助けを叫ぶ声は、届かない
夫は、とうとう一人では耐えられなくなった。
昼を過ぎても、家の中は静まり返ったまま。
テレビをつけても内容は頭に入らず、スマートフォンを握った手だけが汗ばんでいく。
「……誰か」
その言葉が、喉の奥で引っかかった。
最初に浮かんだのは、母だった。
だが連絡先を開いた瞬間、指が止まる。
もう、いない。
正確には、生きているが、戻れない場所に行ってしまった。
次に浮かんだのは、妻――ヒロイン。
名前を見つめるだけで、胸が締めつけられる。
「わからない」と言われたあの声が、耳に残っている。
それでも、彼は電話をかけた。
呼び出し音。
一回、二回。
留守電に切り替わる。
「……出てくれよ」
声は、情けないほど弱かった。
次に、義姉に電話をする。
久しぶりの連絡だ。
「もしもし?」
少し警戒した声。
「俺さ……ちょっと、しんどくて」
沈黙。
そして、ため息。
「今さら何?」
その一言で、夫の心はひび割れた。
「母さんもいないし、家のことも、うまくいかなくて……」
「それ、あんたが今まで何もしてこなかった結果でしょ」
正論だった。
でも、今の夫には刃物だった。
「助けてほしいんだ」
絞り出すように言った。
義姉は少し黙ってから、冷たく言った。
「悪いけど、私はもう降りたから。
母さんの人生も、あんたの人生も」
通話は、それで終わった。
スマートフォンを握ったまま、夫は床に座り込む。
胸が苦しい。
息が浅い。
今まで、助けを求めれば誰かが何とかしてくれた。
泣けば母が抱きしめ、黙れば妻が察してくれた。
なのに今は違う。
誰も来ない。
誰も気づかない。
誰も、責任を引き取ってくれない。
「……なんで」
声が震える。
「俺、そんなに悪いことしたか?」
問いは空気に溶けるだけだった。
そのとき、ふと気づく。
この苦しさを、妻はずっと一人で背負っていたのではないか、と。
家の空気。
母の機嫌。
自分の無言の依存。
それらすべてを、彼女は一人で受け止めて、笑っていた。
「……あ」
理解した瞬間、吐き気が込み上げた。
助けを求めて失敗する、ということ。
それは、
今まで自分が「助けを求められる側」にいたことが、一度もなかった証明だった。
夫は、膝を抱える。
泣き声すら、出ない。
その頃、ヒロインは知らなかった。
いや、正確には――
知ろうとしなかった。
今はもう、彼の地獄は彼のものだったから。
彼女が背負うべき痛みではない。
彼女が救うべき課題でもない。
助けを求めて、誰にも届かなかった男は、
初めて「自分の人生」に直面する。
それが、
彼女が彼に残した、最後の贈り物だった。




