:2025/10/21

この作品は、他の投稿サイトにも掲載しています。

 

 私は、隙間が嫌いだ。何かがそこにいて、私を見ているから。

 どうしてこんな家を選んでしまったのだろう。

 過去の私を、呪うしかなかった。




 三ヶ月前のことだった。桜が目覚め始めた頃、地元から離れた大学に通うことにした私は、この井上ハイツの二階の角部屋に入居した。

 このアパートに決めた理由は単純なものだ。駅から徒歩十五分で、駅前にはスーパーもある。料理が好きな私にはそれだけでも十分だったが、家賃が格別に安いというのが最後の決め手になった。

 大学入学が決まった頃、スマホの画面とにらめっこしながら、物件サイトを何度も見返していた。母の手は借りない。もう立派な大人なのだから。

 そんな中見つけたのが、家賃五万円の井上ハイツだった。築年数は古い。でも、床はフローリングで、嫌な古さを感じなかった。間取りも1Rではなく1K。日当たりは良くないようだが、そんなことはどうでもよかった。

 引っ越し当日は、口角が上がるのを止められなかった。私を知らない人が見たら、気持ち悪いと思うかもしれない。でも、念願だった一人暮らし。人と関わるのが苦手な私は、内見をオンラインで済ませていたので、初めて見る自分の家に胸を高鳴らせた。

 少しの緊張と大きな好奇心で、二〇五号室の扉を開けた。玄関の左にキッチン。料理をするには少し狭いが、すりガラスのはまった引き戸があるので、匂いが居間にいかないのが良い。そこを開けると、ベッドを置いてもまだ余裕のありそうな居間。大学生の一人暮らしにしては、かなり広い。

 ここから、私の新生活が始まる。これから買う家具のことを考えながら、居間で荷ほどきをしていた。

 その時、ふと視線を感じた。振り返る。誰もいない。宅配業者は随分前に来たが、家の中には入っていない。この家には私一人のはずだった。

 今までは、家に誰かはいるような生活だった。初めての一人の空間だ。きっと慣れないからそんな気がしたのだろう。そう思った私は、また片付けを再開した。




 当時のことを思い出していた私は、大きく溜息をついた。あの感覚は、今もずっと続いている。最近ずっと、家では安らげない。

 何をしていても、見られている。この感覚が消えることはなかった。料理をしている時には、キッチンの棚の隙間から。居間に置いたベッドに横になれば、押入の隙間や、引き戸の隙間から。ありとあらゆる隙間から、見られているような気がした。

 そして、その感覚は、隙間がある時にだけ起こる。なんだ、簡単だと思った。隙間をなくせば、この気味の悪い日々から抜け出せる。

 それからは、隙間に気をつけるように生活をした。指差し確認までした。まるで取り憑かれたみたいに何度も。ふと我に帰ると、自分が果たして正常なのかわからなくなる。

 だが、隙間はなくならない。気付くと、また数センチ、開いている。私一人ではどうすることもできなかった。

 耐えかねて、唯一の大学の友人に相談して、初めて気付いた。井上ハイツは、事故物件だった。スマホの画面を見たまま、すぐには動けなかった。どうして家賃が安いのに、怪しいと思わなかったのだろう。過去の自分の脳天気さを呪った。

 その事実を知った日は、家に帰りたくないと子供のように大泣きしたかった。扉の前で、五分は黙って立っていた。このときが、初めて恐怖を感じた瞬間だった。ずっと隙間との格闘で、目を逸せていたのかもしれない。

 ――この家に、もう一人誰かいる。

 目をそらし続けた事実が、色濃く浮かびあがった。

 そのことに気付いてから、ありとあらゆることが、その存在に結びつくようになってしまった。ゴミ袋のカサカサという音、扇風機の風なんかにも反応してしまう。その存在は、私の精神を容赦なく蝕んでいった。

 それから、私が寝てから物音がするようになった。天井で何か這いずっているような音。そのあとは決まって押入れからの視線。じっとりとした嫌な視線だ。だけど、確認はできない。そこにもし、誰かがいたら……、私はもうこの家に住むことはできない。

 引っ越したいという気持ちが、もう我慢でないほど膨れ上がっている。しかし、それにはお金がいる。現時点では、どうあがいても不可能だ。

 ここに住み続けるのなら、自分でなんとかするしかない。私は強く、拳を握りしめた。




 私は、契約した不動産会社へと向かった。この家で何が起こったのか。原因を知れば解決できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。

 不動産会社で、私は隙間のことは伝えずに、たまたま事故物件だと知ったという体で話を聞いた。

「井上ハイツですね。確かに過去に人が亡くなっています」

 男性社員は、パソコンから一度も目を離さなかった。

「ですが、十年前のことでしてね。何人も住んだ後ですので、告知義務はないんです」

 てっきり私がクレームをつけに来たと思ったのだろう。確かに、契約時一度も事故物件とは聞いていない。今になって、不動産会社にほんの少し怒りがわいてきた。だが、今は話を聞かなくてはならない。

「その亡くなった方は、どんな方だったんでしょうか?」

 私の質問に、男性社員は一瞬呆けたような顔をした。変に思われただろうか。

 しかし、男性社員は、すぐに仕事の顔に戻って言った。

「すみません。個人情報ですので」


 結局、不動産会社で得た情報は、十年前に二〇五号室で、住人が自殺で亡くなったということだけ。今日は成果が得られず、足取り重く井上ハイツへの帰路についた。

「あら、こんにちは」

 そんなとき、後ろから声をかけられた。穏やかな声。振り返ると、大家の井上さん。小綺麗な黒のワンピースを着て、私をニコニコと見つめている。

 井上ハイツのすぐ横の一軒家に住んでいる井上さんは、私と会う度にいつも世話を焼いてくれる。おしゃべりが好きなようで、世間話になると止まらないが、素敵なマダムであることに間違いはない。

 引っ越しのときに、井上さんはわざわざ私の家に挨拶に来てくれた。その時に、私の生活を軽く話したので、同情してくれているのだろう。

「こ、こんにちは」

 いたずらが見つかった子供のように、縮こまりながら挨拶を返す。優しくしてくれるのは、嬉しい。だが、井上さんと会うとなんとなく萎縮してしまう。母と似ているからだ。品があって、私には似ても似つかない。

「えらいわね。今日もお仕事?」

 井上さんは、笑顔を崩さず尋ねてくる。

 きっと年は五十後半~六十代で、母よりも年下だろうが、いつ見ても若々しい。私と並んで歩いても。同い年くらいに見られるかもしれない。

 井上さんに直接、十年前のことをきけばいいのだ。

「すみません……。十年前の事件について、教えてもらえますか?」

 井上さんの笑顔は消え、途端に固い表情に変わった。

「もしかして、何かあった?」

 ぐっと言葉につまった。本当のことを言ってしまおうか。だが、変な人間と思われるかもしれない。そうなれば、この部屋のことも聞けなくなってしまう。

「いえ、何かあった訳ではなく、事故物件と知って、気になってしまって」

「なんだ、そういうことだったのね」

 井上さんは、ほっと一息吐くと、安心したような表情になった。そして、声を落として話し始めた。

 井上さんは記憶をなぞるように話した。

 当時住んでいたのは三十歳くらいの男で、本間さんという方だったそうだ。挨拶も蚊の鳴くような声で、気弱そうな印象を受けたという。

 だがその印象とは裏腹に、本間さんは彼女に暴力を振るい、最期は自ら命を絶った。

 二〇五号室の壁一面に、彼女と女性全体の恨み言を部屋中に書き散らして。ずっとそばにいるって言ったのに女はみんな嘘つき。みんな死ね。そんな言葉が、自分の血で壁一面に書かれていた。

 そんな話を聞かされるとは思わず、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。想像していたものとは、全く違う。もっとずっとおぞましいことが起きていた。

「あなたのことね、うちの息子にも話してるの。一人で大学もアルバイトも頑張ってるんだから見習えっていつも言ってるのよ」

 井上さんは、私の暗い雰囲気を察してか、ふふと笑って、私の肩をぽんと叩いた。

「なにかあったら、なんでも言ってね」

 そう言って、井上さんは優しく微笑んだ。




 結局、この本間さんのことを知ったからといって、どうすることもできなかった。彼女に暴力を振るい、最期には女性全体に恨みを残して死んだ男。一体私が何をできるというのだろうか。

 その時、インターホンが鳴った。宅急便のようだった。何か頼んでいたかな。そう思って、段ボールを開けると、そこにはペットカメラが入っていた。

 思い出した。大学の友人に、もし何か現象が撮影できたら、私の妄想ではないとわかる。確かにいい案だと感じて、購入したのだった。

 しかし、詳細を知ってしまった今、直接姿を見てしまったら――想像するだけで身震いした。

 このペットカメラもただではない。苦しい生活の中、節約することを誓って買ったカメラだ。とりあえず、撮るだけ撮ろう。映像を確認するかは置いておいて。

 そう決めて、私は居間全体が写るように、ベッド横の棚に設置した。キッチンへの引き戸も、押入もしっかり写っている。何も写りませんように。そう祈ってから、私は眠りに落ちていった。

 翌日、結局好奇心を抑えきれず、近くの喫茶店で映像を見ることにした。人がいるので、落ち着いて確認できる。

 パソコンでカメラのアプリを開く。見ると、何か通知が届いている。動体検知。恐る恐るクリックする。動画が再生された。

 撮影のためにつけた豆電球のオレンジが、ぼんやり部屋を照らす。カメラは、しっかりと部屋の様子を映していた。これならしっかり見える。

 押入れの障子が、ゆっくりと開いていく。だが、障子は止まらない。音も立てずに、完全に開いた押入から、真っ黒い人影が現れた。思わず悲鳴をあげそうになって、慌てて口に手をあてる。この部屋には、本当に誰かがいた。

 人影は、そのまま押入からゆっくりと降りてきた。画面の目と私の目が合う。男だ。見たことはない。これは、本間さんなのだろうか。

 その男は、ゆっくりと私の方に近付いてくる。心臓が止まりそうだ。一体私はこの後何をされるのだろう。

 しかし、男は私の顔を見て、舌打ちをした。そして、私から離れ、押入れを閉める。その後、引き戸から出て行った。玄関のドアを開ける音と、鍵を閉める音。そして、部屋はしんと静まり返った。

 手先がひどく震えて、冷たい。息も空気の上澄みだけしか吸えていない。あの男は、一体何者なのだろう。私に何をするつもりだったのか。

 頭がうまく働かない。こんなことになって普通に生活することはできない。

 そしてなにより、あの男は霊ではないと思った。間違いなく、この世に存在している。

 あれは……生きた人間のようだった。




 忙しい日々が始まった。勉強にアルバイトに、引越しの準備。

 あの動画を見てから、私はすぐに警察に行った。顔もはっきり写っていたし、すぐに犯人は捕まると思った。

 そして、井上さんのお宅にも訪問し、この出来事を説明した。犯人は合鍵を持っているようなので、鍵の交換をしたいこともお願いした。

 動画を見せると、井上さんは見たこともないくらい真っ青になった。私に何も言わず、走って二階に上がる。

 すると、井上さんともう一人男の言い争う声が聞こえ、徐々に近付いてくる。顔を見た瞬間、私は凍りついた。やはり、あの男は人間だった。体の中心が、すぅと冷える。

 目が合うと、男は唾を飛ばしながら叫び始めた。

「おい! てめぇふざけんじゃねぇぞ! 女子大生って言うから行ったのに、ババアとか詐欺だろ!」

 私ははじめ、知らない言葉で話しているのかと思った。だが、一拍置いて理解してから、恐怖と怒りが同時に押し寄せてきた。

 何か言おうと口を開いたそのとき、井上さんの右手が男の頬を打った。その瞬間、男の目が鋭いものに変わり、井上さんを殴った。その後、男は警察に連行された。

 救急車で搬送された井上さんは、次の日にはもう私の家に謝罪にやってきた。幸い、骨に異常はなかったようで、顔に大きな青あざができていたが、生活に支障はないようだ。

 あの男は井上さんの息子で、ずっと家に引きこもっていたそうだ。そんな息子に、変わって欲しいと思っていたのだろう。井上さんは、私のことをよく話していたらしい。中学生の頃に引きこもりになり、長い時間をかけながらも、高卒認定試験をとり、アルバイトをしながら、夜間大学に通う私のことを。

 ただ、井上さんは私の年齢のことまで言っていなかった。私は、今年四十一歳になる。

 息子は、女性の大学生という情報を自分の都合のいいように受け取っていたようだ。私の話を聞いて、空き部屋の二〇三号室の屋根裏から、何度か私の部屋に来ていたようだ。

 だが、いつも部屋は真っ暗にしていたため、押入からでは顔が見えなかったようだ。今回近付いてみて、初めて私が彼の想像する女子大生ではないと気付いたと言っていたらしい。

 今回の件で、井上さんは引越し費用を全額出すと申し出てくれた。このまま住み続けるのは難しいと感じていたので、お言葉に甘えることにした。

 それから部屋を探しながら、少しずつ荷物を片付けている。

 これで全て解決したのだ。

 まだまだやることはたくさんあるが、なんとなく晴々とした気持ちで過ごしていた。


 ――いや、ちょっとまって。


 どうやってキッチンの棚から見ることができるのだろう。人間が入ることのできない幅しかないのに。

 そもそも、井上さんの息子は屋根裏から侵入していた。引き戸の隙間の視線もおかしい。

 ――つまり、この家には……。



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