素晴らしい方だとはわかっております。しかしどうしても私には難しかったのです
こちらの都合で大変申し訳ないのだけれど、婚約を破棄させていただくことにした。
「……評判が良い方だけに、本当に残念だが」
と父は言い、
「結婚後の人生のほうが長いことを考えれば、今わかってよかったではないですか」
と母は言った。
「これからまた相手を探すのだぞ」
と父がうなり、
「わたくしも伝手をあたります。次は必ず、婚約前に何度か会う機会を設けましょう」
と母が応える。
「……職業婦人になろうかと思っていましたのに……」
と小声で呟くと、
「職業婦人になるのも良いが、夫人になっても職には就ける。まだ選択肢はある」
と父は眉尻を下げた。
「わたくしもご夫人には深くお詫びしておきますわ。家同士の関係が悪くなってしまう可能性もございますが、こればかりは」
「そうだな……結婚した後に発覚して、どちらの家も詰んでしまう危険を考えれば、これが最善なのだろう」
当方有責なので、慰謝料は払う。家の資金から払っていただき、半分を私が働いて家に返すことにした。全額返すつもりだったけれど、親の過失もあるから半分で良い、という話になった。
重苦しい家族会議が終わり、父が執務室を出ていく。母が、隣に黙って座っていた私を優しく抱きしめてくれた。
「……本当に、よく話してくれたわね。ありがとう」
「はい。……申し訳ございません、お母様」
「いいえ、これはろくに本人の顔合わせもなく決めてしまった大人たちの過失よ。親が良くても、子どもが大丈夫とは限らないものね。ごめんなさいね」
数日後、お相手とそのご両親、そして我々家族の六人が揃った席で、婚約を破棄させていただきたいと父が切り出した。
私はただ、黙って座っているだけだった。
お相手方は皆様、寝耳に水といった表情をなさり、理由を聞かせて欲しい、なぜかこの子は婚約を結んでも駄目になってしまうのだと言われたけれども、私は俯いて「申し訳ありません」と頭を下げるしかなかった。
理由を教えてもらえれば、破棄ではなく解消で良いとまで言われて少し心が揺らいだが、理由を知った後にどんな反応を示されるかがわからなかったので、こちらの有責で構わないからとにかく破棄させて欲しいとお願いした。
相手の方が家格は上なのだ。ないとは思いたいが、権力を振りかざした報復が恐ろしかった。
ただひたすら頭を下げ続ける私たち一家に埒が明かないと思ったのだろう 。
「無理を言って婚約を結んでもらったのはこちらだから」と、最終的には了承してくださった。
帰り際に、婚約者が私を呼び止めた。……もう元がつくが。
「理由を教えてもらえないだろうか。今まで婚約してきた人たちは誰も理由を教えてくれないんだ。私は呪われていたりするのだろうか。その呪いが、君たち婚約者に降りかかってしまっていたのだろうか」
呪い……呪いですか。ある意味呪いかもしれません。おそらく死ぬまで解けない呪い。
「申し訳ございません、私からは申し上げることはございません」
深く頭を下げると、先ほどまで婚約者だった方は残念そうな表情をして、「そうか、今までありがとう」と解放してくださった。
お相手の邸を辞し、家族三人が乗った馬車が発進したところで全員が大きなため息をついた。
「はあ……良かった。由緒ある家に対してことを荒立てたくなかったから本当に良かったよ……」
「本当にご心労をおかけしました、お父様。
……それにしても、また次の方をお探しになるのかしら……」
「嫡子が彼一人だからね、探すことになるのではないかな。良い人が見つかれば良いが」
「良い人、とは、呪いを指摘できる人かしら。それとも、共に呪いを受けている人かしら」
「どちらだろうなぁ」
三人各々が窓の外を眺めた。
「あれは、お茶を飲むだけではわからん」
その後、私は母の伝手で代筆屋に勤めることになった。平民でも育ちの良い方や、低位貴族が多く勤める中、少し変わった方や事情を持つ高位貴族の方も働いている。言葉遣いや手紙の中での礼儀は、やはりその立場を知っている人に聞くのが一番だ。
私はそこで、人見知りが激しい伯爵家のご次男と親しくなりつつある。奥手な方だから、いずれ私から好意を伝えるつもりだ。
元婚約者は新たなる婚約を結んだと友人が教えてくれた。今度は縁戚である子爵家のご令嬢だという。
箱入り……箱入りか。ますます厳しいだろうと思うのは私だけだろうか。
休日。もう一度来たいと思っていた喫茶店でひとり本を読んでいると、視線を感じた。
「……あら」
元婚約者と、一緒にいらっしゃるのはおそらく現在の婚約者だろう。先に入っていたのだろうか、まるで気付かなかった。
奥の半個室席で飲み物を飲みながら、二人とも楽しそうにお話しされている。
おそらく私に視線を突き刺したのはご令嬢の方だろう。少し勝気な方だと伺った。きっと素敵な殿方と婚約できたと思っていらっしゃるに違いない。
わかります、私もそう思っていましたから。
そして、私なら婚約を解消などせず続けられると、思っておりましたから。……無理でしたけれど。
するとそこへ、ウエイターが食べ物を運んできた。二人の前にそれぞれサンドイッチとケーキが置かれる。
「まあ、可愛らしい」
とご令嬢がよく響く感嘆の声をあげたのが聞こえた。
何のケーキかしら。先日私が頼んだのはレモンタルトだったけれど、また改めていただかなくてはならないわ。人気メニューなのですから。
私のところにも、珈琲とサンドイッチが運ばれてくる。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
湯気を立てるカップの中の褐色の液体をうっとりと眺めていると、にわかに店内が慌ただしくなったのを感じた。
ああ、やはりね。
目を閉じてため息をつくと、カップを手に取る。この店オリジナルのブレンドだという一番人気の珈琲は、酸味よりも苦味がかった、私好みの味だった。
活字に目を落としながら珈琲を喫んでいると、
「あなた」
と声をかけられた。
顔を上げると、件のご令嬢。
呼びかけに対して私が応じるのを待たずに、視線を落として彼女が一息に言い切った。
「破棄なさった理由がよく分かりましたわ、あれは無理です」
「……ご理解いただける方が他にもいらして、安心いたしました」
私の言葉に小さくうなずくと、彼女はそのまま化粧室に向かって行った。
……彼が本当の理由を知る日は来るのだろうか。
素敵な方だから、理由を理解なさって欲しいとも思うし、しない方が良いような気もする。
少しぬるくなったおしぼりで指先を拭くと、前回来た時にはまるで味を感じられなかった、この店自慢のサンドイッチを手に取る。
軽くトーストされ、マスタードを塗られたパンとみずみずしいレタスの食感、そして折り畳まれた薄く薄くスライスされたハムの食感。
鼻に抜ける食材の香りまで存分に噛み締めながら口をしっかりと閉じて咀嚼すると、ごくりと飲み込んだ。
男性サイドの物語(後日談)も同時投稿していますので、是非そちらもお読みいただけると嬉しいです。ハッピーエンドです。