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 好きな子がいた。


 今はもう、この国にはいない。

 彼女は僕を「男」として見たことなんてなかったろう、と思う。彼女には好きな男がいて、またそいつが女に節操のない「ろくでなし」ときていた。

 もし、彼女が僕なんかお呼びではないくらいしっかりした将来有望な好青年と付き合ってくれていれば、とっくの昔に諦めがついたのかもしれない。

 でも、彼女があいつにひどい仕打ちを受け僕のアパートにやってくるたび、どうしようもなく胸が苦しくなって、もしかしたら、とあてのない希望を夢見ていた。

 そんな僕も、どんなことをされても一途に好きでいたあのろくでなしも日本に置いて、彼女は専攻していた建築・都市デザインを学ぶためにイギリスへ行ってしまった。

 それはもう鮮やかな去り方だった。

 僕が染めてやった髪の毛が軽やかに揺れていた。国際線のチェックインカウンターへ向かう彼女の背筋はまっすぐ伸びていた。

 口にすることもなく、ずっとみっともなく大事に思い続けていた僕のあてのない片思いはこうしてあっけなく終わった。


 めぐが日本を発って、あっという間に数か月が経とうとしていた。

 めぐが去ってしまったショックで彼女のしずかのことも数回会っただけで、その後ほったらかしにしていた。

 そもそも、彼女と付き合いだしたのも、めぐとよく似た髪質、髪形だったからで、めぐがとっくに髪を切ってカラーリングをし、イギリスに行ってしまったことを考えると、彼女と付き合っていくのも無意味だ。

 そろそろ潮時だろうか、と考える。

 とはいえ、さすがにメールで「はい、さようなら」というわけにはいかないだろう。めぐの男はろくでなしだったが、僕のしてることだって、全然誉められたことじゃない。むしろ最低だ。

 パッと見た印象はよく似ていても、静はめぐとは全く性格が違う。別々の人間なのだから当たり前なのだけれど、めぐは明るく快活だが、静はその名の通り、どこか落ち着いていて大人しい。

 性格が全く違うからこそ、付き合うことができたのかもしれない。

 よく似ている性格だったら、とうとう我慢できずにめぐに告白をしていただろうから。

 片づけを終え、勤めている美容室を出て時計を見たら、終電間際だった。電車で二駅の静のアパートに行くにはまだ間に合う。

 大人しそうに見える静は見た目に反して、社会人になってからずっと営業の仕事をしているらしい。「らしい」というのは彼女がどういうことをしているのか、よく知らないからだ。失礼な話だが、正直な所、ちゃんと取引先の人と話ができているのだろうかと心配になったものだ。

 僕と二人でいる時、彼女はあまり自分のことは話さない。どちらかというと僕の話に相槌をうっているほうが多い。彼女の性格で、よく営業の仕事を続けられているな、と不思議に思うこともあるが、自分は会社勤めをしたことがないから分からないだけなのかもしれない。

 平日の終電のせいか、大きな乗換駅を通り過ぎたせいか、そのどちらのせいもあるのだろうが、僕のいる車両の人影はまばらだ。

 付き合いだしてしばらくしてから静にもらった合い鍵。それが手元にあることを確認して、アパートへ向かう。同じ駅で降り、改札を通り過ぎた人々は皆足早に去っていく。

 くたびれた様子のサラリーマン、飲んで帰ったらしい大学生、俯き加減に歩くOL。

 漫然と彼らを眺めているうちに、急に空腹が襲ってきた。

 早く静のアパートへ向かおう。

 もう帰宅しているだろうか。

 元来はマメな方だから、会えなくてもメールや電話で彼女の様子はしっかり把握しているのだが、今回ばかりはめぐの出国で自分自身気持ちの整理がついていなかったので、それどころではなく、静が今どんな状況なのかさっぱり分からない。

 僕のアパートより広々とした1DK。

 なんだか気が急いた。階段を駆け上がる。ドアノブを握ると、ガチ、というドアがロックされている動きで家主がまだ帰宅してないことが分かる。

 合い鍵で鍵を開け、後ろ手にドアを閉める。

 ふっと足を踏み入れた時の香りがこれまでと違う気がした。

手探りで電気をつけると、玄関の靴箱の上に、透明のビンの中に木の棒が何本か刺さったディフューザーがあることに気づいた。

 こんなもの前からあったっけ、と思う。

 それぐらいこの部屋から足が遠のいていたのかと思うと、僕の中の罪悪感がまた少し大きくなった。

 この時間になってもまだ帰ってきてない、ということは静の仕事はいま立て込んでいるのだろうか。

 たまたま、何かの付き合いで飲みに行ったのかもしれない。

 わざわざ夕飯をどうするか聞くのも面倒になって、あるもので炒飯でも作るか、と思う。冷蔵庫の中の食材を勝手に使ってしまうことになるが、明日僕は休みだし買い足しておけば、静が文句を言うことなど絶対ないだろう。

『最近、全然会えてなかったね。ごめん。

 今日、お邪魔してる』

 それだけをメールして、テーブルの上に携帯を放る。

 冷蔵庫を開けるとちょうどいいことに卵もハムもネギもあった。

 腹が満たされないことには込み入った話もできない。

 僕は、勝手知ったる他人のキッチンで早速調理にかかった。




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