誰もいない朝
朝は、驚くほど静かだった。
炊飯器の音も、廊下をきしませる足音もない。
カーテン越しの光だけが、淡々とリビングを満たしている。
ヒロインは、無意識に「お義母さん」と呼びかけそうになり、口を閉じた。
もう、いない。
その事実は理解しているのに、体のどこかがまだ慣れていなかった。
キッチンに立つ。
いつもなら背後から視線を感じる時間帯だ。
味噌汁の匂い、包丁の音、細かい所作への無言の監視。
それが、今はない。
代わりにいるのは、夫だった。
ソファに座り、スマートフォンを眺めながら、時折こちらを見る。
その目は、安心しきった子どものようだった。
「……おはよう」
声をかけると、彼はすぐに顔を上げる。
「おはよう。今日は早いね」
それだけ。
それだけなのに、ヒロインの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
夫は立ち上がり、彼女の背後に来る。
何も言わず、距離だけを詰めてくるその仕草は、義母とよく似ていた。
「無理しなくていいからね」
「君がやらなくても、別に……」
“母親の言い方だ”
そう思った瞬間、ヒロインは手を止めた。
包丁がまな板に当たる乾いた音が、やけに大きく響く。
「……私、無理してるように見える?」
夫は少し困ったように笑った。
「だって、ずっと大変だったでしょ。母さんのことで」
母さん。
もう、その言葉を守る必要はないはずなのに、夫は自然に口にした。
「今は、君がいるからさ。家のことも、僕のことも」
ヒロインは振り返った。
夫の表情は柔らかく、疑いも悪意もない。
ただ、当然のようにそこに“委ねている”だけだった。
その顔を見た瞬間、はっきりと理解した。
この人は、私を見ていない。
私の意思も、人生も。
見ているのは、
“自分を支えてくれる存在”だけ。
義母が消えたあと、その場所に、
何の躊躇もなく、私を置いた。
ヒロインは、ゆっくりと息を吐いた。
怒りはない。
悲しみも、ほとんどない。
ただ、深い疲労と、静かな確信。
「ねえ」
夫が顔を上げる。
「私、少し外に出てくるね」
「え?朝ごはんは?」
「いらない」
そう言った自分の声が、驚くほど澄んでいた。
玄関で靴を履く。
鍵を手に取ると、夫が慌てて後ろから声をかけた。
「どこ行くの?すぐ戻る?」
ヒロインは、振り返らなかった。
「わからない」
その一言が、夫の時間を止めた。
ドアを開ける。
外の空気は冷たく、でも、重くはなかった。
一歩踏み出した瞬間、胸の奥で絡まっていた何かが、音もなくほどけていく。
母のいない家。
そして――
“夫のために存在する自分”から、初めて距離を置いた朝。
ヒロインは、初めて何者でもない顔で、歩き出した。




