第31話 触れる声、届かぬ意志
翌日、ユイと面会した後、医療区画を後にし、俺は一人、薄暗い廊下を歩いていた。天井を這う照明ラインが、静かに足元を照らしている。感情の昂りがようやく落ち着き始めた頃、ふいに壁際のスピーカーから、柔らかな電子音が届いた。
『――心配事が、ひとつ減りましたね』
ルミナの声だった。相変わらず、感情を表に出すことのない、けれどどこか静かな安心感を帯びた音色だ。
「ああ。……ようやく、な」
俺は足を止め、壁にもたれかかる。思い返せば、どれだけ長い時間をあのカプセルの前で過ごしたことだろう。
『ユイの安定状態は、我々の想定を大きく上回っています。脳波、精神波、生体リズムのすべてが“平常”に収束。少なくとも、短期的な懸念はありません』
「まるで奇跡だよ。……でも」
ふと、あの診察室でのやり取りが脳裏をよぎる。あのあと、そっと聞いてみたのだ――“Δ-4”、その名に覚えはあるかと。
「……答えは“わからない”だった。完全に記憶から抜けてるのか、それとも……」
『関連性があったとしても、断片的記憶のうちに沈んでしまっている可能性は否定できません。“存在は知っていたが、直接関与はなかった”という解釈も残されます』
「だよな」
俺は小さく息をついた。真相は、今も霧の中だ。ユイの記憶は、カプセルに入る前の時点からすでに曖昧だった。あるいは、本当に知らないのかもしれないし――あるいは、何かを隠しているのかもしれない。ただ言いたくないだけ、という可能性も、どこかにある。
そのせいか、彼女の言動には時おり、年齢に見合わない幼さが滲むことがある。記憶の空白が、心のどこかをまだ子どものままに留めているのかもしれない。
それでも、こうして彼女が目覚め、言葉を交わせるだけで――今は、充分すぎるほどの前進だ。
「それにしても……次はどうする?」
問いかけに応じて、ルミナのホログラムが近くの壁面に淡く浮かび上がった。いつもの、静かで理知的な姿。だが、その瞳の奥に宿る微かな光は、まるで期待のようにも見えた。
『ユイの安定を確認できた今、次のフェーズに進むべきでしょう。再び“デヴォル”との接触を試みる段階です』
「……やっぱり、そうなるか」
『今回は、ユイの精神波もリンク観測に加えるべきです。先日の反応から考えても、彼女は“触れられる側”であると同時に、“共鳴する側”でもある可能性が高い』
「……ユイには、まだ話してない。少しずつ、段階を踏んでいきたいんだ」
『その判断、妥当です。過剰な情報は、心を乱す要因にもなり得ますから』
そうだ。今の彼女は、ようやく静かな日常を取り戻したばかりなのだから。
「……それでも、俺たちは進まなきゃならないんだよな。あの波動の先にあるものが、敵か味方かもまだ分からないけど――」
『ええ。だからこそ、今度は“こちらから”応えるべきでしょう。“未知”に対して、“意思”をもって』
俺は小さく頷いた。あの時は、防御するだけで精一杯だった。だが今なら――この艦にも、仲間にも、そして“ユイ”にも、明確な意志がある。
ならば、次に交わす“接触”は、恐れではなく、対話のために。
「準備を整えておいてくれ。……次は、俺たちの番だ」
『了解しました。艦内全システムを、いつでも対応可能な状態に移行します』
静かに会話が終わり、ルミナのホログラムが消える。俺はもう一度深く息を吐き、医療ブロックの扉を振り返った。
ユイの笑顔はまだ頼りないけれど、それでも確かに“今ここにある”。
そしてその先には、もう一つの真実が――手を伸ばせば、届くかもしれない未来が、待っている気がした。
艦内の照明は夕刻モードに切り替わっていた。温かな間接光が医療区画の廊下を照らし、時間の流れが少しだけ緩やかになったように感じられる。
ユイの経過は順調だった。歩行も、会話も、ある程度の日常行動も問題なくこなせる。だが――彼女に、あのことを話すには、まだ早いのではないかと迷いもあった。
「……でも、話さなきゃな」
俺はそう呟きながら、個別観察室のドアを開けた。
ユイは、静かにベッドの上で読書のようなことをしていた。タブレットを持ち、ページを送る仕草がどこかおぼつかないのが、むしろ彼女の人間らしさを引き立てている。
「シンヤ……?」
彼女が顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。その視線に、一瞬だけ胸が痛んだ。だが、俺は穏やかに微笑み返し、彼女の隣に腰を下ろす。
「ユイ。少し、話したいことがあるんだ」
彼女はタブレットをそっと閉じ、小さく頷いた。
その時、ドアが再び開き、エリスと博士が入ってきた。博士は例のごとく冷静で、エリスは柔らかい笑みを浮かべている。
「ユイ。君の状態は安定している。だからこそ――次の段階に進むため、相談したいことがある」
博士がそう切り出した。
「“デヴォル”との再交信です。以前、精神波干渉が発生した際、君の脳波に特異な反応が見られた。君は、あの存在に何か“共鳴”していた可能性がある」
エリスが、補足するように口を開く。
「もちろん、無理にとは言いません。もし怖かったり、不安だったら……」
ユイは静かに話を聞いていた。少しだけ視線を落とし、それから俺を見上げる。
「……シンヤが、そうしてほしいと思うなら。私は、やるよ」
言葉は短かった。だが、その目には、確かな意志が宿っていた。
「ユイ……」
「大丈夫。私、今はちゃんとここにいる。……怖くない、とは言わない。でも、シンヤがそばにいてくれるなら、できると思う」
俺は何も言えなかった。
“やらせる”のではない。“やりたい”と彼女が言ってくれた。それがどれほどの覚悟を必要とする言葉か、誰よりも分かっているつもりだった。
「……ありがとう。でも、本当に、無理はするな」
俺はそう返すのが精一杯だった。ユイの細い手が、そっと俺の袖を掴む。
博士が静かに頷く。
「では、準備を進めよう。交信は数日後、君の安定が持続していることを確認した上で行う」
エリスもまた、そっとユイに手を置いて微笑む。
「私たち、ちゃんと見守ってますからね。怖い時は、すぐ言ってください」
ユイは、小さく「うん」と答えた。
部屋を出る直前、俺はもう一度振り返った。彼女の姿は、小さく、頼りなく見えた。
だが、その背中には――確かに、未来へと進もうとする決意の色が宿っていた。
そして俺は、それを託された責任の重みを、改めて心に刻んだのだった。
《ストレイ・エクシード》は、静かに、だが確実に“デヴォル”の出現座標へと接近していた。俺たちは艦橋――艦の中枢にあるその空間で、今回の交信実験に臨んでいた。あらゆる防御システムと観測機器がリアルタイムで連動し、艦全体がまるでひとつの“神経系”のように張り詰めている。ここまでくると、生き物みたいにすら感じられる。
艦橋の中、ユイは精神波干渉専用の椅子に腰を下ろしていた。俺はその傍らに立ち、彼女の肩にそっと手を置く。その体温が、かすかに指先に伝わってきた。
「いつでも、切断できるよう準備はしてある。無理はするな」
博士の声に、ユイは小さく頷く。
「……わたし、大丈夫。ちゃんと、見てるから」
通信機が起動された瞬間、空気が変わった。何かが空間をきしませるような――そんな微細な振動が、肌に伝わってくる。スクリーン上には、異常重力波の“よじれ”が表示されていた。
『デヴォル、来ます!』
ルミナの声と同時に、精神波リンクが共振を始めた。ノイズが走り、警告灯が点滅する。それでも、装置は壊れていない。まだ、いける。
「……あなたに、話をしたい。わたしは、ユイ。……きこえていますか?」
ユイの言葉に、俺は息を飲んだ。何かが……触れた。彼女の意識に、直接。
「なにか……感じる。……すごく、強い……」
ノイズが、次第に低く鈍い唸り声に変わっていく。彼女の肩がわずかに震えた。
「――さみしさ」
その一言が、艦内の静けさに刺さるように響いた。
「最初は……すごく、さびしいって、泣いてるみたいだった」
けれど、それは一瞬だった。
「でも……そのあと、すぐに……怖くなった。すごく、こわい。……人間が、こわい、って……」
「……怒ってる。ものすごく……! どうして……そんなに、怒ってるの……?」
ユイの声が震え、警告が表示される。
「干渉レベル、上昇中。精神負荷が高まっています!」
「ユイ、無理はするな!」
俺は声をかけたが、彼女はかすかに首を振る。
「……少しだけ、わかる気がするの。あれは……孤独だった。ずっと。誰にも、見てもらえなかった……」
「わたしにだけは、すこし……“共感”してくれた。……でも、だめ、だった……」
そのとき、スクリーンが激しく点滅した。
『来ます。攻撃兆候あり。波動強度、閾値超過。』
警報が艦橋を揺らす中、俺はすぐにユイに呼びかける。
「ユイ、離脱するぞ――」
「……もう少しだけ!」
その声が、空気を切り裂いた。
「なにか、伝えたいことが、あるはずなの……! 怒ってる、その理由……“ひとりぼっちにされたこと”? それとも……」
彼女の精神波は、極限まで接近していた。複雑に絡まり合うその波形は、もはや人のものとは思えなかった。
「わたしは、あなたと……似てる? ……違う?」
直後、艦内の照明が落ちた。緊急電源が作動し、シールドが展開される。
「これ以上は危険だ! 切断する!」
博士の叫びと同時に、接続が強制遮断された。
艦橋には、ただ重く、濃密な余韻だけが残っていた。
ユイはまだ、椅子に座ったまま、静かに息を吐く。
「……届かなかった。まだ、足りなかったのかも……」
「いや、よくやった」
俺はそう言って、彼女の肩に再び手を置いた。彼女は、わずかに頷く。
スクリーンには、“デヴォル”の波動が次第に消えゆく様子が映っていた。
博士がぽつりと呟く。
「……やはり、関係があるのか。強化体と、“あれ”とのあいだに……」
艦橋が、再び沈黙に包まれる。
でも、俺にはわかっていた。
これは終わりじゃない。なにかが始まりかけている。ユイを通して、“あれ”とつながる何かが――。
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