第26話 共鳴なき接続
《ストレイ・エクシード》のラウンジ。その設備は過剰なまでの快適性を誇っていた。柔らかな照明、深く沈み込むソファ、そして何より、完璧に抽出された一杯のコーヒーが、そこにある。
博士はそのカップを手に取り、一口含むと、思いのほか満足そうに目を細めた。
「うん。このコーヒーは、いいフレーバーだね。苦味と酸味のバランスが絶妙だ。……どこの商品かな?」
俺は小さく肩をすくめて、代わりにルミナが応じる。
「当艦の飲料補給カテゴリにおける“プレミアム課金特典”の一環として提供されております。産地情報は非公開です」
博士は目を丸くし、次にふっと笑った。
「ふむ、つまり企業秘密ということかね。なるほど、なるほど。……いや、こういう些細な贅沢も、思考には必要だ。感覚が整えば、言葉も滑らかになる。さて――本題に入ってもいいかな?」
彼はカップを置き、俺にまっすぐ視線を向けてきた。その目には、知性の光とわずかな警戒が入り混じっている。
「君は、“Δ研究”についてどこまで知っている?」
俺はわずかに口を引き結んだ。思っていたよりも、早くその話題に踏み込まれた。
「……ほとんど何も。断片的な記録を見た程度です。正式な経緯や目的も、明確には分かっていない。ただ、関係があるんじゃないかって直感があって」
博士はゆっくりと頷いた。
「Δ研究――それは、数百年前……いや、下手をすれば、数千年前に遡るかもしれない古い研究群だ。もともとは“人間の可能性”を探るという大義のもとに進められたようだ。だが、その手法は多岐にわたっていた。身体強化、感情制御、認知拡張、空間知覚、精神同調――あらゆる方面で人間を“超えさせる”ための実験が行われたらしい」
彼の声は静かだったが、その奥には確かな重みがあった。
「だが奇妙なことに……その成果や結果は、今に至るまで明らかにされていない。ある時期を境に、すべてが消えた。記録は封印され、研究所は閉鎖され、関係者も姿を消した。まるで存在そのものを“なかったこと”にされたようにね」
彼は天井を見上げ、少し笑った。
「だからこそ――こうして君たちに会うと、不思議な感覚に襲われる。まるで、もう存在しないはずの物語が、何百年の時を越えて目の前に現れたような……そんな錯覚に陥るのだよ」
俺は唇を噛み、少しだけ俯いた。
「……Δと関係があるかどうか、正直わかりません。ただ、俺には最近までの記録がまったく残っていないんです。代わりにあるのは……異常なまでの回復力と、極限環境でも生存できる適応性。そして、自分でも実感するほどの――不自然なくらい安定した身体制御。……たぶん、俺もどこかの段階で、“作られた存在”なんだと思います」
博士は俺の言葉を遮らず、じっと聞き続けた。そして、穏やかに口を開いた。
「君のような存在は、確かに“Δ”の理論から導き出された、ひとつの結果かもしれない。だが、それが何のためだったのか、まだ私にも分からない。ただひとつ確かなのは……その“系譜”がまだ終わっていないということだ」
コーヒーの香りが、静かに空間を包んでいた。そしてその香りの向こうに、はるか昔の“終わったはずの物語”が、今なお続いているという事実が、ゆっくりと形を成していくのを、俺は感じていた。
《ストレイ・エクシード》のブリーフィングルーム。ホロテーブルが静かに明かりを灯し、室内には慎重な空気が満ちていた。レーネが腕の端末を操作し、空間に複数の宙域データが投影される。
「……これが、ここ数年で観測されたデヴォルの出現データよ」
投影されたマップ上に、赤い光点がいくつも浮かび上がる。それはまるで星々の死の記録のようで、どれもが衝突や異常波動の痕跡を伴っていた。
「そして、ここがユイが救出された宙域……覚えてるでしょ?」
レーネが指を伸ばし、一点を強調表示する。そのポイントは、かつて俺たちが命がけで戦った宙域――デヴォルとの初遭遇地点でもあった。
「ああ……忘れるわけがない。俺たちはあのとき、あの“異形”と交戦した。そして、その戦闘宙域でユイを見つけた」
レーネは頷いた。
「そう。つまり――ユイが存在していた場所は、最初のデヴォル出現地点とほぼ重なる。そしてそこは、観測記録の中でも、異常波動の変動が最も大きかった宙域でもあるの」
ホロマップに流れる時系列データが、波動の膨張と収束、そして特異な干渉パターンを示していく。
「通常の跳躍や艦砲波動じゃ、こんな形にはならない。あれは、何かが“目覚める”ときの挙動だった可能性が高い」
その言葉に、博士が沈黙を破った。
「……デヴォルは、人に“反応する”。私は、長年その可能性を考えてきた。彼らの出現には、一貫性がないようでいて、どこかで“誰か”を引き寄せるような規則がある。ユイのような感応型、そして君のような特異な構造を持つ者たちに、だ」
博士は、俺の顔を見た。
「君たちが“そこ”にいたのは、偶然ではないのかもしれない。ユイが目覚める時、それは――交信の扉が開かれる時なのかもしれない」
俺は静かに息を吐いた。あの戦い、あの閃光のなかで俺は確かに、言葉にならない“呼び声”のようなものを感じていた。そして、その中心にいたのは、今もカプセルの中で眠り続けるユイだ。
「……でも、それがもし戦いの始まりだったら?」
問いかけた俺の声に、室内の空気が少しだけ揺れた。だが、答えたのはエリスだった。
「それでも、誰かが受け止めなければならないと思います。たとえ、その役目が、私たちに回ってきたとしても」
その言葉には迷いがなかった。俺は、再びホロマップを見つめた。点と点が線となり、いつか形になる――その時までに、俺たちは何を知り、何を選ぶべきなのか。
ユイが目を覚ますその瞬間を、俺たちは迎えなければならない。戦いの始まりであれ、希望の扉であれ――逃げるわけにはいかない。
《ストレイ・エクシード》のブリーフィングルーム。薄暗い照明の下、ホロマップが浮かび上がる中、レーネは無言のまま指を動かし、いくつかのマーカーを表示させた。
「これが、ここ三年間に確認されたデヴォルの出現地点。全27件……そのうち、民間船を襲撃したケースが15件。攻撃行動は、いまや例外ではないわ」
赤点が浮かび上がるたびに、まるで宇宙が静かに悲鳴を上げているように感じた。
「で――ここ。ユイが救出された宙域」
一際濃い赤でマークされたエリア。それは、俺たちがあの悪夢のような戦闘に巻き込まれた場所。空間の重さ、軋むような静寂、そして――
「……あのとき、俺には何も聴こえなかった。ただ、ユイだけが……反応していたように思える」
ルミナが補足するように告げた。
「当時、ユイの神経反応は明らかに異常な値を示していました。艦内の全記録を通しても、あれほど高い感応値を記録したのは、彼女ただ一人です」
博士が静かに腕を組み、ホログラムに歩み寄った。
「……だが、それが“交信”だったかどうかは、誰にもわからない。ユイ自身、まだ何も語れないのだからな」
そして、静かに言葉を継ぐ。
「私は今回の旅にあたって、“感応系強化者”の存在を前提にしていたわけではない。交信のためのプロトコル――つまり人工的に組み上げた“受信装置”を用意していた。こちらは、機械的に周波数と波動応答を調整し、デヴォルとの共振を試みるものだ。だが、その限界も分かっていた。“言葉”や“情報”というより、“共鳴”が必要なのかもしれないとね」
「それで……ユイに目をつけたと」
博士は小さく首を振った。
「違う。最初は、単なる偶然だ。だが、彼女を診て、そして君たちの記録を確認したとき、ある仮説が浮かんだ。――“感応型”の強化者。彼女が持つ構造は、精神波や空間的な揺らぎに極めて敏感だ。もし、あの“存在”が何らかの波動で反応しているのだとすれば……ユイがそれに“接続”できる可能性はある」
「……でも、彼女が本当に“聴いた”かは、誰にもわからない」
「ああ。確かに、証拠はない。だが、それを確かめられる術もまた――今のところ彼女しか持っていない。それに、仮に彼女が目覚めたとき、その感応能力が“無意識下での受信”をすでに始めていたとしたら……その変化は、我々が機械で得られる以上の意味を持つだろう」
博士は一拍置き、落ち着いた声で続けた。
「もちろん、機械による接触試験は継続する。ただし、並行して“別の回路”が開かれる可能性もある――彼女が目を覚ましたなら、だがね」
俺はホログラムに浮かぶ“ユイ救出宙域”の座標を見つめながら、問いを投げた。
「博士……ユイは、自分が何に巻き込まれたか、理解できると思いますか?」
「正直なところ、それは未知数だ。ただ、彼女は確かに“生きている”。そして“感じる”ための器を持っている。それが、今の我々にとって最大の希望だ」
エリスが静かに歩み寄り、少し躊躇しながら言葉を紡いだ。
「……まだこれは仮説でしかありません。でも、既にデヴォルは人々に被害を及ぼしている。彼らの行動原理を突き止めることは、ただ交信の夢を追うだけでなく、現実に起きている脅威への対処にもつながるはずです。私たちがそのすべてを解き明かせるとは思いません。でも、放置することもできないんです」
まだ何もわかっていない。ユイが“聴いた”かも、Δとデヴォルにどんな関係があるのかも。
だが確かに今、ここに集まった断片は、ひとつの“可能性”に収束しようとしていた。
俺はそれを、拒むことはできなかった。ユイが目覚める日――それは、真実が姿を見せる始まりの日になるかもしれないのだから。
《ストレイ・エクシード》の機関音が静かに艦内に響いていた。俺たちは今、目的宙域――最後にデヴォルの出現が確認された座標へ向かっていた。空間はおそろしく静かで、外部スキャンの数値は限りなくゼロに近い。だが、その沈黙こそが、不気味だった。
艦橋の後方、補助コンソールに陣取った博士は、自身で持ち込んだ装置を手際よく組み立てていた。多層のセンサー群、粒子解析ノード、波動応答型の変調器。見た目は旧式の測定装置のようにも見えたが、その内部構造は俺の理解を超えていた。
「このプロトコルはね、人間の精神波を模した“揺らぎ”を発信することで、周囲にある何らかの反応を引き出そうというものだ」
博士は小さく笑いながら、モニターを操作する。「まあ、“呼びかけ”だよ。我々の言葉では通じなくても、“何か”が感じ取ってくれれば、それだけで価値がある」
レーネが横目でそれを見て、「それ、挑発にもなるって理解してます?」と一言だけ呟いた。
博士は肩をすくめた。「言葉と刃は、どちらも“触れる手段”だ。使い方次第さ」
そうこうしているうちに、ルミナが警告を発した。
『空間圧に微細な乱れを検出。波動シグナル変調……応答の兆候あり』
全員の視線がスクリーンに向いた。何もない宇宙空間の一点に、わずかに“ひずみ”が現れた。何かが……そこに“生まれよう”としていた。
「敵影、出現反応確認!」
レーネが叫ぶと同時に、スクリーンに“それ”が映し出された。
その姿は、定かではない。輪郭は常に揺らぎ、かすむように空間に溶け込みながら、それでも確かな存在感だけは残している。光の反射がねじ曲がり、まるで裏返された鏡面のような漆黒の構造。その表面には、金属のような硬質な質感と、有機的な脈動が同時に混在していた。生物とも機械ともつかぬその体躯は、まさに融合体――人工と自然、論理と本能が相克しながら共存しているかのようだった。
無機質なはずの外殻が、まるで呼吸するように波打つたび、こちらの空気までもが圧迫されていくような錯覚に襲われる。
それは、単なる兵器などではない。そこには確かな“意志”があった。冷徹な観察者として、あるいは何かを見定めるように、空間の歪みの中心でこちらを見つめている。それは理解の範疇を超えた、何か異なる“理”に従って動く存在だった。
そして、その瞬間――博士の交信装置から異音が鳴り響いた。ギリギリと金属を削るような、耳を裂くようなノイズ。複数の周波数が空間でぶつかり合い、共鳴し、断続的に変調を繰り返す。だが、その奥に――言葉とは呼べない、しかし確かに“意味”を持つ何かが、深く、静かに、こちらへと触れてきた。
声ではない。それは存在そのものが通信を試みているような、不気味な“気配”だった。
「……来た……!」
博士が低く呟き、目を見開く。助手たちも即座に端末に向かい、データの解析を開始する。
「これは……音ではない、“概念の残響”だ。信号が“向こう”から戻ってきている……これは、明確な応答だ!」
全員が息を呑んだ。機械が、装置が、確かに反応している――あの“存在”が、こちらの呼びかけに、“何かしらのかたち”で返してきた。
そのときだった。静かに横たわるユイのカプセル、そのモニターに異常が現れる。神経反応グラフが一瞬、鋭く跳ね上がる。まるで何かが彼女の意識に触れたように。
『……ユイの生体信号、変動を検知』
ルミナの声が、今度ばかりはわずかに緊張を帯びていた。
『感応野……共鳴値、上昇。あの信号と――同調反応が発生しています』
ユイは目を閉じたままだったが、その顔はわずかに表情を変えていた。安らぎではない。だが、恐怖でもない。何かを“聴いて”いるかのような、沈黙の中の集中。
それは、かすかな共鳴――まるで、彼女の中にある何かが、あの“異質な存在”に呼応して、動き出したかのように。
「……繋がっているのか……?」
誰かが、そう呟いた。
だが――
『敵反応に変化あり! ――こちらを標的にしたような動きです!』
ルミナの冷静な声が、緊張を切り裂いた。
「こちらを……狙っている!?」
その言葉を皮切りに、状況は一変した。デヴォルはその“気配”を明確にこちらへと向けた。波動が収束し、艦の位置に焦点を定めているのがわかる。
「この反応……攻撃だ!」
俺はコンソールに手を走らせ、迎撃態勢を整える。
「交信が……逆効果だった……のか……?」
博士の声には信じられないという色が混じっていた。
「……違う。これは、最初から“応答”ではなかったのかもしれない」
俺は歯を食いしばった。博士の言う“接続”は成立した。だが、それは“共感”でも“理解”でもなかった。あるいは最初から、俺たちは“敵”として認識されていたのかもしれない。
「敵、加速開始! 艦に接近中!」
レーネが叫ぶ。
「主砲、照準! 迎撃準備!」
俺は戦闘席に滑り込み、モニターを睨んだ。反応速度が尋常じゃない。通常の艦艇では到底対応できない加速度。あれはもう……“意志を持つ災厄”としか言いようがなかった。
「やっぱり……対話じゃなくて、対峙するしかないってことか……」
俺の口からこぼれた言葉に、誰も答えなかった。
静かな警報音だけが、艦内に鳴り響いていた。
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