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 カーテンが閉まっているせいで、部屋の中は薄暗い。パソコンの液晶画面からもれる光が青黒い影を作っている。

 ドアが開いて黄色い光が差し込んできた。人影が入り込んできて、ドアが閉まると共にその像も消える。

 部屋の中に入ってきた女の子が、パソコンの前に座っている男性に声をかける。

「まあた電気もつけないで引きこもりですか。灰島さん、オタクですか、吸血鬼ですか。ニンニク嫌いの十字架嫌いですか。そのうち人の生き血を求めてさまようようになるんでしょう。ああやらしい」

 桃山桃は奥のほうへ進み出ていき、カーテンを開いた。光が差し込んできて室内が明るくなった。

「何ヶ月ぶりだ?」灰島修吾はまぶしさに目を細めながら呟いた。

「さあ」桃山は慣れた様子で二つ分のインスタントコーヒーを淹れる。

 差し出すと灰島は寝起きのような表情で受け取り、一口飲んで顔をしかめる。「苦い」

「苦いのが好きでしょう?」桃山は微笑む。

「大して好きでもないが」と灰島は返す。そのくせ灰島は砂糖やミルクを入れたコーヒーを飲まないことを桃山は知っている。

「私が働いている喫茶店でおいしいコーヒーを淹れますよ。是非飲みに来てください」何度も言ったことのある台詞で、また桃山は誘った。

「暇になったら」と、これもいつもの台詞で灰島は約束を濁した。

「忙しいんですか?」

 そうでもない、という返答を予期していたが、意外にも「まあ」と返された。

「論文を書いているのですか?」これはしかし間違った質問だ。灰島は年中論文か何かを書いているからだ。

「最近ある人物の論文を読んだ」灰島はくたびれたというように伸びをした。「それ以来どうも焦っているようだ。よくない傾向だ」

「どんな論文ですか?」

「天才って言葉は嫌いだから使わないとして、優れた論文だ。着眼点のよさ、論理の鋭さ、文章の切れ、どれをとっても僕なんか足元にも及びそうにない」

「誰ですかそれ。どっかの偉い教授ですか?」

「いや…」灰島は苦い表情をしていた。「院生だ。僕と同じ。この春からこの大学に入ってきた」



 中西雄介はコーヒーにミルクを入れない。

 苦いものが格別好きというわけではない。ただ、苦いコーヒー外の中に流れ込むとき、生き返ったような心持ちになる。甘いコーヒーは好きじゃない。生きていると感じるためには、それは刺激が少なすぎる。

 コーヒーが運ばれてくるまでの間に、中西はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。肺にしっかりと煙を行き渡らせてから、大きく吐き出す。肺の中に煙を入れると、頭の中にまでもやがかかったような気がする。そして中西の脳の回路のほとんどは進路を閉ざす。中西はただひたすらに紫煙をくゆらせるだけの存在になる。

 それは死と似ていた。

 自分が煙草を吸うのは、死に似た経験をしたいからだ、と僅かに働いている中西の脳は思った。煙草を吸わないときの自分は、ただひたすらに生を渇望する人間だ。いつか死ぬことを思って常に生き続けようと思う人間。生きることは変化することだ。それは死とどれほど違うのだろう。

 煙草を吸っていると、そんな、無意味なことばかりが頭に浮かぶ。たぶん思考の回路の大半が遮断され、単純化されるからだろう。単純化されれば思考は安らかになる。活性化した思考は見なくていい不安や焦燥にまで目を向ける。結果、人間は強迫的になる。頭のいい人間は不幸だ、ということだ。

 人間は原初、単純だった。誰も自分が死ぬであろうことなど知らなかったはずだ。その間は、誰もが幸せだっただろう。それがいつの間にか、いつか自分が死ぬことを知ってしまった。それから恐怖が始まり、闘争が始まり、嫌悪が始まった。誰も生きたいなんて望んでいないのに、死への恐怖のせいでどうすることも出来ない。

 仕方がないので、みな倦怠と上手く折り合いをつけながら生きている。芸人を見て笑うことも芸術と言われるものを見て感動したと思い込むことも人を愛することも、そうした折り合いの一種だろう。

 ときどき、中西は煙草を吸いたくなる。たぶん、それ以外に安堵の方法を知らないのだろう。



 題名は知らないが、静かなクラシックの音楽が流れている。喫茶店の中には中西のほかに客はいない。

 中西は煙草をくゆらせて、先日のことを思い出すともなく思い返していた。

 そこは芽姫大学文学部講義棟の一室で、七瀬准教授のゼミとして論文の構想発表会が行われていた。

 論文構想発表会とは、学生が今度書かなければならない論文の構想を発表して、他の学生の意見を募り、一人では気づくことの出来ない論文の修正点や別の角度からの視点を発見し、今後の論文製作に活かそうというものだ。七瀬准教授の言葉を借りれば、「要するに他人の論文にいちゃもんを付けあって、他人の意見を有効活用しましょうという会」だ。多くの学生にとっては、他人の意見を有効活用する機会としてよりも、発表の日までには一定のレベルのものを製作しておかなければならないというある種の締め切りとして価値のある会である。

 その日は中西の発表の日だった。六十名ほどが座れる教室に学生は二十名弱で、そのほとんどが七瀬准教授のゼミ所属である。中西は教壇の前に立ち、学生たちに向かい合っていた。

 中西は既に最低字数の三倍以上の量の執筆を終えており、時間的に全部を発表するわけにはいかないので論文の核心となるべき一章の概要を発表することにした。

 中西の発表のあと学生たちに意見が求められたが、誰も手を挙げない。七瀬准教授に指名されて意見を述べさせられた学生たちも、文章の誤字脱字を指摘するだけで、内容に触れるものはいなかった。

 もう少しわかりやすい文章に直さなければならないかもしれないな、と中西は思った。過不足なく他人に伝わるということも、優れた論文に求められる条件の一つである。

 授業時間も終わりに近づき、誰の意見も出なくなってきたころ、七瀬准教授が思い出したように一人の学生に向かっていった。

「そういえば灰島君、まだ発言していなかったね」

 当てられた学生がまだ一度も意見を述べていないことには、中西も気づいていた。構想発表会と言っても授業の一環であり、学生は何らかの意見を述べることが求められる。ゆえに他の学生たちは場にとって無意味な発言であっても一度は声を発していた。多分その学生はやる気がないのか、消極的な性格なのかどちらかだろう、と中西は思っていた。

「灰島君は嵐山教授のゼミなんだが、是非今日の発表を聞きたいと参加していてね」七瀬は教室のみんなに紹介するように言った。「灰島君。君の意見を聞かせてもらいたい」

「はい」灰島と紹介されたその学生は返事をして、しかしちょっと考え込むようにして黙った。「……意見はありますが、やめておきましょう」

 引っかかる言い方だった。しかし中西はあえて追及せず、七瀬に任せることにした。

 七瀬が灰島に言った。「意見があるのなら言ったほうがいい。どんなところから論文の発展に繋がるものが出ないとも限らないし、灰島君しか持ちえない視点というものがあるはずだ。もし今までに出た意見と同じだというのなら、同じだということを灰島君自身の言葉で説明すればいい。そうすることで、また違った発見があるかもしれない。だから論文に対して自分の言葉で意見することは、必ず中西君のためになるものだし、灰島君自身のためにもなるかもしれない。とにかく、これは授業でもあるんだし、出し惜しみはしないでもらいたいんだけど」

「わかりました」むしろそれが当然であるかのように灰島は意見を述べ始めた。「この論文は実に見事で、すごいと思う。飛躍に次ぐ飛躍で、とても僕なんかには思いつかないような視点ばかりだ。この構想のまま進んでいけば、びっくりするようなものが出来ると思う。是非このまま進んでもらって、完成させてもらいたい。完成したら是非、一番にとは言わなくても、早いうちに、読ませてもらいたいと思う」

「どうもありがとう。そのくらいなら簡単なことだ」意見というよりは希望と言った方がいいその発言に、中西は少し拍子抜けした思いだった。思わせぶりな前ふりに、少なからず身構えていたのだったが。

 しかし灰島の次の言葉が意見の核心だった。その発言に中西の心臓は凍りついた。

「ただ、この論文は、作品論としては成り立たないんじゃないかと思う」

 灰島はそこでいったん言葉を切った。

「なるほど」と中西は言った。表面上は冷静にしていたが、頭の中は混乱が始まっていた。作品論としては成り立たないというその指摘は、的を射た話だと中西は直感していた。「それは、何故?」

 灰島は理由を説明し始めた。

「発表を聞いた限りでは、この論文は<貧困>をテーマに田名部幸成『T氏の生活』を読み解くというものらしい。中西君の論文では、取り上げた小説の中で行われる殺人が貧困によってなされたとしている。確かにこの小説を読めばそういう印象を受ける。殺人を犯した登場人物は悲惨な生活をしていたらしいことが語られるし、別の登場人物を通して路上生活者の実態を描き出している。しかし果たして殺人の理由を貧困に求めることが正しいのだろうか。僕はこの小説を二回読んでみたけど、貧困という言葉はどこにも見つからなかった。これはあくまでも僕の解釈なんだけど、この小説において殺人は別の理由によってなされたもので、貧困とは結びつかない。もちろんこの小説のサブ・テーマが貧困であることを否定しない。だからこの論文には価値があると思うし、是非このまま進めていって欲しいと思う。でも……」

 そこで灰島は話すのをやめた。言葉が見つからないというよりも、全てを言い切って中西に致命傷を与えることを躊躇っているように見えた。

「作品論としては成り立たない」と中西は灰島の言葉を引き継いだ。

 中西は床が崩れてどこまでも落ちていっている感覚を味わっていた。灰島の指摘は全て正しいと思った。そして灰島の指摘の正しいことは論文の瓦解を意味していた。

 何より、論文が成り立たないことを指摘されるまで気づけなかったことが悔しかった。

「なるほど、確かに君の言うとおりだ」中西にはわからなかったが、内面の混乱に反して表面的には実に沈着に振舞っていた。「失敗だ。また一から書き直さなきゃならないと思う」

「やっぱり……そうなるか」灰島は諦めたような表情を浮かべた。「完成した論文が読みたかったんだけど」

「いや、指摘には感謝する」

「ちょっと待って中西君。折角今まで進めてきて、分量もかなり書いている論文を一から書き直すというのはちょっと現実的じゃない」ここまで静観していた七瀬准教授が口を挟んだ。「そもそも、本当に作品論として成り立たないのかどうかは考えてみないといけないし、成り立たないとしたら、上手く修正していくことを考えていかなくてはならない。これはみんなにもいえることなんだけど、論文を進めていくうちに当初の考えと異なる結論になるなんてことはしょっちゅうなんだから。そこからいかにまとまった論文にするかっていうのは、ある種の技術として、身に付けていかなければならないものだと思う」

 准教授の言っていることはわかるし、正しいことだと中西は思った。しかし中西は今まで書き進めていた論文を破棄する決意を固めていた。

 一から書き直そう。締め切りには間に合うだろう。

 授業終了の時間がきて、チャイムが鳴った。灰島はすぐに教室から出て行った。七瀬准教授が、論文についてはまた後で話そうと言ったので、中西はうなずいた。敗北感が自分の中を満たしていることに中西は気づいた。冷静になるには時間がかかるだろうと思った。

 煙草が吸いたかった。


 コーヒーが運ばれてきたのに気づいて、中西は煙草を灰皿に押し付けた。苦いコーヒーを飲むと、脳の回路が刺激されて複雑な思考が戻ってきたような気がした。

 中西は今、大学近くの喫茶店、「アグノスティック」に一人で座っている。散歩ついでに立ち寄るにはちょうどいい場所で、胃が震えそうなくらい苦いコーヒーを出すので中西は気に入っている。

 店内には静かなクラシックが流れている。店の片隅にグランドピアノが置かれているが、中西は弾かれているのを見たことがない。誰かが弾くのかもしれないし、オブジェなのかもしれない。そういえば、シックなその色は落ち着いた店内によく似合っていた。

 中西は大学院生だった。地元の大学の文学部を出たあと、遠くはなれた芽姫大学にやってきた。毎日、小説を読んでは論文を書いている。小説を読むことは昔から好きだった。大学で研究の面白さを知った。このまま研究者の道を進もうと思っている。

 近くに知り合いはいなかった。友達らしい友達も出来ていない。寂しくはなかった。研究は面白かった。級友たちはあまり研究に熱心ではなく、話が合わない。

 わざわざ地元を離れて芽姫へやってきたのは、現在中西の指導教授である七瀬准教授の教えを受けたいからだった。大学生時代彼の論文を読んで圧倒された。それは深い教養に裏打ちされた緻密な論理で構成され、かつ新しいものを作り出してやろうという野心に溢れていた。何より、文学への深い愛情が感じられた。

 ただ、七瀬の講義は少し退屈だった。七瀬は彼の人柄を反映してか、やる気のない生徒にもわかるように丁寧な授業を心がけているようだった。中西にはわかりきったことを何度も繰り返しているように感じられた。それでも七瀬の革新的な論理は刺激的で楽しかった。

 灰島との出会いは中西にとって大きな敗北だった。たった一言で灰島は中西に決定的なダメージを与えた。彼の存在は中西の心を痛打し、動揺させた。

 中西は煙草の火を消すと、目を閉じて店内のBGMに耳を傾けた。静かな音楽は中西の体内を満たすように流れている。

 混乱は今はない。新しい論文の構想も、もうほとんど固まっている。ある程度方向性が決まってしまえば、あとは書き進めるだけだ。締め切りには間に合うだろう。前以上のものになるかどうかはわからないが、してみせるつもりだった。

 敗北感は今も消えない。それは中西をがんじがらめにして身動き取れなくするようなものではなかったが、しかし確かに中西の中に残っているのだ。ときどきコーヒーの苦味のように中西の内奥から沸きあがってくる。そういう時は、コーヒーの苦さで中和するか、煙草の煙で忘れてしまうしかない。

 研究で勝敗を考えたことはなかった。ただ、誰も知らないことを発見することが楽しくて続けてきた。研究は力の誇示ではない。もっと純粋なものだ。

 だから、敗北感を感じている現在の自分が嫌だった。自分が矛盾した存在であるように思った。気が狂いそうなくらいの嫌悪感だった。そうした自分は初めてだった。

 クラシックはありがたかった。それは綺麗なものだった。綺麗なものに触れていれば癒される。

 灰島との勝敗は考えないようにしたかった。少なくとも、論文にそんなものを持ち込んではいけない。

 しかし、この敗北感はどうすれば昇華させることが出来るだろう。



 喫茶店「アグノスティック」のドアを開けたとき、ギターの音が聞こえてきた。懐かしいと中西は思った。昔よく聞いた曲だ。リズムに合わせて英語の歌詞が続く。ピーター・ポール&マリーの『ブロウィン・イン・ザ・ウィンド』だ。

 中西は窓際の席に座ると、注文をとりに来た喫茶店のマスターにコーヒーを頼んだ。中西とはちょうど対称の位置に当たる壁際に小さなスペースが出来ており、そこに一組のバンドが収まっている。向かって左側にギター、右側がベース、背後にドラム、そして彼らに囲まれるように中央にスタンドマイクが設置されており、その前で女の子が一人歌っている。

 土曜日の夕方だった。西側の窓から夕日が差し込んでいる。珍しいことに客が七割ほどの席を埋めており、みなそのバンドの方を向いていた。バンドの曲は店内の天井にいくつか設置されているスピーカーからも流れてきていた。

 曲が終わると客の中から拍手が起こった。女の子がぺコリと頭を下げると、すぐ次の曲に移る。次の曲はサラ・ヴォーンの『ラヴァーズ・コンチェルト』だった。

 注文のコーヒーをマスターが持って来たので、中西は尋ねた。

「なにかの催し物?」

 マスターはうなずいた。「ええ、土曜日の夜はこうして近くの大学の軽音部が来てくれるんです。ライブっていうほどのもんじゃなくって、ま、BGM代わりでね。やかましい?」

「いえ」中西が首を振ると、マスターは満足げに戻っていった。

 マスターの言うとおり、バンドは決して大きな音を出してはいない。しっとりと、あくまで落ち着いた雰囲気を崩さない形で演奏している。普段のクラシックのBGMが洋楽に変わっただけのように思えた。

 中西は芽姫大学に入学して以来、何度もこの店に足を運んでいるが、こんな催しがあるのは知らなかった。常連とはいえ、ただコーヒーを飲みにくるだけなのだから仕方がない。マスターと話をすることもないし、大学の軽音部に知り合いがいるわけでもない。

 中西はバンドの曲を聞くともなしに聞いていた。いつもはここでコーヒーを飲みながら文庫本を読んだり考え事をしたりする。今日もいつもと変わらず、バンドの曲をBGMに文庫本を読むだけだった。

 バンドはママス&パパスの『カリフォルニア・ドリーミング』をやり、アバの『チキチータ』をやり、カーペンターズの『トップ・オブ・ザ・ワールド』をやった。『トップ・オブ・ザ・ワールド』がボーカルの女の子の声に最もあっており、一番よかった。女の子は軽快で快活な声をしていた。

 曲が終わるごとに中西も他の客に倣って拍手をした。

 何曲か聞くうちに、何故この日に限って客が多いのかわかるような気がした。バンドは上手くなかった。何度も間違えたし、リズムも揃っていない。練習不足は中西のような素人の耳にも明らかだった。

 しかしボーカルが別格だった。

 まるで彼女の周りだけがきらきらと輝いているかのようだ。

 確かに彼女は聞くものの耳に染み入るような声を持っていた。彼女の溌剌とした声は聞くものの耳に入り、胸を打ち、興奮させ、そして笑顔にさせた。それは例えばクラシックのプロ演奏家並みの上質さを持っていた。簡単に言うと、彼女のライブは金が取れる。

 中西はコーヒーの入ったカップを持ってカウンター席へと移動し、ニコニコとライブに聴き入っているマスターに話し掛けた。

「このライブは毎週やってるんですか?」

「ええ」白髪で温厚に年を重ねてきたようなマスターは笑顔で答えた。「毎週土曜日に、だいたい五時くらいからね。出演バンドは、その週によって違う。都合がつかなきゃ誰も来ないこともある。その辺は、まあアバウトにやってるから」

「このバンドは?」

「お客さん、大学生? 芽姫? 曲山?」マスターは中西の質問には答えず、逆に質問した。この喫茶店の近くには国立芽姫大学と私立曲山大学の二つが並立している。

「芽姫。の、院生。この春から」

「桃ちゃんにはファンが多いよ。彼女目当てでくる客も多い」

「桃ちゃん?」

「ボーカルの娘だよ。彼女は桃山桃っていって、芽姫のOGでね。ここ一年くらい、ピアノ弾いてくれたり、歌歌ってくれたり、こっちとしちゃ助かってるよ。繁盛するからね」

「でしょうね。彼女の声にはその価値がある」

「プロになれって言ってるんだけどねえ。全くその気はないみたいで。定職にも就かずライブハウスでライブやったり、うちでライブやったり、色々やってるみたいだ。忙しいときにウェイトレスしてもらうこともあるから、会うことがあるかも知れないよ」

「ふうん」中西はコーヒーを啜った。「サインでももらいたいな」

「それは無理だ。彼女は誰にもサインを書いたことがない。プロじゃないからね。一緒に写真を撮ってくれといわれても断るし。私もそれでいいと思う。彼女をアイドルにする気はないからね」

「でも、もったいないな」

 マスターは少し考えてから言った。

「同感だ」


 次の月曜日、いつものように喫茶店へやってくると桃山が働いているのを見つけた。マスターが言っていたようにウェイトレスを務めているらしい。

 中西が窓際の席に座ると、桃山が注文を取りにやってきた。

「やあ」と中西が言った。

「やあ」と桃山も返した。客にする言葉づかいではない。「ご注文は?」

「桃山さん?」

 桃山は返事の代わりにピースサインを作る。写真を撮って応ずるべきなのかもしれないと思ったが、もちろんカメラなど持ってきていない。

「この間君がライブしているのを見たよ」

「ん、そう? 楽しかった?」

「ああ」中西はうなずく。

「そらよかった。じゃ、今度の土曜は…えっと、あなた…」

「名前? 中西。中西雄介」

「中西さんも歌おっか」

「なにを?」

「何でも。私ピアノ弾くし」

「何故?」

「楽しいから」

「なるほど」中西は笑い出すのを何とかこらえた。「桃山さん、サインもらえる?」

 桃山は首をブンブンと振った。「迂闊にサインしないことにしてるんです。保証人って怖いから」

 桃山の冗談(?)に構わず中西は色紙とペンを差し出した。いつ桃山に会ってもいいよう、バッグの中に入れておいたものだ。

「私、プロじゃないから……」

 拒否の言葉だった。

「プロにはならない?」

「興味ない」

「人には持って生まれたものがある、と俺は思う。ある種類のものを持って生まれた人間には、他人に対して果たさなければならない義務がある、と思う。文豪が小説を書いて読者に発表するようなものだ。君はそう思わない?」

「職業選択の自由って、私、好きですよ」

「君には力があると思う。歌というか、歌もそうだし、人を魅了する何か――。それも、人を動かすに足るほどの大きな力だ」

「歌うのって、私、好きだな」

 中西は煙草を取り出して、吸う。煙の色を見て、自分が充分な量の息を吐き出したことを確認する。桃山は目元に微笑を浮かべたまま立ち去らずにいてくれた。客がまるでいないのが理由かもしれない。

「歌は不得意なんだ。音痴でね」

「じゃ、一緒に歌おう。私はステージで歌うから、中西さんは客席で。それなら歌えるでしょう? みんなも一緒に歌ってるから。そしたらきっとみんな楽しい」

「桃山さんは面白いね」

「よく言われます」桃山はあはははと明るく笑った。「気障な人は面白いねって言って、優しい人は個性的だねって言って、正直な人は変だねって言うの。ぜーんぶ、おんなじ言葉。でもいいの。無関心な人は何も言わないから」

「気に障ったなら謝る」

「全然。これでも私はすごくまともに生きているつもりだし、ちゃんと考えて生きてる。それでも人と違うっていうんなら、でもそれは当たり前の話だから。私は私で、私は私にしかなれなかったっていうだけの話だから。それでも友達はたくさんいるし、今までとっても楽しかった。これからもとっても楽しいと思う。中西さんとも友達になれたし。だよね」

「…ん、ああ」桃山というのは妙な人間だと思った。行動原理は天真爛漫な子供のようでもあり、しかし話したときに受けた一つの印象では怜悧で明晰な人間のようでもある。少なくとも何も考えていない能天気な人間ではないようだ。

 桃山はニヤッと笑った。「友達だったら、歌おっか。一緒に」

「俺は音痴だ」中西は跳ね除けた。



 電話機が鳴っていた。何度目かの着信音で中西はそれに気づいた。執筆の手を止め、腕にしている時計を見た。午前二時に電話をかけてくる非常識な人間は誰だろう。

 中西はマウスを操作して、書きかけの文書を保存した。ちょうど興に乗ってどんどん書き進めたいところだった。中断するのは惜しいような気もした。しかし別段腹も立たない。自分の場合、勢いだけで書いた文章はつまらないものになると、中西は思っているからだった。

 机の上を手探りして煙草とライターを取ると、席を離れて受話器を取った。受話器を肩で挟みながら火をつける。

「もしもし」

「あ、先生ですか」

「菊地君か」

 受話器からは落ち着いた様子の女性の声が流れてきた。聞き知った声だった。中西に対してかかってくる電話の、八割まではこの女性からだった。「用件は?」

「朗報です。すぐにお伝えしたいと思って」

 中西は煙を吐き出してから、灰皿が手元にないことに気づいた。

「ちょっと待ってくれ。灰皿がない」と言っておいてから、机から灰皿を取り上げて戻る。「やれやれ落ち着かない。一応訊くけど、今何時だと思ってる?」

「ええと、一時五十七分です」相手は受話器の向こうで時計を確認しているように答えた。

「俺がいってるのはそういう意味じゃない」菊地はこれまでにも何度も非常識な時間帯に電話をかけてきている。「が、まあいい。朗報って?」

「直海賞に先生の小説がノミネートされることになりました」

「ふうん」中西は気のない返事をした。

 中西は今小説を書いて生活している。大学を出てすぐ新人賞を受賞し、作家生活に入った。自作がベストセラーになったことはないが、実験的な小説を書く作家として多少の注目を得、何とか生活に困らずやっている。

 菊地綾音は中西の昔の担当編集者だった。確か、プロになって三年目くらいに担当になった。以来菊地は装飾のない意見をずけずけと言ってくる。その意見は素直にうなずけることもあれば、議論になることもしばしばだった。他にも攻撃的な意見を述べてくる編集者はたくさんいたが、着眼点の鋭さという点で彼女は図抜けていた。

「嬉しくないのですか? 直海賞ですよ?」

 直海賞というのは過去の文豪直海八百万(やおよろず)を記念して設けられた文学賞で、新進の作家を顕彰するために与えられる。選考が同時に行われる芥台賞と並んで、文学賞には珍しく受賞者が大々的に報道される賞で、作家にとっての登竜門的な賞だった。

「うん、あまり嬉しくない」

「去年芥台賞にノミネートされたときもそんな感じでしたけど……何故ですか? 受賞できないと思ってらっしゃるのですか?」

「というより、賞に興味がないんだ。俺が小説を書くのは、どちらかといえば研究のためだから」

「しかし、直海賞にしろ芥台賞にしろ、その年のベストセラーを左右するほど大変な賞です」

「取ったら話題になるだけの賞で、たいした権威もないよ」

「しかし出版社とすればこれを取るか取らないかは大きな違いです。作家だって、取れそうなら血眼になって取りに行きます」

「そうさせているのは出版社だと思うがね。まあ、こんなところでそんな議論をするつもりはない。そんなことを報告するために俺の執筆の邪魔をしたの?」

「小説を書いていらしたのでしたか。失礼しました。新作ですか?」

「うん……書下ろしで、秋ぐらいに文庫で出るはずだ。君のとこじゃないが」

「へえ、先生が長編を書くなんて珍しいですね。それとも短編集ですか?」

「長編だ。向こうの担当がどうしても一度長編を書けってしつこくてね。色々と借りもあるし、仕方なく引き受けた。折角の長編だから、今度は小説っぽいものを書くつもりだ」

「そうですか、楽しみです。でも残念だな。私が担当のままだったら、絶対私の方が先に書かせたのに」

「そう、君が最初に言ってたんだな。もっと通俗性の高い長編を書けと」

「先生にはにべもなく跳ね返されましたけどね」

「君は生意気な新人だった」

「でも、先生はもっと売れるべきでした。今でもそう思ってます。先生みたいな才能が埋没しているのは理不尽です。先生はもっと読者にアピールすべきです」

「文学の価値はそんなところにはない。いや、もちろん娯楽としての価値は非常に高い。だが、それだけではいけない。文学にはもっと様々な可能性がある。俺の役目は、その可能性を一つ一つ試すことにあると思っている」

「しかしエンタテイメント性も認めているのでしょう。でしたら、もっと娯楽性を深めてもいいのでは?」

「だから最近はそうしている。だから直海賞にもノミネートされた。それで充分じゃないか? それ以上は、もっと適任が何人もいるよ」

「はい。ええ…何度も議論してきたことですね。電話ですし、この辺で引き下がりましょう。しょせん編集者なんて権限はないんですから」

「何人もの作家がその逆のことを思っているだろうが……。で、用件はそれだけ?」

「ああ、私の担当の水野誠一郎が新作を書き上げました」

 その言葉に中西は鋭く反応した。「何故それを先に言わない。何枚? 内容は?」

「いえ、まだ受けとったばかりなので……。彼女、手書きですから。今から社に帰ってパソコンに起こします。約束ですから、それから中西さんにメールします」

「そうか……。いや、興奮しても仕方ない。よろしく頼む」

「ほんとは、他の作家さんの原稿を見せるなんていけないんですけど……まあいいか。まだ目を通してないですけど、歴史小説というか、伝記小説みたいな感じですね」

「なるほど」

「中西さんが言ってたような、ノンフィクションではないですが」

「いや、彼女は構成力があり丁寧な心理描写が出来るから、そういうのもありだろう」

「私もそう思います。今度ので彼女確実にステップアップしますよ。あとは黒木淳ですが、行き詰まってます。雑誌連載の話もあるんですが、今の状態じゃ二の足を踏んでますね。他社の編集者とも話したんですが、ほとんど書いてないみたいです」

「そうか、面白い作家なんだが」

「いや、彼ならそのうち殻を破るでしょう。私も何とか彼の帰ってくる場所は確保しておきたいと思ってるんです」

「よろしく頼む。いや、俺がよろしく頼むのも変な話だが」

「ええ、はい、努力します。では報告はこれくらいですね」

「そうか」

「邪魔してすいませんでした。いい小説書いてくださいね」

 と言って菊池は電話を切った。

 中西は煙草を吸うのをやめ、立ち上がってコーヒーを淹れた。苦いコーヒーが中西の胃袋を刺激した。

 研究から実作に移ったことは中西にとって生涯何度目かの挫折だった。実作も研究のうちだと自分を慰めてみても、後悔は何度も襲ってきた。研究を辞めたのはそれが自分に向かなかったからでも楽しくなかったからでもない。ただ、研究者が等しく持つであろう一次創作への欲望を捨てきれなかったためだ。

 小説を書くことは楽しかった。大学時代、思考した理論をことごとく実行していく。上手く行くこともあれば上手く行かないこともあった。上手く行かないときは理論を修正する。そうしていくうちに新しい理論がひらめき、また実践する。その繰り返しだ。

 そのような、理論先行の小説を書いているため、売上は悪い。自称評論家たちの評価が高いことと、一部のもの好きな読者によって中西の生活はなんとか成り立っている。

 菊地は何故か担当を外れてからも頻繁に連絡を入れてくる。ときどき一緒に食事をして、文学のことを話し合う。彼女とは意見の合わないことが多かったが、しかし意見をぶつけ合うことも楽しいことではあった。

 中西は他の小説家の動向も知りたがった。大学時代にテーマにしていたのは近代文学だったが、現代文学にも優れた文学は多いと思っていた。というより、文学の可能性を広げることは現代文学にしかできないことだった。

 菊地は編集者であるだけに現代作家たちの動向をよく知っていた。

 コーヒーを飲み終えあとをきちんと片付けてから、中西はパソコンの前に座りさっきの続きを書き始めた。



 中西は七瀬准教授の部屋の扉をノックして、中に入った。七瀬は「ちょっと待って」とだけ言って、パソコンを操作してこっちへ来た。恐らく書きかけの原稿を保存したのだろう。部屋の奥が七瀬の作業場、仕切りがあって手前側が生徒などと面会する応接間になっているようだった。机の前の椅子を中西に指し示し、自分はその正面に座る。

 中西が七瀬の教えを受けるようになって一年弱が経過していた。その間に中西は論文を三つ、論文と呼ぶには短すぎるレポートを五つ提出していた。大学の学生として驚異的な量である。

「どうでしょうか」と中西が切り出した。中西が言うのは、今度行われる文学研究会で発表する論文のことである。それは学外の人間や教授も参加して行われる、比較的改まった研究会で、中西も論文を発表することになっている。院生が参加することは珍しいことではないが、発表する原稿にはそれなりのレベルを求められる研究会だった。そのためか、七瀬のゼミから発表するのは中西だけである。

「悪くない。というより、中西君の論文は今さら僕がどうこういうレベルじゃないようだ。一応、文法の間違いとかを探して(あか)を入れておくけど、内容自体はこのままでいいと思う」

「そうですか。安心しました」

「あとは締め切りに間に合うようにしてください、と、僕がいうのはこれだけです。コーヒー飲む?」

「あ、はい。じゃ、頂きます」

「中西君はここが地元じゃないんだったね。東北のほうだったっけ? 一人暮らしには慣れた?」

「ええ、何とか生きてます」

「一度訊こうと思ってたんだけど、何でわざわざこっちに来たの? 東北の方にも文学部はあるでしょう」

「七瀬(准)教授に教わりたかったからですよ」

「へえ、中西君でもお世辞言うんだ?」

「いえ、あの、本当なんですが」

「へーえ、もの好きだね」七瀬はコーヒーを二つ持って戻ってきて、自分の分を丹念にスプーンでかき回し始めた。砂糖を何個も入れたらしい。

「俺も一つ聞きたいことがあったんですが」と中西がコーヒーに口をつけながら言った。こっちにも砂糖が入っているのか、いつもより少し甘かった。

「なに?」

「灰島っていうのは何者ですか?」

「彼は嵐山教授のゼミに所属している学生だよ。嵐山教授は知ってるね? 僕と同じで、日本文学の教授だ」

「講義を受けたことはありません」

「そりゃそうだ。教授は開講していない」七瀬はコーヒーに口をつけた。「苦いな。嵐山教授といえば、僕が若いころ知らない人間はないといわれたほど有名な教授だったんだけどね。どういうことか、最近は全く研究にも手をつけていないようだ」

「変な人ですね」

「この世界には多い」

「灰島は院生ですか?」中西は灰島のことに話を戻した。

「そう。大学生のときに二年留年している。多分進学に興味がなかったんだろう。気にはかけてたんだけどね。進学したんだから、漸く研究者になる決心をしたのかもしれない」

「優秀ですか?」

「うん、そうだね……」七瀬は意見を述べようとする口を飲み込んだ。「中西君はどう思う?」

「彼の論文を読みました。優秀です」中西は即座に言った。実際に、あの灰島に意見された日以来手にはいる限りの灰島の論文を手に入れ、飢えた犬のように読みふけっていた。彼への敗北感を別のものに変えたかったからだ。しかし論文を何本も読んでいくにつれ、敗北感はむしろ深まっていくようであった。

「緻密に精巧に論理を積み上げていく。彼のやり方なら間違いを犯すことはないでしょう。漸進的に研究の成果をあげていく。彼のような研究者こそ、理想的でしょう」中西はしかし、あくまで冷静な様子を崩さなかった。

「ふむ」七瀬は満足げに頷いた。「概ね同意見だ。付け加えるなら、少し慎重に傾くきらいがあるというところか」

「いえ、あれでいいのだと思います」

「僕は中西君のことも評価しているよ。君は、これからどうするの?」

「これから、というのは?」

「実は一回聞いてみたかったんだ。中西君は研究者を志しているの? つまり再来年博士に進んで、どこかの大学に就職して、ということだけど」

「そのつもりです」

「わかった。じゃあそのつもりで僕も指導することにしよう。といって、正直、今の君なら僕がわざわざ指導する必要もなく、勝手に研究者になれるだろうけど」

「ありがとうございます」

「ただ、これから先は長いし、どんなことでつまづくかもわからない。そのときはしっかり粘り強くやってもらいたい。僕なんかは何度もつまづいて、それでも何とかやってるから、何でも相談して欲しいと思うし、僕以外にもどんどん人を頼ればいいと思う」七瀬は一度言葉を切って、コーヒーを飲んだ。「けど、君みたいな人はすんなり行ってしまうものなんだけど」

 そのとき、教授室のドアがトントン、と鳴らされた。七瀬が立ってドアを開けると、そこにいたのは灰島だった。

「ああ、灰島君。悪いけどちょっとだけ待ってくれる?」

 と七瀬が言っているのが聞こえた。自分との話の区切りをつけるつもりなのだと思って、中西は席を立った。既に七瀬との用件は終えている。

「俺はそろそろ退席します」

「ああ、そう?」なにを考えることがあるのか、七瀬は少し考え込んだ。

 その間に灰島が中西に気づいて「ああ、中西君か」と声をかけてきた。

「よう」と卑屈にならないよう気軽に応じる。

「研究会で発表するそうだね。僕も聞きに行くことにしている」声音は柔和だったが、灰島は真剣勝負に赴く剣士のような鋭い眼光をしていた。

 まるで俺が採点してやると言わんばかりのその態度に中西は少しむっとした。

「そっちこそ、最近何か論文を書いてないのか?」

「ああ、まさにそのことで来たんだよ。一本苦心しながら書いてみたんだけど、うちの師匠はあてにならないから、七瀬(准)教授に見てもらってたんだ」

 苦心しながらという殊更な言葉が、中西にはむしろ灰島の誇らしげな自信を感じさせた。

「うん、それなんだけど、もうあかは入れ終わっているし、すぐに渡すことが出来る。だけど……」七瀬は中西の方を見た。「中西君も見てみない?」

「はい?」

「中西君に意見を出してもらえば、必ず灰島君の論文のためになるし、もしかしたら中西君のためにもなる。灰島君、どうだろう」

「ええ、それは僕はありがたいです」灰島はうなずいた。自信があるようだった。

 中西は嫌だった。灰島の論文はもう何本も読んでいる。読むたびに、その地道で堅牢な論理にため息をつかされてきた。翻って自分の論文を思うとき、自分の思考が如何に飛躍によって成り立っているかを思い知らされる。

 中西の飛躍に次ぐ飛躍というやり方の方が挙げられる成果は大きいはずだ。灰島の一歩踏み出すごとに足場を踏み固めるというやり方ではいつまで立っても前に進まない。

 しかし灰島の地道な論文を読むたびに、足場の薄弱な論理の怖さを思わされる。次に踏み出すべき地面がそこにはないのではないか、踏み出した瞬間奈落の底へと転落していくのではないかという恐怖に慄かなければならなくなる。それは中西のやり方を糾弾されているようでもあった。

「読みましょう」覚悟を固めてから中西はうなずいた。研究者として生きていく以上、いつまでも灰島におびえているわけには行かないのだ。

 中西は決闘へ向かう剣士のように鋭い表情をしていた。



 学生の間、中西は他の学生がだらけた生活を送ってしまうのとは違い規則正しい生活をした。毎日日付が変わる前には眠り、七時間前後で起きる。睡眠が少ないのも取りすぎるのも思考にとってよくないことだと思っているからだ。

 料理は不得意だったが、できるだけ自炊した。野菜を多く使うようにしていたし、脂っこいものはあまり作らなかった。食事を抜かすこともほとんどなかった。

 掃除もよくしたし、ゴミを溜めることもなかった。取った授業は体調が悪いとき以外全て出席した。

 別に意識的に自律的な生活をしているわけではない。ただ自然にそうありたいと思った生活をしているだけだ。夜遊びが好きなら毎日遊んだだろうし、面倒くさがりだったら好きなだけ自堕落な生活をしただろう。

 だから中西は自分が真面目であるとも優等生だとも思ったことがない。ただ好きな生活をしているだけだ。

 中西はよく図書館へ行った。図書館では当然ながら本を読んだ。本を読みながら、しかししばしば別のことを考えていた。論文の構想を練ることもあったし、もっと別の、例えばプロ野球の好きな選手のことを考えたりもした。図書館の静かで開放的な雰囲気が考え事に適していたのかもしれない。純粋に読書を楽しみたいときは日が落ちてから家で読むようにしていた。

 中西はよく散歩をした。散歩をするときは何も考えないようにしていた。風景を見るのが好きだった。澄んだ空が好きだった。道端の花が綺麗に咲いているのが好きだった。知らない道が好きだった。季節の匂いが好きだった。そうしたものに触れるためには、思考は余計なものだった。頭の中を空っぽにして、中西はよく歩いた。

 歩く場所はどこでもよかった。まだよく馴染んでいない町を足の向くまま歩くこともあったし、大学のすぐ傍にある丘山に登ることもあった。よく知らない場所からなんとなく見当をつけながら帰るのが楽しかった。ごく稀にいつまで経っても帰り着けず、バスや電車を使わなければならないこともあったが、だいたいなんとなく帰り着けるのだった。バスや電車の中で静かに座って町並みを眺めるのも好きだった。

 歩いているとき、時々、ピン、と思いつくことがある。それはだいたい次に書こうと思っている、あるいは書いている論文のことだった。何も考えないようにしているはずなのに、何故か急に何かが舞い降りるように考え付くのだった。

 そしてそれはいつもとてつもない考えのように思った。今まで誰も考えたことのない画期的で革新的な考えだと思った。自分は世界一の天才だと、頭の片隅でそんなことはないと苦笑しながらも思った。そしてそんなときは、世界の全てをわかったような気になるのだ。世界の真理を解き明かしたのだと。

 しかしそれはいつも、一瞬で消えてしまう幻想に過ぎないのだった。

 そうした思い付きを、中西はわざわざメモに取ったりしない。メモ帳を持ち歩いていた時期もあったのだが、いつの間にか嫌気が差してやめてしまった。散歩はもっと純粋なものでなければならなかった。

 読書をした後などは大学内をよく散歩した。大学の中だけでも知らない場所は多いものだった。運動場や部室棟など普段近寄らないところも含めてあちこち歩き回った。

 今もそんな風に歩き回っていた。大学という場所は基本的に開放的な場所なので、自分とは関係のないところを歩いていてもとがめられることもない。

 体育館の脇道を行って行き止まりになったところで引き返そうとすると、「中西さーん」と一際大きな声で呼び止められた。呼ばれた方をみればテニスコートがあった。

 コートの中心に桃山がいた。

 中西があっけに取られていると、桃山が「中西さーん」ともう一度呼びかけて右手をブンブンと大きく振っていた。桃山はジャージ姿にテニスラケットを持っていた。手を挙げて応えると今度は手招きに変わった。

 出入り口から入って見ると中の様子がよくわかった。桃山はコートの片側の真ん中に立っており、反対側のコートに別の誰かが立っている。彼女もラケットを持っている。多分試合をしているのだろう。

 ラインの外側に、くたびれた様子の学生たちが何人も座っていた。桃山と一緒にテニスをしている集団、ということなのだろうか。テニスサークルなのかもしれない、と中西は思ったが、それにしては誰一人としてテニスウェアを着ているものはなく、多くはジャージ姿で、ひどいのはジーンズだった。

 ラインの外側にいる連中は二十人ほどだろうか。よくみると、どうも大学生に見えない人間も多く混じっていた。中学生くらいにしか見えない女の子や、三十代のような男性。大学とは老若男女様々な人間が入学できる学校だが、しかし中学生くらいの子供が入学するケースは極めて稀なことである。いちいち詮索する気は中西にはなかったが。

「やあ、桃山さん」コートの内側に入らないようにしながら、中西は桃山に声をかけた。

「中西さん暇ですか?」

「まあ、暇っちゃ暇だ」実際、このあと予定があるわけではなかった。

「じゃテニスしましょう勝負しましょうあっち行ってください」

「いきなり言うなよ」

「斉木さーん。交代来ましたー。休んでくださーい」桃山は声を張り上げて反対側のコートにいる人間に言った。多分桃山と試合していた人間が斉木というのだろうし、斉木はもう疲れてしまって交代したがっていたのだろう。コート外でへばっている連中に交代できそうな人間はいない。

「桃山さん。俺、運動する格好してないんだよね。それに、テニスなんてしたことない」

「大丈夫です。出来ます。とにかくあっち行って構えてください」

 押し切られるようにして反対側のコートへ行き、斉木さんと思われる女性からラケットを受け取った。何故この場所にジーンズを着ている人間がいたのかわかったような気がした。

 なんとなくラケットを持って中腰で構えていると、向こうの桃山がボールを高く上げて打ってきた。ジャンピングサーブというやつなのだろうが、それにしては動きがぎこちなかったしボールはへなへなだった。桃山も初心者なのではないだろうか。

 とりあえず来た球を打ち返したが、上手く打てずにネットに引っかかった。仕方なくそのボールを拾い上げて桃山がしたようにサーブを打とうとしたが、ボールはラケットに当たらなかった。運動は得意じゃない。ちゃんと当たるように下から打った。

 ルールも何もあったもんじゃなかっただろう。とにかく来た球を打ち返すだけの遊びだった。ツーバウンドだろうがスリーバウンドだろうが構わず打ったし、打ち返せなかったときは拾ったところから再開した。

 テニスなんてもんじゃない。ただの子供の遊びだ。

 五分もすれば息が切れてしまったので、交代してもらった。体力はないほうだ。だいたい、いきなりやれといわれてやれるもんじゃない。コートを出るとその場に座り込んでしまった。汗が服に染み込んで気持ち悪かった。

 ほい、と何かを差し出されたので顔を上げてみると、スポーツドリンクだった。これは大学生くらいの男が中西にスポーツドリンクを差し出している。中西は謝して受け取った。カラカラの喉にスポーツドリンクは美味かった。

「友達ですか? 桃山さんの」ドリンクをくれた大学生は中西の隣に座った。

「はい」

「俺もそうです。桃山さんは友達の友達でした。俺がその友達を歩いていると、桃山さんが通りかかってその友達と話しはじめて、なんかついでにいつの間にか俺も友達にされちゃってました」

「変な人だよねえ、桃ちゃんって」後ろから声がしたので振り返ると、今度は十代に見える女の子が話しに加わってきた。

「誰とでも友達になろうとするし、いつだって楽しく遊ぼうとする。本能の赴くままにいきてんねありゃ。子供だね、子供」

「のわりに、きっちり参加してんじゃねーか」彼女の友達だろうか、彼女と同年輩の女の子が彼女の肩を掴んだ。「楽しそうにテニスしてたのは誰だよ」

「そりゃ、さ、あんなに嬉しそうに誘われたら、断れないじゃん。暇だったし。みんなだってそうでしょ」

 その言葉には誰も応じなかったが、しかし中西の見る限りみな肯定の表情をしているようだった。

 桃山には人を惹きつける何かがあるとみた自分の目は正しかったと思った。

「おい、新入り、こっちこいや」呼ばれたので見てみると、全身垢まみれでよれよれの服をきた初老の男性に手招きされていた。その周囲にも二三人、同じような格好の人間がいる。

「ホームレス、ですか?」

「おうよ。そんなんでも桃ちゃんの友達にゃあ違いねえ。桃ちゃんファンクラブさ」

 中西は今さら驚かなかった。

「おめえよ、勘違いすんじゃねえぞ。誰だってよ、男なら一度は桃ちゃんに惚れるんだ。あんな明るくってかわいい娘他にいねえかんな。男じゃなくったっているかもわかんねえ。ま、そんぐらい魅力的な娘さ、ありゃ。だろ?」

「さあ?」

「でもな、誰一人としてその想いを持ち続けたものはいない。なんでかわかるか? 人間には分ってもんがある。分相応不相応ってやつだ。あの娘には、力がありすぎんのさ。恋人ってのは、隣で一緒に走り続けるやつのことだろ。誰だって、あの娘の隣で走るのは無理なんだ。あの娘と一緒にいるうち、いつか、諦めちまう。あの娘に並べる人間なんて、いやしない」

「彼女の力はよく認めているつもりですよ」

「まあ実際問題、そこまで行かずに告白したやつもいるんだけどな。若気の至りってやつかな。違うか。そいつがどうなったか知りたいか? 教えねえ。自分で確かめろ、そんなもん」



 灰皿には大量の煙草の吸殻がたまっている。映画が終わって中西はリモコンを操作してDVDを消した。煙草の袋に手を伸ばし、もう一本火を点ける。黒いテレビの画面の中に白い煙が微かに浮かんだ。

 少し前にロードショーされた、話題にもならなかった映画だった。原作が好きな小説で、暇が出来たので見てみることにした。

 原作から内容が大きく改変されていた。受ける印象も違う。中西はそれが悪いことだとは思わない。映画には映画にしかできないことがあり、小説には小説にしかできないことがある。もちろん、多くの小説から映画が生まれているからといって、小説が映画の材料に過ぎないわけではない。小説の方が映画より価値があるなどとも思わない。

 差し当たって、やらなければならない仕事はなかった。仕事がないわけではない。締め切りが近い小説は既に書き終えてしまった。中西は執筆速度の速い作家だった。今までにスランプで書けなくなったという事もない。多分、どこかでこれはビジネスだと割り切っているところがあるからだろう。

 深夜二時を過ぎていた。この仕事に就業時間というものはない。毎日決まった時間に執筆する作家もいるし、書きたいときに書く作家もいる。中西もどちらかといえば時間を決めずに書くほうだった。

 徹夜することもあるので今の時間はことさら遅いわけでもないが、仕事もないのに起きている時間でもないだろう。そろそろ寝ようかとも思っていたが、何故か今日は電話がなるような気がして、なんとなくベッドに向かう気が起きなかった。

 灰皿を洗うことにした。ヘビースモーカーではないと思っていたが、最近吸う量が増えた。洗っても洗ってもすぐに灰皿が一杯になってしまう。中西は不精な人間ではないので、溜まる都度きちんと洗っていた。

 中身を捨て、流しで洗おうとしたところで玄関の呼び鈴が鳴った。

「こんばんは」スピーカーをオンにすると、女性の声が流れてきた。菊池綾音だ。

「何の用?」予想が外れた、と思いながら中西は言った。

「ええ、ちょっと飲もうと思いまして。今忙しいですか?」

「それなら電話すればいいのに」

「ああ、いえ、先生のうちで。お邪魔でしょうか?」

「うちで? …まあ、ちょっと待って」と言って中西は玄関まで行き、ドアを開けた。

 そこには廊下の明りに照らされた菊池が一人と、暗い夜の空があった。賃貸マンションの五階だ。

「ほら、日本酒。残念会です」と菊地は手に持った一升瓶を差し出した。

「まあ、入って。何の残念会だ?」

「直海賞落選したでしょう? 先生が落ち込んでいると思って。すいません、変に期待させてしまって」

 菊地は勝手知った様子で中西の部屋に上がりこみ、台所でグラスを用意する。彼女が担当だったころ、ときどきここに来たことがある。

「君ね、あまりひとりで独身男性の部屋に上がりこむもんじゃないよ」

「先生も水割りでいいですか?」

 菊地は手際よく用意を終えると、居間のソファに座り込んでしまった。

「少しは話を聞け」

「先生、私に何かするんですか?」

「俺はしないが」

 菊地は笑った。

「大丈夫です。先生のことは信頼してますから」

 やれやれ、と思いながら中西もグラスを取り、椅子に座る。

「じゃ、とにかく乾杯しましょう」

「なにに?」

「落選残念でしたとこれからも頑張ってくださいの乾杯です」

 中西は無視してグラスに口をつけ、煙草に火を点ける。アルコールは好きじゃないが、請われて断るほど無粋じゃない。

 無視されたことを気にする様子もなく、菊池もグラスを傾け始めた。

「今回の落選は編集者としても一ファンとしても、本当に残念でした」

「そりゃありがたいが」中西も菊池の対面にある椅子に座る。「別に俺は落ち込んでない。前にも言ったように、別に受賞したかったわけでもないし」

「先生は少し変わってますね」

「君に言われたくはない」

「政治しなかったのが悪かったんでしょうか。私からしたら、先生の作品がナンバー1でした」

「作品の優劣を論ずるつもりはないが、受賞作は妥当だった。藤城さんは五度も候補になっているし、受賞が遅すぎるくらいだった」

 中西が言った藤城とは藤城成城という作家のことで、今季の直海賞の受賞者だった。藤城は既にベストセラーを何作かものにしている中堅作家だ。

「藤城さんは今まで運がなかったですよね。今までのノミネート作が全部他社の雑誌だったから」

「そういうところが芥台賞と直海賞の弱みだ。雑誌社が主催しているから、受賞作に会社的な偏りが出る。商業的に仕方ないんだが」

「商売に関係のない賞が必要なのかも知れませんね」

「うん……。いや、俺たちはプロなんだ。売上のことは考えなきゃいけないし、会社のことも考えなきゃいけない。ある意味、自分たちが食っていくことも考えなきゃいけない。作品の価値が全てっていうのは、プロとしては失格だ」

「でも、編集者としては、それはこっちの甘えのような気もするんですよね」

「もちろん、そっちも売れればいいっていうんじゃなく、文学全体のことを考えなくちゃいけない。まあ、だからこそ面白くもない小説を書いている俺なんかが食っていけるんで、今の状態もそれなりに正常なんだろうが」

「先生は人気ありますよ」

「一部にはな」と言って、中西はグラスを傾けた。もう中身が空になっていた。アルコールには強い方じゃなく、もう少し酔いが回ってきたようだった。冷蔵庫の方へ行って、空いたグラスにカルピスを注いだ。

「もう飲まないのですか?」菊池もグラスを空けてしまい、二杯目を手ずから注いでいた。

「酒は好きじゃない」

「そうですか」菊地は二杯目を一気にあおり、少し考えるようにしてから「先生、私失礼なことを言います」と言った。

「なに?」

「最近の先生は変です」

 菊地は三杯目を注ぎながら言った。

 ほう、と中西は息を吐いた。菊地は酔っているのか、それとも酔った振りをして本音を言おうとしているのかも知れない。何が出てくるのかと思った。

「どんな風に?」

「それは……」菊地は言葉に詰まった。「つまりません」

「何が?」

「小説です。先生の小説はおかしいです。間違ってます。少しも面白くない。先生、いったい何を考えているのですか? 何故あんなに面白くもないものを書くのです? あなたはそんな作家ではないでしょう?」

「そうかな」遠慮なく面罵されて少し腹が立ちかけていた。「面白い小説を書いているつもりなんだが」

「そうです。その通りです」酔っているにしては菊地の口調は平生と全く変わらない。「あなたは確かに面白い小説を書いています。きっと最近のあなたの小説を万民が歓迎するでしょう。きっとベストセラーになるでしょう。しかしそれは大衆に迎合した楽しいだけの小説です。信念も情熱もない薄っぺらなほら話です。来季の直海賞は取れるかもしれません。あなたはベストセラー作家になれるかも知れません。でも、そんな、そんなものが、あなたの書きたかったものですか?」

 中西は仕事机に置いてある煙草をとろうとして、やめた。煙草に頼ることは逃げになると思った。

「読者に受ける作品を書けと、君が言ったんじゃなかったか?」

「呆れた」心底呆れたという口調で、しかし全くよどみなく菊池は言った。「私のせいにするのですか? あなたはわかっていたはずです。私は読者に媚びろなんて言っていない。小手先で小説を書けなんて言っていない。私はあなたの作品にとってプラスになることをしろと言ったのです。あなたはわかっているのでしょう。あなたはあなたの矜持と情熱を捨ててはいけなかった」

 中西は無意識のうちに煙草を取り上げて、気がついて放り捨てた。

 菊地は立ち上がり、中西の放り捨てた煙草を拾い上げ、丁寧に箱の中に戻した。

「先生、私ひどいことを言いました。ごめんなさい。忘れてください。なかったことにしてください。お酒を飲みましょう。いえ、先生は飲まないのでしたね。代わりに私が飲みます。高かったのです、これ」

 中西は菊地の手から瓶を取り上げた。まだカルピスの残っていた自分のグラスに注ぎ、一気に飲み干した。妙な味がした。

 一瞬、世界が揺らいだ。目の前が真っ暗になった。アルコールには弱いほうだ。

 目の前に菊池の顔があった。「先生、大丈夫ですか?」菊池の声が遠くで聞こえた。

 妙に腹が立ってきた。

「……何でもかんでも知った風な口、聞きやがって」

「はい?」

「俺だって……」思いつく限りの言葉で罵倒してやろうと思った。一つも思いつかなかった。混乱していた。泣きたくなった。泣くわけにはいかなかった。「ちくしょう、関係ないだろう君は。俺が俺の作品をどう書こうが、俺の勝手だ。知ったこっちゃないよ君は」

「そんな、なんてひどいことを」はじめて菊池の声が震えた。「関係ない、なんて……。……いえ、そうですね、私が悪いのです。先生はもう(やす)んでください。私は私で一人で飲みます」

 不意に、中西は我に帰った。自分がなにを言ったのか知った。菊地の顔が曇っているのをはじめて見た。

「ん……、む、少し酔ったようだ。すまない、もう大丈夫だ。君はもう帰った方がいい」

「いえ、先生を放ってはおけません」

「大丈夫だ。ひどいことを言ったようだ。すまなかった。取り消すから、どうか気に病まないで欲しい」菊地が台所に立って、水を持ってきてくれた。一飲みすると少しは気分が和らいだ。

「ありがとう。俺は大丈夫だから、気にしないで帰ってもらっていい」

「あの、でも……」菊地は少し言いにくそうにした。

「どうした?」

「あの、まだ私が持って来たお酒は残っているのです」

「なんだと?」

「ですので、それだけは飲んで帰ろうと思います。ああ、気にしないで、中西さんは(やす)んでいてください。一人で飲めますから。……中西さん、どうしました?」

 中西は呆れて笑っていた。



 拍手を聞きながら中西はギターを下ろした。万雷の拍手は彼に向けられているのではないことを彼は知っていた。賞賛とは異常へ向けられる花束である。彼の目の前にはスタンドマイクを前にして小柄なからだを一杯に跳ねさせて拍手に答えている女の子の姿がある。

 彼女は今、中西のギターに合わせて『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を歌った。彼女は最高のボーカリストだ。

 ボーカルは桃山だった。

 中西は懐から煙草を取り出し火を点けた。手が少し震えている。コードを抑える力を込めすぎたのかもしれない。桃山は振り向いて中西に握手を求めた。セッションが終わったときの彼女の儀礼らしい。

 長い間ギターは弾いていなかった。高校時代、暇をもてあまして練習した。それだけだった。人前で弾いたこともなかった。ましてやライブをしたこともない。ただ好きなように音を鳴らしていただけだ。だから上手くない。

 数日前、中西は喫茶店で頼んだコーヒーに手もつけず、煙草を吸っていた。吐き出した煙が天井へ昇っていきやがていつしか消えていくのを何とはなしに見ていた。何も考えていない。何も考えていないのは心地よかった。

「や、中西さん」桃山がやってきた。注文をとりにきたのはマスターだったので、桃山がウェイトレスをしているとは思っていなかった。

「ぼやっとして、思索ですか?」

「そんなところだ。桃山さん?」

「はい」

 中西はゆっくりと煙草を吸い、短くなったので灰皿に押し付けた。

「俺は昔ギターを練習していたことがあった。ビートルズに憧れていてね」

「彼らは私も好きです」

「一度、歌ってくれないか? 俺の演奏で」

「わあ、それは楽しそう」桃山は快く了承してくれた。

 ただし曲は『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を指定してきた。中西は『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を弾いたことがなかった。

「ライブをするときは、一度は必ずやる曲なんです」と桃山は言った。「聞かせたい人がいるの。どうしても一度は聞かせて、馬鹿にしたような顔で、だけど笑っているような顔で、ふーん、なんて、楽しいんだかつまらないんだかわかんないような感想を吐かせてやりたいと思ってるんだけど。そして私は告白するの。王子様王子様、私をあなたのお姫様にしてください、ってね。だけどあの人一度も来やしない」

 それから数日間かつての勘を取り戻しながら必死で練習したが、上手く弾けただろうか。少なくとも、ボーカルに値するような演奏ではなかっただろう。演奏を終えた今、少しの満足と後悔があった。

 握手をしながら中西は桃山に言った。拍手はまだやんでいない。

「桃山さん、俺と一緒に来ない? つまり、俺の故郷までついてきてくれということなんだけど」

「ありがとう」桃山は笑顔をみせた。「でも、ごめんなさい。私は行くわけにはいかないの。私には、うーん、なんていうかな、もう王子様がいるから」

「運命の相手ってやつ?」

 桃山は首を振った。「ううん。運命のことは知らない。運命なんて私は信じてないから。だけど、どうしても。何度考えたの、この人じゃないんじゃないかって。だけど、どうしても、どーうしたって。この人じゃなきゃだめなんだ。って。死ぬまで一緒にいたいって、なんか思うんだ。だから……」

 中西は苦いものを噛んだようにくくっと笑った。「それはいい」という呟きは多分拍手にまぎれて桃山には聞こえなかっただろう。

 拍手が途切れる前に中西は舞台を降りた。桃山は舞台に残り、別のバンドとライブを始めた。中西はカウンター席に向かい、マスターにコーヒーを頼んだ。

「いい演奏だったよ」

「ここのコーヒーは美味かった。いや、ここの雰囲気、マスターの人柄、ときどきあるライブ、全部含めて俺は好きだった」

「どこかへ行っちゃうの?」

「いいえ、帰るんです」

「もうここには来れないんだね?」

「ええ」

 出されたコーヒーはいつものように苦かった。

「さて」ライブが続いている中、中西は席を立とうとした。

「いいの? 桃山さんを待たないで」

「ええ、やるべきことは終えました。あとはもう一人。それが俺がこの町で出会った全てだ」

 中西は立ち上がった。曲が終わったのか拍手が巻き起こった。

「結局、完敗だったな。研究も、それに……」中西の呟きは拍手にまぎれた。

「元気でな」マスターの声が後ろから追いかけてきた。

「マスターも」振り向かないで中西は手を振った。

 次の演奏が始まる前に中西は店を出た。



 店内は薄暗かった。狭苦しい空間で、しかし空調が効いているのか案外空気はよどんでいない。手にビールのジョッキを持った男女がいくつかのテーブルに別れて談笑している。彼らの心底楽しそうな顔つきはあたかも世の中に悲しみが存在していないかのようだ。

 中西は煙草に火をつけた。ここは禁煙ではない。アルコールに弱い中西は最初の一杯だけでもうジュースに変えていた。

 芽姫大学文学部の飲み会が行われていた。学部全体の親睦会という名目で行われ、中西の見知らない学生も多い。教授も英米文学やアジア文学といったさまざまな文学部の教授が出席していた。

 親睦会とは言うものの、各々気の合った仲間とグループを作って飲んでいるようだった。最初は同じゼミの友人と話していたのだが、その友人が別のグループに混ざっていってしまい、少し手持ち無沙汰だった。

 灰島の姿を見つけて中西は近づいていった。灰島は席の隅のほうで一人つまらなそうにジュースを飲んでいた。

「よう」と中西は声をかけた。

「よう」と灰島も応じた。

「意外だな、灰島が出席しているとは」

「うん、まあ、こういう場は苦手だ」

「飲まないのか?」灰島は一杯目からビールを飲んでいない。

「アルコールは嫌いだ。自律的な思考ができなくなるから」

「同感だ。俺は弱いほうじゃないが、あまり過ごさないようにしている。アルコールが入ると思考は拡散して、論理的な働きをしなくなる。こういう場なら少しは仕方ないとは思うんだが」

「怖いよ。普段の自分とはまるで違う思考をしてしまうことに。人間は結局細胞の集まりでしかないんだという事実を突きつけられる。思考も脳細胞の働きの結果でしかなく、外的物質によって容易に改変可能だという事実に愕然とする。アルコールは嫌いだ」

「お前、友達はいるか?」と中西は訊いた。

「少ない」灰島はふと気づいたような顔をした。「どうして?」

「俺は高校のころには気づいたよ。社会には見えないルール、ルールと言うか習慣みたいなものがあって、人間はその中で互いを了解しながら生きているんだって。その網のようなものの中でなら他者を捉えられる。逆に言えば、そこから外れた人間は理解する、理解したと思い込むことができない。だから、人間は自分を社会の網に適合させていかなくてはならない。そうすることが、生きていくってことなんだろう。そう思わないか?」

「思うよ」と、灰島はうなずいた。「だから僕は自分を社会に適合させる努力はしている」

 中西は吹き出した。「それでも、か」

「やっぱり外れているように見えるか」灰島は少し考えてから言った。「努力はしている。外れているという自覚もある。でも僕には自我もある。誰にだってあるだろう。人には中心点があって、そこからいかに社会的な人格に近づけることができるかということなんだろう。人間には限界がある。限界は人それぞれだ。僕は努力しているし、これ以上は僕の人格を侵す事になる。それは僕には耐えられない。充分じゃないかな。これ以上適合させる必要もないだろう」

「人間、色々だ」中西は楽しかった。自分も人から外れたところがある。自分を社会と適合させようとして、しかしそれは口で言うほど簡単なことではない。

 それがさして苦でもないのは、中西には研究があるからだった。研究している間は社会との関係を封鎖することができる。孤独に真理を追い求めることができる。自分にはそういう生き方がある。灰島もそうだろう。

「人間に優劣があるかな」と灰島が訊いてきた。

「ない」中西は断言した。「その根拠としては、例えば人間の多様性が挙げられる」

「そうかな」灰島は反駁した。「常識的にはそうだろう。しかし実際はどうかな。誰もがオリンピックに出られるわけではないし、誰もが長く生きられるわけでもないし、誰もが他人と明るく話せるわけでもない。なぜこんなに、個々によって明白な差があるんだろう。人間は平等でもなければ世の中に条理はないんじゃないだろうか」

 中西にはわからなかった。中西はこれまで自分の生き方を否定しなければならないような挫折をしたことがなかった。個々の差のあることは認めるがそれは優劣とは関係のないものだと思っていた。

「でも、少しわかる気がする。灰島の論文を読んだよ。学問の王道というべきものだ」

「王道?」

「学問に王道なしの、ロイヤルロードじゃない。学問のあるべき道。学問のとるべき姿だ。ある小説でそういう使い方をしているのを見て、俺も王道を肯定的な使い方をしている。王道っていい言葉だろう。……君の論文は、癪だが、すばらしかった。とても勝てないと思った。わかっている。研究は勝ち負けじゃない。でも、君にはどうしても勝てないと思ってしまう。敗北を感じている」

「質の悪い冗談だ」

「冗談じゃない。君の研究態度は、地盤を固めながら一歩一歩踏みしめていくというものだ。遅々としても確かに研究を進歩させていく。あれこそが学問のあるべき姿だ。学問の王道というものだ」

「馬鹿な」灰島は少し声を荒げた。「僕は……僕こそ中西には勝てないと思っていた。君の革新的な論理にはどうしても敵うべくもないと……。何故だ。君の研究こそ文学を高めていくものだ。君の論文は野心に満ち飛躍的で、必ず文学の新しい道を切り拓いていくものだろう。それこそが……君の言う学問の王道だ」

「なんだと……」中西は愕然とした。とすれば、お互いに相手に対して敗北感を抱いていたということになるではないか。

「妙なものだな」灰島が言った。

「妙だ」

 どちらからともなく苦笑した。

「君は研究者の道を歩むのか?」

「うん……そうあれたらいいと思う。僕はそういう風にしか生きられないから。君もそうだろう?」

「俺は……」中西は少し言葉に詰まった。「故郷に帰ることになった」

「故郷に? 学校を辞めるということ?」

「そうだ。気ままに勉強できる立場じゃなくなったんだ。手はないでもないが、俺がやめるのが最善だ。だから俺は学校を辞めることにした。なに、研究は野にあってもできる」

「うん……でも……」灰島は気落ちしたように見えた。「さびしくなるな」

「今日話せてよかった。一度はこういう機会を持ちたかったんだ」

「ああ、僕もそう思って今日はここへ来た。

「いい論文を書けよ。そして俺に読ませてくれ」

「そっちこそ。いや、君ならどこにいたって論文を書くだろう。君の論文なら有名になるだろうから、僕が手に入れる機会は容易にあるだろう」

「そう、俺たちはそうやって研究者として生きていくんだ。乾杯しないか?」

「ああ、今日くらいはアルコールもいい」

「いや、俺たちにそんなものは似合わない。そんなもので思考を紛らせる必要はない。そうだろう?」中西はニッと笑った。

 灰島も笑って「そうだな」と言った。

 二つのジュースが運ばれてきて、無言で杯を合わせた。カンと鋭い音が響いた。」



 それからすぐ中西は芽姫を去った。



 それ以来灰島修吾とも桃山桃とも会っていない。



 受話器を置いてから、椅子に戻って中西は煙草に火を点けた。最近馬鹿みたいに煙草の量が増えている。大量の煙に頼らなければ、もうぼんやりすることも出来なくなってしまったらしい。

 それは明らかに堕落だった。

 さっきの電話では、国が中西に賞をくれるらしい。何という賞だったか、聞いたはずだがもう忘れてしまった。多分受賞理由は多年にわたる芸術への貢献うんたらだろう。

 芸術への貢献などしていない。貰いたくはなかったが、プロになる以上貰えるものは全て貰うと、プロになるときに決めた。その決意のせいで、今まで何度意に染まぬことをしてきただろう。

 いつの間にか国から賞を貰う年齢になってしまった、と中西は思った。いつからか年を数えることをやめてしまった。調べればいくらでも確認できる。わざわざ覚えておくほどのことではない。

 煙草を吸い終わってから中西は小説の執筆に取りかかった。ただ主人公が活躍して読者を楽しませるだけの小説で、中西が書く必要もない小説だ。直海賞を受賞して以来、そんな小説の依頼が増えた。実験作を書きたかった中西は気乗りしなかったが、プロであるから、という理由で受けられる限りは引き受けてきた。そのうちそんな小説の依頼しか来なくなってしまった。

 いつの間にか、文学の可能性など追い求めることがなくなり、ただ生活のためだけに小説を書くようになってしまった。文学の研究書を読むこともなくなった。

 中西はいくつかのベストセラーを出している。仕事をしなくても死ぬまで生活できるくらいの貯蓄はある。

 ならば何故未だに小説を書いているのか、という自問を、今はもう中西はすることはない。その自問を発することは、自己嫌悪へと繋がらなければならないからだ。自己嫌悪へ正面から向き合う勇気が、中西には既にない。

 昔はしていた。

 何故小説を書くのか。

 まだ文学の可能性を広げるという仕事をなせるはずだからだ。

 ならば何故実行しない?

 自分は既に地位があり、会社や読者に責任があるからだ。責任のあるうちは果たすし、果たしながら少しづつやるべき仕事をやっていければいいと思う。

 それはしかし嘘だ。

 何度も実験作を書こうとしてきた。そして実際に書いてきた。しかし書くたびに、次第にこんなことをして何の意味があるのかという思いにとらわれるようになった。文学の発展に寄与するのではなく、ただ奇抜なことをやっているだけなのではないか、という気がしてきた。文学の真理はもっと別のところにあるのではないか、と。

 やがて実験作を書くことが苦痛になった。自分には文学の可能性を広げることなど出来やしないと思って怖かった。

 そのうちに読者受けのことだけを考えて書くようになった。それでも手を抜かなかったからか、それとも今までに得たネームバリューのおかげか、娯楽性だけを考えて執筆した小説の売れ行きはよかった。

 小説への情熱をなくしながらも小説執筆を続けているのは、未だに新しいものを書く希望を捨てていないからに過ぎない。やりたいにもかかわらずやらないという自己矛盾を中西は抱えている。

 行き着く先は自己嫌悪しかない。

 もう自嘲は疲れてしまった。ただ惰性で仕事をしているほうがいい。



 高級ホテルの広間で授賞式は行われた。国が主催しているだけあってさすがに規模が大きな授賞式だった。

 まだらに置かれたテーブルの上には手触りのいいテーブルクロスがかけられている。その上に並べられた料理の数々は目もくらむような高級品ばかりだった。

 部屋は広かったが出席者が多いので広くは感じない。各界の第一人者から集められた出席者はみな高級そうなスーツやドレスに身を包み、地位の確かさからくる余裕を漂わせながら近くの人たちと談笑していた。

 中西は隅のほうで一人つまらなそうに食事していた。今さらこんな場に気後れするようなこともない。自分も含めて、出席している人間がみな表面を着飾ることにだけ長けた偽者に見えて仕方なかった。

 そんな不機嫌な様子で他のものに接して、向こうまで不機嫌にさせることもあるまい。出来るだけ孤立し、話しかけられたときは挨拶だけしてやり過ごすことにしていた。

「中西さんじゃないですか」と声をかけられたときは、さすがにやり過ごすわけにも行かなかった。面識のある中堅の作家の土田遥堅だったからだ。土田とは雑誌の企画で何度か対談したこともあり、縁が浅くない。

「おめでとうございます。これで中西さんも偉人の仲間入りですね」

「褒章なんざ、何の価値もないさ。二階へ担ぎ上げられて、下から梯子外されるようなもんだ」

「どうしたんですか? えらい機嫌が悪いですね」

「年だな。最近、世の中のものが全部不愉快に見えて仕方ない」

「まだ若いじゃないですか。いい加減俺らに時代を譲ってくれらいいのにって、仲間とよく話してますよ」

「逆だ。お前らが育ってないから、俺がまだまだ現役でいなきゃいかん」これは半分嘘で、中西は後輩に当たる作家たちを充分認めている。しかし自分の予想をこえるような作品を書くものがいないことに対しては不満に思っている。

「おお怖い。みんなにも伝えときますよ。そうだ、今日は菊池女史が来ていますよ。もう会われました?」

「菊池女史とは誰のことだ?」

「我らが敏腕編集者、菊池綾音女史のことですよ。我々は女史には全く頭が上がりませんよ。僕らが若手の時代は、散々世話になりましたからね。悪いところは容赦なく指摘してくるし、しかもその全てが的確なんだ。僕なんか原稿渡したとき、また紙の無駄遣いしたねえって言われたことありますよ。そのくせ行き詰まったときはすごく暖かいんだ」

「菊地君か」中西は驚いたが、表情には出さなかった。「懐かしい。もう数年会っていない」

「そうなんですか? よく言われましたよ。中西雄介を見習えって。君もあの人ぐらい意識を高く持ちなさいって。それに、よく中西さんの話するんですよ。あんなにすごい作家はいない、あの人と仕事が出来たのは私の誇りだって」

「そうか。いつの間にか疎遠になってしまった。俺もあのころが一番よかったような気がするよ」

 昔はあれだけ頻繁に連絡していた菊池とは、実際にここ数年全く会っていなかった。少しずつ連絡する機会がなくなり、いつからかぷっつりと途切れてしまった。

 菊池の気持ちはわかるような気がした。文学に対する情熱を失ってしまった中西に愛想が尽きてしまったのだろう。中西も引け目があって無理に連絡をとろうとは思わなかった。

「じゃ、今日は数年ぶりの再会ってことになるんだ。ちょうどいいから俺連れてきますよ」

「いや」中西は手で制した。「悪いがよしてくれ。会うのはよそう」

「何故ですか? あっ、そういうことですか」土田が意地の悪そうな表情をした。「なあに、男と女なんて会っちまえば意外とさっぱりできるもんですよ。俺だって別れた女とよく遊びにいくもん」

「そういうことじゃない。というかお前、それは品性を疑うぞ」

「ひでえ。とにかく連れて来ますよ」土田はいそいそと去っていった。

 菊池に会いたくはなかった。会えば幻滅した表情をされるだろう。今の中西の著作を、彼女が評価しているはずはない。そんな表情を見るのは嫌だった。もしかしたら感情を隠して取り繕った表情をするかもしれないが、それはそれで嫌だった。

 来るんじゃなかった、と思った。このあと受賞スピーチがあるので、逃げるわけにもいかない。

 遠くから土田が女性を連れてくるのがわかった。一目で菊池だとわかった。菊池を見るのは数年ぶりだったが、少しも変わっていないような気がした。

 気を利かせたつもりか、土田は菊池を案内しただけで、こっちまでは来なかった。

 まずなんといおうかと考えていると、向こうから口火を切った。

「最近の先生は、いけません」

 数年ぶりに会って、第一声から否定だった。それをたいして驚かなかったのは、そうあるべきだと思っていたからかもしれない。

「駄目かな」

「いけません。読者に媚びています。最低です。もう引退すべきなのではないですか? 書くべきものが尽きたのでしょう」

 今までになく、辛らつな言葉だった。しかし腹も立たなかった。それは自分でも考えすぎるほど考えてきたことだったからだろう。

「そうしようかな」

「はい、そうすべきです」

「でも、俺には責任がある。会社とか…」

「大丈夫です。私がなんとかします」

「君は会社を立ち上げて独立したんだってね。でもまだ小さいんだろう? 無理はしないほうがいい」

「作家を守れない編集者なら、いりません」

「俺の小説を待っている読者もいる」

「情熱を失った作品を読ませるほうが失礼だとは思いませんか?」

「君は強くなったな。いや、強かったのか」

「先生は弱くなりました。それとも弱かったのですか?」

 中西は少し考えた。今までの自分のことを改めて考えてみようと思った。

「多分、弱かったんだろう。……そうだ、弱かったんだ。今まで気づかなかった。そうか、俺は元々弱かったんだな」

 中西の後ろに、この授賞式のスタッフが来ていた。そろそろスピーチを行うので準備して欲しいと言われた。

「頼ってほしかった」振り向いて壇上へ向かう中西の背中に菊池の声が追いかけてきた。「弱音を吐いてほしかった。助けてほしいと言ってほしかった。です」


 壇上のスタンドマイクの前には、別の受賞者のスピーチが行われている。

 その後ろの椅子に座り自分の順番がくるのを待ちながら、中西は考えていた。

 自分は今までなにをしてきたのだろう。

 長い間、自分は何事かを成し遂げられるのだと思っていた。何事かを成し遂げられると思って、今まで生き続けていた。走り続けていたと言ってもいいだろう。

 物心がついてからは、文学の可能性を広げるという、それだけを目標にしてきた気がする。

 ずっと全力で、一切とは言わないが手を抜かずに取り組んできたと思う。

 だが結局は何事も成し遂げることは出来なかった。

 研究は捨て、実作は行き詰まった。

 前の人のスピーチが終わって、中西が紹介された。

「では次は中西雄介さんのスピーチです。中西さんは多年に渡り多彩な文学活動を続け、文学に対する多大なる貢献を果たしました。今回はその偉大なる成果を讃えての授賞です」

 中西はのろのろとマイクの前に進み出た。

 進みながらも中西は考えていた。

 自分は一体今までなにをしてきたのだろう。何も果たせてはいないではないか。何事かを成し遂げられると思っていた自分は、結局何も成し遂げることなしにここにいる。自分はその人間ではなかったのだ。

 何故だ。

 何故自分にその力がないのだ。何故天は自分にそれを与えてはくれなかったのだ。

 手は抜かなかったはずだ。真面目に、真摯に人生と向き合ってきたつもりだ。それとも、まだ足りなかったというのか。確かにその通りだ。

 自分は文学の王道を行くつもりで、いつしか簡単な道へと流れてしまっていた。確かにそれは罪悪だ。しかしならばどうすればよかったというのだ。あのまま無意味な苦闘を続ければよかったのか。

 マイクの前に立った中西を聴衆は拍手で迎えた。

 それとも、望んだことが悪いというのか。何かを成し遂げようとなどと、大それた希望だというのか。

 しかしならば何故生きるのだ。生きるには希望が必要なのではないのか。

 なんなのだいったい。

 拍手は次第に静まり、しかし一向に話し始めようとしない中西に聴衆はざわめきはじめた。

 壇上で、中西は泣いていた。


新しいの書きました。

三万字超えましたか。もう少し少なくしたいんだけどなあ。まあいいか。

十月ですか。まあいいんだが、もう少しさっさと書きたいんだけどなあ。

作中に登場する小説とか作家とかは当然フィクションですよ。王道って言葉を肯定的に使った小説は実在する。王道っていい言葉ですね。

ロイヤルロードだとちょっと意味が違ってくるらしい。タイトルにしようと思ってたからどうしようかと思ったけど、まあいいか、ということでこのタイトルです。

もうそろそろこの物語も終わりかなあ、と思いつつ、また次も書くかもしれません。とりあえずやっぱり完結にしときます。

あと、この小説全体のタイトルを変えるかもしれません。というか変えます。そのうち。特に意味のない仰々しいタイトル(いわゆる中二病ですね)で、まあいいかなあと思ってたんだけど、変える。

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