第30話 静かな目覚め
医療ブロックは、いつになく静けさに包まれている。
普段なら、診察機器の作動音や検査モジュールの起動音が、ほのかに響いているはずなのに。今日は、何もかもが“息をひそめて”いるように感じた。まるでこの空間全体が、彼女のために時を止めているかのように。
カプセルの開放から数時間が経ち、ユイは観測室の診察ユニットに移されている。透明な保護膜は外され、彼女の体にはいくつかのモニターとセンサーが接続されている。
それは無機質な作業のはずなのに、どこか――儀式のようにも見える。厳粛で、そして、未来的な美しさがある。
「……改めて、すごいな。ここまで再生が進んでて、歩行も問題ないなんて……」
ユイの肩越しにデータを覗き込みながら、俺は思わずつぶやいていた。
『このカプセルは、もともと深層治療にも利用可能です。肉体的損傷はおおよそ自動修復領域に収まっていたので、起きてすぐ走り出すことも理論上は可能ですね』
ルミナがホログラムを操作しながら、さらりと答える。淡々とした声に、少しだけ誇らしげな響きが混じっていた気がする。
「……マジか。俺が入ったら、三日で腹筋バキバキじゃないか?」
『無理です』
即答。しかもわずかに食い気味だ。
「な、なんで即答なんだよ……」
『カプセルはあくまで“損傷部位の再生”に特化しています。艦長のような日常的怠惰に起因する“加齢性肉体低下”は、修復対象外です。ご愁傷さまです』
「誰が怠惰だ!?」
『記録によれば、艦長が最後に筋トレを行ったのは二百六十四日前、かつ十五分で中断。その理由は“腰が痛いから”』
「お前、またそういうデータ持ち出して……!って、なんでそんな昔のこと知ってんだよ!?」
『事実に基づく指摘は、ただの現実確認です。いわば人道的措置ですね』
「いやな優しさだな!?」
そんな不毛なやり取りの最中、博士が咳払い混じりに声を発した。
「ふむ。まあ、たわいない冗談はさておき――ユイ君の状態は、今のところ極めて安定している。精神波も、通常域に戻っている。ノイズなし、異常値なし」
ホログラムに映し出された脳波の曲線は、まるで凪いだ海のように穏やかだ。
「うーん……見れば見るほど信じられないな。起きて、歩いて、喋って……それでこんなに安定してるなんて」
「起きた直後の精神波安定って、そんなに珍しいの?」
背後からレーネが首を傾けるように顔をのぞかせる。
『珍しいどころか、奇跡的です。普通なら過去記憶の混乱や環境変化に適応できず、一定時間のパニック反応が出るのが常ですからね』
ルミナが、冷静な口調で答える。
「……もしかして、ユイってめちゃくちゃ優秀?」
『ええ、そこは否定しません。ただし、彼女の目覚めが“艦長補正”によるものだった場合、統計的には再現性がないでしょうけど』
「おい、今さらっと俺だけ無能扱いしたな!?」
『“期待値の斜め下をいく驚異的な安定性”という意味では、極めて希少な才能と評価できますよ』
「もはや褒めてんのか貶してんのか分からん!」
そんな掛け合いを横目に、ユイはベッドの上で静かに目を閉じている。眠っているのではない。彼女は、自分の体の感覚を――ひとつひとつ、確かめている。ゆっくりと、丁寧に。まるで、“今”という現実に触れていくかのように。
そして、ふと――俺の方を見て、小さく手を伸ばす。
「……大丈夫だよ。ちゃんと戻ってきた」
その声はかすかだった。けれど確かに、“今ここにいる”という意思の響きが宿っていた。
ホログラムに映し出されたユイの診察結果を眺めていた博士が、ふと眉をひそめる。
「しかし、この細胞再生率……通常の再生医療基準を明らかに逸脱しているな」
「ですね。特に神経系の回復パターンが異常です。これは……」
エリスが画面を拡大しながら、息を飲むのが分かった。
「――神経適応を伴った再構築。しかも拒絶反応ゼロ。これ、本当に“現行技術”ですか?」
その言葉に、俺の背中にも静かに冷たいものが走る。
博士の声は、さらに低くなる。
「いや、違う。これは……強化型適応処理だ」
その一言で、室内の空気が明らかに変わる。
「強化? まさか……」
エリスも声を潜める。
「一般的には研究レベルでしか扱われていない領域だ。生体がどんな状態でも、無理やり馴染ませて、遺伝子まで作り直すということだよ……しかもこの再生精度。完全に“規格外”だ」
博士がホログラムを操作し、ユイが使っていたカプセルの仕様を抽出していく。
「“再適応用バイオカプセル”……この型番、見たことがないな」
すかさず、ルミナが淡々と補足する。
『この技術は、従来の医療とは“思想”そのものが異なります。単なる損傷の修復ではなく、神経系から遺伝子適応までを包括的に再構築するもの。“治療”というよりむしろ、“再調整”――生体を“意図された状態”へと整え直すための設計思想です』
博士はうなずきながら、言葉を続けた。
「つまりこれは、“元に戻す”ための装置ではない。“望ましい形”に進化させるための装置だ。生体の可塑性を読み取り、意図された方向へ再構成する……これは、もう次代の強化医療だよ」
エリスが、ベッドに横たわるユイへ視線を戻す。今はただ静かにこちらを見ている少女――だけど、その内側には、常識を超えた何かが宿っている。
「……信じられない。本当に、こんなものが存在していたなんて」
「存在してしまったのさ。そして、その結果が今ここにいる」
博士の視線もまた、静かにホログラムへ戻っている。
「……私の専門は“神経適応”だ。外部からの刺激や環境の変化に、神経系がどう応答するかを研究してきた。だがな……ユイ君の回復は、常識では説明できない。“あり得てはならない”レベルだ」
その言葉に、エリスが小さく息を呑んだ。
博士は続ける。
「彼女の身体は、崩れる前提じゃない。“戻る”ための設計だ。過剰な刺激で壊れるんじゃなく、自律的に回復し、最適化へ向かう構造……生物として、異質すぎる。だからこそ、我々の常識では扱いきれない」
その場が静まりかけたとき、ルミナの声が落ち着いた調子で割って入る。
『通常ならば、ユイのような強化体がここまで安定して生還する可能性は、限りなくゼロに近いのです。ですが彼女は、“偶然助かった”わけではありません。“そうなるように設計されていた”のです』
「……生き残る“確率”じゃなくて、生き残る“構造”を持っていた、ってことか」
レーネがぽつりと呟く。
博士は、ゆっくりと頷く。
「そうだ。そしてそれが、どれほど異常なことか……いずれ、君たちも思い知ることになるだろう」
その言葉は、静かでありながら、確かな重みを帯びていた。室内には再び沈黙が落ちた。だがそれは、ただの沈黙じゃない。
“ユイという存在”への、新たな敬意。それと同時に、彼女が宿している“なにか”への、静かな畏怖だ。
そして俺は――そんなユイの存在を、ただ“奇跡”だとは思えない。
これは、意図された未来の、ひとつの輪郭なのかもしれない。その“意図”が誰のものなのか……今はまだ、わからないままだけれど。
ユイの診察が続く間、周囲の視線は常に彼女へと注がれていた。だが、その誰よりも強い意志で、彼女は俺の袖をきゅっと握り続けている。
まるで、それだけが“世界とのつながり”だと言わんばかりに。
「……ユイ、それ、つかまれたままだと検査しにくいって……」
苦笑まじりに声をかけてみたものの、彼女は小さく首を振っただけで、頑として手を離そうとしない。
「ここにいる。……離れたくない」
その囁きは、かすかな声だ。だけど、その真剣さは胸に刺さるほどで――俺は、それ以上何も言えなくなる。
そんな様子を見ていた博士が、カルテを閉じながら小さく頷く。
「――依存傾向だな。だが、今の段階では悪くない兆候でもある。少なくとも、彼女が“誰を拠り所と認識しているか”が明確になっている分、精神の安定に寄与するだろう」
「それって……いいんですか?」
「むしろ、“ここに居てもいい”という自我の根拠になる。人が誰かに触れ、そこに在ろうとすることは、決して異常じゃない」
博士の言葉には、研究者らしい客観性と、どこか人間的な温かさが同居している。
――でも、そんな空気を壊す役がいるのも、俺たちの艦ではお約束かもしれない。
レーネがひょいっと診察台の向こうから顔を出してきた。
「……なーんか、いい雰囲気じゃないの。まるで恋人にべったりな彼女、ってやつじゃない?」
「なっ……!」
思わず反応しかけたその瞬間、先にユイの表情がぴしりと引き締まる。
……あ、怒った。
彼女は無言のまま、レーネにまっすぐ視線を向けて、にらんでいる。
「おや、にらまれた?」
レーネはまるで嬉しそうに眉をひそめ、今度は俺の方にちらりと視線を向けてくる。
「……もしかして、あの時のこと感知してたのかしら? ほら艦長、貴重な“記憶の断片”が復元されつつあるって。よかったじゃない」
「よくない! てか、お前どこまで言う気だよ!?」
「なに? 別にやましいことなんてしてないでしょ~? ちょっと“汗かいた”くらいで」
「言い方の問題だろ!」
俺とレーネの応酬を、ユイはじっと目で追っていた。そして、わずかに眉をひそめると――ふいっとレーネから顔を背ける。
「……あらまあ、正統派の“むくれ顔”いただきました~。かわいい~」
レーネは全く動じない。むしろ上機嫌だ。
けれど、ユイもただ拗ねているわけじゃない。言葉は少しぎこちなくても、しっかりと自分の意思で返してくる。
「……わたしは、べったりじゃない。……ちゃんと、見てただけ」
「はいはい、そういうのをね、“やきもち”って言うのよ?」
「……言わない」
「言うの!」
「言わない……」
ふたりの間で、小さな攻防戦が始まっている。なんだこれ、と思いながらも、俺は割って入るのをやめた。
空気は明らかに、さっきまでと違っている。ルミナがホログラムの処理をしながら、ぽつりとつぶやく。
『……まあ、緊張状態の割に随分と会話が成立してますね』
エリスも苦笑しながら肩をすくめる。
「レーネさんって、本当に変な意味で空気を壊す天才ですね……でも、今はそれでいいのかも」
俺は小さく息をついて、もう一度ユイの手を握り返す。すると、彼女はようやく――ほんのわずかに、その力を緩めてくれる。
その瞳には、まだ不安の影が揺れている。だけどその奥に――ほんのかすかだけれど、確かに安堵の気配が芽吹いているようだ。
《ストレイ・エクシード》のラウンジには、深夜のような静けさが漂っていた。人工照明は落とされ、壁面を橙色の間接光が柔らかく撫でている。この時間帯、クルーが顔を見せることは少ない。それでも今日は、数人の気配がそこにある。
俺はカウンター近くのソファに腰を沈めて、遠巻きにその光景を眺めている。
レーネが肘をついて、カップを揺らしている。その視線の先には、ホログラムのルミナが投影されている。淡く青白い光の輪郭が、静かに揺れる。
その斜め向かい、エリスはカップを両手で包みながら、ゆっくりと湯気を楽しんでいる。誰もまだ俺に気づいていない――そのまま静かに耳を傾ける。
「……まさか、ユイちゃんがあんな風にべったりになるとはね」
レーネの言葉に、エリスが少しだけ微笑む。
「私、もっと無表情で機械的な子かと思ってたけど。今日なんか……完全に“彼氏に夢中な彼女”だったわよ、あれ」
……やれやれ。俺、聞いてていい話かこれ。
『“恋人”という文脈をそのまま適用するのは、少々早計ではありますが』
ルミナが冷静に補足するのも、いつもの調子だ。だが彼女の言葉は、どこかやわらかさを帯びている気がする。
『少なくとも、彼女が艦長に対して強い信頼と情緒的依存を抱いていることは、脳波・精神波共に観測上明らかです』
「ふふ……でも、あの子の目に映る艦長さんって、特別なんでしょうね」
エリスの声は優しい。その言葉を受けて、俺の心が少しだけざわつく。
「まるで……彼のそばにいる時だけ、自分を“普通の女の子”だと思えているように見えます。過去も、立場も全部一度置いて……ただ“ユイ”として」
“普通の女の子”――か。
レーネがカップの中を覗き込みながら、ぽつりとつぶやく。
「確かに、あのときの彼女……すっごく“人間らしかった”。むくれて、照れて、口ごたえして」
「ええ、ああいう姿……少し意外でした」
エリスが微笑を浮かべる。
「でも、それだけ彼女の中で“大事な人”として艦長さんが根を下ろしてるんですね。記憶が戻らなくても、心が覚えてるのかもしれません」
ルミナが精神波の変動データを展開する。
「目覚め直後から今日までの記録からも、彼女が最も安定した精神波を示す時間帯は、“艦長と会話しているとき”です」
……俺、そんなに影響力あるのか。ちょっと実感がない。
そのとき、レーネがいたずらっぽくルミナのホログラムに顔を近づける。
「もしかして……ちょっとだけ羨ましかったりする?」
『ありません。私は艦そのものであり、情動機能は実装対象外です』
相変わらずの即答。
「ノリ悪いわねえ」
『事実を述べたまでです』
「……でもね」
エリスが湯気を吸い込みながら、静かに言葉を落とす。
「あの子にとって艦長さんが“帰る場所”であるのなら、それはきっと、彼女にとって初めて得た“安らぎ”なのかもしれませんね」
「“拠点”ではなく、“寄る辺”ってやつか」
レーネの呟きが、妙に深く響く。
ルミナも、仮想像の輝きをわずかに淡くして答える。
『観測者として述べます。ユイのような強化個体がここまで短時間で情緒的安定を得るのは異例です。“誰か”の存在が精神構造の核として機能するケースは、統計上1.3%以下に過ぎません。ですが彼女は……その稀少例に該当しているようです』
「偶然じゃないってこと?」
『はい。むしろ“そうなるように作られた”と考えるほうが、整合性があります』
そのやりとりを、俺はただ黙って聞いていた。気恥ずかしい、なんてもんじゃない。でも――心のどこかで、否定できない安堵があった。
「たとえ意図されていたとしても、そこに芽生えたものが“本物”なら……」
エリスの声が、静かにラウンジに染みていく。
「その感情は、誰にも否定できないと思うんです」
「……うん」
レーネが最後に頷いて立ち上がる。
「じゃあ私は、そろそろユイちゃんにおやつでも持っていこうかな。甘いの食べてるときは怒らないからね、あの子」
「……からかうつもりでしょう?」
「もちろん」
「最悪ですね」
「愛情ですって」
そのやりとりに、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
そして、静寂がラウンジに戻る。ほんの少し、やわらかくなった空気とともに。
――その頃、医療ブロックの片隅で。
ユイはまだ、不安と安堵のあいだを揺れながら、俺の気配を探しているかもしれない。けれど、きっと大丈夫だ。
あの手の温もりが、少しずつ“ここ”に馴染み始めていることを、俺は知っている。
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