ある灼けつく陽の朝、星砂の浜にて
見覚えはあるが、見たことのない世界。
美しくはあるが、残酷な世界。
懐かしくはあるが、違和感のある世界。
そんな物語空間にようこそ。
困った時の三題噺 様からのテーマに着想を得た事を記させて頂きます。
今回は、
【砂浜】【8:20】【朝食】
でした。
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【第一幕】
足はとうに限界にきていた。
もうずっと前からそうだ。何時間前からか、何十時間前からかわからないが、とにかく歩き続けている。でも立ち止まることはできない。
うしろを振りかえる。
松林のすそから波打ち際まで百メートルはあろうかという純白の浜辺があった。
とても幅が広い。そして、長さの方はといえば、わからない。何キロなのか何十キロあるのか、わからない。いや、浜のことなんてどうでもいい。
問題はあいつらだ。ななめ四十五度から照りつける日光を反射している半裸の男ふたり。ひとりはぴかぴかの銅板を曲げて造ったような皮膚で、もうひとりはまるで秋刀魚の皮人間である。
手にはそれぞれ鐵の太い棒を握っている。金属バットの倍くらいの容積か。そんなとんでもない凶器をまるでプラスチック製のおもちゃ程度に扱っている。腕、というより腿が四本ある怪人たち。
ただでさえ敬遠したい連中なのに、さらに不気味なのは、履いてるのが派手なガラのトランクス型海パンであることと、その完全無毛の頭部に能面のような笑みが張りついていることだった。
笑み、といっても目は笑っておらず、まるでガラス針の視線だ。それらが常に冷たく背中に突き刺さっている。
重量感のある足取りはたゆみなく、踏み出される方向は視線と同調していた。つまり、やつらの標的はこの俺なのである。
なぜ、追ってくるのかわからない。走ることなく、推定時速四キロを守り続けているのかもわからない。わかっているのは、あのグロテスクな棒でこの体を殴りつけようとしているという事だけだ。
今たもっている距離はたぶん、十秒から二十秒。メートルで測っている場合じゃない。十秒数秒止まったらアウト。休んだらアウト。シンプルだろう。
……
くそう。
つかまってたまるか。
まるで骨付きハムと化した両足を、歯を食いしばって交互に前に出す。精一杯の前進だが、せいぜい最高時速四コンマ五キロ。それ以上はきびしい。疲労だけじゃなく、一歩一歩の着地が痛みをともなってもいるからだ。
まだ太陽は昇りきっていないのに、なぜか砂地は真っ昼間みたいに灼けきっていた。そんなところをずっと歩いていて足の裏が火傷にならないはずがなく、砂浜なのにジャリ道を踏んでいるのと変わらない。
とにかく、たまらない。疲れと痛みがマーチのリズムで脳みそに打ち込まれ続けては。
いったん汀に寄ろう。海からは離れていたいのだが、砂地歩行が長すぎて膝がばらばらになりかけている。コースを微妙にななめに取って、少し盛り上がっているところを越えて濡れている砂地に入った。
ああ生き返る。
十本の指と足裏が冷えてきて火傷がましになったような気がする。それに砂が締まっていて歩きやすい。スピードが少し上がる。
一瞬うしろを見る。少し差が開いた。いいぞ。でも、足元と海上に注意しておかないと。
何回かに一度、小波が踝までを洗いにくる。
「あっ」
泡の中に一瞬見えた。左前だ。力を振りしぼってわずかに横にとぶ。同時に、腕の長さほどの縞模様が海水から跳ねだして、まさに水におおわれたばかりの足跡に着地した。
ウミヘビだ。牙に猛毒を蓄えている。あれに噛まれた足や腕は使えなくなる。
また濡れ地に戻って前進。振りかえる。大丈夫、差は詰まっていない。もうちょっとスピードを上げねば。
波がくる。
ウミヘビはいるか。
いない。
次の波には?
いない。
次は。
よし。少し距離を離したぞ。
いや、時間か。
……
でも。
失敗したかも。
加速したせいだぞ。
いよいよ臑が上がらない。
……
ウミヘビはいるか。
いない。
次の波には?
いない。
……
「うっ」
波にばかり気を取られていて、わずかにのぞいている岩につまずいてしまった。加速で余剰筋力を使ってしまっていたこともあり、とっさにふんばることができない。バランスを崩して脚がもつれる。前のめりに倒れてしまう。
右ひじ、ひたいを打ちつける。濡れ砂なのでけっこうな衝撃。目の前十センチにある星の形をした白砂は、ロマンティックな見た目に反して、皮膚に食い込んで痛い。
口の中にも入った。潮の味と香り。吐き出す。さあ、早く起き上がるんだ。
左目で海をすばやくチェック。入道雲を背景にヘビがきた。左腕を振ってはじきとばす。
両腕に体重をかけて上半身をリフトアップ。背後には赤と青の男たちの水を蹴散らす音。かなりまずい。
クラウチングスタートの姿勢から、気持ちとはうらはらにのろのろ起き上がる。瞬発力が枯渇していてダッシュできない。
とにかく立ち上がり、必死の前進を再開。速度の落ちる乾いた砂地へは戻れない。
いやな予感。
振り返る。
やつらが黒棒を肩にかついでいた。
もっと間合いを詰められると、あれが高みに上がり、振り下ろされてしまうのだ。
逃げろ。逃ゲロ。ニげきれ。
海から押し出されてきた波が薄く広がる。
泡が消えて透明になる。
隠されていた褐色の縞模様が現れて、ぬるりと蜷局を巻き、水膜を突き破って宙に踊り出てくる。低い軌道。手でハタけないので一瞬だけ加速。
一歩分だけ避ければいいのだが、どうしてもニ歩動いてしまう。ばしゃばしゃ。なけなしの筋力のエネルギー転化による消失。
うねる縞模様が引き波とともに退場していく。速度が落ちる。落ちたままでは追いつかれるから、疲れないようにごくわずかずつ加速する。必達目標時速四キロ。
なんとかマイナスニ秒くらいの収支におさめなければ。
もう少しだ。もう少し耐えろ。
空を見渡す。
そろそろ来るはずだ。来てくれ。もうもたない。また頭を上げる。まだ何も見えない。
い、痛っ!
この動作が悪かった。殺し合いをしている時によそ見をする者は、普通いない。
左足のアキレス腱に黒と群青のやつが喰らいついていた。
しゃがんで首根っこ(首?)をつかんで引き離し、熱砂の上に放り投げる。そして前進。
まずいぞ。まずいまずいまずい。今のでやつらとの距離はきっと十秒を切った。
噛まれた筋はちくちくしている。まもなく毒が効いてくるだろう。それまでに少しでも距離を取るんだ。
時速五キロに加速──できない。水も怖い。波打ちぎわから再び熱い砂の上へ。こちらにはヘビはいない。
それにしても、俺はなぜこんなことをしているんだ?
いつからここにいるんだ?
そもそもこの島はどこなんだ?
いや、島じゃないのかもしれない。こんな海岸線のビーチは、どんな観光ガイドにも載っていなかった。
疲れきっているせいか、頭の中がふわふわしていて、肝心なことが何も思い出せない。
……
やつらがすぐうしろにいる。左足がやっぱりやばい。毒素が根を張めぐらし、感覚があいまいになっていく。
……
やられた。左の膝が折れ、左手を砂地に突きながら灼熱の上にひっくり返る。背中と尻がたちまち焼かれた。陽と砂で二重にいたぶられている。
でもそれはましさ。追いつかれていないから。やつらまでの間合い、あと八秒か。
ふたりとも頭上に漆黒の凶器を振りかざしていた。なんとか起き上がらないと。
起き上がれ。一、ニ、三、四、五……六秒もかかってしまった。だめだ、左足に力が入らん。
背後に規則正しく移動するふたつの気配が迫る。重い風切り音がして、右肩に衝撃。ついで激痛。息が止まる。
とっさに体をひねる。左肩甲骨にその半分のダメージ。偶然少しかわせたか。
前に出るんだ。前に。右首根元に衝撃。バランスがくずれてまた転倒。
すぐに横に転がる。ざん、と鐵の衝撃が星の砂数千粒を破壊する。
やつらの能面顔がゆっくりこちらに向けて回転する。あわてず焦らず、背筋を伸ばしきると、また歩を進め始める。
「なんなんだ、おまえら」
痛いところだらけの体をかばいながら立ち上がる。
「なぜオレを殴るんだ」
赤いやつの口角が不機嫌になった形にゆがみ、青いやつの口の端はあざけっているように吊り上がった。能面の目元は変わらず、笑みを湛えている。
「頼む、追わないでくれ」
左足を引きずりながら数秒に一度振り返って叫ぶ。汗と海水で濡れた全身に砂が張りついているが、払い落とす余裕はない。
「オレを殴るな」
転倒。
ぴかぴか光る赤銅色の腕と棒が天頂に向かって伸び、打ち下ろされてくる。よけられない。
左腕で受ける。ぼきっという嫌な音と振動がからだ全体に伝播する。
悲鳴を上げた。
ただ、悲鳴を上げるしかなかった。
秋刀魚の背の色の方が地面に左ひざをついた。棒を腰だめにかまえている。抜く。黒が遠心力を溜めながら、水平にぶん回ってきた。
右腕で頭を守る。手首の下あたりに直撃。拳が直角にこちらを向き、ひたいの左側あたりにもダメージ。
吹き飛ばされて右側頭部が砂に突っ込んだ。打たれたばかりのところから生暖かいものが流れ始めた。もう言葉も出ない。
今度は、赤いやつが下向きに持った棒を顔の高さまで上げている。肋骨を突きくずそうとしているのだ。
その時だった。数百羽の鳥が飛んできて頭上を通過した。
やっと──やっと来たか。
鳥たちは波打ち際あたりをゆっくり旋回する。あわい色の空を背に、その白い翼で8とコロンと2と0を描いていた。
八時二十分になったのだ。
だから、赤いやつも青いやつも止まっていた。彫像のように動かなくなっている。
つとめを終えた鳥たちが、鳴き声ひとつ発せず飛び去っていく。
ひと息つけた。でも、状況が良くなったわけではない。受けた傷は夜半まで残るのだ。
今朝のダメージは、右肩粉砕、鎖骨も粉砕、頸骨はズレた程度か。左肩甲骨の骨折に、たぶん頭蓋骨にひび。あとは左足に神経毒を食らってしまった。被害甚大だ。
朝食をとって回復しなければ。一分でも早く動けるようになるんだ。
目の前の砂が盛り上がる。二十センチ、四十センチ。砂が流れ落ちてドームが現れた。くすんだ緑色の亀の甲羅だ。
その上にトレイが乗っていて、皿と純銀色の缶があった。いつもの朝食である。
上半身を起こし、がらくたになった両腕を使って星砂満載のトレイをおろした。すると甲羅は沈んでゆき、できた穴に周囲の砂が崩れ落ちていく。
さあ食おう。食わなければならない。熱砂に這いつくばったまま、なんとか使える左手の指で皿の端をつまんで傾ける。
大粒の白砂が落ちて、黒い四角形が現れた。食パンだ。耳も何も区別がつかないほど焦げている。なのに、ご丁寧にもマーガリンが塗られていて、かなり砂がへばりついている。
しかし、へし折れた腕では自由がきかず、また痛すぎて、それをはらうことができない。しかたなくそのまま齧る。
マーガリン風味の炭であった。しかも硬い星砂つきだ。これを胃にねじ込まなければならない。食うとなぜだか負傷したところの治りが早いのだ。
ざくざくじゃりじゃり咀嚼する。あごを動かしながら、ラベルすらない二百CCの缶を開ける。コーヒーの香りがする。
缶を鼻の高さまで上げ、思い切って口に注入すると、十回以上加熱し直したような最悪のニガ味が口の中に広がった。そいつで炭化パンと砂を流し込む。
最悪の食いものに最低の体調だった。でも、食べると回復する。いっそ死んでしまった方が楽なんだが、骨を砕かれても頭をつぶされても生き続けてきた。ならば、ちゃんと回復するしかない。
さて、食事らしき行為も終わった。あとは、いかに前に進み距離と時間をかせぐかだ。やつらが動き出すまでに。
【第二幕】
ばさっと顔になにかが当たり、痛みで目が覚めた。体が不安定に揺れているのであわててそのへんをつかむ。
なんだこれは。何の乗り物だ。運搬車両か。見覚えがあるぞ。
無骨だがなめらかな木の手ざわり。長年酷使され続けて角が丸くなっている、土台の最先端と背もたれ。左手と右手でしっかりとつかむ。膝から下は宙ぶらりんで力を加えるところがないので、握力だけが頼りだ。
目の前には栗皮色の馬の尻があり、歩くたびにほうきのような黒毛の尻尾が左右に揺れている。獣の臭いと藁の匂いが混ざっている。顔に当たったのはこの尾か。
馬を観察してみると、背に載せられている鞍の両側には錆びた大きな輪があり、荷車を牽く二本の棒がゆわえつけられていた。
いかにも時代遅れな乗り物が、時代遅れの道路の上を進んで行く。道幅は四メートルくらいか。まったくの未舗装で、風化してぱさぱさになった土と子供のコブシほどの石からなる原初的な道だ。
車輪が自動車用のゴムタイヤだから多少はマシだが、路面の凹凸は容赦なく尻を突き上げ続ける。ただでさえぐらぐらしているのに、水流でえぐられたらしい溝の上を通ると座面からはじき飛ばされそうになる。
でもこの感覚には覚えがあった。不快ではない高揚感がなぜか湧き上がってくる。
一方、景色はまったく見覚えがない。両側には、斜度はしれているが、かなり高い深緑の高峰がつらなっている。その谷底には、山体の規模とは不釣り合いな狭い川が流れていた。
それにしても、頭がなにかもやもやしている。考えることはいったん置いておこう。
ふと、馬の蹄と車輪が立てる石と土の重音にマスキングされた水の音に気づく。川の方をぼんやり見る。魚が数匹泳いでいるようだ。どんな魚なのかな。目を細めて凝らす。
不意に車体がぐらりと左側に揺れて放り出されそうになる。右腕全力、重心を寄せて何とか耐える。
それを待っていたかのように車体が右側に沈みこんだ。
「わわ」
反応が間に合わずバランスをくずす。そのまま右側に転がり落ちてしまう──はずが、肩が隣の人に当り、そうはならなかった。
「すっすみません」
さっきまで隣に人がいる気配はなかったはずだが、まずは謝る。体勢を立て直して、改めて隣の人物を見た。
「じいちゃん」
思わず声が出る。母方の祖父がそこにいたのだ。
「し、しっかりつかまっとかんか」
「……はい」
おいおい、なぜここに田舎のじいさんがいるんだ。どこかおかしいぞ。考えることをしないというわけにはいかなくなってきた。
だが、そんな心理におかまいなく、祖父は訥々(とつとつ)と、た、大変だったな、と言った。
この少しどもってしまう癖は間違いなく本人だ。しかし、大変だった? 何がなのだろうか。どうにもぴんとこない。
「大変って、どうしてよ」
思ったままのことを口に出す。
「いやあ……いい」
祖父は答えず、穏やかな笑みを湛えたまま、ただ手綱を握っている。
色あせたベージュの作業用上着に同じくよれよれのズボン。使われてきた歳月をあらわす光沢の麦わら帽子。その影がかかった飴色の顔には、人生の年輪である皺が刻まれている。
そういえば、自分は──ジーンズにポロシャツにウィンドブレーカーか。
で、じいさんって、いくつになったんだったろう。何か話しかけたかったが、話題を見つけられずただ黙っていた。やはり何か違和感があるぞ。でも、なぜだ。頭がはっきりしなくてわからない。
大体、ここはたぶん、自分の知っている田舎じゃない。では、田舎がどこで、どんなだったかはどうしてか思い出せないが、今見ている風景ではなかったはずだ。
だめだ。あたまが、だめだ。
「どうした。気分が悪いんか」
「いやあ悪くないよ、ぜんぜん。ただ、わけがわからん」
それからしばらく黙っていた。じたばたしても仕方がなさそうだし、どちらかと言えば気持ちも快適だったからだ。
もしかしたら、今、夢を見ているのかもしれない。
馬の尻尾が飛んできて、毛の塊が顔に当たる。いてて。夢じゃないんだな。
服のせいなのか、これまで働いていたからなのか、じいさんの汗の臭いもする。ちょっとクサい。
荷車の座席はずっと不安定で気が抜けぬ。でも悪くない。もう黙っていよう。
進んでいく。ただ進んでいく。ゆるい上りだ。景色は少し変化してきた。川はそのままだが谷の幅が広くなっていき、先の方に田んぼが見えてきた。
「よか天気じゃな」
空を見上げる。
「うん、いい天気だ」
都会とは違う、深く澄んで高い青空だった。きれいかどうかという差はあるものの、空はどこだってそう変わらない──はずなのに。自分の目つきが険しくなっていくのを自覚した。雲足が速すぎるのだ。
コマ切れのやつばかりで気付かなかった。進行方向の山の稜線に現れた小さな積雲が、あっという間に頭上に来て後方に去って行く。
高層にいるため、静止しているように見えるはずの絹雲も、全力で走る犬のように移動している。ざっと旅客機の速度の十倍くらいか。つまり、音速の八から九……。
「狂ってる」
思わず呟きながらも、天から目を離すことができない。山ほどの大きさのものが来る。蒸気でできたその姿を、操作されるルービックキューブのように変えている。
次は波雲だ。まさにその名のごとく一気に広がって全天を覆い、すっと引いて消えて行く。
嫌な予感はしていたが──やっぱりそうだったのか。
で、今度はなんだ。声がするぞ。視線を戻す。
いつの間にか谷はさらに広くなり、周囲には何枚もの田があった。急に田んぼだらけになったな。田植えもまだのようだが……。
「う、うわあああ」
思わず悲鳴を上げてしまう。止めることができない。田の一枚一枚にそれぞれ人がいたからだ。しかも張られた水の下に。
見える範囲では、みな苦しんでいた。例外はない。見て気持ちのいいものではないが、一呼吸もすればどんな状況にあるかはわかった。
雲の速さと同じく、水面下の世界の時間も加速されていて、嫌でもその苦しみの内容が目に焼きついてしまうのだ。
「どう、どう」
祖父が手綱を引くと馬が立ち止まり、荷車も止まった。そして、座席から降りると、そばの畦の上に立った。自分も尻を滑らせて祖父の側に出て後に続く。
「じいさん、遠慮なく言ってよ。ここは地獄なんだろ」
「す、少し違う」
そう言いながら目の前の田を指さした。
「あの中は見ての通りのありさまじゃが」
カメラアングルでいえば、天井の一角から見下ろした映像である。
そこは豪華な部屋だった。ヨーロッパあたりから取り寄せたであろうソファや絨毯に、超大型のテレビや飾り棚がある。窓の外には磨き上げられた真紅の高級車が見える。アルファロメオのエンブレムだ。なぜだかこういうことはわかるぞ。
しかし、中は薄暗く、天井から常に雨漏りらしき水滴がぽたぽた落ちていた。
中央には屋敷の主らしき男性がいて、ソファと同じ生地の一人掛けの椅子に座っている。建物や調度に似合ったアルマーニのスーツを醜く太った体に身につけている。
サイズが合っていないのかかなり窮屈そうで、しかも、落ちてくる水のためにぐしょぐしょに濡れていた。さらには、動かないように両腕、両足を固定されている。
男性の前には、エナメル的光沢の漆黒の男たちが列をなしている。列は今いるリビングから廊下、玄関と続くばかりでなく屋外まで、まさに無限の長蛇となっていた。
みなが手さげ袋を持っている。中身はどうやら札束と硬貨らしかった。というのは、最前列の者がその中身をせっせと出しているからだ。
一万円札を十枚数え、まとめて四つ折りにすると、屋敷の主の口をこじ開けて押し込む。主は涙を流しながら首を振って拒もうとしているが、黒い者の力はかなりのものらしく喉の奥に突っ込まれている。
その次は別の袋から硬貨を取り出し、鼻の穴や目の中にねじ込んでいく。それを袋の中がカラになるまで繰り返されるのだ。
もちろん、後の者、次の次の者が待ち受けている。さらには、その自分の姿が大画面に映されていて、嫌でも自分の目に入るのだ。
「じいさん」
「なんね」
「この男は何をしたんよ」
祖父は胸ポケットから"いこい"と印刷された紙箱とマッチを取り出し、引き抜いたタバコを口にくわえ、少し震える手で火をつけた。
「か、簡単に言うと、金がらみで多くの人ば苦しめた上に、その人の時間まで奪ったっよ」
「待てよ……そうか。他人から搾り取った金で立てた屋敷ってことか。さぞや、ぜいたく三昧の日々だったんだろうな」
「賭け事にハマらせて金を吸い上げっせ、稼いだ金で金貸しの会社を作った。そいで、ハメた客に高利で金を貸して、そん金でまた賭け事をさすっとよ」
なるほど。だから自由を奪われ、大好きなものに囲まれて、大好きな金を体に詰め込まれているのか。「ここにいるのはこんな悪党ばかりなのかな」
「そ、そうでもなか」
祖父はわたしの目を見た。
「おまーもわしもこの下におったとよ」
えっ、まさか。わたしは凡人だったはずだし、じいさんはただの百姓で近所の人気者じゃないか。はっきりとは思い出せないが、そういう印象だ。
「みんな一回は地獄に落ちっとよ。そ、それぞれがそれなりの悪いこともしちょる」
わたしもある、という事か。かなり認めたくないが、きっとそうなのだろうな。人間、自分や身内の評価は甘いし。
「だけど、自分には地獄の記憶がないよ。それともこれから落ちるのかな」
「心配は、い、いらん。おまーもわしも、終わっとると。記憶がないのはみんな一緒よ」
祖父は煙を大きく吐いた。
「おまーはましだったが、わしは重かったとよ。戦争に行って、じ、実戦を経験したっで」
え?……そうか……いや、確かそうだったぞ。
「国や家族のために行った。国の命令に従った。そもそも、国だって外国に追い込まれたあげくの戦争じゃった……なんち言うても罪がゼロにはならんとよ」
あらためてまわりを見てみた。いろんな叫び声やうめき声が聞こえてくる。田んぼの水面下はほとんど暗いか薄暗かった。十枚、三十枚と見渡していっても、すべて暗澹としていた。
また、不思議と百メートル先、一キロ先の田んぼを見ることができるようになっていた。
「おっ、向こうの竹林のあたりに明るい田んぼもあるよ」
「み、見てみればよか」
意識を集中し、イメージする。自分がカメラ付きドローンになったイメージ。空中で静止して、上からのぞきこむ。
これは島のようだ。あるいは南国の海岸か。白くまばゆい砂浜に原生林。珊瑚礁が透けて見える海。まるで、旅行パンフレットの表紙を飾るとびきりのリゾートじゃないか。
……だがしかし。
どうも違うようだ。いかに素晴らしい場所に見えても、少し条件を変えるだけで最悪の監獄になる。この地獄と中にいる者をしばらくながめているだけで、自分の認識が崩れようとしていた。
どう言えばいいか、ものごとを安易で楽観的に考えがちな性質を嘲笑された気分だった。もしかすると自分の地獄ももっとひどい所かもしれないのだ……。
畦に縁取られた田に沈んだ風光明媚な世界に、熱砂の上を際限なく逃げつづける全裸の男がいた。低い位置からでも容赦なく強い日差しを浴びせ、皮膚も砂も徹底的に灼く太陽。
だが、林の中は、様々な植物が密生していて、とても踏み入ることはできない。
かといって水辺に近寄れば、本来水面下にしかいないはずの海蛇がバッタのごとく襲いかかってくる。
となると熱砂の上を行くことになるが、作り物めいた赤と青の異人が鉄棒を持って追跡してくる。
さらには、わずかに与えられた朝の休息でも、砂まみれの消し炭を食わねばならない。そうしてのたうち回りながら時間をやり過ごし、やっと負傷を回復できる。
まさに苦しみしかない空間だった。喜びや快適さは一切なく、与えられるのは純粋な苦痛だけなのだ。
ここまで容赦がないとは。
この男に課せられたことは、追われ続け、痛めつけられることだけであった。
「じいさん」
「はいよ」
「ぼくがいた地獄はどんなだったんよ」
「おまーか」
じいさんが短くなった"いこい"をつまんで空中に差し出すと、それは発火して一瞬で灰になった。
「人に生まれっせ、地獄行きにならんもんはまずおらん。人として生きるうちに、何かしら罪をおかしちょっとよ。例外は、子供のうちにケ死んだり、生まれつき自我が持てなかった人たちくらいよ。おまーも、だからいっぺん落ちちょる。じゃっどん、こ、こがいにひどくはなか」
祖父の話を聞きながら、そばの地獄をいくつか眺めてたが、確かに豪邸男やリゾート男以上の目にあっている者は見当たらない。
「海岸の男はいったい何をしたんね」
「簡単に言やぁ、人さまの人生ば食らいながら生きてきたとよ」
祖父の笑みはやや曇った。
「海やら、自分の勤め先の飲み屋で知り合うたおなごをだまくらかっせ、金をせびり、貯金を吐き出させちょった。金が底を尽きたら殴る蹴る。やっと正体を見せた時には遅え。いかがわしか店で寝る間もないほど働かせたっとよ。おのれは良かもん食ろうて、あとは賭け事じゃ」
赤い男の振り下ろした剛棒の先端が、逃亡者の頭部をかすめた。髪の毛の一部がその下地ごと吹き飛んだ。ぐらつき砂地に伏したその男の過剰に日焼けしたふくらはぎに青い能面笑いの垂直突きがまともに入る。
スキップ。
今度は濡れた砂の上を両腕をまっすぐに垂らしたまま早足で急いでいる場面だ。どちらの腕もむくんで紫色になっている。突然、海蛇が飛びついてくる。すでに毒が回っている腕を差し出して食いつかせながら、進む。背後には当然ながら赤と青がいる。
スキップ。
夜のシーンだ。追いかけられてはいないが、男は泣きながら浜辺を歩き続けている。おかしな向きに曲がった腕が、ぴくぴくしながら徐々にまともな方向に戻ろうとしていた。だが、それにはかなりの苦痛が伴っているようである。
スキップ。
水平線に夕陽が沈みつつあり、赤と青はそれぞれ片膝を立てて、あるいは胡座をかいて座っている。動きはない。
制裁の棒は、一本は振り下ろす途中でとまっていた。もう一本は砂地に打ち降ろされていた。彼らの前には褐色の血の跡があり、三十メートル先に肉の塊があった。だがそれは死んでおらず、ある種の原生動物のように蠢いているのであった。
もういい。たくさんだ。終了。意識をライト・ブルーの田から離す。
結局、と祖父がつぶやく。
ワガのしたことは、ぜーんぶワガに返ってくるとよ。へたすりゃ何倍にもなって。ズルして得したち思っても。
また空を見上げる。巨大な金床型の雲がいた。てっぺんを高空の風に削られながらも、形を保ちつつ通過していく。
ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん。
なんだ、今のは。背後からだった。荷台を見ると掛け時計が無造作に置いてあった。見覚えのある、年季の入った骨董品だ。
ちょうど八時を指している。文字盤には二つの穴がある。そこに鍵を差し込んでぜんまいを回し、針が回転するエネルギーを貯めるタイプのものだ。
寝かしているのに、振り子がちゃんと動いていて、しかも一秒あたり何度も往復していることがとても不自然だったが、もう何が起こっても驚かない。
祖父が近づいてきて、荷台に積んであった叺袋を三枚取り上げて道端の草の上に敷いた。
次に鶯色の風呂敷包と象のエンブレムが目立つ水筒を取り上げて、右端の叺の上に腰をおろした。風呂敷は真ん中に置き、広げる。
「朝飯にすっど。湯呑みを取っちくい」
荷車に戻って丸盆を湯呑みごと包んでいると思われる臙脂色の風呂敷包の結び目をつかむ。
いやでも目に入る異様な時計は、まるで秒針のように進んでいく分針が二十分を過ぎたところだった。
両足を土手に投げ出しながら左の叺に腰を下ろし、風呂敷を開く。伏せてあった湯呑みをひっくり返して、魔法瓶を傾けて茶を注ぐ。
鶯の方の中身はへこみと傷が目立つアルミの弁当箱だった。祖父がふたを開けると、にぎり飯と玉子焼きとタクアンがぎっちり入っていた。
「さあ、食ぶいが」
「はい。頂きます」
にぎり飯をつかんでかじる。シンプルに美味い。正面を向く。田んぼは、ただの田植え前の田んぼになっていた。だが、もうなんとなくわかっていた。これから自分が、祖父と一緒にずっと地獄にはさまれた道を登り続けるということを。
「さ、先はけっこう長い」
「長いんだ」
数個の千切れ雲が超高速で太陽の前を通り過ぎ、同時にばらばらの影が田の上を抜けていく。
「じゃっどん、おまーのは済んだ。まずは良かった」
祖父は元のおだやかな笑顔に戻っていた。
(完結)