義母の一言
その日の夕方、台所の換気扇の音と、味噌汁の湯気が立ちのぼるなか、私は義母の横に立って皿を並べていた。
いつもと同じ光景――のはずだった。
けれど、心の奥では、昨日から溶けきらなかった黒い感情がじわじわと泡を立てていた。
義母は味噌汁をよそいながら、何気ない声でぽつりとつぶやいた。
「うちの長男はね、小さい頃からほんとに優しくて、しっかりしてて…」
その声には、母親特有の甘く、そして絶対的な“所有の響き”があった。
続く言葉は、もっと深く胸を抉った。
「この子はね、私の宝物なの。誰よりも私のことをわかってくれるのよ」
――ズンッ。
胸の奥に、重い何かが落ちた。
それはまるで、静かな沼に鉄の塊を投げ込んだような感覚だった。
水面は静かだけど、水底では、黒い泥がゆっくりと渦を巻きながら広がっていく。
「宝物…?」
――じゃあ、私は何なの?
あなたの“宝物”を、私は借りてるだけなの?
心の中で、誰にも聞こえない声がゆっくりと膨れ上がっていく。
昨日、彼に縋って甘えたぬくもりが、今は他人の影に奪われていくような気がしてたまらなかった。
義母は続けた。
「この子はね、私がどんなときでも支えになってくれるのよ。私、老後はこの子に頼るつもりなの」
――ズブズブズブッ……
沼が、心を飲み込みはじめる。
ねっとりとした嫉妬が喉の奥を這い上がってくる。
“この子”って、その言い方…!
その甘ったるい声…!
まるで、私なんていないみたいじゃないか。
“あなたは私のものじゃないの?”
“私のために生きてくれるんじゃなかったの?”
気がつくと、私は皿を持つ手を強く握りすぎていた。爪が皿にあたり、きゅっと嫌な音がした。
義母はそんなこと気にもとめず、まるで当たり前のように彼女の“長男”の話を続ける。
私はただ、静かに笑顔を貼りつけたまま、その声に耐えていた。
そして――。
「嫁に来ても、あの子はあの子。うちの長男であることに変わりはないからね」
一瞬、世界がすっと遠のいた。
頭の奥で「キィィィン」という音が鳴り、胸の中の沼が一気に吹き上がる。
“嫁に来ても、あの子はあの子”――つまり、私は部外者。
あの人は「私の神様」だけれど、義母にとっては「彼女の宝物」。
その二つの世界が、ぶつかって、軋んで、私の心を裂いていく。
息が苦しくて、胸の奥がずっとチリチリと痛んでいた。
「うん…そうですね」と小さく笑った声は、震えていた。
その夜。
布団の中で、私は夫の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
まるで、彼の存在そのものを奪い返すように。
「お願い…離れないで」
「あなたは、私のものなんだから…」
声に出した瞬間、涙がこぼれた。
義母の言葉が、刃のように何度も胸を刺す。
“嫁に来ても、あの子はあの子”――その一言が、私を静かに壊していく。
夫は、何も知らずに眠っている。
でも、私はもう知ってしまった。
この家には、目に見えない“長男教”の縄が彼を縛っている。
――私の腕よりも、もっと深く、もっと長く。
そして私は、決意する。
この縄ごと、彼をこの腕の中に閉じ込める、と。
誰にも渡さない。
たとえ、彼の母親でも。




