第2話 赤色の悪魔×2
「――え? きゃっ!?」
カマタマは咄嵯に身を屈めた。
それは咄嗟の防衛本能だったのかもしれない。
彼の頭があった部分を、高速で何かが通り過ぎた。
「ドウシテ? ママ、食べちゃダメなの? お腹、空いてるノに……」
「ひっ……」
《うおぉ!?》
《え、なになになに》
《今なにが起こったの!?》
先ほどまで可愛らしい顔をしていた少女は、そこにはもう居なかった。
首から上が通常の何倍にも膨れ上がり、肌は赤黒く変色してしまっていた。そして目は血走り、口はカマタマの頭を丸呑みできそうなほど大きく裂けている。
「コイツが赤子鬼だったの!?」
大きな頭を身体が支えきれないのか、赤子鬼らしき怪物はハイハイの体勢となっていた。そのせいでカマタマの目と鼻の先に巨頭があり、むわっとした息が掛けられた。生臭いところまでリアルだ。
彼は廊下の来た道を後退っていく。一刻も早く、コイツから離れなければならないと本能が告げているのだ。
《なんだこいつ、気持ちわりぃ》
《これが赤子鬼なのか?》
《デカすぎるだろ、人間じゃなくて巨人じゃねーの?》
《これじゃまるで怪獣映画じゃないか》
『ラズベリー色の悪魔』の初登場に、コメント欄では視聴者達の困惑する声が溢れていた。
それも無理はない。画面越しに見ている彼らでさえ、そのリアルさと異形さに恐怖を感じているのだ。
「ねぇ、ママー。早く食べさせてくれないと、私泣いちゃうよー?」
《なに言ってんだコイツ》
《早く逃げろカマタマ!》
「ええ、言われなくても逃げるわよ!」
気丈な返答をするも、カマタマは内心で焦っていた。あのギザギザとした鋭利な歯に嚙みつかれたら、一発でアウトだ。
赤子鬼が動き出した瞬間、彼は床を這うように走り出した。
「あっ、待ってよー」
当然ながらその言葉を無視し、一目散に駆ける。そして事前情報にあった、空き部屋へと飛び込んだ。
壁には燭台の火が灯されており、部屋全体を見渡すことができた。どうやらその部屋は寝室のようで、豪華なベッドや家具が置かれている。それらの中からカマタマは目的のモノを見つけ出し、安堵する。
「(あった、あのクローゼットに隠れるわよ!)」
部屋の壁際に彼の巨体が優に入りきる大きさのクローゼットがあった。そこへ急いで入り、扉を閉める。
赤子鬼は足が遅いのか、まだ部屋に入ってきていないようだ。これで少しは時間が稼げるはず。
「どこ行ったのかなぁ……」
「(――ッ! )」
扉越しに聞こえたセリフに、カマタマは思わず声が出そうになった。どうやら部屋の中を探し回っているらしい。
《うっわ、こっわ!》
《でもあの怪物はこの中には入ってこれないはず》
《さすがはクローゼットのパイセン! あったけぇわ……》
逃走系のホラーゲームでは、ロッカーやタンスといった場所は緊急避難場所が用意されていることが多い。『赤子鬼』においても、種類は少ないが安全な場所が設置されていた。
その一つが今カマタマが逃げ込んだクローゼットで、プレイヤーの憩いの場となっていた。
「(ふぅ、なんとか助かったわね)」
カマタマは安堵の溜息を吐いた。
いくらなんでも、あんな化け物に捕まってはひとたまりもない。ここは一旦、冷静になって作戦を考えるべきだろう。
「(とりあえず、この洋館に散らばる鍵を集めて脱出を……)」
そう思い、カマタマはゲーム実況用のメモ帳を取り出そうとしたところで、
「――ひっ!」
視界に映ったソレに、思わず悲鳴を上げてしまった。
「ママ、見ぃつけた~」
視線の先にあるのは、クローゼットの隙間から見える光景。そこには満面の笑みを浮かべる、赤子鬼の巨大な顔があった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁああああ」
バタンという音と共に、安全であるはずのクローゼットの扉が開け放たれた。
「ひっ……ひぐっ……」
カマタマは涙目になりながら、必死に後ずさりする。だが狭い空間ではすぐに背中が壁に触れてしまい、これ以上は下がれない。
「やめて……来ないで……」
もはや彼に出来ることは懇願することだけだった。
だがその願いを聞き届けてくれる相手ではないことは明白であり、絶望感だけが彼を襲う。
――バキッボキッ、ゴリッ……ぐちゅっ。
生々しい咀嚼音が部屋に響く。現在進行形で増え続ける数千人もの視聴者の前で、赤子鬼による食事シーンが開始されてしまった。
《お、おいコレってあまりにもリアルじゃねぇか?》
《仮想世界じゃ出血とかグロい描写はされないはずじゃ……》
コメントが流れている現在も、赤子鬼はグチャグチャと咀嚼を続けていた。偏食家なのか頭以外には興味を示さず、カマタマの首から下は床に放置されたままとなっている。本来ならばとっくに死体は消えて再スタートしているはずなのだが、その気配はない。
《おい! これヤバイって! マジで洒落にならねぇぞ!》
《運営は何してんだよ!》
普段と違う状況に、視聴者は大混乱に陥った。コメント欄は阿鼻叫喚となり、「警察を呼べ」とキレる者や「もう無理、離脱するわ」といって去っていく者など、様々な反応を見せていた。当然ながら、この状況を正しく説明できる人間はいない。
それもそのはず。これは単なるバグではなかった。カマタマはこれから始まる災厄における、最初の被害者にしかすぎなかったのである。
《なぁ、実況掲示板で他のゲーム配信者も、原因不明の化け物に殺されたってあったぜ》
《しかも『2nd.ユニバース』からログアウトできなくなってるって……》
カマタマが殺されてから既に数分が経過したが、ログアウトや運営による配信停止もされていなかった。配信を見ていた大半の視聴者はすでに立ち去っていたが、この異様な状況を整理しようと残っていた者たちがいた。
《ニュースでやっていたけど……ゲーム内で死んだやつ、現実世界でも意識不明だってよ》
《マジかよ》
《じゃあカマタマも……?》
《お、おい。赤子鬼がまた動き出したぞ?》
カマタマの頭を胃の中へすべて収めたあと、血の海の真ん中でごろりと横たわっていた赤子鬼がむくりと起き上った。次なる餌を求めて、再び移動しようとしたのだろうか。そんな赤子鬼の顔に、何者かの影が差した。
《ん……? 誰か来たのか?》
《別のプレイヤー?》
《いや、なんか様子が変だぞ》
「……ママ?」
未だ満腹感を得られない赤子鬼は期待に満ちた表情で振り返ると、そこにはトマトの被り物にリクルートスーツを身にまとった長身の男が立っていた。さすがの赤子鬼も困惑したのか、大きな頭を斜めに傾げている。傍目から見たら、真っ赤な頭をした怪物が二人並ぶという異様な光景である。
「あーあー、こんなに食い散らかして……っていうか、間に合わなかったかぁ。これでもかなり急いだんだけどなー」
声の感じからすると、二十代後半ほどの男性だろうか。しかし、その見た目とは裏腹に口調はかなり軽い。
「ママじゃない?」
「ん、あーごめん。俺は君のお母さんじゃないよ」
「じゃあ、誰?」
赤子鬼の問いかけに、トマト頭は腰に手を当ててこう答えた。
「俺の名前は『トマトちゃん』。まぁ君を倒すまでの短い間だけど、どうぞよろしく」