角田光代「あの朝」解説
「なくなってはじめて、あ、意外と好きだった、と思うものがある。」
冒頭のこのセリフに共感を覚えながら読者はこの物語をたどり始める。
傘、手袋、二十年前に着ていたスカート。それらが好きだった、と「未だに思う市子」。彼女は、「自分の」「執念深」さを疑う。「どうしてなくなったのかわからない」という記憶の喪失に、「きっと自分で捨てたのだろう」と推察する。それを実際に使用していた時には気づかなかった「好き」という感情に、「なくなってはじめて」気づく、二重の喪失感。
話題はモノから時間に移る。当時は「なんとも思って」おらず、むしろ「退屈だと思って」「軽んじていた」「朝の時間」。
「市子の朝は決まり切っていた」。毎日のルーティーンは自然にかっちりと定められていた。「目覚ましは六時にセット」。「前の日に、深夜過ぎまで飲んだりしていなければ、どんなに眠くても、起きる」。「起きてすぐ台所に向かい、冬は肩をすぼませて、夏は窓を開け放ち、コーヒーメーカーをセットする」。「それから洗面所で歯を磨き顔を洗う」。「六時半にはかんたんな朝ごはん。メニュウもだいたいおなじ。ハムエッグにパンとサラダ、コーヒー」。「新聞を読みながら食べる。テレビはつけない。音楽もかけない」。周囲は当然無音となり、「自分の咀嚼する音と、新聞をめくる音だけが部屋に響く」。食後には「食器を洗って洗いかごに入れて、化粧をする。化粧の手順だっていっしょ」。「それから、コーヒーをもう一杯、新聞の読み残しがあればそれを、なければチラシを眺めて、飲む」。
まさに「判で押す」毎日。同じことの繰り返しは普通、人を「退屈」にする。彼女自身、「つまらない人間だ、と思うし、このままくり返していくだけの人生か、などと大仰に嘆いてみたりもした」。
しかし、「ほかのことをやるとなると、とたんに不安になった」。いつもとは違うことを「実際やってみるが、落ち着かない」。「ちいさな変更でも、うまくいかなかった」。「テレビを見過ぎて家を出るのが遅れ、遅刻した」。「ごはんにしたこともあった」朝食のメニューも、「結局いつのまにか、またパンとハムエッグに戻ってしまった」。
物語は展開する。
「その(いつもの)朝をくり返すだけの人生だったはず」の市子に、「二年前」、「変化が訪れた」。変化とは彼女の「結婚」だった。
「結婚は、いろんなことを変えた」。「戸籍の名前」、「住まい」、「家具も食器も本も」。「休日の過ごしかたも平日の夜の過ごしかたも変わった」。
「そうして市子のあの退屈な朝も、変わったのである」。「二人で借りた一軒家は郊外で、職場にいくのに前より時間がかかるようになった」。「ふだんはコーヒーを飲んでわたわたと出かけ、職場の最寄り駅のサンドイッチ屋やおにぎり屋で何か買い、職場の席について食べるようになった。朝いちばんに会議が入っていれば、食べることはできない。腹が鳴るのを必死でごまかしながら、昼を待つ」。
「ときおり」、夫によって「朝食が用意されている。市子はせわしなくそれを食べ、化粧で時間調整をはかって、出かける」。
「土日は二人とも十時過ぎに起きる。どちらか先に起きたほうが、朝と昼をかねたごはんをつくるように、いつのまにか、なった」。
これらの変化に、「最初は」「慣れなかった」市子だったが、「半年もすれば日常にな」り、その「新しいその日常を市子は好きだった」。彼女は「ときどき思うようになった、あら、変わったわ、と」。「刺激的になったわけでもないし、つまらない人間のままなのも、変わらない。けれど、あの、判子をぺたぺた押していくような朝では、いつのまにかなくなっている。そのことに気づいて、少々驚くのである」。
独身時代は、毎朝のルーティーンが決まっている楽さや安心感があった。それに対し、「新しい日常」は、「いろいろ(なこと)が決まっていな」い。しかし「不安ではない」。結婚による市子の変化は、生活だけでなくその内面にも及んでいる。そうしてそのことに気づき、彼女は「驚」いたのだ。
ただここで彼女は、結婚後の夫との生活を「安心」とは表現しない。「不安ではない」、という微妙な言葉遣いに注意する必要がある。
夫との時間が過ぎていく。「季節が二回ずつやって」きた。「家具」は「ひとつの家に最初からあったように馴染み」、「朝食」、「食事の支度」、「掃除」、「洗濯」、「などもいっさい決めない、いき当たりばったりのような暮らしにも慣れ」た。
夫との、「いろいろ(なこと)が決まっていな」い、「いっさい決めない、いき当たりばったりのような暮らし」。しかしそれにも「慣れ」る市子。
「日々ちいさな問題やちいさくない問題も乗り越えたり抱え続けていたりし」ている「そんなあるとき、市子はふと」「気づいて愕然とした。自分でも意外なほどの、愕然」。それは、「あの朝を私はとても好きだった」という事実だった。「今の暮らしに不満などない、今のほうがあのころよりたいせつだ、だけれども、あのひとりの退屈な朝も、私はたしかに好きだった」。
「そうして市子はなつかしく思い出す」。「冬のつめたさ、窓を開け放ったときの夏の空。コーヒーメーカーの豆を挽く耳障りな音。卵の焼けるにおいや新聞をめくる音。静けさ」。「冬の日」、「夏の日」。「ひとつ思い出すと、目に、耳に、指先に、首筋に、鼻に、いっぺんによみがえる。何度も何度もくり返したひとつひとつが」。「あんな日々は、もうこないのだな、と思う。二度とこないのだな、と」。
このような感情を抱くのは、ふつう、夫との関係が冷めた時だろう。しかし彼女は違う。
「もちろん夫と別れてひとりで暮らすこともあるだろう。でも、そのひとりの朝は、やっぱりあのときとは違うはずだ。同じ手順で時間を過ごしても、でも、あのときとは何もかもが違うだろう」。
市子が懐かしんでいるのは、夫と結婚する前・独身時代の『あの朝』だ。いま、夫と暮らし、将来、夫と別れ、またひとりに戻ったとしても、それはあの時の「ひとり」とは違う。永遠に取り戻すことのできない「ひとり」の「日々」だ。
市子は過去を回想し考察する。「もう手に入らないから、たいせつなように思うのだろうか」。いや、違う。「もしずーっと今もくり返していたら、私はあの朝に倦んでいただろうか。あの朝を嫌いになっていただろうか」。これも違う。ここまで考えて市子は、次の結論にたどり着く。「ひょっとして、そこにあるときは好きだと気づかないのではなくて、手放したとき、はじめて好きになるのだろうか」と。
ここまで読んだ読者は、当初の予測が外れたことに気づく。冒頭の「なくなってはじめて、あ、意外と好きだった、と思うものがある。」とは、「なくなってはじめて好きだ(好きだった)、と気づくのではなく、なくなってはじめて好きになる、ということ」なのだと。市子の「好き」という感情は、喪失したものへの郷愁(実は好きだった)ではなく、喪失をきっかけとした「はじめて」の愛着を意味する。自分では気づいていなかったのだがあの時愛していた、というのではなく、無くしたことによって好きになった、ということ。
無くして初めて好きになるのであれば、それに「気づいたときには永遠に手に入らない」という「残酷」な結果が待っている。続く、「いや、そんなことはないか。自分の内に好きなものが増えるのだから」は、市子の強がりに聞こえる。好きなものが、もう二度と「永遠に手に入らない」切なさ、やるせなさ。それを癒すすべはないだろう。初めから手に入らないのではない。かつては確かに所有していたのにそれを失ったという、胸を締めつけられる思い。
物語は再び展開する。
「その日曜日、起きると十時過ぎだった。夫は先に起きているが、食事は作ってないという」。これをきっかけに、「ひさしぶりに」「昔デートした町にいって昼ごはん食べよう」ということになり「笑う」。笑いは人と人とを親和・融和させる。
「その日曜日」という限定表現は、まさに「その日曜日」が重要な意味を持つことを表す。この後市子には、必ず変化が訪れるはずだ。
「都心からちょっと離れたその町」。「学生と家族連れとカップルがテリトリーを共有している不思議な場所」。「混雑のなか、結婚前を思い出して手をつないで歩き、目当ての店に向かう。空は晴れているが、春らしくかすんでいる」。
「公園に向かう一本道の、古着屋さんの二階」は、かつてと違う店になっていた。「ドリアだのチーズカレーだの、こってりした料理を出すあの店はなくなってしまったらしい」。「しょうがない、と言い合って、べつの店を目指」し、「市子はふりかえる」。しかし、「前の店の名前が、思い出せない」。「黄色い看板は思い出せるのに」。
夫との大切な場所と、夫との大切な思い出の忘却。「過去」とどう向き合うのかが、この時の市子には問われている。いま彼女は、夫との過去を再確認している。
久しぶりに「手をつないで歩きながら」、「もう食べられないとなると、妙に食べたい」と言う夫に、「わかる」と端的な答えを「にやにやして、言う」市子。
彼女の「にやにや」には意味があった。「どうやら夫も、失った今、猛烈に好きになったのだ」と気づいたからだ。「ドリアもチーズハンバーグカレーも、あの店で働いていたどことなく気怠そうな女の子たちも、陽射しの感じもちいさくかかったロック音楽も」。市子は素直に答える。「私もだよ」。「たった今、市子も気づいたのだ。あの店が好きだった」ことを。
彼女の「好き」は喪失したものの気づきにとどまらない。「きっとこれからどんどん好きになる。前よりだんぜん好きになっていく」。そうして市子ははっきりと理解する。「そうか、なくすということは、前よりだんぜん好きになってしまうことでもあるのか」と。
「あの店の名残を引きずって洋食を食べにいくと、失敗するんだよな、もっとおいしかったとか思って。」という夫に、共感の「笑」いを向ける市子。
ここまで至り市子は、今、隣にいる夫に改めて目を向ける。
「隣を歩く夫のことも、さらりとかわいた手も、なくす前から好きだとわかっていてよかった」。過去への愛着ではなく、現在自分に関わっている人に目を向け、自分との関係性を再確認しようとする。そうして夫の大切さ・夫への愛を自覚する。
だから彼女は、自分の思いを夫と共有しようとする。
「昼ごはんを食べながら向かい合って、そんな話をしようと市子は思う。なくして、はじめて好きになることについて。かつての自分の朝について。夫のなくした何かについて。なくすことで好きになったあれこれについて」。
夫との生活も、同じような毎日の繰り返しになり、やがては「退屈」を感じるかもしれない。だから市子の、「なくす前から好きだとわかっていてよかった」という言葉は重い。失ってから気づいても遅いことがあるのだ、ということに、彼女は思い至る。今、隣にいる人、今の生活を大切にすることの重要性を、彼女は認識したのだ。「なくすこと」によって「好きになっていく」のではなく、「なくす前から」好きであることの大切さの自覚。
題名の『あの朝』は、二つの意味を持つ・二つの朝を表す。
一つは、独身時代の懐かしい朝であり、もう一つは、夫との生活への愛しさを再確認した朝だ。
◆あとがき
この物語の主人公の名が「市子」である理由。「いちこ」は「ひとりの子」という意味でしょうか。彼女は、「ひとり」の過去を懐かしみ、それと同時に、今、隣にいる夫との「ふたり」の大切さと、「ふたり」であることの幸福を再確認・再発見しています。現在と未来へと、彼女の目は向きます。