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1

 雰囲気のいい店内だった。静かに流れるBGMに、よく太陽の光を取り入れながらも明るすぎない照明。十ほどあるテーブル席は半分ほど埋まっていたが、店内の雰囲気を反映してか高声で話し合っている客はいない。

「いらっしゃいませ」笑顔がかわいらしい、しかし決して礼節を忘れないことを感じさせるウェイトレスがドアを開けて入ってきた大学生ほどの男性二人を出迎えた。二人であることを確認すると空いている席へ案内した。

 案内された二人はそれぞれバッグを置きコートを脱ぐとやれやれと息をつきながら座った。片方が「何で久しぶりの再会が喫茶店だよ」と呟いた。

 その文句ともつかない言葉に、もう片方が「仕方ないだろ。飯を食うには中途半端な時間だし、そっちがあまり時間ないって言うんだから」と反駁する。

「別に会わずに帰ってもよかったんだけどな」さっきと同じウェトレスが注文を取りに来た。メニューをちらっと開いて確認する。「俺コーヒーでいいや」

「コーヒー二つ」相棒の言葉を受けてもう片方がウェイトレスに注文する。ウェイトレスが引き下がるのを確認してから目の前の男に向き直った。「高校三年間と、今三回生だから、六年ぶりか」

「もうそんなになるか」

「数えようによっては四年ぶりだけどな」

「夏予選か」

「打てなかったなあ」

「負けたのはうちだけどな」

「話しかけようとしたら避けやがって」

「何話していいかわからなかったんだよ」男は話題を変えるように目を伏せた。「怪我だって? どこ?」

「右足。腱だからちょっと長いな。来年の秋には間に合うだろうけど、……もう終わりだろうな」

「間に合わせろよ」

「元々レギュラーじゃねーんだよ。それでブランクもできて何を間に合わせるっていうんだよ」

 言葉を受けた男がため息をつく。少し沈黙の時間ができた。

 BGMが替わって、今でも人気のあるロックバンドの昔はやったバラードソングが流れ始めた。

「懐かしいな」「懐かしい」どちらともなく言った。

「こうしてお前と向かい合ってると、なんか昔に戻った気になるな」と、先に愚痴をこぼしたほうが言った。

「ああ、お前もだいぶ変わったけど、でもよく見るとぜんぜん変わってないようにも思える」

「どっちだよ」と、少し笑う。「あの頃はなんか悩みが多かったな。今から思えば大したことないだろってことなんだけど、悩んで、沈んで、周囲にあたって」

「なんだよ、お前、今はもう悩みなんてないって言い草だな」

「そりゃ俺だってもう大人に――」

 コーヒーが運ばれてきたので、ちょっと会話を止める。

「いや、大人になったつもりでも、やっぱりまだ悩みは多いなあ」

「結局、上手くいかないことだらけだよなあ」

「だらけだ」

「今日帰るんだろ?」

「ああ。特急の予約もう取ってある」

「なんで県外に出たんだよ」

「都会に行ってみたかったんだよ」

「今度はいつ帰ってくんだ?」

「さーな……」コーヒーを口に運ぶ。「でも次があるなら」

「ん?」

「次はみんな集めようぜ」



2

 目の前がかすむような感覚に一瞬とらわれ、規則正しい呼吸のリズムが一瞬崩れた。隆起しすぎた肺は寸時の間隔を置いてなだらかに萎んでいく。大丈夫だ。意識はまだはっきりしている。

 フータ(五十嵐風太)は地方都市の郊外の道路を走っていた。往復合わせて五車線の広い道路上を車が足早に流れていく。歩道の上にもさまざまな人間が行きかっていた。談笑しながら自転車で下校中の高校生、買い物帰りの主婦、近所に散歩に来た親子連れ、またはフータと同じようにランニング目的の男女。

 フータは小刻みな呼吸を繰り返した。汗が頬の上を伝っていくのを感じる。玉のようなという比喩が比喩に思えないほどの汗だ。十月というのにやけに蒸し暑い日だった。気温の割りに、水分が奪われる。

 流れる汗はむしろ心地よかった。自分が生きているのだと自覚する。痛めつけなければ、自分が生きていると感じることさえできない。何故人は生きているのだろう。生きなければならないのだろう。

 一呼吸ごとに、排気ガスの混じった空気を体内に取り込む。それでも自分の部屋の空気よりはましだった。部屋の中でじっとしていると細胞が壊死していくような感覚に襲われる。とすれば流れる汗はむしろ再生だった。

 走り去るフータの後ろを影が長く尾を引いている。夕日だ。歩道橋の上でフータは夕日に目を奪われた。燃える火の橙は目に痛くなかった。湿気の不快さが脳裏から消えた。町が山が朱に染まっている。

 俺はなにをしているんだろう。

 頭を掠めた問いを、フータは振り払った。そんなことは考えたくない。考えても答えの出ない問いだった。

 また走り出そう、と思ったとき、ふと見知った顔を見つけた。

「シューゴ(灰島修吾)じゃないか。よう、なにやってんだ」

 フータと同じ中学生くらいの男子が、歩道橋の下で立ち止まった。この暑いのに下は長ズボンのジャージで、Tシャツは汗でびしょ濡れだった。

「フータ君か。見ての通り、走ってる」

「お前もか。俺もランニングだ」膝に手を突いて息をしているシューゴを見ていると、フータはなんとなくおかしくなってきた。「しっかし、似合わねえなあ」

 シューゴはフータと違って文化系といった人間で、むしろ運動音痴と言ってよく体育の時間などでもいつもまごついているような様子が見受けられた。そのシューゴが学校外でトレーニングしているのは、どうにもイメージとちぐはぐだ。

「どうしたんだよ。部活でもはじめんのか?」

「いや、体力がつけばそれでいい。だいぶ走れるようになってきた」といいながら、シューゴの息はまだ整っていない。

「ただ、自己ベストを出したいと思ってるんだ」

「何の?」

「持久走」

「ああ、毎年冬にあるあれか」

「うん。走るのはなかなか面白い」

「そっか、でも偉いな。誰も見てないとこで努力するとか、えれーよ」

「フータ君もそうじゃん。部活やってんだっけ?」

「ああ、俺は……」フータは少し口ごもった。

「いや、なんとなくだよ。意味ねー」

「ああ、そうだね。その通りだ。意味ない」

「なにがだよ」

「何事も」

 シューゴはどうも妙な人間だった。



 シューゴはおそらく変な人間だった。流行っている番組も見ないし音楽も聴かない。そもそも人と話そうという意思があまり見えない人間だった。いつもクラスの隅っこでむっつりと小説を読んでいる。クラス内でいつしか形成されてしまったいずれの仲良しグループにも所属していないようだった。

 しかしそんなシューゴが孤立していないほど、二年三組は雰囲気のいいクラスだった。誰もがお互いに声を掛け合い、談笑しあった。シューゴはクラス内のちょっと変な人間として位置づけられ、溶け込まされていた。シューゴもその位置を甘んじて受け入れていた。

 例えば、クラス対抗の球技大会で、円陣を組んだとき「じゃ、今日はシューゴに掛け声をかけてもらいましょう」などと誰かが言う。シューゴが「三組勝つぞー」と言えば周囲がいっせいに「応!」と気合を入れるのだった。

 シューゴが数学と日本史では誰にも負けなかったことと、へりくだらず孤高を保っているように見えたこともクラスの特殊な位置を占めることができた理由だったかもしれない。

 クラス委員のデカ(伊川啓司)は篤実な性格で人当たりもよく、雰囲気のいい三組の中心人物の一人だった。デカもシューゴのことをよく気にかけ、かつある特殊な人物として敬っていた。

 ある昼休み、席で読書していたシューゴの前の席にデカが座った。

「シューゴ、ナナ(立花奈々瀬)のことは知ってる?」

「そりゃ、まあ」クラスメイトの名前くらいは、いくらシューゴでも知っている。

「シューゴとはどういう関係?」

「クラスメイト」一体他にどういう関係があるんだ、とシューゴは思った。

「それだけ?」

「それだけ」

 そっか、とデカは息を吸い、「俺は彼女が好きなんだ」と言った。

「へぇ、そりゃ、おめでとう。……めでたいの?」

「別にめでたかねぇよ」

「ふぅん。それで?」

 「それが僕とどう関係があるの?」と言うほどシューゴは角が立っていない。

 が、デカの用件がその報告だけでもないと思った。

「うん。ナナはシューゴと付き合ってるって」

「へぇ」

「付き合ってるの?」

「初耳だ。こりゃ、ちょっとしたニュースだな。驚いた」と答えた。「誰が言ったの?」

「そりゃ、ナナだよ。そうか、やっぱり付き合ってないか」デカは安堵と困惑が入り混じったため息を吐いた。

「話したこともあるかないか」

「そうだよな。これはどういうことだろう」

「それは、僕に聞いている?」

「聞いてない。けど、何か妙案があるか?」

「そうだな、僕が三歩歩いたら全ての記憶を失ってしまうほどのうかつな人間だったか、ナナさんが実はパラレルワールドから来た人間だったかのいずれかだろう」

「どっちなら俺に有利なんだろう」

「どっちでも大差ない」とシューゴは言い、「生きてりゃあとはあんまり大差ない」と言い直すように付け足した。



 ナナは数学の授業中あくびをかみ殺した。授業と言っても、問題集の答えをただひたすら解説していくだけの授業だ。解説するソトケン(外村健人)先生の話も真面目なだけで面白くない。

 ほとんど無意識のうちに、席が三つ離れているデカのほうに目をやってしまう。真面目なデカはきちんと板書をノートに取っているようだ。ちゃんと授業を聞いているから成績もいいのだろうと感心する。

 ふと、デカの顔が上がって、目が合った。ナナは狼狽してすぐ視線を外す。

 自分は何をやっているんだろう、と心臓が高鳴った。恥ずかしくて死にたくなった。

 デカから告白されたのは、もう一週間ほど前のことだ。それからというもの、一切口をきいていない。それもそのはずだ。デカの告白を断ったのは自分なのだ。

 それでよかったのか、今でもかなり思い悩む。間違っていたと思うこともあれば、どうせ仕方のなかったことだと思うこともある。どうして人は時によって思うことが変わるのだろう。同じ人間なのにどうして思いがふらふらとして定まらないのだろう。それとも同じ人間だというのが幻想なのか。

 チャイムが鳴って、昼休みだ。お昼はいつもヤコ(笹倉都)とロク(萱嶋六津子)の三人で食べる。それが仲良しグループだ。ただ、三組は仲のいいクラスなので、別のグループとなんとなく一緒に食べることもある。

 今日はどうなるだろうか、などと考えていたら、いつも真っ先に席に駆け寄ってくるヤコよりも早く男子のシューゴがやってきた。仲のいいといっても男子と席を囲むことはほとんどないし、第一シューゴはあまり人付き合いのいい生徒じゃない。

 一体何の用だろうと首を傾げるよりも早くロクが声を投げかけてきた。ロクはいつもはきはきしている性格で、よくクラス中に聞こえるような大声を挙げることがある。

「おう、シューゴどうした? ナナに告白か?」

 ロクは何気なく使ったのだろうが、告白という単語は今のナナにはあまり聞きたくない言葉だった。

「告白ならもっと人気のないとこでするよ」とシューゴは平然とロクに返す。

「じゃ、どうしたの?」と割って入ったのはヤコだった。ヤコはロクと違っておっとりしているので大声を挙げることはない。ナナの隣で首をかしげていた。

「用」とだけシューゴは言った。会話というより発声と言ったほうが近い。

「ナナに?」

「うん」

「何の?」

「用」

「だから何の?」

 シューゴは少し考えるように首を傾げた。「あんまりおおっぴらに聞かれていいようなことでもないと思う。だからいつでもいいから、ちょっと時間をくれればありがたい」

「二人きりで、かよ」これはロクが言った。ロクももうナナの隣まで来ていたので、大きな声ではない。

「言い方はよくないけど、まあそうだ」シューゴは周りを見渡す。「ロクさんのせいでなんか注目が集まったな」

「私のせいじゃねーよ」とロクは否定したが、それは難しい問題だとナナは思う。「やっぱり告白じゃねーか」

「告白ならもっと人気のないとこでするよ」とシューゴはさっきと同じことを言った。「むしろ僕は巻き込まれたんだけどな」

 その言葉で、ナナはシューゴがなにを言いたいのか大体わかった。ヤコとロクにわからないように言ってくれたのがありがたかった。

 ナナが「今から、でいい?」と言うとシューゴはうなずいた。「ごめんヤコ、ロク。先にお昼食べちゃってて」



 時間をかけたくないので教室から出てすぐのところで話すことにした。室内から誰も様子を伺っている気配のないのは、多分ロクさん辺りが上手くみんなを制してくれているのだろうとシューゴはあたりをつけた。

「手短に行こう。このあと昼休み中に本を借りに行きたいんだ」シューゴは壁にもたれかかった。ナナもシューゴに倣う。

 時折他クラスの生徒が通り過ぎるが、廊下で話す生徒など腐るほどいるので誰も気にもかけない。

「デカのことだね」とナナのほうから切り出した。ナナはもう用件を察しているだろうと思っていたので、シューゴはあまり驚かなかった。

「うん。どういうこと?」

「デカはなんて言ってた?」

「彼はナナさんのことが好きなんだってさ」

「それから?」

「ナナさんのことが好きで好きで夜も寝らんない」

「そういうのはいいや」

「ああ、手短に行くんだった」シューゴは天を仰いだ。自分はあまり真面目な人間じゃない。人付き合いが苦手なだけだ。「僕がナナさんと付き合ってるんだってさ」

「ああ、やっぱりシューゴに言ったか」ナナはあーあと言うような表情をした。「ごめんね。迷惑かけた」

「ま、確かに迷惑だな」とシューゴは口だけで言った。実際、この程度の迷惑は迷惑のうちに入らない。「ただ、巻き込まれた以上いきさつくらいは知っておきたい」

「デカに告白されたんだ」

「うん。手短に行くんだから、『なんて言われた?』とか『どんな表情だった?』とかは訊かない」

「そりゃ、私だって言わない」シューゴの言葉に、ナナは苦笑する。「で、私は断ったわけ」

「『ごめんなさい。私はあなたが嫌いです』」

「とは言わなかった。言えなかったんだなあ」

「代わりに吐いた嘘が、僕と付き合っている、か」シューゴは鼻で笑う。「すぐばれる嘘だ」

「そうかな。すぐばれたかな」

「そりゃそうさ。ナナさんと僕じゃあまりに吊り合わない」

「なんかそれ、腹立つな」

「褒めてるんだよ。とにかく、突拍子もなさ過ぎる。嘘を信じさせるんなら、もっと他の人選があっただろう」

「だからこそ真実味がある、とも言えるんじゃない?」

「だからデカは僕に真偽を確かめに来た。僕は話した。とすればやっぱり賢明な人選じゃなかった」

「話したか。うーんそうだね。話すよね。デカはなんて言ってた?」

「なんとも。しきりに首を捻ってるんで、仕方ないんで僕が訊きに来た」

「優しいんだねシューゴは」

「面白半分だよ」

「面白い?」

「半分」後の半分は迷惑だ。

 ナナはううんと自分の考えを確かめるようにうなった。

「そうだね。別に嘘がばれてもいいと思ってた」

「ばらしてよかったんならよかった。安心した」

 ただ、ナナの真意がわからなかった。何を思ってナナはわざわざ嘘を吐いたのだろう。デカに何かを報告したいと思っていたが、しかしそこまで訊くべきなのだろうか。

 シューゴが迷っていると、ナナが口を開いた。

「デカは本当に私のこと好きなのかな」

「それは僕は知らない。ただ、デカは口先だけで物を言う人間ではないと思う」

「好きってなんなのかな」

「そんなことを僕に言われても困る」

「だよねえ」とナナは笑う。「私、デカのこと好きなんだ」

 ふうん、とシューゴはうなずいた。そんなことも僕に言われても困る、とは言わなかった。

「でも、好きってなんなんだろう。なんか私、ほんとにデカのこと好きなのか自信ないんだ」

「これ、悩み相談になってない?」

 デカにしろナナにしろ、ちょっと自分のことを信頼しすぎだ、と思った。



 下校の時間、誰かに呼び止められたので、多分ブンスケ(加来芙美輔)だと思ったので無視していると、いきなり蹴りいれられた。ブンスケはいきなり蹴り入れてくるような野蛮人ではない。

「ってーな。誰だよ」フータは腰を抑えながらうめき声を上げた。

「人のこと思きし無視してんじゃねーよ」振り返ればクラスメイトのロクだった。ロクは女のくせに男みたいな言葉遣いをする。

「無視したからって蹴るなよ」

「あたしじゃねーよ。今のはヤコの蹴りだ」

「えっ、マジで?」

 見ればロクの隣にはやはり同じクラスメイトのヤコがいる。ヤコは小学校から知っているが、やはりいきなり蹴ってくるような野蛮人ではない。

「あの、ロクちゃん、私蹴ってないよ?」

「ヤコの代わりにあたしが蹴ってやったんだ」ロクはなぜか得意げな表情だった。

「で、何の用だよ」

「用があるのはヤコだよ」

「ふぅん。何の用だよ、ヤコ」

「あー、そのー」あまり男子としゃべるのに慣れていないヤコは口ごもってしまったようだった。

「帰るとこだろ。一緒に帰ろうぜ」と、ロクが助け舟を出した。

「一緒に?」フータは首をかしげた。別にヤコやロクと仲が悪いわけではないが、かといって一緒に帰るほどいいわけでもない。「別にいいけど」

「よっしゃ、じゃ行こうぜ」とロクに促されるままに歩き始めた。

 一緒に帰るといっても、あまり社交的なわけでもないフータはなにを話そうかと思い悩んでいると、ロクが少しわざとらしいくらいに「そうそう」と声を挙げた。

「今日のシューゴにはびっくりしたよなー」

「シューゴがどうしたんだよ。ああ、昼休みナナに話しかけたこと?」

「あたしは告白だと思うんだけどさ。ヤコはどう思う?」

「どうもこうも、シューゴ君、告白じゃないって否定してたじゃない」

「シューゴが告白?」フータは吹き出した。「似合わねー」

「確かにな。シューゴは機械人みたいなとこあるからな」

「機械人って?」

「感情がない」

「確かに表情が少ないってとこはあるな」

「でも感情がないってことはないでしょ。人間なんだし」とヤコは冗談でも人を悪く言うのは好きではないらしい。

「でももうちょっと笑ったり怒ったりすりゃいいと思うけどな、あたしは」とロクはぼそっと言ったかと思うと、急に「あっ」と大声を挙げた。

「あたし忘れもんしたから戻るな。じゃ、二人で帰ってくれ」

「なに忘れたの? 私も一緒に戻るよ」とヤコが申し出たのをロクは首を振った。

「いいからいいから。ヤコとフータは先に帰ってくれ。じゃな」と言って一目散に戻っていった。

「なんだあいつ」

「さあ」

 残された二人で首をかしげていたが、とにかく帰ることにした。

 気まずい沈黙が続いた。さっきはロクがいたからなんとか間が持っていたものの、ヤコと二人きりではなにを話せばいいのかわからない。

「結局なんだったんだろうな」

「なにが?」

「シューゴのナナに対する用事」

 結局話題として選んだのはさっきの続きだった。

「あー、うーん、あ、告白とか?」

「結局告白なんだ?」

 歩幅が違うせいか、ヤコはフータに遅れがちになる。小走りにさせるのも悪いので、フータは意識してヤコに合わせるようにした。

「何にも思いつかないもんだねえ」

「でも、ナナはもてそうだもんなあ」

「そうなの? そうなんだとは思ってたけど、やっぱりそうなんだ。……フータ君も好きだったり?」

「いや、俺は違うけど、クラスで言えばタク(藤堂卓也)とか、ドラ(木野隆治)とかナナが好きなんだってさ。あと、多分デカもナナのこと好きだと思う」

「ナナは人気だねえ」

「ヤコはどうなん? 告白されたりとかねーの?」

「全然ないよ。したこともされたこともない」とヤコは首を振ったあと、ためらいがちに「フータ君は?」と訊いた。

「俺もない。むかつくことにデカはあるんだよな。断ったらしいけど」

「むかつくんだ」

「そりゃむかつくさ。断ったのも、ナナのことが好きだからなんだと思う。確かめたわけじゃねーけどな」

「フータ君はデカ君と仲いいんだね」

「あー」とフータはどっちつかずの返答をした。

「……ねえフータ君」とヤコは口調を改めた。本題に入るみたいだった。

「どうして部活辞めたの?」



 諦めるべきなんだろうと思う。告白するというのは決着をつけるということであり、断られるということは望みがないということである。

 多分それでも前に進んでいるんだろう。前に進むことがそんなに偉いのかわからないが、生きるというのはとりもなおさず前に進むということである。だとしたら、執着は後退だろうか。

「で、結局どういうことになるんだ?」とデカは目の前に座っているシューゴに言った。クラスには少しずつ人が集まってきているが、始業の時間まではまだ間がある。

「そんなことは知らない」シューゴは少しうんざりしたというような様子だった。それもそのはずだ。本当ならシューゴには関わりのないことだ。

「ナナは一体何を考えているんだろう」

 シューゴの話に拠れば、ナナは自分のことが好きらしい。ならば何故デカの告白をナナは断ったのか。

「そんなことはわからん」いい加減シューゴは憮然としていた。デカも申し訳ないと思ったが、しかしこんな雲をつかむような話、他に相談できる相手もいない。

「シューゴ頭いいんだから、ちょっと考えてみてくれよ」

「数学と人間とは違う。数学には必ず解がある。人間にはない。ある場合もあるかもしれないがない場合のほうが多い。そんなもん相手にしてどうする」

「たくさん小説読んでるじゃないか」

「小説はあくまで小説だよ。少なくともイキモノじゃない。イキモノってのはとらえどころがあるようでないから厄介だ。僕の専門じゃない」

「俺はこれからどうすればいいんだろう」

「それこそ僕の知ったこっちゃない。大体人間なんてできることなんてしれてるんだから、したいようにするしかない。デカは一体どうしたいの?」

「俺のしたいこと?」そんなことは簡単だ。「ナナと恋人になりたい」

「恋人になってどうする」

「それから?」デカはしばらく考えた。「……ああ、どうもしないな。出来ねー」

「そうなの? 恋人同士ってのはおしゃべりしたりデートしたりエッチなことしたりするもんじゃないの?」

「そりゃおしゃべりしたりデートしたりエッチなことしたりしたいさ。でも俺にはその暇がない。部活があるからな」

「部活だって休みくらいはあるだろ」

「ないんだよ。放課後も休日も全部部活だ。部活のない日は自主練。学生生活部活に賭けてるからな」

「そりゃすごいな」シューゴは心底感服したと思った。「でも、ならなんで告白なんかしたんだよ」

「まあな。俺だってせめて三年になって引退するまでは、と思ってたよ。だけどなあ」

 デカが照れたように黙ったので、シューゴは「なんだよ」と促した。

「俺の席から、ふとした拍子にナナの横顔が目に入るんだ。真っ向から見るわけじゃないけど、視界の端に写るんだな。横顔だけど、すごく綺麗なんだ。もう、彼女の周囲だけ光っているような感じなんだ。そんでずっとナナの顔を見ていると、たまにナナもこっち向いて、目が合うんだ。そんなことが毎日毎日続くんだ。一体どう我慢しろっていうんだ」

「……もはや惚気にしか聞こえん」シューゴは話にならんと横を向いてしまった。

「そーじゃないよ。そーじゃないけど、……ああ、シューゴ、人を好きになったことないか。なんかもう、理屈じゃないんだよ。理屈じゃなくて、だから、どうしていいかわかんねー。自分がどうしたいのかも、どうしたらいいのかもわかんねーんだ」



 何故走っているのかと、時々、人に訊かれたらなんと答えようかと考えることがある。暇つぶし、健康のため、走ることは気持ちいいから。どれも正しいようで、どれも間違っていると思う。理由はない、という答えもおそらく偽。理由はあるが、おそらく言葉では捉えられない。

 何故生きているのかという問いに、上手く答えることができないのと同じことだと思う。言葉で答えられる答えとはせいぜい、死ぬのが怖いから、くらいだ。言葉で答えられないのなら、あとできることは生きてみせることくらいだ。生きていれば、少なくとも自分自身にくらいは生きている理由がわかってくるかもしれない。

 とすれば走るのも同じことだ。走る理由がわかりたければ、わかるまで走っているしかない。

 走るごとに風景は違って見えた。走る時が違うのだからそれはあまりにも当然のことでありながら、シューゴには不思議に思えた。普遍なる物は現世には存在しない。存在するとすればそれは思惟の世界の中だけなのだろう。

 うつつとは不思議なものだ。何故か現の物は移ろい変わってゆく。何故か同じ場所にとどまることができない。目には見えないわけのわからない力によって時は流され物は変化を繰り返す。瞬間の次の瞬間にはもう同じものはどこにも存在しない。

 シューゴは家の近くの道路を走っていた。休日になればたまに走る。決まったコースはない。ただ気の赴くままに走る。決められたコースより少しだけ面白い。限界が来たら止まる。もういいやと思ったらそこより少し先まで我慢する。限界を超えることはしない。競争相手は誰もいない。それでいいと思う。人間なんて所詮、先天的に個別に備わった限界を超えることなどできないのだ。

 走っているとクラスメイトのフータに会った。走っているときにフータに会ったのはこれで二度目だった。

「よくやるなあ」とフータが言った。シューゴはかなり息が切れている。おそらく運動音痴の自分がトレーニングしていることにフータは感心しているのだろう。

 フータも汗にまみれているが、まだずいぶん余裕がありそうだ。基礎体力の差があるのだろう。

「僕は真面目に走ってるわけじゃない」シューゴは膝に手を置いて肩で息をしていた。「ただなんとなく気ままに走ってるだけだ」

「それでいいんじゃねえの? 俺だって走りたいから走ってるだけだぜ」

「フータ君は部活やってるんだろ? だったら鍛錬は不可欠だ。たとえ嫌なときでも練習しなくちゃいけないんじゃないの?」

「まー、そうなんだろうな」フータは照れたように笑った。

「でも俺、部活辞めたからな」

「そうなんだ。どうして?」

「真面目に練習するのが嫌になったんだ」

「なるほど」理解できない理由ではない。

 「なら何故今走っているの」という問いを、しかしシューゴは発しなかった。部活動と私的な活動の差は強要と自発にあるのではない。統制と気ままにある。部活動では自発的に、強要された過酷なトレーニングを行うことはできるが、勝手気ままな活動を行うことはできない。例えば、シューゴのランニングがもし部活動なら、その日の気分によってコースを変えるということは不可能だろう。

「でも部活をしてないんだったら、鍛錬の成果を発揮する場所がなくて困るだろう。特にフータ君みたいに運動のできる人間だったら」

 シューゴはフータのことを格別に知っているというわけではなかったが、しかしクラスメイトとしてフータが運動のできる部類に入ることくらいは知っている。

 しかし、フータはううんとうなった。「でも、俺はレギュラーじゃなかったからな」

「ふうん。フータ君でもだめなのか」

 シューゴにとっては運動のできるものはみな同じに見えるが、やはりどの世界も奥行きは深いらしい。フータが闊歩できない世界に、もし自分が入ったらどうなるだろうとシューゴはため息を吐く。

「レギュラーになりたかったけどなあ」とフータの声は落ちた。「でも辞めちまった」

 レギュラーになれないまま辞めてしまったフータを非難する気は、シューゴにはなかった。才能の差は絶対だ。人間には生まれ持った超えることのできない影というものが確実に存在する。それなら勝負すべきは自分自身ではないだろうか。

 しかし、ならば何故人は他人と競争するのだろう。人に勝ちたいと思うのだろう。

 他人と比較することで自らの価値を見出すということだろうか。人が社会の中で存在している以上、そうした価値観を否定することはできない。人は他人との関係性の中でこそ自らの価値を見出すことができるだろう。

 それすらも人の弱さだといってしまうことはできる。しかしそうした弱さを持ったものこそ人間なのだろうと思う。

 自分は何かで他人に抜きん出ることができるだろうか。シューゴにはわからなかった。

「じゃ、俺もう行くわ。がんばれよ」と言ってフータは行ってしまった。

 シューゴは、自分のほうからもフータにがんばれと声をかけるのを忘れていた。



 ナナのことは親友だと思う。誰よりも長い時間一緒にいて、多くの嬉しいことや悲しいことを一緒に経験してきた。どんなことがあろうとナナはヤコを裏切ったりしないと思う。それはヤコも同じことだ。

 しかしだからといって全部言ってしまうのは違う。親友とはなんだろう。信頼して、信用して、それでも踏み越えられない一線。微妙な距離感。最も近しい他人。

 しかしそんなことを言ってしまえば全ての人間がそうではないか。お父さん、お母さん、友達、先生、好きな人。どの人にだって、ヤコが経験してきたすべてのことを洗いざらい話していくわけにはいかない。そもそも、全てのことを話すことなんて、したくたってどうすればいいのか。

 言葉なんて万能じゃない。伝達したくたってしきれないものはある。

 ヤコの感情だってそうだ。私は今何を考えていて、何をしたいと思ってるんだろう。何故そんなことすらわからないのか。自分にすら、伝わらないことはある。言葉って万能じゃない。

 ナナが何か悩んでいるのも知っている。わざわざ訊いたりしないのは、ヤコがナナに相談しなかったのも同じことだからだ。人に何かを相談するためには、人に言うことができるくらい悩みが成熟していなければならない。

 ナナは今、目の前にいる。昼休みだ。いつものようにロクがいないのは、部活の集まりがあるとか言って行ってしまったからだ。ロクはああ見えて写真部に所属している。

「私さ」とヤコが切り出した。改まるのも変だが、他に言い出す方法を知らなかった。

「フータ君とは小学校から一緒なんだよね」

「うん」とナナが少し怪訝そうにうなずいた。「いつか聞いたことがあるね。二回くらい同じクラスになったことがあるんだっけ?」

「小一と、三年と、六年のとき」と、ヤコはナナの記憶違いを訂正する。「中学に入ってからは今年が初めてだから、計四回かな」

「小中一緒の子も結構いるけど、四回なら多いほうかな」

「だからってわけじゃないけど、フータ君のことはなんとなく気にしてるんだよね。好きとかってわけじゃないけど」

 この辺の微妙な感情のことは、余人なら早合点されてしまうかもしれない。でもナナとロクならそんなことはないと信じることができた。親友の効用だ。

「うん」ヤコの期待通り、ナナはまだ本題を断定しないよという顔で先を促して見せた。

「フータ君ずっと野球をやってきたんだ。小学校のときはソフトボール部だったけど、すごく上手かったし、高校行ったら甲子園行くんだってずっと言ってた」

「うん」

「なのにフータ君、野球部辞めちゃったんだ」

 今まで無表情にうなずいていたナナが、びっくりしたという表情をした。「そうなんだ。知らなかった」

「私も。デカ君に訊くまで知らなかった。新チームになって少ししたら辞めちゃったんだって」

「どうして?」

「わからない。デカ君も知らなかったし、フータ君本人に訊ねてみても、『もー嫌になったんだ』って言われただけで」

「もう嫌になったんじゃない?」

「それならそれで、嫌になった理由があるはずでしょ。でも……」

「それは教えてくれなかった」

「訊いたら、『まーいーじゃん』って言われた。それ以上は訊くなってオーラが出てて、それ以上は訊けなかった」

「そっか」ナナはちょっと真面目な顔をして考えていた。「で、ヤコはフータを野球部に戻したい、と」

「え?」

「だってそういうことでしょ。一途に夢を追っかけていてほしいんだ。その気持ちちょっとわかるな」

「そうじゃないよ。ただ……」ヤコは自分の考えの整理をつけるように言葉を切った。「変な話だけど、納得してほしいんだ、私」

「納得してほしい? 納得したい、じゃなくて?」

「そりゃ私がもやもやしてるってのもあるけど……。……うん、私、フータ君にちゃんと納得してほしいんだ。だってそうでしょ。ちゃんと理由が言えないってことは、自分でも何か葛藤があるってことでしょ」

「そうとは言い切れないと思うけど……その可能性もあるか」ナナは考えるように首を捻った。「でも、フータが納得してないとして、ヤコに何ができる? それは結局フータの問題でしかないんだから、フータ自身がどうにかするしかないんじゃない?」

「うん。そうなんだよね」そのことはヤコもわかっていたが、何も思いつくことがなかったのだった。「私には何もできないかあ……」

「外野はただ見守るだけ、だよ。……あ」ナナは何かを思いついたように声を挙げた。「じゃあヤコがチア部に入るとか。そしたら実際応援できるし」

「私がチア部に入るの? それは無理だよ。私運動神経ないし」

「ヤコのチア姿に釣られてフータも野球部に戻ってくるかもよ」

「ななななにをいってるのナナ。そそそそそそそんなことあるわけないでしょ」

「いやそりゃ冗談――、冗談にならなかったかこりゃ」ナナはちょっと笑った。

「でも真面目な話、フータに何かしてもらいたいんだったら、ヤコも動かなきゃいけないんじゃないかな。そもそも私たちにできることなんてないんだし」

「うーん」

「ま、しっかり考えて決めなさい。私に言えることはこれだけだよ」

「うーん、でも」

 藪をつついたら蛇が出た。それからしばらくの間、ヤコの頭の中には「でも」と「しかし」が渦巻くこととなった。



 これで最後だということで、ブンスケ他五人の野球部がフータを説得に来たのは冬の初めごろだった。こんなにもフータを引き戻したい人間がいるというよりも、ブンスケ以外は無理やり連れてこられたのだろう。

 ブンスケはフータと仲がよかったので、何度も説得に来た。それでもフータは首を縦に振らなかった。

 辞めることは誰にも相談しなかった。誰にも理由を説明したくなかったからだ。ブンスケはいいやつだったが、むしろだからこそ弱味を見せたくなかった。結局ブンスケを裏切るような形になってしまったのは申し訳なかった。それでも何も言いたくなかったし、戻るつもりもなかった。

 辞めたことは後悔していた。毎日毎日本当にこれでよかったのかと自問した。それでもそれは想定内のことだった。辞めるときに考えたのは、どちらにせよ後悔するのならどちらがより後悔せずに済むかということだった。辞めた今よりも、ずるずると部に残っていたほうが後悔の念は強かっただろう。

 だから誰になんと言われようと部に戻るつもりはなかった。ヤコがチア部に入ったのは想定外だったが、自室の隅のほうで咽び泣くことでかろうじて思い留まった。あれは本当になんか卑怯だと思う。

 だから最後といわれた今回も決してうなずかなかった。ただはぐらかすだけで本当の理由も説明しなかった。

「別にお前が言いたくないならいいよ」とブンスケはさびしそうに言った。こんないいやつに出会うことができたのは本当によかったし、その友人に本当のことを言えない自分の小ささが嫌になった。

「じゃーな。また部活とは関係ないとこで遊ぼうや」そういってブンスケは去っていった。まだ友人を続けようといってくれたことがありがたかった。このままブンスケと友人を続けることができるなら、いつか理由を説明することができる日が来るだろうかと思った。

 自己嫌悪にとらわれながら机に肘をついてぼけっとしていると、「ブンスケはよくやるよなあ」と後ろで誰かが言った。

 デカだった。

「なー。マジであいついいやつだ」

「お前が辞めてしばらくの間、あいつ誰ともキャッチボールしなかったからな。俺の相棒はフータだからって」

「そーか」自分は最低の人間だと思った。

「別に俺はお前が辞めようが知ったこっちゃないけどな」デカはフータの隣の席の椅子を乱暴に引き、乱暴に座った。

「親友に何も言わずにいきなり辞めるようなやつ、親友なんかじゃねー」

「誰が誰の親友だったんだよ」

「そーだな。小学生のころ一緒に甲子園行くんだって誓い合った仲は別に親友って呼ばねーもんな」

「そーだよ。デカなんて別に親友じゃねー」

「お前がいないせいで俺がチームのエース任されちまってせいせいしてるよ」

「エースで四番かよ。むかつくな」

「そーだよ。お前がいないせいでな。これで彼女でもできれば万々歳なんだけどな」

「てめー、甲子園で優勝するまで野球一筋に生きるって約束はどうなったんだよ」

「約束した相手が野球辞めちまったんだから、反故だよ反故」

「ちぇ、甲子園を甘く見てやがる。お前以上の選手なんて県内でもゴマンといるんだからな。練習しろ練習」

「だったら戻ってこいよエース」

 エースという言葉にフータは机を叩いた。

「俺はエースじゃねー」

「なりたかったら練習しろよ。毎日家でゴロゴロしてたってエースの座は転がり込んでこねーぞ」

「エースってのはな、チームで一番上手いやつがなるもんなんだよ。チームのやメンバーが、こいつなら任せられるってやつじゃないとマウンドを踏んじゃいけねーんだよ。そいつは俺じゃなかった。俺はなれなかった」

「だったら死ぬ気で練習しろよバーカ」

「お前が死ぬ気で練習しろよバーカ」



 鏡の中の自分が、自分ではないと思うことがある。どうにもよそよそしい他人にしか思えない。あれ、あなたそんな顔してましたっけと声の一つもかけてやりたくなる。さすがにむなしすぎるのでやらないけど。

 それはそうだ。あれは鏡であって自分ではない。鏡に映った自分はただの像に過ぎない。だとしたら、結局自分の本当の姿を自分の目で見ることはできないのだろうか。

 ナナは自分の家の洗面台の鏡と向かい合っていた。鏡の中の自分はこっちを正面から見据えている。

 ねぇ鏡の中の私、あなたの本当の気持ちを教えて? と心の中で問う。

 答えはない。当たり前だ。

 どうして自分のことすらはっきりとわからないんだろう。どうして人の好意を受け入れなかったことでこんなにも悲しい気持ちになるのだろう。考えに考えて自らだした答えを、自ら素直に受け入れることができないんだろう。

 冬のある日、デカが日曜日にある練習試合の観戦に来ないかと誘ってきた。改めて告白の返事が聞きたいということなのだろうと思った。

 ナナは断った。

「そっか。なんかごめん。未練がましくて」とデカは謝った。

 謝る必要なんてないとナナは思った。むしろ謝らなくてはならないのはこっちのほうだ。でも、何故謝る? そんな理由はない。

 夏の初め、告白を断ってからナナはデカのことを目で追うようになった。いや、正確には目で追うのを止めることができなかったというべきだろう。ずっと前からデカのことを意識していたのだ。振ってからもずっとデカのことが好きだった。時折目が合うと、心臓の辺りが苦しくなった。

 だからやっぱり、自分が悪いんだと思う。素直に自分の心に従うことができない自分。素直にデカを信じることができない自分。憎たらしくデカの心を見透かしてしまう自分。

「デカ、野球がんばってね。試合見には行かないけど、私心の中で応援してる」

「うん。サンキュな」

 それで終わればいいものを、ナナは言葉を続けずにいられなかった。

「デカ、野球頑張ってね。もっともっと頑張って、練習して、甲子園、行くんでしょう。それがデカの夢なんでしょう。こんなとこでサボってちゃ、駄目だよ。デカ、頑張って。私、ずっと応援してる」

 なんだか泣きそうになってきたので、そこで言葉を切って会話を止める。最後は「じゃ」とだけ言って駆け出していた。

 それでデカとの関係には全部の決着がついたのだと思う。

 鏡から離れて、ヤコの番号に電話をかける。何回かのコールのあとにヤコが出た。誰かに話を聴いてもらいたかった。こういうとき親友がいるのは本当にありがたい。

「ナナ、どうしたの?」

「ヤコ、ごめん。ちょっと聴いて」

 ナナは今まで誰にも話してこなかったデカと自分とのことを話した。デカに告白されたこと、その告白を受け入れなかったこと、それでも自分はデカのことが好きだということ。

 ヤコは余計な言葉を挟まず、ただ相槌を打ちながら話を聴き続けてくれた。

「デカはね、私を好きだって言ってくれるけど、うん、それは本当なんだと思う。思うけど、でも、それは本気じゃないんだよ。だって私、デカのこと好きだからわかるんだよ。デカはさ、野球が好きなんだよ。野球に打ち込みたいと思ってるんだよ。私はそれを邪魔しちゃいけない。ううん、本当は私が入りこむ余地なんてなかったんだよ」

「うん」

「私、本当に自分が嫌になる。デカを好きなのに、今でもね、好きなのに、でも、デカが私のことだけを見てくれないのが嫌なんだな。だから、野球に打ち込んでるデカを受け入れらんない。野球頑張れって思うけど、それは確かにそう思ってるけど、でも同時にどうして野球なんかしてるのって思っちゃう。どうして私のことだけ見てくれないのって。だから、だから私」後の感情は言葉にならなかった。

 しばらくして、もう言葉が続かないのを見極めるようにヤコが「うん」と言った。

「ナナ、今から遊びにいこっか」

「え?」

「日曜だし、ロクも呼んでさ。たまには街に行って、買い物しよう。かわいい服買って、映画見て、それから喫茶店で甘いパフェでも食べようよ」



3

 フータたちが通う中学校では毎年冬に持久走がある。各学年二時限ずつを割いて一日で行われる。男女別れてスタートし、学校の敷地内をぐるっと男子は五周女子は三周してゴールとなる。三学期が始まってからは体育の授業は持久走の練習に当てられ、生徒たちはせっせと自己タイムと競争することになる。

 持久走当日、二年生が寒空の中ジャージ姿でグラウンドに集まっていた。スタート前まで各々が自由に準備運動をしている。

 シューゴを見つけたフータは組になってストレッチすることにした。

「どうだよシューゴ。あれからもちゃんと走ってたのか」フータがランニング中にシューゴに会ったのは結局二回だけだった。

「走ってたよ。だから去年よりはいいタイムが出せると思う。フータ君も自己ベスト出せそう?」

「ん、そうだな。俺はタイムもそうだけど、勝ちたいやつがいるんだよな。だから目標はそいつに勝つこと」

「人との競争か。僕には考えられないな。僕はせいぜい去年の自分と競争するだけだ」

「いいじゃねーか。自分に勝つってすごいことだと思うぜ」


 ナナはデカに励ましの言葉をかけようと思っていたが、今は日常ほとんど口をきいていない状態なので声をかけることができなかった。そんなナナを見かねるようにロクとヤコがデカに近寄っていった。

「デカ、調子はどーよ」

「まあまあかな。野球部でも結構走りこんでるから、上位狙ってくよ」

「デカ君、ナナが、頑張れって」

「え、ナナが?」

「言ってなかったぜ」

「言ってなかったんかい」

「あ、でも、心の中では応援してると思う」

「ん、そっか。じゃあ百人力だ」デカは何かを振り切るように気合を入れた。「ナナにも頑張ってって言っといてくれよ」


 ヤコはずっとフータのことを目で追っていた。フータはシューゴと組になってストレッチを行っている。今日は調子が良さそうだ。

 ヤコの視線に気づいたロクが、「フータのとこにも行くか?」と声をかけた。

 ヤコは恥ずかしいというように首を振った。

「でもさ、チア部入ったのだってフータのためなんだろ? 頑張れの一言くらいかけてやれよ」

「うーん」

 やれやれという表情をしてロクはフータのほうへと向かって行った。ヤコもおずおずとその後ろに従った。

「よ、フータ。調子はどーよ」

「さーどーかなー」

「ヤコがチア姿で応援するってさ」

「なななななにいってるのロクちゃん。わわわたしそんなのしないよぉ」

「チア姿なら学年一位取れるってさ」

「陸上部に勝てっつーのか。うーん」

「いや、私やらないよ?」ヤコは首を振った。「あ、でも頑張ってねフータ君。私応援するから」

「おう、任せとけ」



 持久走では例年運動部が上位を占めた。特に長距離走を主にする陸上部は走りが違った。スタートからトップを走りゴールまでスピードが衰えることはなかった。陸上部についていけるのは運動部でも体力のある者だけだった。

 スタートからフータはトップ集団についていった。今は帰宅部とはいえさすがは元野球部だった。最後まで着いて行く体力はないが、どうせ終盤体力勝負になるのなら先にリードしておきたかった。いくら自主練していたといっても、野球部と帰宅部では普段のトレーニング量に差がありすぎる。

 二周目までは陸上部についていったが、三周目から遅れ始めた。少しずつ前との差は開いていったが、後ろとの間の貯金を使い切るまでにはまだまだ時間があるはずだった。

 四周目に入るころにはもうばて始めていた。後ろにいた者でフータを追い越すものも出始めていた。最初に飛び出したツケが来ているのは明らかだった。それでもまだデカに抜かれてはいなかった。体力を振り絞って足を動かす。

 最終周に入ってもまだデカの姿を見なかった。体力はもう限界に近かった。こうなればあとは気合で走るのみだ。大きな差ではなかったが、昔から長距離走ではデカに勝てなかった。それが、球の威力も切れも劣るようになってきたのは中学に入ってすぐのことだ。

 周の半分くらいに差し掛かったころ、ようやくデカがフータに並んできた。ここまでは想定どおりだ。あとは根性勝負だ。

「へっ、帰宅部の割には頑張るじゃないか。捉えられないかと思ってひやひやしたよ」

「うっせ。余裕ぶっこいてると勝っちまうぞ」

「勝ってみろよ」

「たりめーだ」

 実際そこからは体力よりも意地と意地の勝負になった。どちらも一歩も引かず並んだままで最後の直線に入った。体力勝負なら、スタートから飛び出したフータが遅れをとるだろう。根性だけで体力の差を凌駕しなければならない。

 フータはどうしてもデカに勝ちたかった。デカに野球で勝つことは諦めた。デカとの差がつき始めたのは一年の夏ごろからだった。それからどれだけの努力を重ねても差は縮まるどころか広がるばかりだった。何度振り払っても才能の差を直視しないわけにはいかなかった。デカの二番手に甘んじたままで野球を続けることはどうしてもできなかった。

 野球部と帰宅部だ。これからどんどん差がついていくのだろう。多分今回がデカに勝つ最後のチャンスだ。

 息が切れる。

 心臓が高鳴る。

 視界が霞む。

 よくやった、もういいじゃないかと自分の中の悪魔が囁く。

 ふざけんな、まだだ。

 まだ俺は負けちゃいねえ。

 これから一生負け犬として過ごすとしても。

 今この瞬間の俺は負けちゃいねえ。

 体に力が入らない。

 足首が痛む。

 息のし過ぎで吐き気がする。

 このあとどうなってもいい。

 ゴールしたあと死んじまう気になりゃ気が楽だ。

 今だけはどうしても逃げるわけには行かない。

 ここで逃げたら一生逃げ続ける人生だ。

 一生負け続けるとしても。

 一生逃げ続けるわけには行かない。

 ちくしょう。

 足、動け。

 こいつより早く。

 こいつより前に。

 フータとデカは、意地と意地をぶつけ合ったまま、並んでゴールした。

 勝敗は誰にもわからない。




 シューゴがゴールしたとき、持久走はもう終わりに差し掛かっていた。先にゴールした面々が、各々の仕方で体を休めている。まだ走っている者を応援する者も大勢だ。

 シューゴが天を仰いで息を整えていると、もう持久走を終えていたロクが近づいてきた。

「お疲れシューゴ。どうだった?」

「どうもこうもない」冬の空は馬鹿みたいに澄んでいた。「ま、自己ベストは出せた」

前からもう一年ぐらいですか。早いですねえ。しょうがないけど、主人公の一人なのに桃山でなかったなあ。

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