檻の中の男
ドアが閉まったあとも、夫はしばらくその場に立ち尽くしていた。
玄関に残った空気が、まだ彼女の体温を帯びている気がして、動けなかった。
「……すぐ戻るよな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
けれど返事はない。
リビングに戻ると、朝の光がやけに白々しかった。
ソファ、テーブル、テレビ。
すべて見慣れた配置なのに、どこか間違っている。
“守ってくれる人”がいない家は、こんなにも広かっただろうか。
夫は無意識にスマートフォンを手に取る。
連絡先を開き、彼女の名前を探す。
指先が止まったまま、画面だけが暗くなる。
胸の奥が、じわじわと不安で満たされていく。
母がいた頃は、何も考えなくてよかった。
母が決め、母が不機嫌になり、母が正しさを示してくれた。
結婚してからは、役割が少し変わっただけだ。
母の代わりに、妻がそこに立った。
それを、疑ったことはなかった。
「……俺、何かした?」
問いは宙に落ちる。
答える人はいない。
キッチンに立つ。
冷めたままの鍋。
切りかけの野菜。
彼女の生活の途中に、自分が“使われていた”痕跡だけが残っている。
そのとき、初めて気づいた。
自分は、
彼女の一日を、
彼女の人生を、
一度もちゃんと考えたことがなかった。
不安になると、甘えた。
困ると、黙った。
決断が必要になると、任せた。
それを「信頼」だと、思い込んでいた。
ソファに崩れ落ちる。
視線の先に、義母がよく座っていた場所がある。
そこは今、空っぽだ。
なのに、いる気がした。
見下ろすような視線。
「あなたはそのままでいいのよ」という声。
ぞっとする。
自分は、何も変わっていない。
母がいなくなっても。
妻が出て行っても。
変わったのは、
“守ってくれる檻”が、消えただけだった。
その瞬間、胸が潰れるように痛んだ。
「……行かないで」
小さく漏れた声は、懇願にもならない。
もう、彼女はここにはいない。
同じ頃。
ヒロインは、街を歩いていた。
特別な場所ではない。
通勤途中の道。
見慣れた店。
けれど、足取りは不思議なほど軽かった。
誰の顔色も伺わず、
誰の機嫌も背負わず、
ただ歩く。
胸の奥に、少しだけ痛みはある。
でもそれは、失った痛みではなく、
長く締めつけられていたものが、緩んだ痛みだった。
「……私、生きてる」
そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。
振り返らない。
戻らない。
もう、“誰かの母”になる人生は終わった。
一方、家に残された男は、
初めて「自分だけの時間」と向き合い、
その重さに耐えきれず、ただ座り込んでいた。
檻は、外から壊されたのではない。
中にいた者が、守られていただけだと気づいた瞬間、
音もなく崩れただけだった。




