愚痴を聞くのが苦手な人が、ステップアップする方法
「愚痴を聞くのが苦手な人」=私だ。
「愚痴」というものは、大抵が楽しい話ではない。
そして一方的に聞き続けなくてはならない宿命だ。
愚痴は雑談にあらず。
ひたすら吐く者とひたすら受け止める者、双方の役割が決まっている。
そして愚痴を聞くのが苦手な人は、聞くほどに気が滅入ってくる。
愚痴主と同じ心情になるからだ。
「こんなことがあった、腹立つ!」
「それは腹立つ!ムキーッ」
「こんなことがあった、悲しい」
「それはショック……ガビーン」
「どうして私ばかりこんな目に」
「うう、やるせない……」
そして「私ならこうする」という助言をしたくなる。
「こうしてみたら?」
「こう考えてみたら?」
「現状を変えてみようよ!」
しかし愚痴主はアドバイスなんて求めちゃいない。
「簡単に言わないで」
「それができるならもうやってるよ」
「できないから愚痴ってんじゃん」
せっかく親身になってアドバイスしたのに、良かれと思って言ったのに、反発されてぐぬぬだ。
「じゃあ話すなよ」と面白くない気持ちになる。
なんて狭量な聞き手だろう。
しかしこれは「共感の仕方」が間違っていたからだ。
愚痴と「相談」は根本的に違う。
「相談」をされたなら、真剣に考えて、聞き手なりの考えや解決法を示すべきだが、
「愚痴」は、本当にただ聞いてほしい場合が多い。
聞き手の意見は求めていない。
話に共感し、うんうんと相槌を打ってくれさえすればいいのだ。
そう分かっていても、真剣に耳を傾けて愚痴主に共感するからこそ、助言したくなるというもの。
口出しするのをぐっとこらえて、自分の意見は心に留め、ただただ相槌を打つマシーンに徹する。すると、
うがー!ストレスが溜まる。
これが「愚痴を聞くのが苦手な人」だ。
こうならないためには
①意見やアドバイスは求められていない、ということを肝に銘じる。
②共感の仕方を変える。
以前の私は、
「愚痴主の話を真剣に聞き、愚痴主の身になって考えること」が親身であり、共感するということだと思っていた。
例えば本を読んで、物語の主人公になった気分で一緒に喜怒哀楽すること。疑似体験すること。
一体感があり、だからこそ「なんとかしたい」という気持ちになる。「私が何とかしなくては」
これは良くない。
愚痴を聞くときの正しい共感の仕方とは、
「愚痴主の状況を第三者として俯瞰的に見て、愚痴主を労うこと」なのだ。
愚痴主と同じネガティブな気持ちになるのではなく、
「大変だなあ」
「苦労してるなあ」
「大変なのによく頑張ってるなあ」
「立派だなあ」
と愚痴主を労り、愚痴主の良いところに目を向けると、優しい気持ちになり、ひたすら相槌を打つマシーンに徹することも苦でなくなる。
共感の仕方を変えて、俯瞰的に捉えれば
「愚痴るより解決すればいいのに」などといった傲慢で不満めいた気持ちも、
「ああ、こんなに大変な思いをして仕事をしている人がいるからこそ、世の中は回っているのだな。ありがとう」
という感謝にさえ変わる。
綺麗ごとのようだが、まじでこれ。
しかし、上記はあくまでも「愚痴を聞いてあげたい」「優しくありたい」と思える相手に対しての気構えだ。
そうではない相手の愚痴を無理して聞いてあげる必要はない。時間は有限だ。