海の旅人
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「灰島さん、海へ行きませんか」と桃山桃は言った。
ちょうど午後の麗らかな陽射しが西に面した研究室の窓から差し込み始めた頃で、本を読んでいた灰島修吾が午睡への欲求に駆られていたときの話である。
桃山の提案はあまりにも唐突だった。
いつだって、彼女は唐突なのだ。以前、灰島と桃山がまだ知り合って間もない頃、キャンバスを歩いていた灰島は奇妙な光景を見かけたことがある。本に目を落としていた灰島がふと気づくとあたりはやけにざわついていて、大勢の人間が皆どこか一点を目指して歩いていた。どこかと思えば、それは灰島の属している文学部研究棟の方角であった。
何か催しているのかとふと思ったが、全く興味が湧かない。
が、文学部研究棟は灰島が今向かっている場所だった。研究棟の入り口を群集が囲んで、どうにも入れない。うんざりして周りを見渡すと、どうやら誰もが屋上を見上げているらしかった。
誰か自殺でもしようとしているのか。
そう思って灰島が目を向けたと同時に、その方角から声が聞こえてきた。否、声ではなく騒音だったかもしれない。
それはただのわめき声だった。
無論、自殺への恐怖でもなければ、何らかの自己主張ではない。そんな、何らかの意図をもった音でなく、それは痛快に突き抜けていくような、一種のさわやかさを持ったわめき声だった。
しかもその声は、曲山市中に聞こえるのではないかと思えるほどにでかい。ロックバンドのライブのようなものだ。その音は腹の底まで響いてくる。それほどの音量を、屋上にいる人物はマイクなしで放っているのだ。
声は一瞬途切れて、深呼吸してまた響き始める。
その人物の姿を捉えて、灰島は少し慌てた。それは紛れもなく最近自分の研究室へ入ってきた桃山桃だった。
その狼狽は、あるいは灰島にとって不覚だったかもしれない。その瞬間天頂にいる少女と関わるか無視するかの計算が出来なかった。無視することも出来たはずだった。先輩後輩意識など、灰島には皆無である。条件は、棟を取り巻いているこの群集たちと同じだ。
しかし、このときの灰島は思った。
なにやってんだ、あいつ、と。
何とかしなければならない、と。
その頃には、群集のささやきの中に警備員という単語ちらほらと発せられるようになっていた。あるいは、警察か。
どうにも、それはまずい。そもそも、そんな大げさなこと何もやっていないではないか。
次の瞬間は、灰島は計算することが出来た。つまり自分の意思で後悔せずに済む方を選ぶことが出来た。平穏か諦めか。後者を灰島は選んだ。
選んだ瞬間、灰島の体は飛び出した。
が、群集の体に遮られた。無理やりこじ開けて、棟に入る。
エレベーターの上を押したが、走ったほうが速いという計算を灰島の頭ははじいた。扉が開く前に灰島の体は駆け出す。
屋上に着いた時には息が切れていた。
「なにやってんだ後輩」と灰島は叫んだ。
空が突き抜けるように青く、障害物のない天頂からの風景は馬鹿みたいに爽快だった。
「やあ、先輩ではありませんか」振り返って灰島を認めた桃山は笑顔を見せた。「先輩もやりに来たのですか」
「馬鹿め」灰島は忍者のように一瞬で間を詰めると、桃山の腕を取り強引に退散させた。
どちらかといえば意外なことに、桃山は抵抗しなかった。
「先輩、どちらへ向かうのですか?」
「研究室しかない」と灰島は答えた。そろそろ警備員や教授が騒ぎを聞きつけてやってくる頃かも知れない。そんな面倒からは逃げるに限るのだ。
逃げ込む先は、灰島にとって勝手知ったる日本文学研究室しか思いつかなかった。
合鍵を使って鍵を開け、入ってドアを閉めて施錠した。
「むぅ、妙齢の女子を密室に連れ込んでどういう魂胆ですかな?」と桃山が言った。
「寝言は寝てから言え」灰島は手に持っていた分厚い本を投げつけるのを、冗談にならないと諦め、仕方がないのでチョップで代用した。「逃げたかったら勝手に逃げろ。教授に掴まって質問責めだ」
「一体私がなにをしたというのです?」
「何もしてないかも知れんな」息をついて灰島は椅子に腰を下ろした。「しかし世間はそう思わない」
「思いませんか? ここは大学ですよ。あ、先輩コーヒーでも淹れます?」桃山は呑気な顔をしたまま棚に閉まってあるインスタントコーヒーを取り出した。
「苦いのにしてくれ。悩みが吹き飛ぶようにな」
「はいな」
「大学って言ったって、世の中馬鹿ばかりだからな。馬鹿というか、なんとなく生きているような人間ばかりだから。簡単にいうと、君は気違い扱いされる」
「私がなにか悪いことしましたか?」
「していない。しかし後輩だって自分のしたことが平衡感覚から外れたことだというくらいわかっているんだろう」
「わかってないのかも知れませんよ?」
「それはない。その歳まで生きて、大学にまで入って、それで変人というのは笑わせる」
「正答です」桃山は嬉しそうに笑った。「さすがは先輩、いいこと言いますね」
「いいことは言っていない」灰島は本を読む気がなくなって、パソコンのスイッチをつけた。研究室には灰島のパソコンが持ち込まれている。
淹れたコーヒーを桃山は差し出した。自分のためにも淹れて、灰島の向かいに座る。パソコンを挟んでいるので、相手の顔は見えない。
「先輩、私、これでもずいぶんといろんなこと我慢してるんですよ」
「ほう、それは驚きだ。例えば?」
「先輩を襲うこととか」
灰島はコーヒーを噴き出しそうになった。
「でも、つまりですよ。私は結構悪いことしてないと思うんですよね。屋上行って叫んでただけですから」
「窓の鍵を壊しただろう」大学の屋上は本来施錠されている。灰島が上ったときも、ドアの鍵はかかっていた。屋上に出られたのは、その横の窓が開いていたからだった。よくみれば、その鍵は何らかの圧力を受けて壊されてしまっていた。
灰島の指摘に、桃山はばれてましたかと笑った。「そりゃ、窓の鍵壊したりはしましたけど、そうしなけりゃ屋上いけませんでしたからね。でも、誓って言いますけど、あれはもう半分壊れてましたよ。私がやったのはとどめをさしただけです。まあそれは謝るとして、でも問題になっているのは屋上で叫んだことでしょう? それのどこが悪いことなんですか?」
「悪くはないが、異常だね」
「異常ですか? 例えば殺人よりも?」桃山は問うた。「殺人と私がしたこと、どっちが異常者扱いされますかね」
灰島は答えなかった。桃山の言った事は正しいと思ったからだ。
突然叫び始める人間と突然殺人を犯す人間。どちらが異常かと言われれば、ほとんどの人間が後者と答えるだろう。しかし実情は? 民衆はどちらをより異端とみなし排除しようとするだろう。
それは一体何故だろう、と灰島は考える。殺人は自分たちが犯す可能性のあるもの、しかしいきなり叫びだすことはない、つまり自己との類似性の問題だろうか。それとも理由のある殺人は理解できて、理由のない行動は理解できないということだろうか。
どちらかといえば、後者かも知れない。
しかし、人間は全ての行動に理由をつけているとでも言うつもりだろうか。
「後輩はもし人を殺したくなったとして、自分を律することが出来る?」灰島は訊いた。
「出来ると思います。そりゃ、あまりにも強い怒りに駆られたら分かりませんけどね。でも、それは最終の最悪。行き着くとこまで行き着いちゃったときの話でしょう」
「それなら問題はない。ただこれからは、人と違うことをしたいと思ったとき、もう少し自重したほうがいいかも知れない」
「何故ですか」
「面倒だから」
「退廃ですね」
「その通り」
「でもそんなところも格好いいですよ」
「からかうのはやめてもらいたい」
話を戻すが、そんなことがあったところで桃山の奇矯がおさまるわけでもなかった。そもそも、嵐山教授のゼミに入ったのだから変人には違いない。止めさせようとするほうが無粋というものだろう。
ただ、灰島は桃山と自分とは思考の仕方が違うのだろうと思っている。桃山は反射的、思考と行動がほぼ同義である。灰島は反芻的とでもいおうか、思ったことを少なくとも一度は思い返してから行動がある。
もちろん、優劣があると思っているわけではない。
しかし、こう唐突に話をされると戸惑ってしまうことがあるというだけの話である。
「海ったって、一体なんで」意味のない質問だと灰島は思いながらも、そう口に出した。本来、口から出る言葉の八割くらいは意味のないものなのかも知れない。
桃山の口からは「行きたいからです」と発せられるだろうし、事実発せられた。行きたいといわれれば、それ以上の理由を尋ねる必要はない。行動に意味を求めれば、結局のところ何故生きているのかという命題に行き着く。その問いに答えられるほど、灰島は信心深くないし、楽天家でもない。
「よし、行ってこい。そして春の波に連れ去られてさまよえ」
「では準備をお願いします」
「何故僕が君の準備を手伝わねばならんのだ」
「ではなく、あなた自身の準備をしてください」
そう、それが問題なのだ。何故灰島まで行かなければならないのか。
「何故僕も行くという話になっているのだ」
「灰島さんは行きたくないのですか?」さも意外だという表情を桃山はして見せた。「楽しいですよ、多分」
「海なんか行って、なにをする」
「吼えます」
「犬か貴様」吼えてどうする。「悪いけど、本を読んだ感想を書き留めておきたいんで、行くなら独りで行ってくれ。邪魔しないならここにいてもいい」
「感想なんて書いてどうするつもりですか。読書感想文コンクールに応募ですか? 大学生にもなって恥ずかしい」
奇想天外奇天烈娘に恥ずかしいとか言われるとはな。「気づいたこととか思ったことを書き留めておくだけだよ。今後論文のネタになるかも知れないし、ならないかもしれない」
「論文なんて書いてどうするつもりですか」
「大学生だからな」
「そう思うなら卒業してくださいよ」と桃山は言った。この言葉について少し説明するとすれば、灰島は今大学五年目ということしかいえない。もちろん五年以上かかる大学もあるという突っ込みは積極的に無視させてもらう。
「あ、卒業しちゃって私に会えなくなるのが嫌なんですね。なんだあ、さすがは灰島先輩。心配しなくても私も同じ気持ちですよ」
「卒業するとしても院に残るつもりだしなあ」灰島は桃山のコメントを無視した。
「そうしてまた嵐山ゼミですか?」
「僕に師匠は要らないからな」
「ええ、そのとおり。ということで、海に行きましょうか」
「脈絡がないな」脈絡のない会話は嫌いではないが。
灰島は諦めてパソコンをシャットダウンした。思考は頭の中にセーブしておけばいい。覚えてなかったとすれば、その程度の思い付きだったということだろう。
「仕方ないですね。コーヒーくらいはおごりますよ」
「仕方ないな。一緒に行くか」
残念なことだが、桃山の奇行を止められるのは灰島しかいないということなのだ。
1
海は寄せたり引いたりしている。海には一体なにが眠っているのだろう。有史以来、一体何人の人間が生きたままそこに放り出されてきたのか。神楽坂には想像もできない。一瞬カメラを海のそこに潜り込ませることを思いついたが、そうすれば長年のバイトでついに手に入れた念願のビデオカメラがおじゃんになることは目に見えていたし、そもそも神楽坂は泳げない。海流に巻き込まれて海の墓標の一部になることも面白かったが、そこまで神楽坂はペシミストではない。
海でかもめでも撮れればよかったのだが、なにを思ったのかこうもりなんかが散見される。海でかもめなぞ月並みとしかいえないのだが、しかし現実はこうもりであった。こうもりなぞとってなにが面白いか。真正のリアリストならば撮るであろう。しかし神楽坂はリアリストではない。
が、暫く波を撮ったあと、思い直して神楽坂はレンズをその鳥とも獣ともいえない中間的な生物に向けた。海にこうもりも何らかのメタファーになりうるかもしれない、と思ったからだ。思ってから、メタファーとはなんという意味だったかな、と思ったりもした。多分何らかのブンガクテキな言葉だったとは思う。そんなわかりづらい言葉は専門家だけわかっておけばいいのであって、自分みたいな似非監督は語感だけわかっておけば問題はない。
暫くそんな風景を撮り続けたあと、神楽坂は三脚を海に向かってセットしたままその場を離れた。やけにコーヒーが飲みたくなったからだ。
神楽坂がバイクを置いている駐車場の近くに自動販売機が設置されていたので、そこまで戻った。冷たいコーヒーが飲みたかったのだが、冷たいのではブラックしかなかった。暖かいカフェオレを飲むのもよかったが、しかし神楽坂は初心に従うことにした。一口つけて、もちろん神楽坂は後悔した。苦いものは嫌いじゃないが、苦すぎるものはどうも苦手だ。
そういえば、ブラックコーヒーばかり飲んでいる友人がいるのを神楽坂は思い出した。寒い日も暑い日も、運動のあとでさえそいつはブラックを飲んだ。
「よくそんなもんが飲めるもんだ」と神楽坂は言った。
「全くだ」とその友人は返した。「自分でも、こんなものが世間に流通していることが時々信じられなくなる」
「そりゃ、君みたいなファンがいるからだろう」
「ファン? 僕が?」とそいつはきょとんとした。それから納得したように、「ああ、僕は別に好きで飲んでるわけじゃないよ」と言った。
神楽坂は少し驚いた。やけに毎日毎日飲んでいるので、よほどの好物なのだろうと思っていたからだ。「じゃあ、何故そんなに飲んでいるんだい?」
「うん、そりゃ……」少し考えたあと、というよりも言い出すかどうか逡巡したあと、彼は言った。「僕は煙草をのまないからね」
「煙草の話なんかしてないよ。君がコーヒーを飲む理由だ」
「うん、だから、要するにかっこつけてるわけだ。煙草なんかのんでたら少しはかっこつくのかも知れないけど、僕はそれをしないからコーヒーを飲むわけなんだね。それもブラックコーヒーならかっこつくと思ってるわけなんだ」
その話を聞いて、神楽坂は誇張して言えば心臓が飛び出るほどに驚いた。実際のところは「うわぁ」と小さく口に出すほどに驚いた。
驚いた点は、その友人がかっこつけたいと思っているということだった。どう考えても女になんか興味がなく、それよりも宇宙の真理とやらにでも思惟をめぐらせているほうがあっているような人間だったからだ。
例えば、その人物は髪型になんか興味がなく伸びるがままにまかせていたし、年中ほとんど同じTシャツにジーンズを着ていた。そんな人物が、一体格好つけるなどと言う感性を持ち合わせていたとは。
もっとも、後日聞いたところでは、髪型については異論がないにしても、ファッションについては「本当はジャージのほうが動きやすいんだけどね、まあこれもかっこつけの一種だ」ということらしかった。Tシャツジーンズのどこが格好いいのか、わからないでもないがわからない話だ。
とにかく、その友人にとってはブラックコーヒーは煙草の代わりらしい。ちなみにその「かっこつけ」について長々とした評論を聞かされたが、ここでは割愛する。意味がわからなかったし意味がない。
では、何故煙草をのまないのか。
「そこまで反社会的になる必要がない」と友人は言った。「もちろん、嫌煙も分煙も間違っちゃいないと思うがくだらないと思っている。だから、近年の嫌煙ブームにのっかっているつもりはない。ただ、だからといってわざわざ喫煙する必要もないと思う。大人気ない。と、ここまでもっともらしいことを述べたけど、それ以上に大事な理由は、単に金がもったいないからだね」
さすがにこの友人らしく、禁煙にもしっかり理屈を持っているのだなあ、と神楽坂は思った。「喫煙しなくて済むんならそれに越したことはない」と神楽坂はこれも月並みなコメントを返しておいた。
こういうことを思い返しても、こんな月並みなことしか言えない自分には芸術などできないだろうなあ、というこれすらも実に月並みな感想が思い起こされてくる。芸術とは一体なんなのだろう。神楽坂にはその定見がない。
ブラックコーヒーを飲んでいると、なるほどこんなものばかり飲んでいればあんな理屈っぽい人間も生れるかもしれない、と思ったりもした。
思っているうちに空になった。どうも口の中が苦々しくって仕方ないのでもう一本、今度はスポーツドリンクを買って、それを持ったままカメラを設置している場所に戻った。
戻りながら、瀬戸内海が見えた。どうにも、瀬戸内海は狭い。島は林立しているし、すぐ向こうはもう本州だ。例えば水平線の持つ壮大さがない。しかもフェリーが手の届きそうなところを行きかっている。実にせせこましい。どうせ撮るなら、太平洋のほうがいい。
太平洋の水平線を延々と撮った映像は、芸術だろうか。などと思ったりもした。
いいかげん、撮影を止めて帰ろうと思った。撮影といっても一人で海を撮るだけで、要するにただの暇つぶしだった。暇つぶしというか、逃避といったほうがよかったのかもしれない。逃避とすれば、芸術と学問からの逃避か。そもそも映画なんぞ撮り始めたのは、学問から逃げたかったからかもしれない。
神楽坂が映画を撮り始めたのは、高校生のころだった。神楽坂の高校は進学校で、入学式の日から受験の話が出た。そんな雰囲気に耐えられなかったわけではないが、なんとなく入った映像研究部で映画を撮ったりした。周囲が受験受験といい始めた時期も、神楽坂は一人芸術芸術と呟きながら映画を撮ったりした。
一緒に製作していた友人たちもいつしか勉強に専心するようになり、それでも神楽坂は映画を撮り続けた。とはいっても、不真面目な高校生だったから、高校時代に撮ったものでまともに作品と呼べそうなものは一本もない。
結局大して学力は伸びず、それでも地元の国立大学に何とか入れそうだったので、そこに進学した。そこでも相変わらず芸術芸術と呟きながらちぐはぐな映像を撮影し続けたりした。結局今まで作品、と胸を張って言えそうなものは一本しかない。
映画を撮り続けていたわけなのだから、真面目な大学生であったわけもなく、四回生になった今年、どうあがいても卒業できないことになっている。単位を最大限とったところで必要単位数に届かない。
ならば神楽坂が今まで呟き続けた芸術というものに専心できるかといえば、そういうわけでもないのだ。神楽坂は暗然とすることもなかったが、自分はどうやら完全に行き詰っているらしい、と思っていた。
海辺には風が吹き続けていた。これは、春とはいえ少し寒いな、と灰島は思った。
桃山は海につくなり短距離走を始めてしまっていた。クラウチングスタートで走り出す。五十メートルほど行く。止まる。逆向きにもう一度。よく飽きないもので、何度も何度も続けていた。
砂浜はいい感じに乾いており、走りたくなる気持ちもわからないでもない。ただビーチフラッグ顔負けに一生懸命走り続ける女子大生というのは、やはりあまりお目にかかれるものでもない。桃山にはおそらく、他人の目を気にする回路が欠けているのだろう。
それはおそらく人間社会にとってもっとも必要なものであり、もっとも捨て去るべき回路だった。
何度も続けて、さすがに疲れたのか桃山は灰島の元へ戻ってきた。本でも持ってくればよかったのだが、あいにく失念してしまっていて、灰島は所在無く雲を眺めていた。それでも大して飽きなかった。空は遠くまで突き抜けており、雲は偉そうに聳え広がっていた。
桃山は肩で息をしていた。しかし灰島の前までくると全身満杯になるくらい大きく息を吸い、それから吐き出した。それでかなり平常に戻った。それから母を見つけた子供のように嬉しそうに笑った。
「気が済んだ?」と灰島は言った。
「疲れました」と桃山は言った。「けど、まだまだですよ。灰島さんもどうですか?」
「やると思う?」
「まさか」桃山は自分の後方を差した。ちょうど、海の方角だ。「あそこに面白いものがありますよ。見に行きませんか?」
「大して面白いもんでもないよ」
「行ってみなきゃわかりませんよ」
「わかるよ、見えている」灰島のいる砂浜から海まで何の障害物もない。流木や空き缶のある汚い砂浜だった。「あるのは三脚と、カメラだろう」
「知ってるなら何故行かないのですか?」
「行ってどうする」灰島は訊いてみた。写りたいのか、もしくは撮りたいのかもしれない。
「そりゃ、遊ぶのですよ」
「どうやって?」
「どうって………うん、考えてませんでしたね。愛しい人を永遠に記録しましょうか」
「映像は永遠ではないよ。そもそも、あれは人のものだ」
「いえ、あれは落ちているのです。落ちてるものを失敬したって犯罪になりません」
「なるよ」
「なるのですか?」
「うん、なる」桃山なら粗大ゴミくらいなら持って帰ったことがあるかもしれない。
「じゃあ止めておきましょう」桃山はあっさりと灰島に従った。どこまでが本気でどこまでが冗談なのかよくわからない。
もしかしたら、どこまでも本気でどこまでも冗談なのかも知れない。そういう思考なら灰島は羨ましかった。
「でも、持ち主はどこにいるのでしょう」
「そりゃ、あそこだ。階段を降りてくる。何か取りに行ったか、ジュースでも買いに行ってたんだろう」
「何故あの人だってわかるのですか?」
「知り合いだからだ」と、灰島は言った。
階段から降りてきた人物は桃山のほう、というよりもカメラの方に近づいてきて、桃山にもその人物が誰だかわかった。
「あ、神楽坂さんではないですか」と大きな声をだし、おーい、と手を振った。突然だったので灰島は眩暈がするかと思った。
相手の方も桃山の頓狂な声に気づいて、驚いて駆け寄ってきた。
「なんだ、灰島と桃山さんか。びっくりした。こんなところでなにしてるんだ?」戸惑ったように、神楽坂は言った。
「そりゃもちろん、デートです」
「母親が子供を公園に連れて行くようなものだ」
「なるほど。いや、よくわからんが」神楽坂は持っていたスポーツ飲料の蓋を開いて飲んだ。「よくわからんが、お前らはよくわからんのが正しい」
「そうだな、そういう現象もありうる」と、灰島は同意した。
「あれは神楽坂さんのものだったのですね」と、桃山は海に向けられているカメラを指差した。「なにを撮っているのですか? 新作の映画ですか?」
「いや、新作は撮っていない」よっこりゃしょ、とわざとらしくいいながら、神楽坂は灰島の隣に座った。「ただの遊びだ」
「うわあ、だったら私、いじってきてもいいですか? お願い。絶対に壊したり、撮ってあるもの消したりはしないから」
「好きにしていい」と神楽坂は頷いた。それを見た瞬間、桃山は弾かれたように駆け出していった。
「相変わらず、元気な子だな」神楽坂は隣の灰島に言った。「お前、まだ手ぇ出してないのか?」
「出すか馬鹿」と灰島は言った。空の前にこうもりが飛んでいた。
「そうか。あんな可愛い子なのにな。どこが気に入らん。ほっときゃ誰かに取られるぞ。俺がお前の立場なら、とっくに――」といい、神楽坂は止まった。
「とっくに、どうする?」
「いや、あの子は俺の手には負えんなあ。男はああいう子好きなんだけどな、無理だろうな。お前くらいがちょうどいい。うん、今度桃山さんに言ってやろう。きっと喜ぶな」
「なに言っても喜ぶやつだ」こうした会話は、時候の挨拶のようなものだった。
「ちょうど、お前のこと考えてたよ。そんなときに会うなんて偶然しちゃ出来過ぎだが、偶然か?」と、むしろ時候の挨拶の続きのように、さりげない様子で神楽坂が言った。
「偶然以外になにがある」
「神様のお導きかな。灰島、お前運命って信じるか?」
「運命か。例えば化学の実験なら、同じ条件をそろえたら必ず同じ結果が出るよな。同じ構成で、同じ作用をすれば、同じ結果が出る。僕たちの世界ってやつも、同じように考えれば――」
とまで言った時点で、神楽坂は笑い始めた。「やっぱりいいなあ、お前らは」
「何がおかしい」
「お前ら見てると人生何とかなるなって気になる」
「そんなに楽天家に見えるか?」
「いや。けど、枠外には見える」
「そうか」とだけ言って、灰島は不機嫌そうに黙った。
神楽坂が言った枠外とはどういう意味なのだろう。世界にはおよそ無限に等しいほどの人間がいて、しかしほとんどの人間はある種の共通認識を持って生きている。例えばそれは、信号が赤なら渡ってはいけない、といったものかも知れない。もしくはもっと大きくして、信号の左端にある光は赤だと認識すること、といったことかもしれない。もちろん価値観はそれぞれで、人びとはそれぞれの思惟を持って暮らしているのだが、しかしその思惟はどこかしら大勢の共通認識からはみ出ない形で行われている、はずである。そうした共通認識のことを、神楽坂は「枠」と表現したのだろう。
「そう怒るなよ。誉めている」
「嬉しくはないさ」と灰島は言った。「変人と言われてもな」
「なあ、灰島、お前、卒業する気はあるのか?」
「卒業? ああ、神楽坂、卒業できなくて悩んでんのか。そりゃ、でも、自業自得だ」
「わかってるさ、でも、勉強嫌いだからなあ」
「なら、退学して就職だな」
「就職はもっと嫌いだからなあ」
「なら、引き篭もりか。けど、引き篭もりは社会的にみて、あまり好ましい生き方ではないな」
神楽坂は力なく笑った。「さすがに俺も引き篭もりになる気はないさ。いや、退学する気もない。けど……」といって黙った。続ける言葉は見当たらなかった。「灰島は、どうすんだ? お前は、確か俺より一年上だから、留年してんだよな。なのに、なんか悩まないのか?」
「悩みは尽んよ。人間ですからな。けど、僕には研究があるからな。なかったらどうしてたか知らんが」
「研究か。それは俺にはない。桃山さんは、どうするんだろうな。なんか、就職活動してる姿が浮かばない」
「そうだな。あれはあれでなんとかなるんだろうが。……まあ、最悪俺が養ってやるけど」
へえ、という顔を神楽坂はした。「それ本人に言ってやれ。飛び上がって喜ぶぞ」
「馬鹿言え」灰島は立ち上がった。「コーヒー買ってくる」
「俺のやるよ」と、神楽坂は自分の持っていたスポーツ飲料を差し出した。コーヒーを飲んだ直後だったので、一口飲めば十分だったのだ。
「それはコーヒーじゃないだろう。それに、やつが戻ってきたときのジュースも要るからな」
「保護者だな」
「保護者だ」
2
神楽坂が最後に撮った映画のタイトルは、『海の旅人』という。慎ましやかな自主制作映画で、完成の際には仲間内だけだったが上映会も開いた。内容は、夢破れた青年が仲間や恋人に支えられ、新しく出会った人々に励まされながら再起を誓うというある意味オーソドックスといえる内容だった。それでも青年の心情と登場人物の関係性をしっかりと描くことの出来た映画として神楽坂は傑作だと思えたし、鑑賞した者の中にもいい映画だと思った者がいた。
上映会では、完成直後には味わえなかった充足感を感じることができた。いい作品を作ったと思った。これ以上の作品を作ることはできないだろうと思った。アマチュアの自分には、それで充分だとも思えた。
しかし、映画の完成直後には、全く別のことを考えていた。この映画には不満足ばかりだった。構図のアングル、風景描写、音楽、間、脚本。全てさらに上の演出があったように思えてならない。考えに考え、練りに練って弾き出した演出であるとは言えた。文字通り心血を注いだと自負することができる。それでも、映画完成直後の神楽坂の胸に去来したものは、後悔ばかりだった。
その後悔も、上映会の時には満足に変わった。
しかし、時を経るにつれ、後悔が静かに押し寄せてくるようになった。ふと気づけば次回作の構想を練っている自分を神楽坂は発見するようになった。
やがて我慢しきれなくなった。次の作品を作ろうと思った。すでに神楽坂は三十に近くなっていた。就職活動を諦め、バイトを止めた。昔買ったカメラを撮り出し、新しいノートを買って準備を始めようとした。
しかし、挫折した。
なにをどう、描けばいいのかよくわからなかった。いいと思って書き進めていたものが、起きてから見るとずいぶんと駄作に見えた。無理して書き進めてみても辛いだけで、破り捨てたところで新たな工夫は思いつかなかった。
半年、我慢した。しかしついに窮迫が訪れた。就職するにはもう最後のチャンスかも知れなかった。神楽坂は、映画を捨てることを決意した。結局、描くことも見えないまま、ノートは捨ててしまった。カメラはまた、押入れの奥に仕舞った。
神楽坂は運よく就職することができた。ほとんど自暴自棄になっていたときの僥倖であった。もう生きることは半ば諦めていたときのことだったために、神楽坂は涙を流さんばかりに喜んだ。それから、会社のために身を粉にして働いた。くたくたになって帰った床の中で、時折映画のことが頭をよぎったが、やがて忙しさに忘れた。
やがて神楽坂は結婚して、家庭を築いた。いい夫となり、いい父となった。休日には家族で公園に出かけ、息子とキャッチボールをした。時々、同僚や部下を連れて飲みに出かけた。映画については撮るほうではなく見る側に回った。
ただ、飲み会で、あるいは晩酌で、酔っ払っていい気分になったとき、俺は昔芸術家だった、と誰彼となく語った。俺は、あるいはお父さんは芸術をやっていたんだ、芸術芸術。彼が昔呟き続けた芸術芸術と言う言葉は、そんな風に彼の壮年も呟かれ続けることになった。
「しかし神楽坂さん」あるとき、神楽坂の同僚で芸術に興味がある者が、酔っ払った彼に問いかけたことがある。「芸術とはなんぞや」問いかけたほうも酔っ払っていた。
「曰く」神楽坂は答えようとした。答えようとして、沈黙した。深沈として、むしろ痛ましいような表情になった。往年の映画に対する情熱が一時に彼の胸に去来しているのかもしれないと周りにいた同僚は思った。しかしようやく口を開いた彼の言葉はこうだった。「酔っ払って頭が回らんな。ビール、もう一杯」
神楽坂はもしかしたらこう叫びたかったかもしれない。「それがわかっていたらこんなところで酒なぞ飲んでいるものか」と。
彼の死因は実に月並みなことに癌であった。見つかったときは末期で、延命治療以外手の施しようがなかった。告知を受けた彼は、穏やかに見えた。平生と少しも変わるところのなかった。神楽坂は時折訪れる見舞い客に、大学時代の話をするようになった。若いまま無理やりに作った一本の映画のことを話した。大学時代のことを話す彼を見て、彼の妻は驚いた。出会い以来、そのころを話をすることはただの一度もなかったからだ。
死に臨んで、一挙に過去が神楽坂の胸に到来したのかもしれない。神楽坂は、毎晩、病室のベッドで映画のことを思った。神楽坂は芸術について考えた。それについては、『海の旅人』以上のものはできないだろうと彼は思った。あの作品はあるいは芸術ではないかもしれないが、しかし自分の精一杯であると思った。
しかし、描かなければならないものはあった。やがて彼は病院食ではなく一本の鉛筆とノートを求めるようになった。
このことが彼の晩年に影を落とし、また彩を与えた。
彼は止める意思も家族も振り払って退院した。
毎日机の前に座ってノートを眺めた。しかし眺めるばかりで何も書かなかった。一日中座ったままのときもあった。しかしノートは白紙のままだった。
「描きたいものがあるんだ」ある日神楽坂は彼の妻にポツリと言った。それは針の落ちる音にもかき消されそうなほど小さな声だった。「大学時代のあのころのことを。記録しておきたいんだ。あのころの、あの情熱を。それができればどんなにいいだろう。それが――それだけでいいんだけどなあ」
いよいよ死の苦しみが彼の上にのしかかってくるようになったころ、彼は何事かを書き始めた。しかしそれはいわゆるミミズののたくったような文字で、誰にも判読することはできなかった。ついに彼は映画を再び撮ることなくその生涯を終えた。
神楽坂の通夜の際には訪れた人々のために『海の旅人』が上映された。それが故人の残した最大のものであるだろうと彼の妻が思ったためである。上映はしんみりとした様子で行われ、終幕の時には僅かな拍手が起った。上映を終えたフィルムは遺言通り彼の棺に納められ共に火葬された。
3
神楽坂の「カット」と言う声が響いたとき、灰島は文学部講義棟一階に設置されている自動販売機で百二十円で買ったブラックコーヒーを飲んでいるところだった。冬にもかかわらずアイスで飲んでいるのは、かっこつけではなく習慣を崩したくないためである。灰島は自分の飲むものはアイスのブラックと決め、決めてしまえば雪が降ろうが風が吹こうがてこでも動かないといった頑固さがあった。
「じゃあこれまでにしときまーす。お疲れでしたー」と言う神楽坂の怒鳴り声が聞こえてきて、辺りはざわついていた。五人に満たないスタッフが帰り支度を始めているのだ。いくら大学の小さなサークルの自主制作映画とはいえ、照明のようなものがあったし、カメラもあった。
「よう」とカッチンを持ったままの神楽坂が花壇の柵を椅子にしている灰島の元にやってきた。「相変わらず、ブラックだな」
「うん」
「彼女の演技、どうだった? 彼氏としては」
「彼氏じゃない」と灰島は否定してから、「意味がわからん」と言った。
「そうか? なかなかいい演技だったけどな」
「いや、内容が」といってから、灰島は立ち上がった。近くに設置されてあったゴミ箱に空き缶を捨てた。「これはヒロインが何か知らないけど不治の病に侵されて死ぬという話だと思うんだけど」
「死に面した少女が自分の人生をどう振り返るか、という話だ」
「でも結局死ぬんだよね。で、何で死んだ瞬間立ち上がって走り出したの?」と灰島は言った。ちょうどさっきまで撮影されていたシーンは、まさにクライマックスだった。少女は自らの命が短いことを悟ったとき、大学に入ってからやめた陸上への情熱を取り戻す。そして大学構内で練習を始める。目標の市民マラソンが目前に迫ったとき、しかし練習中に少女は、というシーンだ。
「走っているヒロインが心臓を抱えて倒れるよね。で、いい人生だったとか、そんな台詞が入るわけだ」
「感動のシーンだな」
「で、何故次の瞬間元気に立ち上がって走りだすんだ?」灰島が言った。「実は死んでなかったのか? それともなんかのメタファーか?」
「メタファーってなんだ?」灰島の言った耳慣れない言葉を、神楽坂は訊ねた。
「比喩」と灰島は答えた。「例えば、彼女の魂はまだ生き続けていて、肉体は死んでも魂は走り続けている、とか、そういう描写だったの?」
「なるほど、それは考えなかった」
「考えなかったって……」灰島は少し考えた。「あれは、……つまり、桃山が勝手にやったってこと?」それは確かに灰島にも渡されている脚本には書いていない。
「そりゃまあ、そういうことだ」
「それで、何でオーケイなんだ?」
「そりゃ、あれだ、彼女の魂が走り続けていたんだろう」
「適当だな」
「そういうなよ。臨機応変と言ってくれ」
「そもそも、この脚本、空白が多すぎるな」灰島はこの映画の脚本を取り出した。灰島の言葉どおり、この脚本はある意味では脚本とはいえない。まともに書かれているのは登場人物表くらいで、あとは必要最小限のことすら書かれていないという有様だった。登場人物の台詞として「|(俳優によるアドリブ)」としている部分さえあった。
「それに、ヒロインの恋人が出ていないな」と、灰島が指摘した。脚本には、ヒロインの恋人の名前が出ている。最後のシーンではヒロインは恋人の腕の中で息絶えなければならないはずであった。
「それについては簡単だ。要するに、灰島のせいだよ」
「俺の? よく意味がわからない」
「つまり」と神楽坂は説明した。
ヒロイン役の桃山が嫌がったのだという。「私の恋人といえばたった一人しかいませんからね」と。
「灰島が出演してくれていれば全て問題なかった」
「モブではでているんだ。勘弁してくれ」
もっとも、最大の問題点は桃山を主演にしたことだろう、と灰島は思った。桃山のような奇矯人がスタッフにいれば、まともなものが出来るはずがない。
「そもそも、まともなものを作ろうという意思がなかったんだな」と、灰島は言った。
「それはあるかもしれない」と、神楽坂は頷いた。
神楽坂にしてみれば、そもそも、まともに映画を撮ろうという意思さえなかった。大学生活の一つの思い出として、自分がかねてから呟き続けている芸術とやらを作ってみようかと思っただけだった。仲間内を語らって製作についたが、しかし誰もやる気はほとんどなかった。
映画制作に灰島修吾と桃山桃を巻き込もう、と提案したのも神楽坂だった。変人と名高い嵐山教授のゼミに所属している奇想天外娘桃山桃とその恋人|(?)灰島修吾。そうした変人たちを出演させれば、自分たちの作ろうとしているものは芸術とやらになるのではないか、と思った。
「でも、今思えば失敗だったな」
「当たり前だ」
「勘違いするなよ。お前らを巻き込んだのは、よかったと思っている。俺の人生の中でも最高のファインプレーだな。後悔してるのは、俺のやる気のなささ」神楽坂はカッチンをカチカチと鳴らした。「いざ撮り始めて見ると、何にもわからなかった。自分が撮っているものがいいものかどうかも、それ以前に、俺に撮りたいものなんてあるのかってことも。毎日、撮り終えた映像を確認してて、思うんだ、ああ、俺何やってだろうって。観てて、なんだこの映像はって、みんなと爆笑して、冷静になってみると、ああすりゃよかった、こうすりゃよかった、そんなことばっか浮かんできて。なのに、何がしたいのかも、わからなくってさ。ああ、もっとちゃんと準備しとけばよかったって、そう思うんだ。ああ、お疲れ」神楽坂の元に帰り支度を終えたスタッフたちがやってきた。「編集は俺が適当にやっとくから、帰っていいよ。うん、また部室で」
「灰島さん、帰りましょうか」片付けを手伝っていた桃山も、終わって灰島のところへやってきた。帰るといっても、この二人の場合は日本文学研究室である。
「悪いね桃山さん。俺はもう少しこいつと話があるから」と神楽坂が言った。
「えー、なんですか灰島さん。浮気ですか。こんな可愛らしい美少女を差し置いて冴えないめがね男子を選ぶんですか。ビーエルですか。もういいですよ。もう灰島さんの味噌汁作ってあげないんだから」
「いいからさっさと帰れ」灰島が言った。
「はいはい。灰島さんがいないんなら私も家に帰りますからね。灰島さん、また研究室で会いましょう」
「じゃあな」
「引き止めてもくれないんですね。いいですよーだ。それでは。キーン」桃山はアラレちゃん走りで去っていった。
「悪いな、灰島。嫌われたか?」
「別にどうでもいい。けど、話って?」
「いや、要するに、俺はお前らには感謝してるんだ」と、神楽坂が言った。「ええと、だから、俺が作ってるもん、俺らにはやる気がなかったって言っただろう。そう、それはその通りなんだ。それについては後悔してる。けどな、それでも、撮れてる映像はすごいんだ。なんか、画面から何らかの力がほとばしってるんだ。こっちが、圧倒されるくらい」
何故だと思う? と神楽坂は言った。
「俺が思うに、被写体がよかったんだ。つまり、桃山さんがさ。あの子の力が、ファインダーを通して見てるこっちにまで伝わってくるんだ。なあ、そんな映像を、俺なんかが、俺みたいな駄目人間が、撮ることができたんだ。それってさ、すごいと思わないか?」
「さあなあ」僕はあいつの顔は見飽きるほど見てるからな、と灰島は言った。
「のろけるなよ。とにかく、俺、やっと、映画のすごさってもんがわかったような気がするんだ。映画ってのは、多分、なんだかこう、何かしらの力を見てる側に伝えることの出来るものなんだな。俺は今まで、芸術芸術って呟きながら、そのすごさに気づいてなかった。だからさ、この映画撮り終えたら、次の作品はさ、ちゃんと準備して、撮りたいもん見つけて、すげーもん撮ろうと思ってるんだ。いや、この作品もだ。脚本むちゃくちゃの駄目な作品だけど、編集がんばって、どうだ立派な作品だって、胸張れるくらいのもんにはしてやるつもりだ」
「そうか」灰島は眠たそうな表情で呟いた。神楽坂の熱意に押されたのか、それとも本当にただ眠いだけなのか、よくわからない。
「まあその、なんだ、がんばれよ」神楽坂は知らないことだが、この男が人に「がんばれ」などということは実は珍しいことなのだった。
4
波が寄せたり引いたりしている音を、神楽坂はむしろ意外なことのように聞いていた。何故彼らは飽きもせず寄せたり引いたりしているのだろう。それはもちろん滑稽な感想だった。しかし神楽坂には大切な疑問に思えた。その疑問は確かに永遠に解き明かされることのない疑問だった。
ふと、次回作は海を舞台にするのがいいかもしれない、と思ったりした。そうした想念は、これまでなんども浮かんできたことだった。高校生を描こう、SFにしよう、一大歴史スペクタクルを撮ろう。しかしそのどれも空に浮かぶ雲のようにつかみ所のない想念だった。
「なかなか、上手く行かないんだ」と神楽坂は言った。
何が上手く行かないのか、灰島は一瞬で五種類ほど思い浮かべてから返答した。「そりゃ、上手くいかんさ」
「何故だ」
「神様は意地悪だからな」
「灰島、お前神様なんて信じてるのか?」
「そりゃま、憎むべき悪党として」灰島はニヤリと笑って見せた。神楽坂はこの男が諧謔を言うのはどことなく意外に思った。
「でも、何故そう思う。俺たちが悩んでいるのは神様のせいか?」
「世の中はわからないことだらけだ。何千年も前から研究者たちは世の中の不思議を解き明かそうと研究を続けている。なのに、信じられるか、未だに世の中はわからないことだらけなんだ。それは何故か。答えは簡単だ。意地悪な神様が答えを隠してしまったんだ。だから、僕たちは探検家なんだ。神様が隠した答えを探す」
「探検家か。なんだ、やっぱり、文学者は言うことが違うな」
「僕は文学者じゃないよ。どちらかといえば評論家という。どちらでもろくでもないことには変わりない」
「もしかして、お前、俺を元気付けようとしてるか?」
「してると思う?」
「わからない」と神楽坂は言った。桃山ならば、「まさか」と即答するところだ。
「要するに、映画が撮れないんだ」と、神楽坂は言った。「次回作を作りたい、と言ったのは覚えてるか?」
灰島は頷いた。桃山が出演した映画のクライマックスを撮り終えた日のことだ。
あの作品、『太陽は南に ~SUN RISE AGAIN~』と撮り終えたあと、神楽坂と灰島、桃山との交流は途絶えていた。完成したDVDは二人の研究室に届けられ、灰島のパソコンで二人は観た。桃山は「おおっ」とか「ああっ」とか「灰島さんかっこいい」とか騒がしく楽しんで、灰島は観終えた後「わけわからん」と一言だけ呟いた。
それから全く神楽坂からの連絡はなかったし、強いて会う必要もなかった。
「あれから、自分がなにを撮りたいのか、考えてみたんだ」と、神楽坂は言った。「最初は、色々な案が浮かんだ」
しかし挫折した、と言った。
「どれも中途でわからなくなってしまうんだな。俺の描きたいことはなんなんだろう。こんなもの描いて一体何になるんだろう。そもそも、俺にそんな資質があるのか? 俺なんかに映画を撮るだけの能力があるんだろうか。そんなことばっか考えて、結局上手く行かないんだ」
「ふうん。なら、やめるしかないんじゃないか?」
「なんどもやめようと思ったさ。でも、無理だった。どうしても、撮りたくなってしまった。何とか、あの時つかんだものを、もう一度掴みたいんだ。どうしても。なあ、灰島、俺はどうすればいいと思う?」
「さすがにそれはわからん」灰島は苦笑した。しかし、この最初はふわふわしているだけだった友人に、好感を持っていた。「誰しも悩むとか、産みの苦しみとか、そういう慰めは、慰めにならないしな」
「ならないな。そんな言葉は、とっくに反芻している」
「桃山を撮ったらどうだ。スタートはそこだったんだろう」
当の桃山は、現在服を着たままで泳いでいた。
「いいのか、あれ」
「マナー違反ではあるな」
「じゃなくて、服濡れちまうじゃん。服着たまま泳ぐのは危ないし」
「溺れたら助ける。帰るときは、僕が着替えを買いに行くのか、濡れたまま歩いて帰るのか、それは帰るときの話だな」
「悟ってんなあ」
「どうかな」
桃山は、自分がしたいと思ったことは基本我慢できない性質なのだ。基本といったのは、彼女にも自律心はあるということ。例えば、この場で服を脱いで泳ぐことはないということだ。桃山の思考回路がどうというより、自律の基準が人と違うのかもしれない、と灰島は思ったりした。
「あんな感じで映画撮ったら、完成品はむちゃくちゃになるな。事実、『太陽は南に』はむちゃくちゃだった」桃山を眺めながら神楽坂が言った。
「そこを何とかするのが監督だろう」
「そうだよ。でもなあ」神楽坂は空を向いた。こうもりはどこへ行ったのか、そこには空と雲しかなかった。「桃山さんは俺には大きすぎるよ」
それを言っては何も出来ない、と言おうとして、灰島は止めた。「なら、お前にできることはなんだ?」
「そうだなあ、何が出来るんだろう。こうもりを撮ることくらいかな」
「こうもりが主人公の映画か。それはみてみたいな」
「そういう意味で言ったんじゃない」
「そうなのか?」灰島は心底不思議がっているようだった。この男も、どこか測り知れないところがある。
「撮るんだったら、いや、撮りたいのは、そうだな、宇宙の真理が撮りたいな。この映画を見とけば、なんか胸に響くものがあるっていう。そんなものが撮りたいんだ。でも、できそうもない。術がわからない」
「そうか」灰島は月並みな慰めを思いついた。この場合、月並みなことしか言えることがない。「月並みなことを言うが、人生は長いからな。気長にやるしかないさ」
灰島は立ち上がり、少し海の方に踏み出し、「桃山、いい加減上がれ。風邪ひくぞ」と叫んだ。
悟ってるようで、恋人の身を案じる灰島の姿が、神楽坂はなんだか妙におかしかった。いや、そもそもこの二人は恋人ではないのか。といって、ただの先輩後輩でもない。関係性もそうだし、個人としての不可思議さも、神楽坂には到底測ることが出来そうもない。
こうもりは、もういなくなってしまったが、もう少し海を撮り続けてみようと思った。映画への情熱も、もう少しだけ続けてみよう。行き着く先に何があるのかわからないが、しかし行ってみなければわからないじゃないか。
神様はいつだって意地悪なものなのだ。
神楽坂は大きく伸びをして、砂浜に寝そべった。春風を受けて少し眠った。




