他人のキャリーケースを取り違えて帰ろうとした結果……
私は自動改札機へ、叩きつけるようにICカードを置いた。後ろ手に持ったキャリーケースを、改札口の壁にぶっつけながら進んでいく。電光掲示板の時計は、まもなく11時半になろうとしていた。
ああもう、これじゃお風呂に入っている間に、確実に明日になってるわ。
思わず額に手を当てる。じっとりと、滑らかさを失った肌の感触が伝わってきた。最近の私は仕事運だけでなく、健康運まで下降線をたどっているとしか思えない。
今週の出張だってそうだ。こんな暑い中での研修会が思った以上に長引き、ようやく家に帰れると思ったら、電車の中でチームの重大なミスが見つかったという悪夢の連絡。電車の中でノートパソコンを引っ張り出して対応する事態になり、そのせいで降りる予定の駅を3つぶんも乗り過ごしてしまった。
駅の構外に出ると、ポツポツと街灯があるだけの殺風景な道が目の前に広がった。ここから自宅までは20分程度だけど、それでも気が滅入ってしまう。
数分歩いて、近隣の公園に差しかかったところで喉の渇きを感じ、キャリーケースの中に入れていたミネラルウォーターを取り出そうとした時、その時だった。
「あれ……?」
開かない。鍵がかかってる? 私、ダイヤルロックは解除したはずなのに――
「お姉ちゃん、それ、ぼくん家のキャリーケースだよ」
「うひゃあっ!?」
「はい、水色のキャリーケースです。取っ手と車輪が付いてるやつの……はい……駅の構内には見当たらない? もしかしたら三つ先の駅で、えっと、なんて名前だっけ……そこで取り違えたかもしれません」
私は公園のベンチに座って、落とし物センターへ問い合わせをしていた。持ち主を名乗る男の子は、キャリーケースの上にアゴを乗っけてニヤニヤ笑っている。
「はい、はい。見つかったら連絡をください、お願いします。電話番号は――
「誰かに盗られてないといいけどね、お姉ちゃん」
人がまだ電話かけてるのに話しかけてくんじゃねー。さっきもいきなり話しかけられたから変な声出しちゃったじゃない。
通話を終えると、私はため息をつきながらスマートフォンをビジネスバックに放り込んだ。キャリーケースには出張用の着替えとか、仕事に関係ないものしかなかったのは不幸中の幸いなんだけど……。
「で、僕ちゃんはいつまでそこにいるつもり?」
私は改めて男の子に話しかけた。彼はまだキャリーケースのそばにいて、丸く大きな目を、上目使いにして私を見つめている。……何かをしてほしそうな眼差しだ。職場の後輩がよくやっている、アレ。
「お姉ちゃん、家まで一緒に付いて行ってくれない?」
ほらきた。
「このキャリーケースけっこうデカくてさ、お姉ちゃんなら楽に運べると思って。それに、もう道も暗いから一人だと――
「ちょっとちょっと待ちなさいよ。なんで私が家まで一緒に行かなきゃならないのよ。第一、あなたのお父さんとお母さんはどうしたの?」
「……お父さんとお母さんは家にいるよ。キャリーケースを忘れて帰って、代わりに取ってきてほしいって頼まれた」
代わりに取ってきてって、こんな夜中に? 小さい子を一人で行かせて? いったいどんな神経をしているのかしら。
いろいろと文句は出てくるものの、確かにこの夜道を一人で行かせるのは危ない。とりあえず自宅の場所を聞いてみたけれど、あっち、と指差すだけで、住所を聞いてもアパートの名前しか覚えていないという。
「もー、しょうがないわね……なんて名前なの?」
「しらさぎ荘。そこの103番の部屋」
スマートフォンで検索してみると、わりと自宅の近所にそのアパートはあった。遠かったらタクシーが必要かと思ったけど、まあこれくらいならいいか。念のため建物の画像を開いて、男の子に見せてみる。
「ほら、これが僕ちゃんのおうち?」
「うん! ここ! そんなに遠くないでしょ、一緒に行こ?」
図々しいヤツ。近くに交番があったら押し付けてやるのに。結局、今夜は知らない男の子と一緒に帰るハメになってしまった。
帰り道の男の子は、案外大人しかった。私もスマートフォンを片手にゆっくりと歩いていく。夜道にはキャリーケースが地面をガタガタと鳴らす音だけが響いていた。
「お姉ちゃんは、まだ自分の子どもとかいないの」
「……え、何? わたしのこと?」
油断していたら、急に質問が来た。
何、その質問は? 若干セクハラ入ってるわよ、ぼうや。
……いや、こんな小さな子にデリカシーを期待しても始まらない。適当にあしらっておこう。
「子どもはいないわよ」
「独身?」
「独身」
「ふーん」
ふーんって何よふーんって。
「多分お姉ちゃんよりもぼくのお母さんのほうが若いと思うよ。今25だから」
このガキんちょめ。しかし25って……相当若い方じゃないかしら。この子は見た感じ7、8歳と言ったところだし。
「お姉ちゃん、子供はいたほうがいい? 欲しかったりする?」
味をしめたのか、さらに質問を重ねてきた。イライラは募ってくるけど、相手はまだ小さい子どもだと自分に言い聞かせる。むしろなんの接点もない他人の子どもなんだから、最近の愚痴といっしょに、洗いざらいぶちまけてみたい気分になった。
「そりゃ、欲しいわよ。子どもを授かるってのは、ほとんどの女性が持つ夢なんだから」
「まあ、そうだよね」
「できれば30までに寿退社をしたいなって思ってるの。わかる? 寿退社。結婚して家庭を持つので会社を辞めます、っていうの」
「そんなのあるんだ」
「でもね……今の会社じゃ無理っぽい。毎日毎日仕事に追われて、会社のみんなも私に頼り切ってる感じがする。これじゃまともに婚活なんかできっこない。ああ、可能なら今すぐにでも辞めちゃいたい気分だわ」
「大変だね。でもお姉ちゃんは、まだマシなほうだと思うよ……。本当に……」
急に声の調子が落ちてきたので、少し心配になって、スマートフォンから目を離し男の子のほうを向いた。偶然、街灯の光で首すじのあたりが照らされ、そこに、青黒いアザのようなものがあった。
「あんた、どうしたの!? それ!」
「ん、何、お姉ちゃん」
「首すじのとこ!」
「ん〜?」
男の子は首すじをさするような動作をした。手を離すと、アザかと思った所がキレイに無くなっていた。
「なんともないよ、お姉ちゃん」
「えっ、あれ? 見間違い、だったかな」
「虫かなんかと間違えたんじゃない?」
虫だったら相当デカいやつなんだけど……。まあ、特に問題なさそうだし、光の加減でアザに見えただけなのかもしれない。
さらに何分か歩いたのち、ようやく目的地のしらさぎ荘へと辿り着いた。
確かにここのはずなのだが、時間が時間なのか、廊下にわずかな電灯がともっているだけで、全体的に暗い印象だ。男の子が住む103号室も真っ暗。子どもがまだ外出してるのに。
「お姉ちゃん、一緒に来てくれてありがとね」
「どういたしまして、さ、キャリーケースもっておうちに帰んなさい」
「うん……でもその前に、もう一つ頼みたい事があるんだ」
「え? どうしたの、おうちはもう目の前に――
喋っている途中で視線を向けたけど――男の子はいなかった。あたりを見回しても、姿が見当たらない。
「お姉ちゃんの体を、貸してほしいんだ」
どこからともなく聞こえる声。そして、あまりに予想外なお願い。
「ちょっ、体を貸すって……何を言ってるの? 隠れてないで出てきてちょうだい。お姉さんをからかわないで!」
「ぼくなら、ここにいるよ」
気がつくと、キャリーケースがひとりでに動き出していた。ガラガラと音を立てて進み、私の目の前に来て、止まる。
「お姉ちゃん、仕事やめたいって言ってたよね? ちょうどいいじゃん。大丈夫、ぼくはうまくやるからさ」
どういうこと? あの子は……いったい何なの?
困惑に次いで、得体のしれない不安が込み上げてくる。もう一度あたりを見回しても、誰もいない。
「お姉ちゃん、ぼくだけじゃ心細いよ」
再びキャリーケースのほうに意識を戻すと、あの子がいた。キャリーケースの上に立って、私を見下ろしている。
それだけじゃない、男の子の様子がまるっきり変わっていた。髪はボサボサ、服も汚れて染みが付いている。そして体のいたる所には、青黒いアザまでも。
やばい、と直感しても、私の体はピクリとも動かせなかった。
「一緒に帰って、おねがい」
そう言って、男の子は膝を曲げたかと思うと、私に向かって一直線に飛び込んできた。
……あれ? ここは、どこかの家の中? 全然知らない場所だ。眼の前にはやたらでかいテーブルと、大男が座っていた。
「おい、なんだそのツラは」
大男が威圧的な口調で話しかけてくる。
「給食費が欲しいだとぉ、テメェ! 自分で金稼げるようになってから言えや! 俺の貴重なパチスロ代を減らすんじゃねーよ!」
叩かれた。頭の右上あたりに、痺れるような感覚が残る。
しばらくして、場面が変わった。
「算数で100点取ったって? バカかおめー、数字あそびなんかして何の得になるんだよ! それともお前、中学しか出てない俺をバカにしてんのか!」
そう言うと大男は、コップにポットのお湯を注いで、こっちに向かって浴びせかけてきた。
熱い!
「ちょっと、火傷させるのは駄目だって言ったじゃん。児童相談所に目をつけられてるんだからさ、痕が残るような事はやめてよ」
熱湯の熱さを取り払おうともがいている途中で、部屋の奥から大女が出てきた。大女のほうは大男に文句を言うだけで、こっちの方をちらりとも見やしない。
「ちっ、ああ! めんどくせぇめんどくせぇ! なんで面倒なんか見なくちゃいけねーんだよ!」
大男は子どもっぽく喚き散らす。
この大男と大女は、まさか、あの子の……?
その後も、正視に堪えないようなやりとりが、眼前で展開されていった。体罰だけでなく、言葉で詰られたり、反対にまったく無視を決め込まれる事もあった。そしてそのたびに、泣きたいような、悔しいような、重苦しい感情が目の奥に溜まっていく。
ひどい。ひどすぎる。こ、こんなの……親じゃない。
「おい、灰皿で殴ったぐらいでぐったりしてんじゃねーよ」
……。
「……? おい……おい!」
……。
「おいヤベえよ。こいつ死んじゃったよ。ど、どうすんだ。どうすりゃいいんだよぉ!」
「あんたさあ、マジ何してくれんの。もう救急車呼んでも意味無いし、あたしたちで捨てちゃおう」
……。
「こ、こ、これさあ。どこにす、捨てる? 見つかったら絶対ヤッ、ヤベぇって」
「んー、一番近くの駅のさあ、コインロッカーの中にでも……いや、それよりも自然公園にある森の中とか……」
……許さない。
気がついたとき、目の前にあったキャリーケースが開いたまま、アスファルトの上に倒れていた。
中にはベッタリと血のついた包丁と、のこぎりに金づち、そしてビニール袋に入れられた……ぼくの残骸があった。
包丁を左手に取り、玄関に向かってゆっくりと進む。
ぼくは包丁を強く握りしめながら、空いた手で、ぼくの家のインターフォンを鳴らした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。