第16話 エセリアル
◇◇◇
20時を過ぎたころ。
「地球のお風呂はいいね」
毛先から水滴を落としながら、イトラはリビングに出てきた。
ワンピ―スではなく白いTシャツに黒いズボンを履いていることに新鮮さを感じながら、服を濡らしていくイトラに声をかける。
「髪を乾かさないと風邪引くよ」
「うん、真が乾かしてくれる?」
イトラのお願いを断れるはずもなく、ソファへ座らせ髪を拭く。
長い髪は痛みを知らず、滑らかで柔らかい。
地球のお風呂が気に入ったらしいイトラだが、故郷の星にも一応身を清める場所はあった、と言う。
「でも、落ち着いて入る場所ではなかったから」
イトラがした説明に、確かにリラックスできる場所ではなさそうだと褒める理由が分かった。
「ところで、イトラが住んでいる星の名前、なんて言うの?」
「~~~~だよ」
相変わらず、イトラの言葉は聞こえていても発音できない。
地球の言葉で訳せるかと聞くか、何だろうね、と悩んでいそうで、いなさそうなイトラ。
「乾かしている間に考えておいてね」
僕は返事も聞かずにドライヤーのスイッチを入れた。
ウィーンっという大きな音を、イトラが嫌がる様子はない。
どんどん乾いていく髪の感触は人間と同じ。さらさらしていて指通りが気持ちいい。
僕も少し括れるくらいの、男にしては長髪なのだが、この長さを毎回乾かすのは大変そうだ。
でも、それすら楽しく感じているのは相当な幸せ者なのだろう。
そんなことを考えているうち、僕と同じくらいの時間で髪は乾いた。
「終わったよ」
声をかけると、エセリアル、とイトラが呟く。
「エセリアル?」
「僕たちの星はそう言えばいい」
エセリアルという単語は昔、”地球の外”という意味で使われていたと聞いたことがある。
どうやら、自身の星をなんと言うのかイトラはちゃんと考えてくれたらしい。
思わず、ふふっと声を漏らすとイトラは下からこちらを向いた。
オレンジ色の照明によって新しい輝きを見せている瞳は、何を笑っているの、と言っている。
「ちゃんと考えていてくれたんだなって、嬉しくて。ありがとう」
イトラに表情はないけれど、上目遣いになっているのが美しくも可愛く見えて頭を撫でた。
嫌がる様子も見せずに小さく頷くイトラは、僕よりずっと長生きなのに少しだけ幼く見える。
「じゃあ、僕もお風呂入ってくるね」
そう言ってリビングを後にした。
白く濁った湯船に浸かると、体が急激に重くなったように感じる。
重力からは解放されたはずなのに、相当疲れていたようだ。
「…当たり前か」
イトラが手を取ってくれたことも、イリセンスが現れたことも、人間とイリセンスが戦争すると知ったことも、全て今日1日の出来事なのだから。
口元ギリギリまでお湯に浸かって、ぼーっとする頭で考える。
5年間、天使だけを思って生きてきた。
なぜこれほど惹かれるのか、自分でも分からない。
たった一度見て盗むなんて、正直自分でも不思議に思うけれど。
でも5年前から変わらない気持ちがあったから、僕は今ここにいて。
人の感情や信念は、時に良くも悪くも世界を驚かせることがある。
元々その人に備わっていた能力がどれだけ素晴らしいものでも、その人自身に動く意思が無ければ何にも成ることはない。
逆に、劣っていると言われた人でも、何かを成し遂げようとする思いがあれば、時に、ものすごい力を、発揮、する…こ、と…も…。
「……だめ、だ、眠たい」
僕は目を覚ますように、お湯をパシャリと顔に滑らせる。
少しでも油断したら茹蛸になりそうなので、つけっぱなしだったトリートメントを流して早く上がることにした。
さっきよりも軽くなった体に、残念ながらイトラとお揃いではない黒の服を着る。
鏡に映る自分の顔が、今朝身支度をしていたときより少し穏やかになっていて。
余計な緊張は不要だが、あまり浮かれすぎるな、と自分に言い聞かせた。