第17話
髪も乾かしてリビングに行くと、イトラはソファで本を読んでいた。
リビングとキッチンは繋がってはいるが、食事スペースから少し離れて大きく白いストレートソファがあり、それを囲むように本棚や観葉植物を置いている。
乾いた喉を潤しながら、イトラとスカイクラフトで話していたことを思い出す。
僕がこの家に大きな本棚を用意したのは、鳥籠の中にたくさんの本があって、イトラは本を読むことが好きなのかも、と思ったからだ。
実際、好きとは違うらしいが、地球の歴史を知れる手段だから嫌いではないとイトラは言った。
鳥籠の中にあった本は全て読んでいたらしく、日本語以外の本もあったため、既に多くの人間より地球のことを知っているだろう。
「他にも欲しい本があったら言ってね。手に入れるには少し時間がかかるんだけど」
そう言うと、わざわざ本から視線を外して頷いてくれるイトラ。
僕は数人の人間と、というより人間の情報と契約を結んでいる。
既に沫時真の名前は使用できないため、他人の名前や住所を借りて欲しいものを注文し、最終的に機械でここまで運ぶ。
でも、もう少しやりようはあるかな、と考えながら冷凍庫を開けてある物を取り出した。
「はい、僕のお気に入り」
イトラが食べてみたいと言ったアイスクリーム。
ストロベリーとミルクのカップアイスを差し出すと、選ばれたのはストロベリー。
「冷たい」
「人間はお風呂上りの温まった体に冷たい物を欲するんだよ。日本だと温泉のあとに牛乳を飲んだりするんだけど、僕はアイスが好き」
言いながら、ソファに足を乗せて凭れかかる。
実家では部屋にあるソファで同じことをしていたけれど、誰かと一緒というのは幼いときの兄以来だ。
そもそも、ここ数年は家に人がいる方が珍しかった。
けれど、隣にいるのがイトラだからか、とても落ち着く。
「これも美味しい」
食べ進めるイトラにミルク味もあげると気に入ったようで、たまにスプーンが伸びてくる。
和菓子も、夜ご飯の和食も。
イトラにはあまり好き嫌いがないのかもしれないと思いながら、スイに聞き忘れていたことをそれとなく言ってみた。
「この家は外部の人間が入ろうとするとレーダーが反応するはずなんだけど、スイは引っかからなかったんだよね」
レーダーが壊れていた気配はないから、イリセンスの能力だろうかと想像していたのだが。
イトラは肘を切るような手振りをしながら、「スイが自分の身体を切断したからだよ」と言った。
「ここのレーダーはスカイクラフトや僕たちには反応しなかったし、動物も反応しないようになっている。それは真がプログラムしたから判別できたんでしょ? それをスイもしただけ」
確かに、機械にプログラミングしてあるのは、僕たち以外の人型や武器などに反応すること。
ある程度細かくなれば人間だと判断できないし、ファフロツキーズ現象のようなもので脅威だと判断しないかもしれない。
「家周辺はレーダーがないから、回復は玄関前ですればいい。イリセンスは人間と違って簡単には死なないけど、死んだふりはできる。心臓を止めたりね」
服に血がついていなかったのは服を脱いで切断したからだよ、と僕の思考を見透かしたようにイトラは付け加えた。
イリセンスの服は、色こそ違えどイトラが着ていたワンピースと似たようなもので、血が付いたらすぐにわかるはずだから。
「でも、スイはレーダーのことを知らないよね」
そう。スイは外部から来ているのだから知っているはずがない。
でもそれって…。
「イトラにまだ伝えないはず…」
「イリセンスはいろんなものが視えるんだ。全員じゃないけど」
疑問は口から出ていたらしい。つまり、スイはレーダーが飛ばしている電波が見えたのだろう。
「じゃあ最初からイトラも見えてたんだね」
無言で頷く視える目の持ち主が、今捉えているのは僕のアイス。
取りやすいように差し出すと一口掬って言う。
「人間でも視えるものが普通の者より多い人間はいる」
幽霊などの類だろうか…と考えるけれど、イトラはそれ以上話すつもりはないらしいから僕も話題を戻す。
「でも、どうしてイトラがレーダーにプログラムされたことまで知ってるの?」
電波が見えることでレーダーが存在することは知っていたとしても、なぜ僕が設定した内容を知っているのか。
レーダー自体は家の外にあるから、まだ案内をしていないというのに。
「スイと話していたときに見に行ったんだ」
パソコンをあまり触ったことがないと言っていたのに、あの短時間でイトラは色々と分かったらしい。
人間の何倍も多くのことを感じ取るイリデンス。
五感から入る情報が多すぎて疲れたりしないのだろうか、と思ったが、見えるものも聞こえるものも調整していると言うイトラは、くるくると空でスプーンを回す。
「本当は僕と真の間にも様々なものがある」
言うと、イトラの瞳が変わったように感じた。光の反射が変わったわけではない。
僕と目が合っているようで、合っていない。ただ何かを見ているが、何を見ているかは分からない。
僕と違う世界を視てるイトラは、目の前にいるのに触れられない仮想現実に思えて、イトラが違う世界に行ってしまったようで少し怖い。
「でも視ないようにしたら、真と同じように空を青く感じることもできる」
何かを見つめる瞳が、イトラの意識がこちら側に戻ってきて、今は僕を見ていると分かる。
目が合うことに安心する。…安心するけれど。
「…ここでは、君の好きなように過ごして欲しい」
この言葉は紛れもない本心で、僕が感じた怖さを本来の望みが紛らわせてくれるもの。
でも、ありがとう、と言うイトラは僕の心を見透かすようにこちらを見ている。
その視線がなんだか痛くて、僕は話題を変えた。
「それにしても、またスイが来ることがあったら事前に分かる方法はない? それか写真が欲しいのだけど…」
侵入方法が毎回体の切断というのは痛そうなので、スイもレーダーから外そうと思ったのだ。だが、イトラは首を横に振って、気にしなくていいと言った。
「用があるのは向こうなんだから、自分たちで気を付けさせたらいい」
でも、と言いかける僕に、イトラは冷たいスプーンをぴとっと唇に当ててストロベリーを食べさせる。
甘く広がるいちごはすぐに溶けてしまって、イトラの言葉に頷いてもいないのにご褒美をもらった気分になる。
僕が困った顔をすると、小悪魔とも言える天使はどこか満足そうにした。
歯を磨いたあとも話し続けて、時計は0時を回る。
「イトラは眠たくない?」
「うん、1日に1.2時間眠れたら問題ない。別に数日は眠らなくても平気」
その体質をいいなぁと思ってしまうのは、もう僕の瞼が閉じそうになっているからだ。
イトラと話すのはとても楽しいけれど、さすがに限界なのか、このままソファで寝てしまいそうになる。
でもまだまだ話したりなくて…、何より、眠ってしまったら全て夢になるのではないかと子どものように不安で、
それでも遠のいてゆく意識の中、イトラの話を知らない童話のように聞いていた。