第2話
生きた展示品。
そう呼ばれるものがあると、兄から聞いたことがある。
作品の詳細は一切不明で、展示される美術館や展示期間の宣伝もない。
タイトルプレートの横には禁止事項が明記されており、撮影はもちろん「作品の一切をSNSで発信することを禁止する」とあるため、鑑賞するには直接美術館に来るしか巡り合う方法はない。
SNSで書き込もうとしても、AI検知で跳ね返されるほど徹底されているとの話だ。だが今時、画像こそ出回っていないものの、ネット上では隠語を使って様々なことが囁かれているらしい。そのどれもが憶測の域を出ない、と兄は言っていたけれど。
今回は両親が館長の友人だったため、青柳美術館に『天使』がいると知ることができたのだろう。
そんなことを頭の片隅で考えながら、どのくらいの時間が経っただろうか。
天使は長い睫毛をピクリと動かし、何色もの色が入り混じった瞳を覗かせた。
僕の黒い瞳とは、異なる深淵。
あぁ、なんて、美しい。
指先一つ動かすことも、瞬きをすることもできず、ただ目に映る全てを脳裏に焼き付いていく。
緩慢に体を起こす天使と視線が交わり、全身がピリピリと痺れた。
光の反射によって瞳の見え方が変わるのか、小さく動くたびにきらきらと色が変化する。
僕を映す不思議な双眸に飲み込めれてしまいそうで。でも、飲み込まれてもいいと思うのは、僕が知らない自分だ。
君のことが知りたくて、話をしてみたくて。
なにより、知るはずもないのにずっと会いたかったような気すらした。
そう、だから。
――――天使と鳥籠の外で出会えたら、どれほど幸福だっただろう。
白く太い六本の柱に分厚いガラスが埋め込まれた鳥籠は、まるで城のような威厳を放っている。空気さえも逃げ出せないような城は、眠る主を守っているのか、はたまた閉じ込めているのか。
内にはベッドの傍に白い履物があり、それらを囲むように何十冊も積み上がっている本があるだけ。
昼白色だけが照らす展示室は、そのうち時間の感覚もなくなるだろう。
美しいのに残酷な”展示品”と呼ばれるものに、眩暈を起こしそうになる。
それなのに、目が離せない。
刹那も見逃したくない。
まるで瞬きなんて必要ないように見つめていたら、けれど僕の目は乾燥したらしい。生理的な涙が生成され、視界が勝手に天使をぼやかした。
瞬きを耐えられるわけもなく、降ろされた瞼から零れ落ちる雫。
「ぇ………」
目を開けたとき、天使がこちらに手を伸ばそうとして、けれど届くはずのない手が途中で降ろされたように見えた。
僕はおかしい。
もしかして、天使は僕の涙を拭いてくれようとしたのかもしれない、と思うなんて。そう、期待してしまうなんて。
だって、……だって、なんだろう?
わからない…。けれどもし、願望とも言えるそれが本当だとしたら。
僕と天使を隔てる鳥籠を失くしてしまえたら、どれほど良いだろうか。
今度は僕が手を伸ばしかけたとき。
「これが天使か」
突然、後ろからした父の声に視線を向ける。
両親が部屋に入ってきたことに全く気付かなかった。
「とっても綺麗ねぇ」
「完全に起きているときに見られるのは珍しいらしい」
2人は他の作品を鑑賞するときと似たような感想を述べる。
そんな感覚が理解できない。
…でも、どうでもいい。
今まで感じたことのない胸の高鳴り。僕の感じたことが、僕の全てだから。
天使に視線を戻すと、天使は両親など存在しないように、じっと僕を見ていた。
「真。残念だが時間だ」
1分も経たず告げられた言葉にハッとして「まだここに、」と言いかけるが、2人は既に踵を返していた。
人がいないときに見れて良かった、などと言いながら、もう自分たちの世界にいる。
声をかける気力もなく、諦めたように、縋るうように天使に向き直った。
わかっている。僕も、行かないといけない。
分かっていても、足は動かない。
いつもならこんなことはないのに。
「はは………」
渇いた笑いが零れる。
だって、僕は帰りたくない。
この先、会えるかどうかも分からず、何より天使はずっと鳥籠の中で過ごすの…?
……でも、今の僕に何ができる。
不安が表情に出ていたのか、天使は無表情のまま少しだけ首を傾げた。
「ここから、出たい…?」
小さな声が、分厚いガラスの向こうに届くはずもない。
日本語だって理解できるか分からない。
しかし、問いかけに応えるよう立ち上がった天使は、長い爪でコツリとガラスに触れた。
到底、僕に壊せるはずのない鳥籠。
その現実に、心臓が締め付けられるような感覚がした。
いたい、痛い。
そっと胸の前に手を当てる。
ドクリ、ドクリと動く心臓はいつもと変わらないのに、こんな痛みは初めてで。
あぁ、そうだ。
僕は天使が鳥籠の中にいることが嫌なのだ。
こんなにも美しく、どこまでも届きそうな輝きを持っているのに、天使は何よりも縛られている気がして。とても…、とてもつまらなそうだ。
展示室の中で一度も動いていない翼が、飛翔できるかなんて分からない。
けれど、天使が自分の意思で羽ばたいている姿が見てみたい。
何も邪魔されない場所で話してみたい。
君のことが、もっと知りたい。
この気持ちが何なのか、まだ言葉にはできないけれど。
僕はぎゅっと服を握った。
分かってる、望むだけなら天使はこのまま鳥籠の中。
だから、決めたんだ。天使を盗むと。
そう思った瞬間、今までふわふわと浮ていた体中の血が激しく巡るのを感じた。
口角が上がる。
なんて自分勝手な願いだろうと、笑えるから。
けれど、何より嗤えるのは、僕の願いに天使が賛同してくれると思ったこと。
自分の望みを叶えるため、15歳の僕が考えたことは誰も知らない場所に天使が住める”家”を作ることだった。
子どもの発想に自分でも笑ってしまうけど、実現できるなら楽園にすらなるだろう。
僕は天使の元を去る前に言ったんだ。待っていて、と。
ガラスの向こうには聞こえもしないその言葉。
けれど、どうしてか。
天使がほんの少しだけ笑った気がしたんだ。
◇◇◇
ピピピピ。
家とは違うホテルのアラームに意識が浮上する。
毎日のように思い出す5年前を夢で見るのは初めてだったが、理由は分かっている。
今日は20歳の誕生日。
二度目の『天使』を見るため、フランスにあるセレスト美術館へ行く。
そして僕は、天使を盗む―――。
◇◇◇