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亡き王女のためのパヴァーヌ

 集会所の中にはピアノの演奏が鳴り響いていた。板敷きの間のこの部屋は綺麗に整頓されていて、ピアノがあるほかはがらんとした空洞のようだった。白壁の上の方に設けられた窓の向こうには夕日が輝いている。傘立てに置かれた赤い傘がより真っ赤に染め上げられていた。緩やかな風が吹いて葉のない銀杏の枝を揺らせた。

 桃山は独りピアノを弾いていた。

 もう何曲目になるだろう。休むまもなく弾いているせいで腕が攣りそうだった。お腹が減っている気もする。なんども流れては乾いていく涙のせいで頬が荒れてしまって痛い。

 それでも桃山は演奏を続けた。どれだけ流れても涙を拭う気はしない。

 僅かな音を立ててドアが開けられて、灰島が入ってきた。灰島は幽霊のように静かに歩き、壁を背にして床の上に座る。

 桃山は演奏を続けたまま、泣き顔を灰島の方に向けてその姿を認める。桃山は何かいおうとするのだけれど、言葉が出てこない。灰島も目だけを桃山の方へ向け、何もいわない。

 灰島は沈黙したまま、じっと目を閉じ演奏に聴き入る。

 いくつかの演奏が終わり、桃山は次の曲の演奏を始めた。『亡き王女のためのパヴァーヌ』だ。

「下手くそだな」灰島が呟いた。

「灰島さん」震える声で、桃山は言った。涙と疲労のせいで演奏はめちゃくちゃだった。

「構わない」灰島も微かに声を震わせながらいった。頬を流れ落ちた雫が編みの拙いマフラーを濡らした。「いいからずっと聞かせてくれ」



 赤十字病院の広い玄関を出ると、小雨が降っていた。紅葉は傘立てから持参していた自分の傘を取り出し、パッと開いた。紅葉の目の前に赤い花が開いた。色とりどりの花で飾られているその傘は、紅葉のお気に入りのひとつだった。昔お母さんとデパートへ買い物に行ったとき、ふと見たその傘に一瞬で心を奪われた。紅葉には大きすぎる、とか、学校行くときに使う傘があるでしょ、とか言って渋るお母さんを、必死で説得してその場で買ってもらった。それ以来、紅葉は雨が大好きである。

 今日も、朝どんよりと立ち込めている雲を見たときから、雨が降ればいいと思っていた。病院に行かなければならない日は少しだけ気分が落ち込む。雨が降れば、傘を差せる。真っ赤な傘をさして歩いて帰ろう、と思えば少し気分が和らいだ。

 病院の玄関からぴょんと飛び跳ねると、紅葉はあらと思った。ちょうどそこに水たまりがあったため、靴が少し濡れてしまった。まだ靴下までしみこむほどではないけれど、帰っているうちに濡れてしまうだろうな、と思った。そうなったら冷たいなあ。

 まあいいか。

 紅葉は困ったことや嫌なことがあったりすると、決まって最後に、まあいいかと考える癖がある。いつからその癖が身についたのかわからない。生まれつき楽天的に出来ているのかもしれなかったし、後天的に身についた諦めの境地かも知れなかった。どちらにせよその癖があるおかげで紅葉は落ち込むということがなかった。だから彼女は明るい性格だと周囲に思われていたし、友人も多かった。いつもニコニコしている紅葉を誰にも同情することも仲間はずれにすることも出来なかった。

 紅葉が小さなステップを踏みながら歩いていると、ふと何かに気づいたように「あら」と声を上げた。道路の左右を確認して、車が来ないのを確認してから、彼女は道路に飛び出す。昼過ぎの学生通りには人気もまばらだった。

「修兄ちゃん」道路の向かいにたどりついた紅葉はそこにいた人物に声をかけた。

 彼女に修兄ちゃんと呼びかけられた人物は、「ん?」といい、紅葉の顔を確かめた。

 彼は紅葉の施設によく「遊びに来る」大学生だった。遊びに来るくせに、あまり子供と遊んでくれないのでほとんどの子供たちには人気がない。ただ、勉強を丁寧に教えてくれるので小数の子供たちから慕われている人だった。

 勉強よりも遊ぶほうが好きな紅葉にはあまり縁のない人だが、顔は覚えていた。

「えっと、君は」修兄ちゃんは紅葉を覚えていなかったらしく、少し戸惑っているようだった。

 なんだ、こっちはちゃんと覚えているのに、と紅葉は不愉快になった。すぐ気を取り直して「私は」と名乗ろうとするのを、修兄ちゃんは手で制した。

「いや、大丈夫、覚えている、確か――向田紅葉さんだっけ?」

 なんだ、覚えていたのか、と思って、少し意外に思った。ほとんど話したこともない紅葉の名前をフルネームで覚えているんだから、さすがに頭のいい人は違うな、と思った。いつも勉強の好きな子たちの相手をしている修兄ちゃんは、紅葉にとっては頭のいい人だった。紅葉は修兄ちゃんのフルネームまでは覚えていない。

「よく知ってたね」と紅葉は言った。

「名前はね、大事なものだから、人間が人間であるために。いや、そんな話はやめておこう。どうしたの、今日は?」

 それはこっちの台詞だ、と紅葉は思った。

「私は病院の帰り。修兄ちゃんこそ、こんなところでなにやっているの?」

 紅葉と修兄ちゃんがいるのはバス停で、時刻表があり、歩道に沿ってベンチが備え付けられている。ベンチを覆うようにしてつけられている雨避けの黒い庇から雫がぽたぽたと流れ落ちていた。

「どこ行くの?」

「いや、雨宿り」修兄ちゃんは空を見上げる振りをした。「急に雨に降られたんでね。いい加減止まないかと思うんだけど、そう上手くはいかないな」

 雨宿りか。ということはこの人は今日の朝傘を持って出かけなかったんだな。今日の雨雲の様子じゃ、誰だって雨が降ることは予想できるはずだのに。見かけによらず、抜けている人なんだな。

 そのまま見捨てて立ち去ることはためらわれたので、紅葉は言った。

「ねえ修兄ちゃん、どこまで行くの? こっから遠い? かわうそ園の近く?」

 かわうそ園の近くまでなら、傘に修兄ちゃんも入れて、一緒に帰ってあげよう、と紅葉は思った。かわうそ園というのは紅葉のいる施設の名前で、紅葉は今からそこに帰らなければならない。

 相合傘っていうのは大好きな人とやるもので、紅葉はとても恥ずかしかったのだけど、まあいいかといつものように結論付けた。ここでこうして困っている人を見捨てて帰るほうが、恥ずかしいよりずっとよくない。

 しかし、修兄ちゃんの答えは紅葉の予想とは違ったものだった。

「いや、すぐそこ」と修兄ちゃんが差したのは、病院の道路を挟んで向かい側にある芽姫大学だった。

 そういえば、修兄ちゃんは大学生なので、そこにある大学の学生なのかもしれない。ならば、修兄ちゃんがこんなところで雨宿りしているのは当然ありうべき現象なのだ。

 もちろん、傘を持って外出しなかったのは失策だけれど。

「でも、こんな近くなんなら、雨宿りなんてしてないで、走っていっちゃえば良かったんじゃあない? ちょっとは濡れるけど、大して濡れやしないよ」

「それはそうだと思うし、その通りなんだけど、ちょっとでも止まないかなと思ってね」と修兄ちゃんは言った。「止むのは諦めるとして、小降りにならないかなあと思って、でも思っているうちにどんどん大降りになってってね。どうも今日は判断ミスが多い。上手く勘が働かない」

 本当に参ったという修兄ちゃんの顔を見て、紅葉は顔をほころばせた。修兄ちゃんは頭のいい、近寄りがたいイメージのある人物だったけど、実際はそんなことはなかった。紅葉たちと同じく隙のある、いや、ずっと隙の大きい人だったのだ。

「じゃあ、近くだし、いいや、ほら修兄ちゃん、入りなよ」といいながら、紅葉は傘を差し出した。身長差があるので、上手く修兄ちゃんの身体が入らない。

「入れてくれるの?」と修兄ちゃんはいい、一瞬の間があって、「好意は受け取ろう」と言って紅葉から傘を取り上げた。

 取り上げられたのかと思って、紅葉はちょっとあわてたが、修兄ちゃんは傘を心持ち左にずらして、紅葉の入るスペースを空けていた。またあわてて、紅葉はそのスペースに入り、並んで歩き出した。

 なんだかなあ、と紅葉は思った。大人は、ずっこい、なんたって、背が高いんだもん。

 このとき紅葉は気づかなかったが、紅葉の身体は全く傘に覆われていて濡れなかったし、歩調もいつものペースで歩くことができた。修兄ちゃんが上手く子供の紅葉に合わせて行動しているからだった。

 それでも紅葉は少し窮屈だった。なんと言っても、修兄ちゃんと話すためには見上げなければならないのだから。

「今日の朝ね、園の玄関に新しい絵がかかっていたの。綺麗な紫陽花の絵だったの。園長先生が持ってきたのかな。修兄ちゃんまだ見てないでしょう。今度来たときに見るといいや。とても綺麗な絵だから」

「絵か、それは見てみたいもんだ」と修兄ちゃんは言い、少しして「ま、相沢次第かな」と言った。

 相沢って誰だったろう? 私の知っている人だろうか。

「ああ、えっと、園では(けん)兄ちゃんって呼ばれてる人だよ。僕をかわうそ園に連れて行った張本人」

 健兄ちゃんといわれて、紅葉はようやくわかった。健兄ちゃんも修兄ちゃんと同じく大学生で、修兄ちゃんとは違って面倒見がよく明るくみんなから人気のある人だった。ただ少しだけ無神経なところのある人で、紅葉はなんとなく好きになれない人だ。

 紅葉たち子供たちにはよくわからないことだったが、恐らく健兄ちゃんが大学生たちのリーダーで、その証拠に多くの大学生が健兄ちゃんに気を使っているし、大学生が来るときはいつも健兄ちゃんがいる。修兄ちゃんなんかはほとんど来ない。

 多分、修兄ちゃんは健兄ちゃんに無理やり園に遊びに越させられているのだ。

 と思い、紅葉は同情と憤慨がない交ぜになった感情を感じた。同時に、やっぱり修兄ちゃんは頼りにならないな、と思った。

「修兄ちゃんは健兄ちゃんに無理やり連れて来られてるんだね」と紅葉は率直に言った。

「まあ、そういうことになるかな。だから、あいつが行かない限り、僕も園にいかない」

「よわっちい」と、紅葉は言った。「修兄ちゃん、よわっちいな」

 怒るかと思ったが、修兄ちゃんは、その通りだと笑っていた。

 なんだ、怒ることもできないのか、と紅葉はますます情けなくなった。やっぱり、ガリベンって奴はよくない。なよなよしていて細っこくて頼りない。

 紅葉は半ば憤った調子で、「とにかく、健兄ちゃんなんかには構わず、遊びに来てよ。本当に綺麗な絵なんだし、みんな修兄ちゃんと遊びたがってるんだから」と言った。これは完全に嘘だった。綺麗な絵ではあったが、わざわざ無理に見せなければならないほどの絵ではないし、みんなが修兄ちゃんと遊びたがっているということはない。そもそも時々遊びに来る大学生など、子供たちにとって台風と同じで、来ているときは楽しいけれど過ぎ去ってしまえば忘れ去ってしまうほどのものでしかない。

 紅葉は言ってしまってから自分が嘘を言ったことに気づいたが、言ってしまった以上もう撤回することもできない。どうしようと思ったが、まあいいやと思った。撤回するほどのことでもない。

 修兄ちゃんはその嘘に気づいているのかいないのか、じゃあそのうちに、と言って紅葉に傘を預けた。いつの間にか紅葉と修兄ちゃんは大きな建物の前に来ていた。これが大学というところなのだろうか。外観だけ見れば、紅葉の学校と変わらない。

「帰り道は、わかる?」と修兄ちゃんが聞いてきたので、紅葉はうなずいた。うなずいてから、大学から出る道のことだと気づいた。紅葉の周りは明らかに紅葉の知らない土地だった。まあいいか。来た道をたどればでられる。

「じゃあ、どうもありがとう」と言って、修兄ちゃんは手を振った。紅葉は「うん」とだけ言って別れた。

 数歩歩いて振り返ってみると、もうそこには誰もいなかった。不意に重苦しい空気が上から紅葉を圧してきたようだった。雨は飽きることなく降り続いていた。



 父親の顔を紅葉は覚えていない。もし見たことがあったとしても、それはよほど幼いころの話で、要するに物心つく前の話だ。多分見たことすらないのだろう。

 何故自分に父親がいないのか、よくわからない。お母さんと喧嘩したからなのか、それとももう死んでしまっているのか。紅葉は聞いたことすらない。聞くといって、誰に聞けばいいのか。

 お母さんの顔は、よく覚えている。それも笑った顔のほうを、よく覚えている。紅葉が悪い子供だったせいか、お母さんはよく怒っていたのだが、それでも時々は、お母さんは笑った。そんなお母さんの顔が紅葉は好きだった。

 かわうそ園にやってきてから、紅葉は一度もお母さんに会っていない。他の子達は時々お父さんやお母さんがやってきて一緒に出て行ったりするのに、紅葉の母親は一度も顔を見せに来ることすらない。

「そりゃ、あんた、捨てられたんだよ」と零ちゃんは言った。零ちゃんというのは紅葉と同じくかわうそ園で暮らす子供で、もう高校生である。零ちゃんは頭がよくって学校の成績が優秀で、奨学金と言うものをもらって大学にいくことがほぼ決まっている。

 しかし紅葉は――かわうそ園に暮らす子供みんな、零ちゃんが先生たちに隠れて煙草を吸っているのを知っている。煙草を吸う子供は園にはたくさんいたし、もし先生に見つかれば説教されるのだけど、零ちゃんが見つかったことはない。誰も先生にちくったりしない。それは裏切り行為になるからだ。おかげで零ちゃんは、先生たちの間では優等生ということになっている。

 そういうわけで、零ちゃんをやっかみ半分で嫌っている子供はいる。いるというより、多い。

 しかし紅葉はそうではなかった。零ちゃんは煙草を吸うけど、面倒見もよかったからだ。紅葉たち歳の離れた子供とも、よく遊んでくれた。先生に許可をもらって、遊園地に連れて行ってくれたこともある。紅葉にとって、零ちゃんは大好きなお姉ちゃんだった。

 そんな零ちゃんに、ある日「どうして私のお母さんは私に会いに来てくれないのかな」と言ってみた。

 すると零ちゃんは「そりゃ、あんたは捨てられたんだ」と言った。

 よく意味がわからないできょとんとしている紅葉を尻目に、零ちゃんは続けた。「あたしも一緒だよ。あたしは捨てられたんだ。あたしたちは独りなんだ。何者にも頼らず、独りで生きていかなくちゃいけない」

 そのときの紅葉には零ちゃんの言った意味はわからなかったが、成長していくにつれて少しずつわかるようになってきた。紅葉のクラスメイトたちは、もちろんみんな両親がいる。彼らはみんな、どこか甘ったれていると、紅葉は感じていた。芯が通っていない。誰かに寄りかかっている。

 というより、諦めていない。

 それは彼らが孤独でないからだった。頼るべき誰かを持っているからだった。例えば、ふざけて煙草を吸っても、怒ってくれる人がいる。そんな安心感の中で、彼らは生活しているのだった。紅葉とは違う。

 紅葉は日々の中でよく笑った。楽しいときも笑ったし、楽しくなくても笑った。辛いときには声を上げて笑った。それはいつのころからか身についた習慣だった。しまいには、自分が今なにを考えているのか、わからなくなっていった。

「紅葉はよく笑うんだな」と、みんなで遊んでいて、紅葉と零ちゃんが一緒に端で休憩していたとき、零ちゃんが言った。

「笑ってないよ」と紅葉は言った。紅葉は実際に、その自覚がなかった。

「笑ってるさ。馬鹿みたいにへらへらと」と言って、零ちゃんは何かを考えるように空を見上げた。その横顔が紅葉にはすごく大人っぽく見えた。

「馬鹿かなあ、私は」と言って、紅葉は笑った。馬鹿といわれて、憤りも感じたが、それよりも笑顔が先にきた。笑ってしまえば、怒るわけにはいかない。

「笑う必要なんてないさ」と零ちゃんは言った。「笑う必要なんてない。私たちは誰にも媚びる必要はない。私たちは独りで生きてかなきゃ行けないけれど、独りで生きていくことができるだろう? だったら、笑う必要なんてないんだ」

「零ちゃんはそういうけれどさ、私、考えてみたんだけど、零ちゃんは独りじゃないよ」

「そうかな。一体誰がいる。捨てられてしまった私に」

「かわうそ園のみんながいる。私がいるよ」

 と紅葉が言うと、零ちゃんは頭をかいた。それから微笑した。「そうだな」と呟き、「そうかな」と呟いた。

 零ちゃんは「紅葉はいい子だな」と言い、紅葉の頭をなでた。子ども扱いされているので反発も感じたけれど、くすぐったいように嬉しかった。

「でもな、やっぱり私は、誰とも繋がっていない。寄りかかっていない。それでいいんだ。でも、やっぱり紅葉は、笑わなくていいよ。あんたが笑ってるのは、そりゃ私たちからすりゃ楽しいんだけど、そんなの、関係ないよ。あんたは、あんたのしたい表情をすればいいんだ」

 お母さんに会えないのは悲しかった。お母さんに連れられて初めてこの園にきたときは、知らない場所で寝起きするという体験でどきどきしていた。夕方になり初めて知った人の居ない場所で夕食を取るとき、さびしくなった。その夜は泣かなかったけれど、次の夜は我慢しきれなくなって泣いた。その次の夜も泣いた。その次の日にはようやく、自分が一人である事に気づいて泣かなくなった。そのころから、言語にはできなかったが、紅葉は生きていくということは何かということについて考え始めていた。

「生きていくってのはな」ずっと後になって、零ちゃんが言った。編み物の手を休めないまま、紅葉はその言葉を聞いた。「孤独なレースみたいなもんだよ。ずっとずっと独りで走り続けて、いつか力尽きてあっけなく終わるんだ」



 春がたけて桜の花びらが空の中で舞っていた。紅葉は春のにおいを嗅いだ。薄く爛れて、それでいて桃源郷のような匂いだ。この香りに感慨を抱くためには、紅葉はまだ若すぎる。

「ね、ね、次は何して遊ぶ?」

「そうだねぇ」と桃ちゃんはひょうきんぶって応えた。「あたしゃ、もう何も思いつかんよう。なんかリクエストはあるかい」

 かくれんぼしよう、と紅葉の一つ下のりっくんが答えた。一緒に遊んでいるのは十人ほどで、これはかわうそ園に住む小さな子供ほぼ全てにあたる。紅葉は普段、男子とはあまり遊ばない。男子が嫌いというわけじゃないけれど、なんとなくそういう形になっている。

 今日は例外だった。その理由はこの桃ちゃんという人にあった。桃ちゃんはかわうそ園に来るなり、高声で「オッス」と叫び、「鬼ごっこする人この指とーまれ」と手を高く掲げたのだった。

 その表情があまりにも楽しそうだったので、つい何人かがその誘いに乗ってしまった。紅葉もその中の一人だった。何人かは自己紹介もしないこの大人の女の子を訝って動かなかったのだが、桃ちゃんは「へいへいへいへいそこの子らも一緒にやるよ。なんたって遊びってのはみんなでやったら楽しいもんだからね。ほらほらほらほら集まった集まった」といって全員集めてしまった。一体何のために志願者を募ったのだろう。

 紅葉はあまり乗り気でなかった冬ちゃんや梢ちゃんのために「まあいいじゃん」と極めておざなりな慰めをかけておいた。楽しそうなことは楽しんでおかなくては損だ。

 それから二時間ばかりはあっという間に過ぎた。子供のパワーというのは好奇心のためか、すさまじいものがあるが、しかしこの場で最もパワフルだったのは桃ちゃんだった。誰よりもエネルギッシュに走り回り、誰よりも陽気に楽しんでいた。そんな桃ちゃんに釣られてか、いつしか全員が全力で楽しんでいた。

 りっくんのかくれんぼという提案も悪くないものだったが、しかしそれは二つ前にもうやってしまった遊びだった。

「桃ちゃん、いいかげん自己紹介してよ」と紅葉が言った。休憩するのは子供たちにとっても必要なことだった。

「私? 私は桃ちゃんで大学生だよ。よくこんな風に大学生が来るんでしょう。それと似たようなもんだよ」といって、快活な笑顔を見せた。「みんなのことも名前くらいは教えてほしいところだけど、もう大体覚えちゃったなあ」

 桃ちゃんが遊びに来た大学生である事はみんななんとなく理解していた。いつも来ている健兄ちゃん他の知った顔はあったし、桃ちゃんも大学生くらいの年齢に見えたからだ。しかし、本来なら行われるはずの挨拶が桃ちゃんのせいでうやむやになってしまい、結局彼らが何者なのかわからないまま時間だけが過ぎていった。遊び始めて数十分ほどはリーダーである健兄ちゃんが桃ちゃんを止めようとしていたけれど、寸隙いれず遊び続ける桃ちゃんを止めることはできず、苦虫を噛み潰したような顔で遊びに加わっていた。

 得意げでない表情の健兄ちゃんを見るのは初めてだった。紅葉はなんとなく勝ち誇った気分になった。

「桃山さん」ちょうど遊びが一段落したところだったんで、健兄ちゃんが口を挟んできた。桃山さんというのは桃ちゃんのことだろう。「俺らそろそろ帰らなきゃいけないんで、終わろうか」

「むむっ。でも私はまだもうちょっと遊び足りない気分なんですな」と桃ちゃんは言った。桃ちゃんを帰らせたくない何人かが桃ちゃんの袖を握った。

「でも、先方にも予定ってもんがあるから。俺らの勝手で向こうの都合を崩しちゃいけないだろう」

 桃ちゃんはんーと考えて、下を向いて「駄目?」と訊いた。訊いた相手はもちろん紅葉たちだった。子供たちは誰も首を縦に振らなかった。夕食までにはまだもう少しだけ時間があったし、もう少しこのエネルギッシュなお姉ちゃんと過ごしていたかった。

「駄目じゃないそうです」

「いや、でもね」

 何か言おうとする健兄ちゃんを制するように、紅葉が言った。

「桃ちゃんだけ残ればいいじゃん」

「ん?」

 恐らく健兄ちゃんのほうが正しいことを言っているのだ。けれど紅葉は健兄ちゃんの肩を持ちたくなかった。それに実際自分たちにとって桃ちゃんは魅力的な人物だった。

「帰らなきゃいけないんだったら、健兄ちゃんだけ帰りなよ」

 健兄ちゃんは困ったような笑みを浮かべて何か言おうとしたけれど、その前に別の声に遮られた。

「ま、問題ないだろう」

 気づけばいつの間にか健兄ちゃんの隣に修兄ちゃんがやってきて、肩に手を置いているのだった。「あとのことは僕が責任を持つ」

 健兄ちゃんは修兄ちゃんの言葉に反抗しようとして、しかし言葉は出てこなかった。

「やれやれ、というところか」

「うん悪い」

 健兄ちゃんはすぐさま他の大学生に号令して、引き上げる準備をさせた。先生に丁寧にお辞儀をすると、子供たちへの挨拶もなしに帰っていった。子供たちは桃ちゃんに夢中なのだから仕方がない。

「迷惑かけましたか?」と桃ちゃんが言った。

「まあな」とだけ修兄ちゃんは答えて、あとは黙ってしまった。

 後で聞いた話だと、修兄ちゃんは桃ちゃんの先輩で、今日桃ちゃんがかわうそ園にやってきたのも修兄ちゃんに言われてであったらしい。「後輩のほうが僕よりも適しているからね」と修兄ちゃんは言っていた。

 さてなにをしようか、と思っていると、桃ちゃんが目を輝かせながら「わあ」と叫んだ。

「ピアノがあるんだね」桃ちゃんはかわうそ園にあるピアノを見つけて喜んでいるらしい。今まで気づかなかったんだろうか、と紅葉は思った。

「桃ちゃん弾けるの?」

「へっ」と桃ちゃんは言うなり、ピアノの前に座った。子供たちは唖然として桃ちゃんのすることをただ見守っている。

 桃ちゃんはピアノを弾き始めた。

 それは静かな、しっとりとした、やさしい曲だった。今までのエネルギッシュな桃ちゃんの姿とは似ても似つかない曲だった。子供たちはその曲を誰も知らなかった。しかし誰も文句を言わなかった。音色が綺麗だった。その音色は紅葉の視界に白いもやがかかったように、紅葉を陶然とさせるのだった。

 この世にはなんと美しいものがあるのだろう。

 曲が終わると桃ちゃんは元の元気娘に戻って、「はいじゃリクエスト募集!」と快活に言った。しかし誰も応じなかった。

「桃ちゃん、その曲」なんと言っていいかわからないまま、紅葉は言った。「……なんて曲?」

「亡き王女のためのパヴァーヌ」と桃ちゃんは言った。「いい曲でしょう。私の大好きな曲なんだよ」



 紅葉の体の外から見えないところに、十センチばかりの傷がある。今はもうすっかり治ってしまって、触っても全く痛みを感じないのだが、それはくっきりとした痕になって紅葉に刻まれている。何の原因でついた痕なのか紅葉は全く覚えていない。思い出そうとするとお腹が痛くなる。呼吸が苦しくなる。思い出す必要もない。

 この傷のことは園長先生と少数の年配の先生が知っているだけで、ほとんどの先生にもかわうそ園の友達にも秘密にされている。それは紅葉が希望しての配慮ではなかったが、紅葉にとってありがたいことではあった。この傷のことを知られることは、なぜだかわからないけれどお母さんにとってよくないことだと思われたからだ。

 だから紅葉は、特例として一人でお風呂に入ることが認められている。消灯時間の少し前、みんながお風呂を使い終わったあとの最後に紅葉は一人でお風呂に入る。シンとした一人で使うには少し広すぎるくらいの浴室の中で、紅葉は毎日一人で身体を洗う。鏡はできるだけ見ない。時々、湯船に浸かってため息をつく。大人の真似事のようで、その実妙に身体の奥に染み入るものがある。

 一度だけ例外があった。紅葉が脱衣所に入ってみるとそこに衣類を脱いでいる途中の零ちゃんがいた。零ちゃんは紅葉が入ってきても、ああ、という表情をしただけで手を止めなかった。紅葉がどうしていいかわからなくなってまごついていると、初めて紅葉がそこにいることに気づいたように「そうか」と言った。

「そういえば紅葉は特例なんだったな」

 特例という言葉はこの場合紅葉の身体に巻きついて嫌な感情を引き起こした。それでも紅葉は笑っていた。

「悪いね。十分もすれば出るから、そのあとに来てくれる?」

「うん」といって紅葉は出て行こうとしたが、ふと振り向いて零ちゃんに声をかけた。零ちゃんは浴室へ向かうところだった。

「零ちゃん、怪我したの?」

 零ちゃんは振り向いた。確かにその左腕には引っかき傷のようなものがついているのだった。ただその傷はもう癒えていて、紅葉の傷のようにただ痕が残っているだけのようでもあった。

「ああ、これのことか」と、零ちゃんは言った。「そうだよ。昔、怪我をした」

 その声は極めて平静な声だった。

「大丈夫?」何気なく紅葉は訊いた。

「大丈夫だよ。結局、誰にも知られることもなかったんだから。ただなんとなく、やってみたかっただけなんだろうな。ただ切っただけなんだから。死ぬつもりなんて、なかったんだよ、きっと」

 思いがけず死ぬという言葉を聞いて、紅葉はびっくりした。

「死ぬって、どういうこと?」

「なんだ、わかって訊いたわけじゃなかったのか」

「じゃ、それは、自分で切ったの?」

「そうだよ」そのときの零ちゃんは全く怖じる様子もなく、やけに堂々としていた。選ばれて読書感想文を発表している子のようだった。

「痛くなかった?」

「痛かった」零ちゃんは何故かほっとしたように笑った。紅葉の質問が意外だったのかもしれない。「痛かったから、もうやらない。紅葉もこんなこと真似しちゃ駄目だ」

 どうして自分がそんな真似しなくちゃならないことがあるのか。そう言おうとして、言えないでいると、零ちゃんはさっさと浴室のほうに向かっていってしまった。

 紅葉は一人で部屋に戻って本でも読もうかと思ったけれど、上手く頭に入ってこなかった。どうしても零ちゃんのことを考えてしまう。

 何故零ちゃんは自分の腕を切るなんてことしたんだろう。それは紅葉にとってあまりにも不可解なことであった。

人はどうしたっていつか死ぬ。死にたくなくったって絶対に死んでしまうんだ。わざわざ自分から死ぬ必要はないじゃないか。それは明らかに、死なない人間の(おご)りのように思えた。

 にもかかわらず、紅葉にはどうしても零ちゃんのことを憎むことも蔑むことも理解不能な人間だと割り切ることもできなかった。むしろ親近感のようなものを覚えた。何故だろう。

 その傷痕について、そのあとも紅葉はなんども零ちゃんに訊ねようとした。しかし、なんと訊ねればいいのかわからない。訊ねる言葉も見つからないまま、しかし紅葉の頭の中には疑問が渦巻いていた。言葉にもならない疑問を抱えていることは真っ白なもやに包まれているようで気分が悪かった。零ちゃんを見かけるたびに、零ちゃんとおしゃべりするたびに、紅葉は訊ねる機会を窺った。そのチャンスは何度でもあった。しかしその都度、紅葉は口篭ってしまって何も訊けずじまいなのだった。

 まあいいか。

 結局いつものようにまあいいかで済ませてしまった。その代わりに、もやは(おり)になって紅葉の体内に残った。


 病院での診察を終えてかわうそ園に帰ってくると、中から子供たちのわいわい騒ぐ声が通りの方まで聞こえてきた。いくら小さい子供が多い園でも、こんなに賑やかになることはほとんどない。中でも最も大きな声は大人の女の子の声だった。

 この声は、と紅葉は思った。聞いたことのある声だ。大人とは思えない、底抜けに明るい声。

 紅葉は広場に面した正門からは入らず、裏門から玄関に回った。広場に行ってみんなと遊ぶのもよかったけれど、その前に着替えてジュースを飲みたかった。それから、診察のことを先生に報告しなければならない。何でもないその報告が紅葉は嫌いだった。

 玄関のガラス戸の前に立つと、向こうに誰かいるのがわかった。背の高いその人は紅葉に横顔を見せる格好で壁に向かって突っ立っていた。壁にある何かを見ているらしい。あれは修兄ちゃんだ。

「修兄ちゃん」と紅葉が声をかけると、修兄ちゃんは顔だけ紅葉の方へ向けて「やあ」と言った。冴えない笑顔だ。どうにも修兄ちゃんという人はパッとしない。そのくせ妙に圧倒されるような存在感のある人なのだ。

「なにしているの?」といいながら修兄ちゃんの方へ近寄っていくと、答えを聞く前に解決された。修兄ちゃんの前の壁には一幅の絵がかかっていた。修兄ちゃんはこれを見ていたのだろう。

「絵なんか見て、楽しい?」と紅葉は訊ねた。世の中には美術館というものがあって、そこには日々絵の鑑賞をする人びとが集まっているということは知っているが、そんなコウショーな趣味とは紅葉は全く無縁な人間だった。

「いや」あっさりと修兄ちゃんは首を振った。「まあそれなりに面白いけど、正直絵画はよくわからないな」

「だったらなんで見ているの?」

「そりゃ、向田さんが見ろって言ったからだよ」

 そう言われて紅葉はびっくりした。そんなこと自分が言っただろうか。修兄ちゃんは何か勘違いしてるんじゃないだろうか。それとも、自分が忘れちゃってるだけだろうか。

 まあいいか。詮索しても仕方がない。

「てか、向田さんって」そんな呼び方、生まれてこのかたされたことがない。

「変かな」

「変だよ」

「じゃあ、どうしよう」

「そりゃ、紅葉ちゃんとか、みぃちゃんとかそういう風に呼んでくれればいいよ」

「そういうのは、苦手だ」修兄ちゃんは困ったという風に耳の後ろをかいた。「でもそうしろというならそうしよう」

 なんだか修兄ちゃんって、変な大人だな、と紅葉は思った。他の大人なら、何の疑いもなく紅葉のことは紅葉ちゃんって呼ぶのに。

「修兄ちゃんが来てるってことは、やっぱり桃ちゃんが来てるんだね」

「ん、うん」

 やっぱり通りまで聞こえてきた声の正体は、桃ちゃんらしい。

「ということは、健兄ちゃんとかも来てるの?」

「いや」

「へえ、珍しいね」

「そりゃ、今回は僕の私用だからね」

「シヨウ?」

「自分勝手な用事ってこと。つまりこれを見ることだよ。前は忘れていたから」

 修兄ちゃんはこの玄関にかかっている、誰が書いたのかもわからない一銭の値打ちもないような絵を見るためにやってきたらしい。それだけのことでわざわざやってくることに呆れもしたが、もしかしたら本当に自分がそう言ったのかもしれない。

「ん、じゃあどうして桃ちゃんも来ているの?」

「後輩は勝手についてきただけだよ。とはいえ、絵を見るってだけで来るわけにもいかないから、実際助かった」

 紅葉は修兄ちゃんを促して、食堂へ向かった。さっきから喉が渇いて仕方がなかったからだ。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、コップに注いで一気飲みする。ひんやりとしたジュースが喉の中を駆け巡っていった。今度は別のコップにも注いで、修兄ちゃんにも渡してあげた。

「いいの?」

「うん」本当は勝手に部外者に飲ませていいものではない。「修兄ちゃん、その代わり、一個質問していい?」

 返事の代わりに、修兄ちゃんはコップに口をつけた。

「桃ちゃんって、修兄ちゃんの彼女?」

 ドラマやマンガみたいにむせてしまうかと思ったが、修兄ちゃんは極めて冷静に口の中のジュースを飲み干し、ゆっくりと口からコップを離してから首を振った。

「いや」

「なんだ。てっきりそうなんだと思ってたけどな」修兄ちゃんの様子からすると、どうも嘘ではないらしい。

「じゃ、片思いだ」

「どっちがどっちに対して?」

「そりゃ、修兄ちゃんが桃ちゃんに対してだよ」

「残念。逆なら正解だったのに」

 逆ってことは、桃ちゃんが修兄ちゃんのことを好きなわけだ。

「うっそだぁ!」と紅葉は叫んだ。

 修兄ちゃんはにやっと笑って、「その通り」と頷いた。

「うっわ、なにそれ。ひどいや」といいながら、紅葉は笑った。

「しかし、紅葉ちゃんくらいの年頃でも、そういうもんかね」

「なにが?」

「だから、えっと、恋愛とか、そういうものに興味があるんだね。僕にはさっぱりだが」

「修兄ちゃんって、初恋もまだなんでしょ」

「そういう、わけでも、ない」

「それも嘘だね」紅葉はなんだか楽しくなってきた。

「私も、そういうことはよくわからないよ。クラスの友達の中には、付き合ったりとか、そういう話する子はいるけど。私は、好きになったりとか、よくわからない、というより」

 紅葉は言葉に詰まった。というより、なんだろう。興味がない、というのも違う。それよりも、もっと隔絶した感じだ。自分とは、全く縁がない、という感じ。自分の人生とは、全く交わることのない直線。

「そういうことしたって、意味がないよ。人間は最後には死んじゃうんだから。そうでしょ、修兄ちゃん」

 こういうことは、本来誰にも言ってはいけないことだ。なぜなら、こういうことは誰も言わないことだからだ。言ってしまえばみんなから別種の生き物であるかのように見られてしまう。だから、今までは誰にも言わないできた。今日つい言ってしまったのは、零ちゃんの傷のことが頭に残っていたからかもしれない。

「うん、その通りだ」と、修兄ちゃんは頷いた。

「修兄ちゃんは死のうと思ったことある? だからえっと、手首なんか切って、自殺しようとしたこと」

「思っただけならあるよ。やったことはない」

「どうして思ったの?」

 修兄ちゃんは少し考えてから答えた。「いや、理由はない。ただなんとなく」

「そうやって、適当なこと言ってるんでしょう」

「いや、実際に、いじめられたわけでもなく、お金がないわけでもなく、ただなんとなく死にたくなった」

「私にはわからないな。どうせ最後には死んじゃうのにわざわざ自分から死んじゃう気持ちが」

「どうせ最後には死んじゃうから生きていても仕方ない、ということも出来る」

「ふーん」そういう考え方もあるのか。

「ねえ修兄ちゃん。人は何で生きるんだろう。どうせ最後には死んじゃうのに」

「それは僕も色々考えたけど。紅葉ちゃんはどう思う?」

 そんなこと、今までに考えたこともなかった。

「文学があるからだとか、そういうことを言ってもいいんだけど、実際のところはどうだろう。もしも絶対不変の確実なことを言えというのなら、僕の場合、それは死ぬのが怖いからというしかない。それ以外の言葉は、多分嘘になる」

 死ぬことは怖いことだろうか。紅葉にはわからない。紅葉は今まで死ぬことが怖いと思ったことがない。なんとなく死は紅葉の隣にあって、それはいつか紅葉と静かに重なり合うのだと思っている。

「もし死ぬのが怖くないとしたら、修兄ちゃんは死ぬ?」

「さあ、どうともいえない」

「私は、どうだろう。私はどうして生きているんだろう」と、紅葉は呟くようにいった。「私、死ぬのが怖くない」

「そりゃ、いいことだ」

「ちっともいいことなんかないよ。私死ななきゃならないのかな」

「ふむ」修兄ちゃんは中空に目を向けて、少し考え込んだ。それから紅葉に目を向けて「紅葉ちゃん、ジュース飲みな」と言った。

「ん、どうして?」

「いいから」

 促されるままに紅葉はジュースに口をつけた。

「おいしい?」

「うん」

「ま、そういうことだろう」

「はあ?」

「それで充分だ」修兄ちゃんは一人満足げに頷いていた。

 なんだかはぐらかされてしまったみたいで、紅葉は眉をひそめた。修兄ちゃんなんて、結局のところは頼りにならないのだ。そう思いながらも紅葉の心の奥のほうは少し満足していた。

「後輩が暴れ回っているみたいだから、加わってきたら?」

「うん、そうだね」紅葉は立ち上がって、二・三歩行きかけたところで止まった。

 振り向いて「修兄ちゃんも遊ぼうよ」と誘った。

「いや、僕はあのテンションにはついて行けないから」

「いいからいいから」紅葉は満面の笑みを浮かべて、無理やりに修兄ちゃんの手を引っ張っていった。



 その日紅葉が学校から帰ってくると、どこかの部屋からピアノの音が鳴っているのが聞こえた。蝉が遠くで鳴いていた。拭っても拭っても汗が滴り落ちてきて、紅葉は部屋に帰ってからすぐシャツを着替えた。

 普段かわうそ園のピアノが演奏されることは少ない。昔ピアノが好きだった子供がいて、その子が園にいたときはよく演奏されていたらしいが、その子はもう大人になってしまって園にはいない。紅葉がそのピアノの音を聞いたことがあるのは、不意に興味を持った子供が何気なく弾いてみたときくらいだ。

 軽快な演奏だった。紅葉はとりあえず台所へ行って麦茶を一気飲みすると、そのままピアノのある集会所へ向かった。

 ピアノを弾いていたのは桃ちゃんだった。桃ちゃんはまるで子供のように様々に表情を変えながら、一心にピアノに向かっている。しかめつらをしたと思えば陶酔し、眉をひそめたと思えば笑窪を作る。体全体で演奏するその様は、見ているだけで楽しくなってくるようだ。

「桃ちゃん」と紅葉は声をかけた。「また桃ちゃん勝手に来ちゃったんだ」

 本来桃ちゃんはかわうそ園と何の関わりもない人物で、出入りすることはない。ただしかわうそ園のような「可哀想な子の集まっている場所」には大学生の集団が「遊びに来る」ことがあり、桃ちゃんはその集団の一員である(のだと思うのだが、紅葉はその点自信がない)。

 しかしそうしたお兄ちゃんお姉ちゃんが来るときは、事前に先生から通達があるものだ。先生に言わずに勝手に入ってくる人は、ただの不審者だ。

 しかし桃ちゃんは時々、そうした先生の通達なしでいきなりやってくることがある。何の前触れもなしに園の前にやってきて、例えば「もーみーじちゃーん、あーそーぼー」とやる。小学生が友達を誘うのとは違うのだから、当然先生の間で問題になったのだが、どう収まったのか紅葉はよく知らない。ただしばらくして健兄ちゃんとその仲間たちと修兄ちゃんがやってきて、先生と長い間話し合っていったのだけは知っている。

 その話し合いの間も桃ちゃんは子供たちと遊んでいたので、紅葉が訊ねてみると、

「のけ者にされちゃったんだ。私が入ると余計ややこしくなるって先輩がさ」

「どうして桃ちゃんは勝手に来ちゃうの?」

「んー、友達と遊ぶのに、いちいち許可なんか要らないって」と、桃ちゃんはケラケラと笑っていた。

 その話し合いの後、桃ちゃんは自由に一人でかわうそ園を訪ねるようになった。もしかしたら裏で先生に連絡していたのかも知れないけれど、少なくとも表面上は桃ちゃんは勝手気ままに子供たちと遊ぶようになった。

 健兄ちゃんたちもその後遊びに来ることはあったけど、桃ちゃんや修兄ちゃんと一緒に来ることはなくなったようだ。そんな問題があった後でもちゃんと活動を続けて、しかもちゃんと笑顔で子供たちと遊ぶことが出来るんだから健兄ちゃんもたいしたものだ。

「や、みぃちゃんか」紅葉に声をかけられて桃ちゃんは手を止めた。

「いいよ、ピアノ、続けて」

「んー、むずいなあ」と言いながら、桃ちゃんは演奏を再開した。話しながらの演奏なのでむちゃくちゃだ。

「勝手じゃないよ。みぃちゃんいないから、るぅに入れてもらったよ」いくら桃ちゃんでも、園内に勝手に入ってくるわけではないのだ。誰か子供が誘わない限り、桃ちゃんは園内に入らない。

「るぅは?」

「友達んとこ、遊びに行くって。約束してたんだって」

「それで、一人でピアノ弾いてたんだ」

「誰か来ないかなあって。みぃちゃん、よく来てくれました」

「桃ちゃん、一人で来たんだね」

「んー、まあねぇ。先輩、あれはあれで忙しい人だから」

「そっか」修兄ちゃんは来てないのか。紅葉は少しだけ落胆して、落胆した自分には気づかなかった。

「んー、みぃちゃんさ、先輩のこと好き?」

「は?」

「言っとくけど、先輩は渡さんからね」

「いやいやいやいや、そんな気ないって。修兄ちゃんなんて、ぜんっっっぜん! タイプじゃないし。ありえないって」

「ほんとに? ほんとにぃ?」桃ちゃんは器用に、演奏しながら紅葉に疑惑の視線を向けて見せた。

「う、うん」

「ほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとにだよ」

「ほんとのほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとのほんとにだよ」

「ほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとにだよ!」

「残念、一回多い」桃ちゃんはガーンと、不協和音を鳴らした。

 フフフッと、二人顔を見合わせて笑う。

「ねっ、桃ちゃん、あの曲やって。桃ちゃんが初めて来たとき弾いてたやつ」

「ああ、えっと」桃ちゃんはちょっと考えて「亡き王女のためのパヴァーヌだ」と言った。

「そう、それ」

「いいね」と桃ちゃんは言って、練習するように鍵盤を叩いた。「みぃちゃん、あの曲好き?」

「うん、よくわからないけど」

「私も大好き。先輩も好きだって言ってたなあ」

 ふぅん。修兄ちゃんも好きなんだ。

「そういや、この曲の演奏、ちゃんと先輩に聞かせてあげなきゃいけないんだったなあ」といいながら、桃ちゃんは演奏を始めた。

 少しテンポの速い、美しい音が室内を満たし始めた。

「ねぇみいちゃん、どっかピアノのあるとこ知らない? 私が演奏できて先輩に聞かせられるとこ」

「そんなの、どこでも」

 いや、ピアノのあるところなんて限られるのだ。

「だったら、ここに連れてくりゃいいじゃん。ここに連れてきて、修兄ちゃんに聞かせてあげなよ」

「いいの? じゃあみぃちゃん、約束だからね。あ、けど」桃ちゃんは演奏を続けながら言った。「みぃちゃん、先輩とっちゃったら駄目だかんね。ぜったいぜったい、それも約束ー」



 目覚めたとき、視界の端に白いものがちらついているのに気づいた。蛍光灯の白い明りのせいで世界が一瞬ぼやけた。ピントが合うと窓に目をやった。

 雪だ。

 芽姫県は南の県だから雪はめったに降らない。紅葉も雪を見た記憶はほとんどない。紅葉がもっと小さかったときかわうそ園に雪が降ったことがある。積もることはなかったが子供たちは目を輝かせてはしゃいだものだった。その時園長先生が、「昔はもっと降ったもんだがね」と小さなため息とともに言ったことを紅葉はよく覚えている。

 紅葉は病室のベッドから下りて何もつけていない足にスリッパを履き、窓に近寄って静かに開けた。

 雪は微かな風の中でまるでダンスをするようにひらひらと舞い落ちていた。

 手を伸ばせば雪は掌の上に舞い落ちてきた。

 その雪というにはあまりにも頼りない欠片はすぐに融けて痕さえ残さなかった。

 粉雪だ。

 紅葉は窓を閉めベッドの中に戻り、出来ればもう一度眠りたいと思う。しかし、一度覚醒した意識はもう夢幻の中に戻ることを拒んだ。

 紅葉はため息をついて、病室の中を見回した。病室の中には楽しめるようなものは何もなく、せいぜいテレビがあるくらいだが今は見る気にはならなかった。

 退屈だ。

 紅葉は自分の体に何が起こっているのか、何も知らなかった。大人たちは何も教えてくれない。聞いても多分教えてくれないから、紅葉も無理に聞こうとは思わなかった。

 入院したのは初めてではない。今までにも数度入院して、毎日検査されたり手術されたり薬を飲まされたりした。検査も手術も薬も嫌いだったけど、紅葉を思ってしてくれることなのだから仕方がない。

 ただ、今回の入院はなんだか違うな、と思った。どこがどうとはいえないが、確かに違った。もし強いて言うとするなら、誰も彼も明るすぎた。みんなことあるごとに「もう少しだから頑張ろう」とか「早くよくなってまた遊ぼう」とか言ってきた。医者も先生も、もう少し事務的でなければならない。そのくせ、病室にはあまり近づこうとはしないのだ。

 自分はそろそろ死ぬのだろうか。

 確かに毎日のように吐いたし、たくさんの髪の毛が抜け落ちたし、腕が見違えるほど細くなった。医者は、吐くのも髪が抜けるのも薬の副作用だと言った。病気なんだから体重が減るのは当たり前だよ。病気が治れば全部元通りさ。

 元通りになるのはいいが、吐くのは正直辛かった。毎日バケツの中に吐いて、吐き出すものがなくなってからも吐いた。胃の中のものが突き上げてくるのを感じるたび、紅葉は目の前が真っ黒になった。吐くとき、看護士さんが付き添ってくれるのはいいけど、できればお母さんだったらなあ。

 まあいいか。

 よくないのは、先生たちの表情。笑顔っていうのは二種類あって、それはいうなれば自然な笑顔と作り笑顔だ。見舞いに来てくれる先生はみな怪人の仮面をつけているような笑顔をする。紅葉はその笑みを見るたびに暗い気持ちになって、笑わなきゃと思って紅葉自身も怪人になってしまう。怪人ばかりの病室っていうのは気味が悪すぎるから、用がないときは来ないでもらうようにした。

 かわうそ園の友達も来るには来たけれど、一時間くらいわいわいしゃべって「早く元気になってね」と言って帰ってしまった。それから一度も来ない。学校の友達は来たことすらない。そりゃあそうだろう。紅葉が逆の立場だったとして、わざわざ毎日見舞うだろうか。子供の毎日は忙しいのだ。

 じゃあ毎日来る人は忙しくないのかというと、「そりゃあ、全く忙しくないねえ」とのことだった。彼女は大学生なのに、忙しくないのだろうか。もしかしたら彼女が紅葉に気を使ってそう言っているだけなのかもしれないし、本当に大学というところは暇なところなのかもしれない。

 どちらであったとしても、多分大学に行くことのできない紅葉には確かめようがない。

 桃ちゃんは毎日、比喩ではなく本当に毎日やってきた。毎日やってきて、飽きることなくずっと何かをしゃべり続け、下手をすれば面会終了時間まで居座って帰っていく。何で毎日毎日見舞いにくるのかと訊ねたら「そりゃ、気を使ってんだよぅ。みぃちゃん一人で寂しいと思ってねー」と言われた。

「そんなに気を使うことないよ」と言うと「了解」と返事があったのに、それからも変わらず毎日やってきた。桃ちゃんの考えてることはよくわからない。

 桃ちゃんの笑顔は大人のくせに、あまり気に障らなかった。多分何も考えていないんだろう。

 気分がいいとき、桃ちゃんなら別に問題ないかと思って「私死ぬのかなあ」と聞いてみた。

「さぁ。未来のことはわからんね。私は占い師じゃないからな」

「そうじゃなくってさ、私、死ぬような病気なんだと思う?」

「人間はみんな死ぬよ」

 そんな一般論が聞きたいのではなかった。「そういう意味じゃなくってさ」

「私はどうせ部外者だから、何にも知らないけど」桃ちゃんは少し困ったように腕組みしながら言った。「どうも、そんな風に見えるねえ」

「そんな風って?」

「だから、その、あれさ」

 桃ちゃんがどぎまぎしているのを見て、紅葉は、死ぬって言葉を避けてるんだな、と思った。

「そっか、やっぱり私死ぬんだ」

「や、それはただの私の勘だから」

「いいよ、覚悟はしていたし、それに」紅葉は言った。「元々生きていたってしょうがないし」

「そう、ふーむ。そっか。なんだか、ちょっと残念」桃ちゃんは本当に落ち込んだような素振りを見せた。

「私が落ち込まなかったから?」

「そうじゃないよ。みぃちゃんはなんか、白けてっから、そんなもんとは思ってたけど、そうじゃなくってさ、生きていたってしょうがないって」桃ちゃんは悔しそうに頭を叩いた。「私はみぃちゃんのこと友達だと思ってるんだけどさ」

 紅葉には桃ちゃんの言っていることがよくわからなかった。「桃ちゃんは友達だよ」

「私、多分泣くからね。みぃちゃん死んじゃったら。そんなことしたって意味ないのはわかってるけど、それでも泣いちゃうからね。天国からそれ見て、ああ泣いてるな、って思えばいいさ、ふん」

「ああ泣いてるなって」それは一体どういう感情なのだろう。

 そっか、桃ちゃんは私が死んだら泣いてくれるのか。だからと言って、なんだというのだろう。いくら泣いてくれたところで、死ぬのは紅葉で、死なないのは他のみんななのだ。泣いてくれるからといって、どうだというのだ。どうということもない。だから、妙に悲しくなってきて涙が出てきたけど、どうということもない。だから「泣かれたって困る」

「やだ」

「やだじゃないよ。大人でしょ」

「大人じゃないよ。桃ちゃんだ」

 なんという人だ。これはなるほど、大人じゃない。

「桃ちゃんだからって、駄目だよ。絶対ぜったい、泣いちゃ駄目。じゃないと、修兄ちゃんだってあげないんだから」

「なにようそれ。先輩はみぃちゃんのものじゃないでしょー」

「でも駄目。絶対ぜったいあげませんー」

「やだ、ひどい! みぃちゃんなんてだいっ嫌い」

「私だって、桃ちゃんなんてだいっ嫌い」

 紅葉は夜になってこの場面を思い出して、ああ、これは喧嘩したんだなあ、と思った。感情と感情をぶつけ合う、子供の喧嘩だ。自分が悪いとは決して思わないけれど、本当に桃ちゃんが嫌いになったわけでもない、そもそも何で喧嘩したのかもわからない、子供の喧嘩。

 その証拠に、桃ちゃんはずっと紅葉の友達だった。

 次の日、幾分気まずそうにしながらやってきた桃ちゃんは、素直に「ごめん」と謝ってきた。道端に咲いていたという秋桜を差し出し、「あげるよ」と言った。

「ピアノ」コップを花瓶代わりに飾ろうとしている桃ちゃんの背中に、紅葉が言った。「弾いてくれないかな、私のために。泣いてる姿より、音楽のほうがいい」



 入院した当初同室だった老婆は、治ったのかすぐに退院していった。それ以来二人部屋の病室に紅葉はずっと独りきりである。寂しくはなかった。むしろ独りのほうが、気楽でいい。

 夜眠れないときは、闇の天井を見つめながらよくお母さんのことを考えた。笑った顔のお母さんはとても綺麗だった。他の表情のお母さんを思い浮かべようとしても駄目だった。紅葉の中のお母さんは笑顔で綺麗でなければならないらしかった。

 お母さんとの思い出を思い出そうとしても駄目だった。もう全て忘れてしまったのかもしれない。仕方がないので、想像で補うことにした。想像の中で紅葉は、お母さんとピクニックへ行ったりデパートへ行ったりした。想像のお母さんは全部笑顔だった。紅葉も笑顔だった。

 想像しているうちに眠り中に落ちていって、夢の中でお母さんと一緒にいることもあった。そうした日は夢から覚めた瞬間はやけに楽しく、しっかり覚醒してからは妙に悲しかった。

 今日の夢はそれとは少し違っていた。お母さんはいたが、他にもたくさんいた。かわうそ園の友達もいたし、学校の友達もいた。先生たちもいた。それらの人々はみな笑顔だった。その人たちと次々に紅葉は遊んだ。どんな遊びだったかは思い出せないけれど、どれも楽しい遊びだった。そしてそれら全ての人は紅葉のことを愛していた。それが紅葉にはわかっていた。

 夢のことを思い出して、紅葉は泣きそうになった。現実では、誰も紅葉のことを愛していないからだ。

 コンコンと病室のドアが叩かれ、紅葉が返事をするとドアが開けられた。入ってきたのは修兄ちゃんだった。珍しいことに、一人だけで入ってきた。修兄ちゃんが来るときは桃ちゃんを連れ添っていることが多いのだ。

「なんだ、意外と元気そうだ。安心した」修兄ちゃんは紅葉を見るなりそう言った。どこが元気そうなものか。紅葉の腕はもう骨と皮しかない。

 修兄ちゃんはそれだけ言うと、ベッドの脇にある椅子に腰をかけて、持って来た本を読み始めてしまった。修兄ちゃんはいつもこうだ。

 修兄ちゃんはお見舞いに来てもずっと本を読んでいて、何にもおしゃべりしない。本を延々と読んで、一段落すると帰って行く。一体、何のために見舞いにくるのだろうと思うのだけれど、紅葉は文句も言わなかった。

 読んでいる本はいつも分厚い本で、ちょっとだけ見せてもらったところ難しそうな漢字や英語が一杯並んでいた。紅葉なら一ページだってまともに読むことが出来ないだろう。その本には、赤ペンでたくさんの線が引かれていた。修兄ちゃんが引きながら読んでいるのだろう。

「さすが、修兄ちゃんは頭いいんだね」とため息混じりに言うと、

「頭のいい人は線を引く必要もない」と言われた。頭のいい界にも色々あるらしい。

 難しそうな顔をして本を読んでいる修兄ちゃんでも、紅葉が声をかければちゃんと応えてくれる。

「今日は寒いね」と言えば「全くだ」と応え、「お茶が飲みたい」と言えば淹れてくれる。桃ちゃんの雷雨のようなおしゃべりを聞くのも楽しかったけど、修兄ちゃんと過ごす静かなひとときも紅葉は好きだった。

「雪が降ってきたね」と本を読んでいる修兄ちゃんの横顔に、紅葉は話し掛けた。

「うん、寒い日だな」と修兄ちゃんは顔も上げずに応えた。

「雪は、好き?」

「うん、綺麗だ」

「そう。私も好き。綺麗だ」紅葉は修兄ちゃんの言い方を真似て言った。

 紅葉がベッドから降りようとしているのに気づいて、修兄ちゃんが「何?」と本から顔を上げた。

「今朝、雪をね、掌の中に、収めたから、もう一回」

「寝てていい」

 修兄ちゃんは立ち上がって窓辺に行くと、掌を上に向けて外へ差し出した。代わりに雪を取ってくれるつもりらしい。しかしなかなか紅葉の方に顔を向けなかった。

 しばらくしてようやく振り返ると、「駄目だな」と言いながら掌を紅葉の方へむけた。もちろんその上には何も乗っていない。「掬っても、すぐに融けてしまう」

 そんな当たり前のことを気づいてなかったのかと、紅葉は呆れた。修兄ちゃんって頭いいくせに、妙にぬけたところがあるんだ。

 紅葉は修兄ちゃんの介添えを受けながらベッドからおり、朝のように窓から手を差し出して掌を上に向けた。

 ひらひらと雪が紅葉の手の平に舞い降りてきて、すぐに融けて消えた。

「修兄ちゃん」紅葉は寒さで重くなった指と次々と舞い落ちる粉雪から目を離さないまま言った。「どうして人間は生きるの?」

「何故だろうな」と修兄ちゃんは答えた。

「私、お母さんに捨てられたの」と紅葉が言った。「だから、私には誰もいないんだ。誰も。私はずっと一人で生きてきて、私はずっと一人で生きていく。誰の助けもいらない。一人で。修兄ちゃん、私、強いでしょう?」

「そういうのは、強さとは言わない」

「もう遅いよ。私は死ぬの」

「君は、死なない。まだ生きる」

「まだ?」紅葉が言った。「そうだね、まだ、生きる」

「戻ろう」

「駄目、まだ」

 掌の上に雪が落ちて、一瞬の後に消える。

 かじかんだ手はもう紅葉のものではないかのようだ。

 その掌を、後ろから伸びてきた掌が包み込む。

 温かい。

「戻ろう」修兄ちゃんは紅葉の体を引っ張って、病室の中に戻す。紅葉をベッドの上に座らせると、窓を閉めた。

 修兄ちゃんは黙ったままお茶を淹れて、紅葉の方に差し出した。手を温めろということだろう。

「修兄ちゃん、私、お願いしてもいい?」

「どんな?」

「駄目。先に返事をして」

「そういうのは、フェアじゃないな」

「だってさ、私、もう、死んじゃうんだよ。死んじゃったら、きっと、後悔するよ。ああ、俺はあの時お願いを聞いてやればよかったなあって。そうなってもいいの?」

「紅葉ちゃんはまだ死なないよ」

「でもいつかは死ぬでしょ?」紅葉は笑った。多分、いたずらっぽい笑顔になったはずだ。「その時、きっと後悔するよ。だから、ね、お願い。私の願い事、聞いて?」

 修兄ちゃんはやれやれ、と言った様子で鼻から息を吐いた。「わかった」

「やったぁ。それじゃぁね」紅葉はうきうきしながら考えた。

 きっと、文字通り一生に一度のお願いになるのだから、うんと大変なことを言ってもいいだろうか。修兄ちゃんの一生を左右するような、大変なこと。

 でも、それは言っちゃ駄目だ。きっと、一生で最後のお願いになるのだから、そういうことは、言っちゃいけない。

 悲しいけれど、それは言わない。

「遊園地」紅葉は言った。「に行きたいな」

「なんだ、それくらい。退院したらいくらでも」

「駄目よ。退院は、しないもの。きっともう最期だもの。今日、今すぐ連れて行って」

「そんなことが、許されると思う?」

「返事はもう、しちゃったでしょ?」

 修兄ちゃんは少し考えてから、やがて諦めたように言った。「つまり、誰にも見つからないように、隠れて連れ出せってことか」

「そういうこと」紅葉は嬉しそうに答えた。「私はお姫様なのよ。王子はお姫様を魔法の国へと連れ出すの」


 紅葉は手を差し伸べて空から降ってくる雪を手袋の上に受け止めた。手袋の上に落ちた雪はしばらく融けずにそこに留まっていた。

 紅葉はそれを宝石を見るかのように眺め、そっと息を吹きかけて空へと舞わせた。

「雪だ」と紅葉は言った。生涯最後の雪かもしれない。

「寒い」と修兄ちゃんは言った。

「うん」

 ありったけの防寒具を着込んできても、芯の方からまだ寒かった。紅葉の体を守るべき肉がなくなってしまっているからかもしれない。

 修兄ちゃんはコートを一枚着ているだけで、マフラーも手袋もしていない。

「そんな格好じゃ寒いのも当たり前だよ」というと、

「まあこんなもんだ」と返された。意味がわからない。

 タクシーに二十分ほどゆられて、紅葉と修兄ちゃんは街外れにある遊園地へやってきた。この遊園地は目隠しして一周できそうなくらい狭くて、吹けば飛びそうなくらい古い。ただしそんなことは子供は気にせず楽しめるし、その分だけ地元民の愛着も深い遊園地だった。紅葉も何度か来たことがある。

 修兄ちゃんが入場券を買おうとしているとき、紅葉は後ろから「大人二枚!」と叫んだ。紅葉の歳なら当然子供券で入れるのだが、今日だけは大人でなければならなかった。これで今日一日修兄ちゃんと対等でいられる。

 園内は閑散としていた。寒いのだから当たり前だ。おかげでほとんど貸し切りのような気分で遊ぶことが出来た。

 紅葉は面倒くさがる修兄ちゃんの手を引いて、色々な乗り物に乗った。ジェットコースターにも乗ったし、メリーゴーラウンドにも乗った。コーヒーカップを調子に乗って回していると、完全に目が回ってしまった。「本気で吐きそうだ」と修兄ちゃんも言っていた。

「楽しいね」と修兄ちゃんに言うと、

「疲れた」と素っ気無い。

「駄目だよ、修兄ちゃん、一緒に楽しんでくれなきゃ」

「紅葉ちゃんがはしゃぎすぎなんだ」

「今はしゃがなくて、いつはしゃぐの」

 紅葉が手を取って駆け出せば、修兄ちゃんもペースを合わせて駆けてくれる。

 このまま二人で、どこまでも駆けていきたいと思う。

 途中から、寒気がした。多分熱が出ているんだろう。眩暈もした。何度か意識が飛びそうになった。

 負けるわけには行かない。今負けてしまえばそれで終わりなのだ。

 何度もこけそうになった。その都度、修兄ちゃんが手を引いて支えてくれた。

「いつ帰る?」どの時点かで修兄ちゃんが聞いてきた。

「最期まで」と紅葉は答えた。修兄ちゃんは頷いて、その後はもう聞いてこなかった。

 観覧車に乗って、冬の町並みを眺めた。夕日が山の向こう側へ隠れようとしていた。綺麗だった。

「楽しいね」向かいに座り外の景色を眺めている修兄ちゃんの横顔に向かって、紅葉はさっきと同じことを言った。

「悪くない」修兄ちゃんの反応はさっきとは違った。

「景色が?」

「うん」

「ひどいや」

「どうして?」

「私は、修兄ちゃんと一緒に遊べて、楽しいのに」

「ああ、そりゃ悪かった。僕も楽しいよ」

「そんなとってつけたような言葉、いらないもん」

 紅葉は拗ねたような振りをしてそっぽを向いた。

「いや、本当に。また、来たいくらいだ。今度は、もっと大勢連れて来るといい。友達をたくさん呼んで」

「そんな機会、もうないよ」

「未来のことはわからんさ。わからない以上、そんな機会があるかも知れないじゃないか」

「そう? そうなのかな」

「そうだよ」

「だったら……でも、そのときは、また、二人で来たい」

「二人で? それでいいの?」

「うん、二人がいい」

 観覧車を降りて、また次の乗り物を探して走り出そうとしたとき、それはやってきた。

 最初、目の前が真っ暗になった。

 一瞬、意識が途切れて、次の瞬間世界が回っていた。

 ああ、ここでゲームオーバーか、と思った。

 世界がやけにぼやけていた。

 修兄ちゃんが何か叫んでいるような気がするけど、上手く考えることが出来ない。

 息の仕方が、よくわからない。吸いたいと思うのに、上手く吸えない。どうしても切れ切れの呼吸になってしまう。

 悲しくないのに涙が流れる。顔が引きつっているのがわかる。胸の辺りが痛い。

 やだなあ、やだなあ。

 どうしてこんなところで終わらなきゃならないんだろう。

 だって私、まだ全然生きていない。

 もっと、遊びたかった。

 もっと、遊びたいのに。

 冬ちゃんとか、梢ちゃんとか、桃ちゃんとか、色んな人と。

 お母さんとかと。

 こんなところで終わりなんて、やだなあ。

 こんなに、今になって、どうして。

 死にたくない。死にたくないなあ。

 だって、世界には素晴らしいものがもっとたくさんあって。

 もっと、生きて、私、それを。

 駄目だな

 苦しくて上手く考えることが出来ない。

 もっと色んな、

 素晴らしいものを。

 たくさん見て

 たくさん出合って

 息が上手く出来ない。

 もっと遊ぶ大切な人と。

 笑顔を。

 楽しく。

 ずっと。

 一緒に。

 駄目だ、意識が。

 駆けて。

 笑顔で。

 遊ぼう。

 みんなで。

 駄目だ、もう。

 いやだ、

 まだ、

 誰か、お願い、誰か。

 死にたくない。死にたくない。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 修兄ちゃん。私、まだ生きていたい。

 もっと生きたいよ。

「修兄ちゃん」自分の声も、よく聞こえない。息の合間に、声を振り絞る。

「やっぱり、行かないでね、もう二度と。これで最後にして、ここに来るのは」



 目が覚めても、時間の感覚がまるでない。暗いのか明るいのかで昼なのか夜なのかを判断する。

 吐き気がずっとしている。眠りたくても寝られないのに、時々起きるのは、やっぱりたまには眠っているからだろう。起きていても、ずっと眠たくって、全然起きている気がしない。

 夢も現実もわからなくて、それでも苦しいんだから、やっぱり生きている証拠だろう。

 遊園地で倒れて病院に運び込まれた紅葉は、医者の適切な処置によって何とか一命を取り留めた。しかし元々衰弱していた体は無理がたたってさらに消耗し、完全に病状は進んでいた。

 お医者さんも看護士さんもすごくやさしい。いつも笑顔で声をかけてくれる。笑顔っていいな。安心する。

 先生たちも時々やってくる。やっぱりみんな笑顔だ。

 みんながんばって紅葉に心配させまいと笑顔を作っているのだ。すごくありがたい。笑顔を見ていると元気が出てくる気がする。少なくとも、暗い顔をされるより百倍いい。

 あれから、修兄ちゃんも桃ちゃんも一度もやってこない。二人とも何をしているのか先生に訊ねようとすると、

「大丈夫だよ。もうあんな人たち二度とやってこないから、安心していていいよ」と元気付けるように言われた。なんだかピントのずれた返答だ。

 もしかしたら迷惑かけたのかもしれない。

 きっと、すごく迷惑かけたのだろう。

 そう思うと悲しくなってくるのだけど、みんな過剰に反応するから、そうそう悲しそうにするわけにもいかない。結局修兄ちゃんたちがどうなったのか訊くことは出来なかった。

 自分の体のことも、よくわからない。誰も教えてくれない。子供って損だ。

 先生に頼んで、毛糸と編み棒を買ってきてもらった。本当なら自分の買い物は自分のお小遣いで買わなければならないのだけど、先生は二つ返事で買ってきてくれた。病人の特権ってやつだ。

 先生や看護士さんたちに教えてもらって、マフラーを編んだ。今までに編んだことがないし、不器用だし、力も上手く入らないしで、上手くは編めない。それでも一生懸命編んでいった。

 起きている時はずっと編んでいた。それ以外はすることがなかった。

「誰にあげるの?」と編み方を教えてもらっている看護士さんに聞かれたので、「秘密」と答えておいた。茶化した答え方だったけど、言えば問題になるかもしれないと思ったのもある。

 気分が悪くても頭が痛くても、構わずに編み続けた。編みあがる前に死ぬわけには行かなかった。どうしても完成させなければならない。なんとなくそう思っていた。

 編みあがったとして、どうやって渡すかが問題だった。先生に頼むわけにはいかない。

 折よく冬ちゃんと梢ちゃんが見舞いにやってきたので、頼んでおいた。子供なら騒ぎはよくわかってないだろうし、親友だからきっと紅葉の頼みはなんとしてでも叶えてくれるだろう。

「絶対だよ」と真剣な表情でお願いすると、

「了解」と二人ともいつになく真剣な表情で答えてくれた。



 それからしばらくして、向田紅葉は病院の一室でその短い生涯を終えた。友達や先生など多くの人間に看取られての最期だった。

 まだ桜には早い季節、外には小雨が降っていた。



 微かに暖色に彩られた秋の風が一陣舞って紅葉した銀杏の葉っぱを吹き上げた。空は高く青く澄み渡っている。遠くで鳴いた烏の鳴き声がどこまでも響き渡っていた。

「涼しくなってきたね」と隣を見上げながら紅葉は言った。手を触れることが出来そうなくらい近くに、修兄ちゃんが歩いている。二人はかわうそ園へ向かって静かな住宅街を歩いていた。

「今年の夏は少し暑すぎるくらいだった」

「秋は好き?」

「嫌いじゃない」

「そ、私は好き」

 歩きながら紅葉は少しうきうきしていた。向かっている先に何が待っているのかを、修兄ちゃんには言っていない。ただ「ちょっと、かわうそ園まで遊びに来てよ」とだけ言って連れ出した。「何のよう?」と訊かれても上手くはぐらかしている。少しはびっくりしてくれるだろうか。

「こうやってね、涼しくなってくるのも、空がずっと向こうの方まで澄み渡っているのも、なんだか空気が深としているのも、みんな好き。何より好きなのは、ほら、葉っぱが色づいてる。お花の色とりどりの色もいいけど、私は秋の葉っぱの暖かな色のほうが好きだな。だけど、少しだけやるせなくなっちゃう」

「何故?」

「だってほら、紅葉は落ちちゃうでしょう」紅葉が指さした先で、ちょうど銀杏の木から一枚の葉が揺れ落ちていた。「私が落ちてるようで、やだ」

「紅葉は死んでいるわけではないよ」と修兄ちゃんが言った。「葉が落ちたって幹が生きている。幹が生きていれば、また来年はえることが出来る」

「じゃあ、葉が落ちるのは本体のため?」

「というより、葉も合わせた全体で一つなんだと思うけど」

「紅葉なんて、結局部品に過ぎないんだね」

「そうともいえるだろうけど。でも、人間にとっては違うだろう」

「どう違うの?」

「紅葉した葉は綺麗だ。たくさんの人たちが、色づいた秋のこと好きだと思うよ」

 かわうそ園は静かだった。今日は休日で、ほとんどの子供は親に連れられてどこかへ行っている。それに合わせてほとんどの先生たちもお休みだ。残っているのは、親の都合がつかなくて迎えに来られなかった少数の子供たちと、その子供たちを一応監督するために残された先生だけだ。

 当然、紅葉は居残り組だ。お母さんの顔なんてここ何年も見ていない。

「こんな日に、入っていいの?」修兄ちゃんは少しためらいがちに入っていった。確かに、こんな子供たちのほとんどいない日に、外部の人間が入ってくることはあまりない。

「ほら、ここ」と紅葉が導いた先は集会所だった。修兄ちゃんを先に促して、ドアを開けてもらう。

 入って何かに気づいたように、修兄ちゃんは「ん?」と声を上げた。なんとなく予想していたことだけど、修兄ちゃんはたいして驚かなかった。

「なんだ、後輩か」

 修兄ちゃんの視線の先には、桃ちゃんがピアノの前に座ってピースしていた。「どーも。私のためにお集まりいただいて光栄至極」

「演奏会だよ。ほら、修兄ちゃん座って」

 集会所の真ん中にはピアノと対座するように椅子が二つ置かれている。よく見れば、室内は折り紙で作られた装飾が施されていて、小さなパーティのような雰囲気が作られていた。しかし三人だけがいる室内はがらんとしていて、むしろ少しさみしいくらいだった。

「ほら早く。約束してたんでしょ、桃ちゃんの演奏を聞くって。桃ちゃん、今日のためにたくさん練習したんだよ」

「なるほど。そんなことのために、紅葉ちゃん、悪かったね」

 修兄ちゃんは素直に席につく。その隣に、紅葉も座る。

「悪くなんてないよ。私が言いだしたんだもん」

 一応演奏会という名目にすることも、内緒で修兄ちゃんを連れ出すことも、室内の飾りも、全部紅葉が発案したことだった。そういえば、何かを企画することは初めてのことだった。

「では、少し緊張しますが」と桃ちゃんが礼をした。

 紅葉が拍手を送る。付き添いといった様子で修兄ちゃんも手を叩いた。

 桃ちゃんが演奏を始めた。『亡き王女のためのパヴァーヌ』だ。

 修兄ちゃんはしばらく腕組みをしたまま聞き続けていたが、やがて「へたくそだな」とぼそりといった。

「む、なんとひどいですな」と、桃ちゃんは演奏を続けながら反応する。

「そもそも、テンポが速い。好き勝手弾いてるんだろう。この曲は本来もう少しゆったりとした曲だ」

「あのね先輩。もしかしてプロと比べてませんか。言っとくけどこっちは素人なんですからね」

 喧嘩が始まるのかと紅葉は思ったが、よく見れば二人ともどことなく楽しそうで、そんなやりとりを楽しんでいるようだった。

 喧嘩しなくてよかったけれど、それはそれで、なんとなく面白くない。

 器用なもので、言葉を挟みながらも桃ちゃんは演奏を続けていく。

「修兄ちゃん、この曲、『亡き王女のためのパヴァーヌ』っていうんだよね」

「うん」

「パヴァーヌって何?」

「僕もよくは知らないが、確か舞踏曲のこととだったとおもう」

「ブトウ?」

「ダンスだ。ダンスのための曲。まあ、本来はこんなテンポの速い曲じゃなくて、ゆったりとした曲なんだが」

「わかりましたよ。そんなにいうなら」と桃ちゃんが言って、曲は少しゆっくりになった。

 ダンスか。

 この曲で。

 王女。そう、お姫様は、どんなダンスを踊ったのだろう。

 紅葉は立ち上がり、

 曲に合わせて、

 踏み出し、

 踏み出し、

 回転――しようとしたところで足がほつれてよろめいた。

「うーん、難しいな」

 気を取り直して、

 もう一度、

 踏み出し、

 踏み出し、

 回転し、

「うん、みぃちゃん、上手い上手い」桃ちゃんが嬉しそうに叫んで、また少しテンポが速くなる。

 曲に合わせて、

 踏み込み、

 回転、

 ステップ、

 ジャンプ。

「上手いもんだ」修兄ちゃんが手を叩いた。

「みぃちゃんかわいい。妖精みたい!」

「いや、王女だ」

「王女?」紅葉は呟く。

 紅葉は目を閉じ、

 曲に溶け込もうと思った。

 曲と一体となって、舞おう。

 見えない糸に操られているように、

 紅葉は手を振り上げ、

 足を駆けさせ、

 舞う。

 王女のように。

 自由に、

 高貴に

 美しく。

 拍手の音が聞こえた。

 紅葉は目を開け、修兄ちゃんを捉え、

 手を差し伸べる。

 修兄ちゃんは立ち上がりやさしくその手を受ける。

 二人で舞おう、と一歩目で修兄ちゃんは足をもつれさせよろめいてしまった。

「全く、もう」紅葉は笑った。

 気を取り直して、

 修兄ちゃんが紅葉の手を取り、

 二人でステップを踏んだ。

 修兄ちゃんに促されるように、

 紅葉は自分の思うままに、

 駆け、

 跳ね、

 回り、

 飛び、

 舞った。

 やさしい曲が聞こえる。

 音が自分の中に溶け込んでいくようだ。

 自分が音に溶け込んでいくのかもしれない。

 静かに、

 やさしく、

 高らかに、

 美しく、

 伸びやかに、

 自分は世界の中に溶け込んで、

 自由自在に、何でもできる。

 温かく美しい曲の中で、

 王女のように、

 紅葉は踊った。


「なんだか結局、みぃちゃんのための演奏会みたいになっちゃったみたい」紅葉が渡したジュースで一息つきながら、桃ちゃんが言った。

「それでいいだろう。なかなか綺麗な光景だった」と修兄ちゃんが言った。

「はい。みぃちゃん、かわいかった」

「ああ、疲れた。けど、楽しかったぁ」喉が渇いていた紅葉はジュースを一気のみした。

 こんなに楽しかったのは生まれて初めてかもしれない、と思った。

「また、やろうね」と楽しそうに笑った。


基本、想像のみで書いてるんで、粗はものすごくあると思われますがご容赦ください。まあフィクションですので。けど、こりゃおかしいってとこがあれば言っていただければ幸いです(直さないとは思いますが)。

二万字くらいでスパッと終われればいいのですが、上手くいきませんでした(後悔はしていない)。だいぶ期間も開いてしまいました。次はもっと軽く書きたいです。次…次か……。とりあえずまたここで完結にしといて、何か書けばまた投稿します。

では

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