兵士募集のポスターに写っていた美女が敵の妖魔だった件
全滅まで、あと二時間といったところか。
「……ふざけんなああ!」
俺はたまらず叫んだ。傍らには、数時間前に初顔合わせしたばかりの軍曹が、一言も声を発しない骸となって横たわっている。俺が自己紹介をした時、「声が小さい!」とビンタ付きで怒鳴りつけてきたのは、一体誰だったか。
次の瞬間、そんな軍曹の身体が高々と宙を舞う。身長も体重も、おそらく俺とほとんど変わらないそれを容易く蹴り飛ばした巨体の持ち主こそ、彼に引導を渡した張本人だった。
……いや。一応二足歩行だが、その姿はもはや「人」ではない。頭に角を生やし、奇形カボチャのような金棒を振り回しながら、人間を雑草のように刈り取っていくその怪物を、俺の国では明確に「ミノタウロス」と呼ぶ。きっと、俺の大声を聞いてやって来たのだろう。
「くそっ!」
情けなく地面を転がりながら奴の金棒を避け、俺は一目散に走った。こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、という言葉だけが頭の中を駆け巡る。曇天の下、明らかにサイズの合っていない革服を着た俺が、四方八方を敵に囲まれている理由……それは数年や数か月前の話ではなく、つい四日前のことだ。
何気なく街を歩いていた時、ふと見かけた「I WANTS YOU」という題の募兵ポスター。軍服を着た男が勇ましいスローガンと共にこちらを指差している、至ってありきたりな構図かと思いきや、その一面に写っていた見返り姿の女性を見て、俺の心臓は聞いたこともない音を上げた。吸い込まれそうな黄色の瞳。腰にまで届く、すらりと流れるような黒い髪は、身近ではまず見かけない。遠い国の民族衣装を思わせる服は、シンプルな赤い布と青い布で構成され、一部に金色の細かい装飾が施されていた。大胆に露出した肩の下に実る胸も大きく、そこに視線を奪われていた通行人は、まず俺だけではない。
断言しよう。女っ気のない人生を送ってきた俺にとって、それは産まれて初めて経験した「一目惚れ」だった。目を皿のようにしてポスターの中を探しても、彼女の名前はどこにも書いていない。ただし下の方に「ウェスタリア軍広報部」という文字と、その連絡先が記されているのを見て、俺はだいたいの事情を察した。
俺の故郷「ウェスタリア」はその名の通り、大陸の西側にあるこじんまりとした国だ。三方を海に囲まれ、東にはマーラン帝国という巨大な国が位置している。
しかし、一昔前まではこちらも負けず劣らずの領土を有する「大国」だった。度重なる戦争の中、五月雨式に土地を奪われた結果、すっかり大陸の端に追い込まれてしまったのだ。やれ失政だの、売国者による陰謀だの、その原因は国内でもいろいろ指摘されているが、俺に言わせれば答えはひとつ——「国民性」だ。
中でもさっきのミノタウロスのような「魔獣」や、「魔人」と呼ばれる超人的な能力を持つ人々に対する扱いが、帝国に大きく差をつけられた要因であることは間違いない。どちらもこの大陸では古来より忌み嫌われてきた存在だが、およそ百年前から、マーラン帝国はその方針を修正し、彼らをれっきとした「国民」として受け入れるようになった。
(……ばっかみたいだ)
その結果がこの有り様だ。人間離れした肉体や異能を持つ者たちを味方につけた帝国に、俺の国が太刀打ちできるはずもない。事実をひた隠しにしている政府も、こうして戦地に赴くまでそれに気付かなかった俺も、とんだ間抜けだ。
しかし、今ならはっきりと言える。「ウェスタリアは敗戦する」と。俺たちの前線は残り二時間もしないうちに崩壊し、この魔物の大群は市街地に流れ込むだろう。
「わかった、投降する! 命だけは助けてくれっ!」
前方から聞こえた悲痛な叫びに、俺は慌てて近くの岩陰に身をひそめた。横からゆっくり顔を出すと、俺と同じ服を着た兵士が腰を抜かし、がたがたと震えているのが見える。その目の前には青いロングヘアーの女性が立ち、彼を冷たく見下ろしていた。安価な支給品とはいえ、片手に立派な剣を握りしめている男と、見るからに丸腰の彼女との間で、その構図は実に不自然だった。
しかし……そんな状況はどうでもいい。あの女性が帝国側である以上、おとなしく降参した彼は賢明といえる。こんな負け戦につまらない意地を張っても、無駄死にするだけだ。
「あの、俺も投降……」
両手を上げ、俺も岩陰から出ようとした。この戦争が終わったら、せめて広報部にクレームの一本でも入れようと思う。いくら兵士をかき集めたいからって、軍に所属もしていない美女の写真を用いるのはいかがなものか。でなければ最低限、「写真はイメージです」という但し書きくらい付けて欲しかったものだ。
だが一歩目を踏み出す直前、俺はショックで凍りついた。
前で尻もちをついていた男は、もっと恐ろしい思いをしたに違いない。
俺が見たポスターの女性とは比較にならないが、そこに立っている彼女もかなり端正な顔立ちだ。麻のズボンに牛革のベルト、薄いタンクトップという格好も含めて、こんな戦場にいることが不思議で仕方ない。ひょっとして、戦地に迷い込んだ民間人ではないのか?
——その可能性は、想定よりも早く排除される。
「ン……ッ」
女性はうわずった声を吐き、湿った大地に膝と両手をついた。一瞬、向こうも降参したのかと思ったが、バキバキと膨れ上がる彼女の背中を見て、そんな期待も泡と消える。両側に生えてきた白い何かが、翼ではなく「肋骨」だと気づいた時には、新たな「肉」がそれらを包み込むように形成されていた。脚は大木のように太くなり、青い髪は頭を突き破るように生えてきた「角」と同化する。タンクトップはちり紙のように破れ、引き千切られたベルトは、俺の頭上を易々と越えて飛んでいった。
「ば、化け物めえええ!」
彼がそう叫ぶ気持ちも分かる。だが、眼前にそびえ立つ彼女を「竜人」という正しい名前で呼べなかったからこそ、俺たちはこの戦争に負けた。青く巨大な瞳を少し悲しそうに細めた後、竜は男性兵士の脚に食らいつく。
その瞬間、俺はちょっとした違和感を覚える。
「ああっ、だめ……やめて……」
踝から宙づりにされ、唯一の武器である剣も手から滑り落ちる。無論、その体勢からむやみに振り回したところで、竜の鱗には傷一つ付けられなかっただろう。
竜が顎を器用に動かすたびに、その身体は少しずつ喉の奥へと引き込まれていく。径が太い上半身には時間を要するかと思いきや、いとも容易く肩まで呑み込まれる様子に、俺は鳥肌が立った。脱出しようと暴れたために溢れ出した唾液が、かえって彼自身の滑りを良くしているのだろう。
見入っている場合じゃない。これ以上ここにいたら、俺だって彼の二の舞だ。
だが、一種の「怖いもの見たさ」だろうか。岩陰から飛び出した瞬間、すぐに全速力で逃げるべきだったのに、俺は自然と後ろを振り返っていた。右腕だけが竜の口からはみ出している兵士と、不意に目が合う。
「あ……たす……」
その目にわずかな光が宿った直後、彼は人生最後の「変顔」を強いられる。左右から収縮してきた、ピンク色のぬるりとした内壁に押しつぶされる瞬間のそれは、この上なく滑稽で、ひどく背筋が寒くなるような表情だった。
数十キロもある人体が、余った唾液とともに呑み下されるゴキュッ、という音。太い鎌首の中を、やや詰まりながらも確実に下っていく膨らみから、俺がしばらく目を離せなかった理由はひとつ——それが紛れもなく「動いて」いたからだ。
「グェェッ、プ」
豪快な音が響くと同時に、俺は現実に引き戻される。その頃にはもう、竜の腹はすっかり大人しくなっていた。
「う、うわああっ」
違和感が確信へと変わり、俺は今度こそその場を離れる。何がおかしいって、竜に変身した彼女が、非情にも男性兵士の投降を認めなかったことだ。そして彼をわざわざ「足から」呑み込み、いまだに吐き出すそぶりも見せないことが、この戦争がもはや単なる「敗戦」では済まないことを物語っていた。
この戦場で、人が魔物に喰われる光景自体は珍しくもない。生身の人間と古くさい装備からなるウェスタリア軍に対し、マーラン軍勢の大半は魔獣が占めており、その中には当然、人間を躊躇なく喰らう生物も少なくない。
しかし彼らが巨大な口を開ける時、そこには明確な「作法」が三つ存在する。今日初めて戦闘に参加した俺が容易に勘づくほど、それは分かりやすいものだった。
——
まず「丸呑み」が圧倒的に多い。彼らも肉食なのだろうが、人語を理解し、マーラン帝国で人間と共生している以上、積極的に「人間を食べたい」と思っている者はいないはずだ。そこで丸呑みが選ばれるのは、呑気に咀嚼などしていれば他の敵に攻撃される危険があるという、至って合理的な判断によるものだろう。
次に「必ず頭から喰らう」という点だ。竜も大蛇もスライムも、ヌメヌメとした粘液に覆われた触手で獲物を絡めとる軟体生物まで、皆一様に頭から兵士を呑み込んでいる。正面から対峙した際、位置的に食らいつきやすいのが最大の理由だろうが、彼らがそれに勝るとも劣らないメリットを得ている瞬間を、俺はたびたび目撃した。何しろ、頭を咥えられた側は——とにかく見ていて悲しいほど「反撃ができない」のだ。他に言葉はいらない。
最後は「すぐに吐き出す」ことだ。魔物たちの目的は消化ではなく、あくまで敵を戦闘不能に追い込むことであり、その意図は普通の体当たりや、尻尾での薙ぎ払いと変わらない。(その攻撃であっさり息絶えてしまった者も多いが)
ゆえに一度食われたところで、その兵士はものの三分もしないうちに、再び吐き戻されてくる。魔物たちにしてみれば、古い獲物は腹を重くするだけだし、ほとんどの兵士は嚥下された段階か、少なくとも胃にたどり着く前に気絶しているからだ。
しかし、どうだろう。さっきの竜人は、そんな戦場における「作法」のうち、大胆にも二つを破っていた。獲物を足から呑んだ挙げ句、遠目に確認した今なお、兵士を吐き出そうとする気配はまるでない。そろそろ消化が始まってもおかしくない頃だというのに。
「ゆ、許してくれ……誰かあっ!」
「待ってくれ、投降する! 投降するから!」
いつの間にか、周りから聞こえてくる声の内容も変わっていた。勝ち鬨はおろか、命令や報告すら鳴りを潜め、耳に入ってくるのはウェスタリア兵の命乞いばかり。
そんな中、先ほどの兵士と同様、両手を上げて降伏の意思表示をしている男がいた。彼の前には、うちの軍曹を殺した個体とは別のミノタウロスが立ち塞がっている。その巨体が斧を振り上げた瞬間、俺は「あっ」と叫んだ。
ザシュッ。
鮮血が舞う。人間を狩る道具としては度が過ぎた大きさのそれを、ミノタウロスは盛大に振り下ろした。二つの肉塊となって崩れ落ちた元・同志を見て、誰もがこう思ったはずだ。
——戦争は終わった。待っているのは、殺戮だ。
方角も知らず走り続ける俺を含め、ウェスタリア軍は完全なパニックに陥っていた。「戦意喪失」というレベルはとうに過ぎ、統率がおおいに乱れる中、多くの若い兵が上官を押しのけて逃げ惑う。俺自身も三人ほどひっくり返してしまった。
「おい、貴様! どこの隊だ!」
「そんなもの、今更あるか! このままじゃ俺たち全員……」
正直、その先は言いたくなかった。声に出すまでもなく、その答えは視界の至る所で現実となっていたからだ。
「ねえ、みんな聞いて!」
突然、泥臭い戦場に小鹿のような声が響いた。近くにいたウェスタリア兵の全員が、ほぼ同時に上を向く。
俺は唖然とした。黒い三角帽を頭に乗せた少女が、箒に腰かけて空中に浮かんでいる。歳は十代半ばといったところか。既に髪の毛が後退し始めている兵士もいる中で、ふんわりとした黄色い髪のおさげと、まるで今しがた仕立ててきたような汚れのないコスチュームは、はっきり言って目に染みた。
「ふふっ、ありがとう。じゃあまずはあなたからね」
「えっ……俺?」
白羽の矢を突き立てるがごとく、少女は足下にいた男を指さした。袖からピンク色の短い杖を取り出し、その先端を彼に向けながら言葉を唱える。
「汝、宝石となれ。さすればその命、永久に残らん」
次の瞬間、男の身体は色が変わり始めた。足の方からゆっくりと、色水に浸した紙のように赤く染まっていく。染まった部分は質感が固くなり、きらきらと輝いていた。
「な、なんだこれっ……ああっ……!」
それが最後の言葉だった。あっという間にまつ毛の一本まで凍りついた彼は、文字通りの宝石人形となって倒れる。その姿を見て、彼女は歓喜の声を上げた。
「おー、良い感じ! じゃあ次はあなたね!」
「ひっ」
「汝、花壇となれ。さすればその美、我らの目を潤さん」
別の男に狙いを定め、少女はもう一度杖を振った。今度はその男の皮膚から、無数の葉や茎が生え始める。
「う、うわあっ!」
植物の生命力は凄まじく、彼の革服を内側から突き破るほどだった。全身を緑に覆われながら悶え続ける男の上に、やがて色とりどりの花が開く。一人目と同じように倒れ、動かなくなったその肉体は、文字通り花屋に並んでいる「苗床」のようだった。
「やーん、完璧。ママに褒めてもらおうかな」
「おい、貴様! 私の部下に何を……」
怒鳴りながら進み出たのは、俺がさっき転倒させてしまった別隊の上官だ。しかし彼が文句を言い終わるより早く、少女の杖から白い閃光が迸り、その大きな図体を直撃する。
「あ……っ」
数秒間は何ともなさそうだった。しかし何かを悟ったような声とともに、その身体は風船のように膨れ上がり、真っ赤な粉となって辺りに飛び散る。風に乗った血の匂いが、ほんのりと俺の鼻をかすめた。
「……邪魔しないで。全部できるまで、ママに帰ってくるなって言われてるんだから!」
少女がここに来た経緯など知る由もない。だが彼女が紛れもない「魔女」であることは、もはや疑いようもなかった。兵士を「実験台」のように宝石や花壇に変えた一方、気に食わない男は呪文も唱えずに爆死させたあたり、何ともアンバランスな気はするが。
「あっ……ごめん、びっくりさせちゃったよね。私、マーランの魔女学校に通ってるんだけど……夏休みの自由研究で、『変質魔法を人間に使うとどうなるか』試してるの。そのマークを付けてる人は誰でも協力してくれるって、さっき軍の人に言われたんだけど……本当?」
彼女が指で示したのは、俺たちの胸元にあしらわれているウェスタリアの国章だった。誰もあんぐりと口を開け、次の言葉が出ない。
「本当なんだね。じゃあ、次は誰にしようかな~」
俺は戦慄し、再び走り出そうとした。全員が同じ行動を取ると思っていたが、驚くことに逃げ出した者は少数だった。
その時、兵士の一人がゆっくりと手を挙げる。
「ぼ、僕でよければ……いいよ」
三々五々、力のない手が彼に続く。つい数分前の俺なら、この状況で「お前ら、いったい何考えてるんだ!」という発言もできたかもしれない。しかし先ほど、戦意のない兵士が敵のミノタウロスに斬殺される瞬間を目の当たりにしたためか、俺は彼らを否定することができなかった。むしろ、その選択に少し「共感」していると言ってもいい。
つまり——どうせ助からないのであれば、通り魔と化したミノタウロス達に殺されるより、この小さな魔女に身を委ねてみたい、という願望。とはいえ、さっきモルモットとなった二人を見ていたかぎり、彼女の魔法は決して「楽に逝ける」方法ではないだろう。あの上官は見せしめだとしても、草や宝石に全身が覆われていく恐怖に歪む兵士の表情は、今もはっきりと脳裏に焼きついている。
それでも、あちらこちらで血しぶきが上がり、ウェスタリア側に巨大な絶望感が立ち込める空間において、その少女が放つ魅力は実に「異様」だった。いたいけな顔に浮かぶ無邪気な笑みは、否が応にも男たちの庇護欲を掻き立てる。ところが傷ついた自分たちの戦闘着と、彼女のおそろしく清潔な服を見比べた途端、その欲は逆流し、むしろ「守ってもらいたい」という思いが強くなるのだ。年の割に引き締まった足腰と、原色のコスチューム越しに発育の良さが窺える胸元も、そんな母性をほのめかしている。
——断言しておくが、俺はロリコンじゃない。
だが最終的に、その場にいる兵士の九割近くが、はっきりと手を挙げていた。
「えっ、みんな優しい! 私、がんばっちゃうね!」
「「「うおおおっ!!」」」
あとの光景は、もはやカルト宗教と大差ない。少女はカリスマ指導者のごとく杖を振り、立候補した順に男たちを「救済」していく。氷漬けにされたり、謎のどす黒い空間に落とされた連中や、不運にも呪文が失敗して火だるまになった者を尻目に、俺は駆け出していた。
「なんだよ、これ……」
低い丘から辺りを見回し、俺は唖然とする。
そこはもう、俺の知っている戦場ではなかった。わずかでも「上質な死」を求め、荒野を右往左往する大量のウェスタリア兵。殺戮の恐怖に支配され、仲間をミノタウロスへの囮に使う者もいれば、悲鳴を上げて走り回るだけの者もいる。
ただ、彼らが求めている相手は一目瞭然だった。荒野には大小の人だかりが形成されているが、大きい方の中心にいるのは決まってマーラン側の女性兵士。それも人間の剣士より、スライム娘やハーピーなど、人外の女性たちに多くの男性が群がっている。
彼女たちのような妖魔を、俺の国は今までさんざん差別してきた。それがこうして追い詰められた途端、並みの人間より露出が多く、おしなべて容姿も美しいという理由で「最期の面倒」を見てもらおうというのだから、虫のいい話だ。
特に人気を博していたのは——サキュバスだ。他の魔人より一段ときわどい「布切れ」に身を包んだ彼女の周りは、押し合いへし合いの男たちに囲まれ、ちょっとしたライブ会場のような状態だった。
「た、頼むよ! 俺、あんたみたいな女を抱くのが夢だったんだ!」
「おい、俺が先だぞ! 早くしないと奴らが……っ」
「あぁん、順番、順番♡ ちゃんと一人ずつ吸い殺してあげるからね~」
衆人環視の中、挨拶代わりのディープキスから、荷物の封切りのごとく衣服をはぎ取り、彼女は堂々とコトに及ぶ。男の方に「自信」があろうとなかろうと、全くペースを落とさずに相手を干からびさせていく様子は、もはやテクニックや経験人数という次元の話ではない。ナイフや毒より危険なその「殺傷力」は、紛れもなく、サキュバスという種の本能に基づくものだ。
「ほんと、兵士って搾り甲斐あるわ~。お店に来る男とは大違いね」
「ああっ、だめだ、もう……!」
「ほらほら、生きたいならもっと頑張って? いっぱい出したところで、あなたは何も『残せない』けど♡」
会話は多いのに、「愛してる」という言葉だけが登場しない不思議。戦場という地上で最も苦痛に満ちた場所で、よもや生涯最高の快楽を強いられた男は、秒針が一周もしないうちに泣き叫び、激しく痙攣する。同じことを二回繰り返した後、ちゅぽん、と萎れきった一物を引き抜かれた時には、彼は白目をむいて力尽きていた。
「ふふっ、ごちそうさま。次の人どうぞ~」
「どけっ! 俺が先だ!」
「……あらあら。そんなことする悪い子は……」
横入りして胸に飛び込んできた男の腕をつかみ、サキュバスは彼を放り投げた。くびれた身体のどこにそんなパワーが隠されていたのか、男は軽く人だかりの外まで飛ばされる。彼は固い地面に激突することなく、たまたま通りかかった竜の口に受け止められ、そのままゴクンと嚥下された。
それでも彼は——幸運だったのかもしれない。何しろサキュバスが男を続々と昇天させる中、その順番を最後方で待っていた人々の一部は、背後からミノタウロスに追い詰められ、むごたらしく殺されていたのだ。それはサキュバスに限らず、他の美しい魔人を待っていた連中も同様だった。
そうなると当然、彼女たちを「諦める」者も出てくる。その光景はさながら、お見合いパーティーで上位カーストの異性に挑むことを断念した男性陣が、心機一転、身の丈に合った相手を探し始めるかのようだ。彼らの受け皿となっているのは、スライムや巨大カエルなど、とりわけ見た目が柔らかそうな魔獣たち。体内で消化されるとはいえ、丸呑みで全身を優しく包み込んでくれるだけ、ミノタウロスに殺されるよりはマシだろう。
——
ある男が、大あくびをした竜の口の中へとダイブする。ついさっきまで、念願のサキュバスに襲ってもらおうと必死だった男だ。彼が竜のふくよかな舌に飛びついた理由も、それが彼女の「おっぱい」並みに柔らかいと判断したからであれば、ぎりぎり合点はいく。死の恐怖に追い立てられた男の思考回路なんて、そんなものだ。
メスの奪い合いに敗れ、一ミリでも性的な「ぬくもり」を感じるモンスターを見つけては、我先にと身を投げていくオスたち。しかし自然界とは残酷なもので、そんな負け組たちの間ですら、争いは絶えないようだ。
「ふざけるな! ここには俺が入るっ!」
「こっちが先に見つけたんだぞ! テメーはよそに行け!」
自分と同じような年代の二人が、丘の下で盛大に殴り合っているのを見て、流石に俺も止めに入った。
「や、やめろよ! 今さら仲間割れなんか……」
「「仲間じゃねえんだよ、もう!」」
確かに、そのワードは失言だった。この戦場がウェスタリア対マーラン帝国という構図だったのは過去の話で、今繰り広げられているのは、ウェスタリア兵同士による「マシな死に方」を賭けた戦いだ。その大多数が同じようなゴールを切望している以上、もはやかつての同志も「敵」に違いない。
ぐねぐねと蠢く軟体生物の周りにも、既に多くの男がたむろしていた。直径が五メートルほどで、タコとヒトデを合わせたような外見のそれには、俺も見覚えがある。その生物が人体の太さほどもある触手で絡め取った兵士を、付け根にある丸い本体の中に片っ端から引き込んでいく様子は、戦闘中、遠くから観察していて震え上がったものだ。
とはいえ、少し妙だった。そこに出来ていた人だかりの大きさは、サキュバスを始めとする女性妖魔にこそ及ばないものの、他の魔獣より明らかに抜きん出ている。今、男たちが死に物狂いで求めている「柔らかさ」や「ヌメヌメ感」という基準は満点に近いが、こんな不気味な生物に、どうして人が群がるのか——。
その答えは、すぐに明らかとなる。
グポリ、という生々しい音とともに、透明な粘液にまみれた男が本体から吐き出されてくる。彼は白目をむいたまま絶命しており、なぜか全裸だった。
「おっ、空いたぞ! それじゃあお先!」
「おい、テメー!」
相手を押しのけ、ふよふよと漂っていた触手に近づく男。触手はエサの存在を認識し、素早く彼に巻き付いた。
「す、すげえ……」
「この野郎、そいつを離しやがれ!」
本来ならそのセリフは、仲間を襲う魔獣の方に向けられるべきものだ。だが今、捕獲された男が振り払おうとしているのは、きつく締め上げてくる触手ではなく、自分を懸命に「救出」しようとしているもう一人の男。その攻防は十秒ほど続いたが、触手は新しい獲物に浮気するつもりはないらしく、そのまま彼を本体へと引きずり込んだ。
ずちゅっ、くちゅっ、もぐっ。
歯のない口で咀嚼されているような、何とも艶めかしい音が響く。
「~~~~~~♡」
ピンク街にある壁の薄いホテルのように、内部からは男たちの歓喜の声が聞こえてくる。早い話、この魔獣はサキュバスの「下位互換」といったところだろう。触手で何人もの男を取っ替え引っ替えし、一滴残らず吸い尽くした後の身体は、てっぺんに見える口から排出する仕組みのようだ。戦闘中は気付かなかったが——なるほど。女にあぶれた連中にとって、ここは文字通りの「穴場」という訳だ。
ちょうどその時、二人の先客が立て続けにグポリ、グポリと吐き出される。空席ができたという合図なのか、こちら側に伸びていた二本の触手が、むらむらと物欲しそうに起き上がるのを見て、相方に先を越された男は大喜びしていた。
「おい、お前はどうするんだ!?」
「えっ……」
彼に呼びかけられ、俺は思考がストップする。迷っている時間はない。こっちに「空き」ができたことを知った三、四人が、反対側から猛ダッシュしてくる。ここで行くか、行かないか——。
「俺は……いい」
「あっそう。じゃあ、達者でな」
そう言い残すと、彼は目の前の触手に絡め取られていった。一人目の時もそうだったが、彼らが本体の底に吸引される瞬間は、もはや「人体が吸い込まれる音」としか表現できないほど独特な音がした。
「何ボーッと突っ立ってんだよ、どけ!」
回り込んできた別の男に突き飛ばされ、俺は地面に転がる。彼もまた、俺の前をさまよっていた二本目の触手に抱きつき、「ヒャッホー!」と叫びながら取り込まれていった。
俺は、間違っていたのだろうか。
答えを求めるように、そっと自分の股間に手を当ててみる。
「……畜生」
この阿鼻叫喚の中、巨大な肉壺の中で劣情を満たす彼らが羨ましくないといえば、それはまったくの嘘だ。服もプライドも投げ捨て、あの肉付きのいい触手に身を預けていれば、俺はこの地獄からとっくに解放されていただろう。
いや、それはこの魔物に限らない。竜人、魔女、サキュバス——甘美な死を願い、自ら彼女たちの餌食となった多くのウェスタリア兵に、俺ははっきりと共感している。その流れに加わらなかった自分自身が不思議なくらいだ。
後悔、先に立たず。この戦場を無意味に逃げ回っていただけの俺が、今さら理想的な相手と「マッチング」できる可能性は低い。穴場だと知られてしまったのか、この軟体生物の周りにも続々と男たちが集まっており、もう俺に順番が回ってくることはなさそうだ。千載一遇のチャンスを、俺はみすみす手放してしまった。
「くそっ」
それでも。
俺は胸ポケットに手を忍ばせ、例のポスターを取り出す。艶ややかな黒髪を背に流し、振り返りざまにこちらを見つめる黄色い瞳は、相変わらず俺を写真の中に吸い込みそうだ。紙きれ越しに一人の男を魅了し、こんな戦場へと駆り立てるほど残酷な美しさ。その引力は、「タイプ」や「好み」という言葉では言い表せない。
本当に、彼女はここにはいないのか。名の知れた女優でないことは確かだが、もし彼女が募兵ポスター用のイメージガールとして雇われただけの存在なら、本人は今ごろ、所属事務所から程近いレストランでランチでも食べているだろう。自国がマーラン帝国に敗れたことも、顔も名前も知らない男が、数百キロ先で自分を探していることも露知らず——。
「後ろ、危ない! ミノタウロスだ!」
その声がなければ、辺りが急に暗くなった理由も分からず、俺は死んでいたに違いない。反射的に身をかがめた直後、強い風が頭上を吹き抜ける。パラパラと落ちてくる髪が自分の物だと気づいた時には、俺はもう走り出していた。
後ろを見ている余裕はない。このまま、最後の一人になるまで逃げてやろうか——。肉欲とミノタウロスを振り切り、少なくともここまで生き延びてきたという自信が、今さらそんな野望を抱かせる。
その夢を瞬く間に打ち砕いたのは、足元から絶妙に突き出していた小石だ。
「……あっ」
小石があれば岩もある。前のめりに倒れる最中、右の額に勢いよく迫ってくるそれは、さながら巨大隕石のような迫力だった。
ゴッ、という鈍い音が響き、俺は意識を失う。
——
「ん……っ」
オレンジ色の強烈な光に、俺はたまらず首を捻った。「生きている」という実感より、「ここは天国じゃない」という意識の方が大きい。これまでの人生でかき集めた前情報によれば、口から鉄の味がする天国などあり得ない。縫い目のないシルクの服だって支給されるはずだ。
視界がぐらつく中、右手をつっかえ棒にして上体を起こす。岩にべっとりと付いた血は宝石のように固まっており、戦場は深い夕暮れに包まれていた。おびただしい数の死体さえ地面に転がっていなければ、さぞセンチメンタルな風景だろう。
「だ、誰か助けてくれえええ……!」
それでも、まだ「狩り」は終わっていないようだ。むしろ人が少なくなった分、遠くにいる兵士の断末魔までよく聞こえる。二匹のミノタウロスに追い回され、待ち受けていたもう一匹と挟み撃ちにされた男の悲鳴が、荒野にむなしく響き渡った。獲物が減ってパワーを持て余すようになった彼らに、巨大な斧を何十回と振り下ろされているその男に比べれば、俺の額など「無傷」に等しい。
「起き上がっちゃダメです! 見つかっちゃいますよ!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこに一人の男が腹這いになっていた。俺よりも少し若く、切り揃えられた短髪にはグリーンのメッシュが入っている。
「お兄さん、生きてたんですね。頭を打ってたからてっきり……」
「……ひょっとして、さっき俺に叫んでくれた人?」
「僕です。全然気付いてなかったから……つい反射的に」
あのパニックの中で他人を助けるなんて、なかなか酔狂な男だ。
彼は両手で筒を作り、俺に向けて囁く。
「一応お知らせすると、あれから四時間以上経ってます。見ての通り、もう生き残っているウェスタリア兵はほとんどいません。本国は二時間前に降伏を発表したらしいんですけど……マーラン側から音沙汰はないようで」
「分かりきったことだよ。奴らはウェスタリアの血を根絶やしにするつもりだ。あのミノタウロスもサキュバスも、きっとそう命令されてる」
「時間の問題……ですか」
お互い、沈鬱な表情で下を向く。
「……落ち込んだって仕方ないだろ。むしろ、四時間でこんなにライバルが減ったんだ。一番人気だったサキュバスだって、見ろ……完全にフリーパスだ」
あの大混乱を週末の遊園地に例えるなら、今はどのアトラクションもガラガラに近い、平日の真っ昼間といったところか。サキュバスに限らず、やたら露出の多い女剣士、竜、スライム、例の軟体動物まで、先ほど人だかりが出来ていたような敵の多くが、いまや退屈そうに戦場をさまよっていた。「ウェスタリア兵を全員始末するまで帰還するな」という命令でも与えられているのか、誰も前線を離れてないことにまず驚く。
「でも、ミノタウロスたちの数も尋常じゃないんです。奴ら、獲物を見つけたら複数がかりで襲ってきますよ」
その通りだった。むしろ残党狩りに躍起になっている彼らとは対照的に、他の魔族はそれほど生き残りに興味を示していなかった。特にサキュバスなど、昼に大量の兵士を手にかけた妖魔のほとんどは「満腹」らしく、今は腹ごなしに集中しているようだ。
「まあ、彼女たちに頼み込むしかないな。一か八か『襲って』みるのもアリか」
「それが……僕もサキュバス狙いで、もう四、五回は彼女に近づいてるんですけど……」
「けど?」
「その……思っていたより綺麗で、声をかけるタイミングが掴めなかった、というか。肌とかツヤツヤだし、胸も迫力があって……」
どうにも落ち着かない話しぶりに、俺は首をかしげた。
「お前……童貞?」
「な、何言ってるんですか! 初対面のあなたにそんなこと言われる筋合い……」
『未経験ここに極まれり』といった反応に、俺は思わず吹き出しそうになる。
その時、前方から別の男の声がした。俺も若い彼も、ほぼ同時に頭を低くする。
「おーい、そこのサキュバス! 助けてくれ!」
二匹のミノタウロスに追い立てられながら、一匹の妖魔に駆け寄っていく中年の兵士がいた。
だが、彼女の容姿はどう考えても——
「……ウチ、ラミアなんだけど。何か用?」
ラミアはあからさまに不機嫌だった。魔族について多少知識のある人間なら、彼女の特徴ある下半身を見て、その名前はすぐに思い付くはずだ。だが悲しいかな、やや年代が高いウェスタリア人の中には、肌を露出させた妖魔をまとめて「サキュバス」と呼び、その全員が好色だと本気で信じている者も多い。頬に肉を蓄え、白髪も目立っていた男は、まさにその典型だった。
「ラミア……? ああ、『蛇女』のことか! それなら尚更、俺くらい簡単に呑み込めるよな。頼む、早く食ってくれ!」
「あー……悪いけど他あたってくれる? とっくに先客がいるんだよね」
ラミアは両手を下腹部の口に入れ、グボッと左右に開いた。ピンク色の内壁に埋もれてはいるが、ぐっしょりと濡れた黒い髪が、奥の方からわずかに覗いている。
彼はショックを隠せなかった。
「そ、そんな……俺に逃げ場がないことくらい、見ればわかるだろ! こっちは命がけでここまで来たんだ!」
彼の数メートル後ろでは、足を止めたミノタウロスたちが鼻息を荒くしている。
しかし、ラミアは呆れたように手を振った。
「いやいや、知らないし。いくら戦場だからって、あんたみたいな冴えないオジサン、タダで相手するわけないでしょ。そこのスライムにでも面倒見てもらえば?」
人間部分のくびれたウエストに両手を置いたまま、彼女は顎で近くの地面を指した。そこに海辺の藻のごとく横たわっていたのは、魔人としての「スライム娘」とは程遠く、雌雄すら存在しない純粋なスライムだった。折り重なる死体を黄緑色の粘体で包み、言われなければ気付かないほど、ゆっくりとそれらを消化している。
「ばかな……あんなよくわからん生き物に溶かされてたまるか! お前も多少愛想のある女なら、男の一人や二人、介錯してくれたっていいだろう!」
「うわぁ、マジで無理」
ラミアとはいえ、それは女性ならではの「嗅覚」だったのだろうか。街でナンパ師に絡まれた女性が、他の通行人に視線でSOSを送るのと同じだ。わずか十秒もかからないうちに、俺は彼女と目が合う。
「やべっ」
「そこにいる人、ちょっと待って」
引き止められたのは、まさに立ち上がろうとした瞬間だった。後ろにいた若い彼も、どうやら俺と同じ行動を取っていたらしい。今、ラミアに詰め寄っている男が五十代前半なら、こちらは二人合わせてもその年齢には届かない。それに気づくや否や、彼女の顔はぱっと明るくなった。
「まってまって。まだこんなに若い男いたんじゃん……」
先ほどと同様、腰にあるもう一つの「口」を手で押し広げながら、彼女は大蛇部分を器用にくねらせ始めた。下半身にあるむっちりとした膨らみが、少しずつ入口の方に移動しているのが分かる。しばらくすると、さっき奥に見えた黒髪が外へと突き出し、そのまま一人の人間が吐き戻された。パンツ一枚という姿で、どこか夢見心地のまま気を失っている男は、まだ中年と呼べる外見ではないが、俺たちほど若くもない。十中八九、彼はラミアの「キープ」に過ぎなかったのだろう。
しかし、男が身を挺して俺たちに伝えてくれたことがある。それは彼女の胃の中が、地上でもトップクラスの「湿潤」な環境で、鼻腔から脳を揉みほぐされるような芳香に満ちている、ということだ。消化もされないまま、中途半端な愛を注がれ、いまや物言わぬ「粘液だるま」となった彼に、俺は無性に手を合わせたくなった。
「……おまたせ。そこの二人、どっちか一人なら私が食べてあげるよ。どう?」
「ふ、ふざけるなっ! 先に声をかけたのは俺だぞ!」
なりふり構わず、ラミアの捕食口に飛び込もうとする初老の男。彼の「ゴール」を奥にずらしながら、ラミアはその額を手で押さえつけていた。
「あんたもうるさいなぁ。てゆーか、近くに普通のサキュバスや人間の女の子もいるじゃん。どーしてウチみたいな『蛇女』の所に来るわけ?」
「え? そ、それは……」
男の不幸は、それが「面接」だとすぐに気付けなかったことだ。このとき冗談でも「あなたが第一志望です!」と叫んでおけば、笑いの一つも引き出し、次の交渉に繋げられたかもしれない。しかし現実は、長い無言と、お世辞にも女性受けするとは言いがたい風貌が、彼がラミアに声をかけた唯一の理由を物語っていた。
すなわち「他に断られたから」——。
「……サイテー」
沈黙する男を尻尾でなぎ払い、ラミアは俺たちの方を向く。惜しげもなく腕を開いた彼女の顔には、薄い笑みが貼り付いていた。
「ほーら。下は蛇だけど、上はなかなかでしょ? 捕まえてあげられるのは一人だけど……我慢できなくなった方から、いつでも飛び込んでおいで」
彼女が蛇体をくねらせるたび、黒いビキニに包まれたバストも盛大に揺れる。人間との交配ができない以上、彼女たち妖魔の容姿が桁違いに優れているのは、おしなべて「捕食」のためだと言われている。人間の男を引き寄せるためだけに膨らんだ乳房からは、おそらく母乳など一滴も出ないだろう。下の口で堂々とよだれを垂らしながら、上の口では甘い言葉を囁くラミアほど、「本音」と「建前」がわかりやすい妖魔もいないはずだ。
「二人で相談するなら、お早めに~」
その発言に俺は恐れおののく。
彼女はどうやら、俺たちが醜く言い争う様子が見たいらしい。
「ど、どうしましょう……」
隣にいた彼が、俺の腰に両腕を回してくる。一見すると不安に駆られたようだが、それ以上に俺の「抜け駆け」を警戒していることは間違いなかった。
「……行けよ。お前には借りがある」
「ええっ! で、でも……」
——さすがは童貞。驚きながらも喜びが隠せていない。その視線が俺に向いたのも一瞬だけで、あとはラミアに釘付けだった。
「迷っている時間はないぞ。さっきは『フリーパス』だなんて言ったけど……大間違いだ。俺たちは選ばれる側だよ。このラミアも、あっちのサキュバスも、『自分を殺してくれ』なんて要望ならとっくに締め切っている。よほど、相手が自分好みでもない限りはな」
渡りに船——殺されることに変わりはない以上、その表現が正しいかどうかはわからない。だが地面に転がっている無数の亡骸を見るかぎり、この戦場で「死に方を選ぶことができた」兵士は、全体の一割にも満たないだろう。
「でも……あなたは? ここに居たら、あのミノタウロスたちに殺されちゃいますよ?」
「……やっぱり俺がいくか」
「ああっ、すみません、待ってください! 僕です、僕がいきたいです!」
童貞のメッキは剥がしやすいことが分かったところで、俺は彼の背中を叩いた。風俗店のドアを人生で初めてくぐるがごとく、露骨に緊張した彼の歩みは、とにかく遅い。
ゆえに、彼より一足早くラミアにたどり着いたのは、さっき尻尾で払いのけられた中年男性だった。
「お、お願いだ、見捨てないでくれ……せめて、絞め殺してくれるだけでも……」
ゾンビのように地を這い、ラミアの尾を抱きしめて慈悲を乞う男。だが彼女が男に与えたのは、ゴミを見るような流し目と、辛辣な一言だけだ。
「……きもっ」
しゅるりと尾が首に巻きついてきた瞬間、男はさぞかし胸を躍らせたに違いない。しかし、一思いに締め上げるのかと思いきや、ラミアは彼を投げ飛ばし、暇そうなミノタウロスたちに「仕事」を回した。下請けとして遺憾なく実力を発揮した彼らは、男を一瞬でミンチに仕立てる。
「ほら、キミはこっちにおいで。命は助けてあげられないけど、私がちゃんと最期まで可愛がってあげる……お腹の中でね」
「は、はい……よろしくお願いします……」
吐き出された男をまたぎ、ついに彼はラミアの胸に顔をうずめる。物は試しとばかりに、俺は彼女の下半身を手で隠してみた。そこにいたのは妖魔ではなく、甘い童顔に、夏の海辺でも一人や二人、お目にかかれれば幸運といえるレベルの双丘を持ちあわせた女性。その窮屈な谷間に存在する酸素は、山の頂上よりはるかに少ないだろう。それでもいい、むしろ窒息したいとばかりに沈んでいく彼の後頭部は、今日、俺が見た男たちの中で一番幸せそうだった。
「あ、キミもちょっと待って」
踵を返そうとした時、再びラミアに呼び止められる。彼女は谷間の奥から何かを取り出し、それを俺に投げ渡した。受け取った瞬間、手の中にほんのりと感じた熱は、興奮した「彼」の吐息か、それとも……
「キミ、変わってるね。普通、この子を殴り飛ばしてでもこっちに来ない?」
「……ああ、すごく後悔してるよ」
不思議な感覚だ。今、俺は産まれて初めて魔族と言葉を交わしている。マーラン帝国の男なら、こういった会話も日常茶飯事なのだろうか。
「ははっ、ウケる。この先にウチらのボスがいるんだけど、行くあてがないなら話聞いてもらえば? ちょっと気難しいけど、それさえ持っていけば……多分、無視はされないと思う」
きらきらと夕陽に輝くそれは、明らかに彼女の鱗だった。俺は素早く胸ポケットに収める。
「……助かる。そいつのことも頼んだ」
「まかせて。ウチが責任をもって『天国』に送ったげる」
空いた鱗のスペースを埋めるように、ラミアは彼の頭を「きつく」抱き寄せた。
——
走って、走って、走りまくった。
追いかけてきているミノタウロスの数も、もはや数えていない。巨大な斧が空を切る音だけが、背後からひっきりなしに聞こえる。「止まったら死ぬ」という現実だけが、とうに限界を迎えた脚をなんとか突き動かしていた。
陽も落ちかけている。
もう少し時間が経っていたら、俺はその漆黒の髪を見落としていただろう。
「そ、そこにいる人……待ってくれ!」
彼女が人間であろうとなかろうと、ラミアが教えてくれた「ボス」であろうとなかろうと、そのすらりとした背中に飛び込む以外、俺に選択肢はなかった。ビンタ結構。回し蹴り結構。どうせ死ぬなら、この戦場で果てていった諸先輩方もドン引きする勢いで、彼女に抱きついてやる。
しかし、俺の人生最後のジャンプに水を差したのは、他でもないその女性だった。彼女がゆっくりと振り返った瞬間、俺はあまりの既視感に凍りつく。前に流れた髪を耳の後ろに戻し、こちらを冷たく見つめる黄色い瞳は、もはや胸ポケットから「現物」を取り出して確認するまでもない。彼女こそ、俺が四日前に街で見かけたポスターに写っていた人物だ。
「あっ……?」
その美貌に見とれるまもなく、俺は右脚に違和感を覚えた。疲労が蓄積したふくらはぎから、何かがしゅるしゅると這い上がってくる。せっかく彼女と目が合ったというのに、俺は泣く泣く下を向いた。
そこに絡みついていたのは、身の毛もよだつような粘液に包まれた触手だった。とはいえ、昼に男たちを搾り上げていた軟体動物の触手とは、大きさも形状もかなり異なる。ずっと細く、ずっと数が多い。
「な、なんだ、これ……!」
生々しい音とともに、視界がガクンと沈む。もぐらの巣に足でも突っ込んだのかと思ったが、それは違う。最初から地中にいたその生物に、俺は右足を捕らわれていたのだ。触手一本一本にたいした力はないが、いかんせん数が膨大のため、あっという間に膝まで引き込まれる。
「たすけ……んむうっ!」
胸や肩をさしおいて口を塞ぎに来るあたり、この触手がいかに人間の扱いに慣れているかが分かる。もっとも、仮に声が出せたところで、目の前にいる女性が俺を助けてくれたかどうかは怪しい。彼女は相変わらず俺の方を見ていたが、その視線は遠く、今夜の献立でも考えているかのようだった。募兵ポスターのモデルを買って出ている以上、少なくとも味方のはずなのだが……。
「ンンンッ!」
第二の問題が迫る。先頭のミノタウロスが俺に追いつき、待ってましたとばかりに斧を振り上げたのだ。通常、彼らは仲間が攻撃中の敵には手を出さないはずだが、俺が触手に全力で抵抗しているのを見て、助太刀する気になったのかもしれない。
——最悪だ。身が焦げるほど会いたかった女性の前で、謎の触手に動きを封じられたまま、背後から首をはねられるなんて。
俺は胸ポケットに手を入れ、そこに入っていた物を洗いざらい、彼女の前にぶちまけた。その腕にも触手は絡みつき、太ももまで一気に呑み込まれる。この生物が息継ぎのように「口」を動かした時、一瞬だけ奥が見えたが、そこに待ち構えていたのは無数のヒダと、外の十倍はあろうかという触手の海だった。
沈んだ右脚がくすぐったい。こいつも例にもれず、中でしっぽりと獲物を昇天させるタイプなのだろう。横幅が二メートルもない、こんな落とし穴に足を突っ込んだことが運の尽きなら、いっそ全身をもぐり込ませた方が「幸せ」だろうか——。
「おやめなさい」
古書のような湿度のある声。彼女がそう口にした直後、その横から紫色の大蛇が飛び出した。暗い鱗を宵に馴染ませたそれは、ラミアの何倍も太い胴体をミノタウロスに叩きつけ、その巨躯に素早く巻きつく。次の瞬間、蟻のはい出る隙もないほど堅牢なとぐろの中から聞こえてきたのは、この戦場で初めて聞く、ミノタウロスの悲鳴だった。
「グォゥゥ……ギュ……!」
まさに、死の抱擁と呼ぶにふさわしい光景だ。交尾と見紛うほど強烈な締めによって、ミノタウロスの身体からは、まるで大木が砕けるような音が次々と上がる。その中でもひと際大きく気味の良い音を最後に、ミノタウロスは一切動かなくなった。
——と、気を取られている場合ではない。俺だって首と右腕以外、既に地中の生物に取り込まれているのだ。群がる触手に胸や下半身を撫で回され、思わず声が出てしまう。
「は、はぁぅ……」
それは「絶品」と言わざるを得ない快感だった。およそ二か月に一度、なけなしの金で夜の店に通っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。たちの悪い落とし穴だと思っていたが……遊女十人がかりでも再現できない愛撫を受けている今なら、はっきりと言える。これはすごろくで言うところの「当たりマス」だと。
そう思った矢先、俺はグボリと腕から引き上げられる。
「貴方、大丈夫?」
その柔らかい手が彼女の物でなければ、俺は相手に殴りかかっていただろう。どうして邪魔するんだ——そう怒鳴りかけた心を鎮めたのは、顔の数センチ先にあった女性の微笑みだった。
「危ないところだったわね。もし全身を吸い込まれてたら、貴方もああなってたわよ」
「へ?」
彼女が視線を落とした先を見て、俺は絶句する。救出された俺の身体に続く形で、地中生物が悔しそうに何かを吐き出したのだ。やや傾いた地形に沿って転がっていく、真っ白で丸みを帯びたそれは、どう見ても人間の頭蓋骨だった。彼女が助けてくれなかったら、俺はあの凄まじい快楽と引き換えに、この生物の「おかわり」になっていた、ということだろう。
「……余計なお世話だったかしら。そういえば君の前に食べられた人は、自分からこれに飛び込んでいった気がするわね」
「ま、まさか! ありがとうございます、助けてくれて」
俺のセリフに違和感を覚えたのか、女性は謎めいた笑みを浮かべる。
そういえば、彼女はなぜ俺を「すぐに」助けてくれなかったのだろう。右足に触手が絡みついた時点から終始、目は合っていたというのに。
今の発言もかなり不自然だ。その言葉が本当なら、俺の前に食べられた人——つまり今、地面に転がっている頭蓋骨の持ち主が呑み込まれる瞬間も、彼女は見ていたことになる。ならば俺を助ける一方で、彼は助けなかったというのか?
「そういえば、さっきの蛇は……」
「ふふっ、心配無用よ。あの子は私の使い魔だから」
「使い魔?」
とどのつまり、それは——。
「ファムに会ったみたいね。あの子が客でもない男を気に入るなんて……敵ながら天晴れだわ」
ラミアの鱗を拾い上げ、女性は呆れたように言った。時を同じくして、さっきミノタウロスを仕留めた大蛇が彼女の元へとやって来る。蛇が「ご褒美」を求めるように頭を突き出し、それを彼女が優しく撫でるという構図は、まさしく両者が主従関係にあることを示していた。
「……敵」
「そう、敵よ。私たちを形容する単語が、他にあると思う?」
「でも、あなたはどう見ても人間……」
そう言いながら、俺の自信は徐々に揺らいでいく。白磁のような肌といい、潤いに満ちた唇といい、確かに俺の好みであること以上に、彼女の美しさは「人間離れ」している。この美貌に肉薄する者がいるとすれば、それは少なくとも俺の故郷で、香水やハンドバッグ、下着類の広告に、顔やボディラインを誇らしげに晒している女性たちではない。彼女たちがどれだけウェスタリアで男性陣の耳目を集める存在だろうと、俺が今日、この戦場で出会った妖魔たちの端麗な姿には遠く及ばない。
「ご期待に沿えなくて悪いけど、私は妖魔よ。正確には蛇と人間のハーフ……マーランの人間には『蛇使い』なんて呼ばれてるわ」
「そ、そんな……」
縦に裂けた彼女の黄色い瞳は、確かに蛇の目を彷彿とさせる。それに、あのラミアやサキュバスですら後塵を拝するような異次元の美しさに、魔族の血が一滴も絡んでいないなど、まず考えられない。
俺は膝をつき、両手を地に伏した。憧れの女性が目の前にいる喜びと、その正体が敵の妖魔だったというショックで、頭の中がぐちゃぐちゃだ。しかし言われてみれば——すでに勝敗が決した戦場のど真ん中を、こんなに悠々と闊歩している女性が、俺と同じウェスタリアの兵士であるはずもない。
「あら、勘違いしてたの? さっきファムの鱗を投げ出したから、私の立場や名前くらい、とっくに知ってるのかと思ったけど」
ファムというのは、俺に鱗をくれたラミアの名前だろう。
だがあの時、俺が本当に彼女の前に投げ出したかったのは、そっちではなく——。
「これは?」
「あ、あの、それは……!」
女性は四つ折りのまま地面に転がっているポスターを拾い、それを俺の前で開く。「I WANT YOU」という文字と一緒に大きく写し出された自分自身の姿を見て、蛇使いの彼女は眉を吊った。
「うちのお店のポスターじゃない。あなたがどうしてこんな物を?」
「……店?」
「私がマーランで経営しているお店よ。あなたが会った『ファム』っていうラミアも、うちの従業員なの」
そう説明されても、まったく理解が追いつかない。ポスターには『ウェスタリア軍広報部』という発行元が記載され、その連絡先まで明記されていたはずだ。事実、四日前にそこに問い合わせたからこそ、今の俺は兵士としてここにいるのだ。
「……どうやらおたくの入隊試験に、『視力チェック』という項目はないようね」
——ちゃんとありましたよ! そう言い返そうとして開けた口が、俺はしばらく塞がらなかった。ポスターの一番下に書かれた、まさにその発行元と連絡先の部分を、彼女はぺりぺりとはがし始めたのだ。十秒もかからないうちに、そのシールはポスターと完全に分離する。
下から現れたのは「Snake Club 59」という文字と、蛇を象ったロゴマークだ。
「スネーククラブ、59?」
「フフッ、みんな最初はそう呼ぶの。うちの店名を恥ずかしがらずに言えたら常連の証よ……『ごっくん』ってね」
やや溜めた言い方に、むしろ俺が「ごっくん」と唾を飲み込む。彼女の口ぶりから、その店でどのようなサービスが提供されているかは想像がつく。純粋に「兵士求む」と解釈していた「I WANT YOU」というキャッチコピーも、おそらくそういう意味なのだろう。
俺は愕然とした。ポスターに貼ってあった『ウェスタリア軍広報部』を騙るシールは、きっと誰かのイタズラによるものだ。
「……それはどうかしら」
彼女は俺の考えを見透かしたように言った。
「自慢するつもりはないのだけど、うち、かなりの人気店なの。価格設定も高めだから、いらっしゃるのは官僚や地主、芸能人の方ばかり。中にはウェスタリアから密入国して来るような殿方もいたわ。そちらの軍の上層部の方も、もう何度かお見えになってるわね」
「そ、それじゃ……まさか……」
「ええ。彼は口癖のように言っていたわ。『うちの国には良い女もいなけりゃ、若い兵士も少ない。力を貸してくれないか』って。あまりに懇願されたものだから、帰り際にうちのポスターを一枚だけ、彼の胸ポケットに入れてあげたの。冗談で『ご自由にお使いください』とは言ったけど……まさかこんな風に使われてたとはね」
俺はポスターに四つ折りの跡があることを思い出した。あの跡は俺が付けたものではない。自軍の兵士不足を嘆いていた上層部の「誰か」は、彼女が持たせてくれたそれを募兵ポスターに偽装し、ウェスタリアの街に貼り出したのだ。彼がたった一枚のポスターにどれほどの効果を見込んでいたかは不明だが、事実、そこに写る彼女の美貌に衝撃を受けた俺は、まんまとポスターをはぎ取ってこの戦場に来た。彼が望んでいた通り、「若い兵士」の一人となって。
「さあ、もういいでしょう。ファムに免じて、私が貴方のとどめを刺してあげる。大蛇に生きたまま丸呑みにされるなんて、考えただけでも恐ろしいでしょう? でも、安心して……この子の胃袋に収まりたい殿方の予約で、私のスケジュールは半年先までいっぱいよ」
上司の営業トークに合わせてサンプルを披露する新人のごとく、隣にいた大蛇が口を開く。牙を持たず、押せばどこまでも沈みそうな肉壁だけで構成された内部は、過剰に思えるほどの唾液に覆われ、ぬらぬらとした光を反射している。
実に柔らかそうだ。無残な死を遂げた同志に比べれば、この口内を人生最後のベッドにできる俺は間違いなく幸福だろう。しかし——。
「えっと……できれば、あなた自身に……」
本音を漏らしつつ、俺は視線を落とした。上質なフルーツのような彼女の乳房は、大きさこそ例のラミアに劣るものの、上と横が際どい布の下、整った顔立ちにも引けを取らない存在感を放っている。
「私が貴方を抱きしめたり、キスはしないのかってこと?」
胸をたゆんと揺らしながら、彼女は小刻みに笑う。それは失笑だったのかもしれないが、今日まで写真越しだった相手が、こうして目の前で多彩な表情を示してくれていることに、俺は確かな悦びを感じていた。だが——。
「申し訳ないけど、私はサキュバスじゃないわ。チップ次第で、殿方のご要望に『多少』お応えする場合はあるけど、うちは基本的にそういうお店じゃないの。タダで天国を見せてあげるんだから、それで満足でしょう?」
その後、この妖艶な店主が教えてくれた「通常価格」を聞いて、俺は顎が外れそうになった。何しろ俺が土建屋で一年間働いた程度では、彼女の店の「ベーシックコース」すら選べない。割の良さだけ考えれば、俺は今、ちょっとした宝くじに当たったようなものだ。
しかし、さっきの言葉には誤りがある。
俺は天国を「見せてもらう」のではなく、文字通りそこに——。
「ふふ、いってらっしゃい」
大蛇の口がぐばっと開き、俺を頭から咥え込もうとする。幸か不幸か、その勢いに気圧された俺が尻もちをついたため、巨大な顎は虚しく空を切る。
「あら?」
「ま、待ってくれ! あんた達の本業が兵士でないことは分かった。でも、それならどうしてこの戦争に参加してるんだ? ましてやあんたの場合、店主という立場もあるのに……万が一のことがあったら、他の従業員だって路頭に迷うんじゃないか?」
俺は敬語も忘れ、両手を前に突き出していた。その質問がくだらない内容であれば、彼女は迷いなく蛇に「もう一度」と命じていただろう。
しかし、彼女は答えてくれた。
「……逆よ。これはあの子たちの為の『福利厚生』なの」
予想していなかった言葉に、俺は思わず「え?」と聞き返す。
長い髪を再び整えると、彼女は少し遠い目をした。
「うちのスタッフも欲求不満でね。毎日、特に好みでもない男の相手をして、せっかく丸呑みにした獲物も、消化が始まる前に吐き出さないといけない。一度呑み込んだ物を吐き出すなんて、蛇の妖魔にとってはストレスでしかないの。うちの客層は高所得者が多いから、食べ甲斐のある若い男性も少ないし」
あのラミアが俺たちに目を輝かせていたのは、そういう訳だったのか。
「うちだけじゃないわ。多かれ少なかれ、マーラン側の魔族は『そういう目的』でここに来ているはずよ。戦場は私たちが本能を開放して、合法的に人間を襲うことができる唯一の場所だもの」
「襲われる側」の心境を酌む気があるなら、間違っても俺の前でそんなことは言わないはずだ。ましてや、そこまで内情を話してくれたということは、彼女はすでに俺を死にゆく獲物としか見ておらず、草木に語りかけるのと同程度に捉えているに違いない。ならば——。
「へ、へえっ……そうなんですね。俺、マーラン帝国のことよく知らないけど、そういう男性向けのお店って、国内に結構あるんですか?」
「……ふふっ。ええ、沢山あるわよ」
笑いをこらえ切れないように顔を逸らす仕草と、彼女のあふれんばかりの優しさに、俺は改めて胸が高鳴るのを感じた。この蛇使いは十中八九、俺の浅はかな「作戦」を見抜いている。見抜いた上で、それにわざわざ乗ってくれているのだ。彼女を飽きさせないようなテーマや質問を繋げることで、喰われる瞬間を一秒でも先延ばししようという、俺の命がけの目論見に。
幸いにも彼女と話している限り、周囲をうろついているミノタウロスが俺に手を出してくることはなかった。しかし、それはいくら血に飢えた殺人鬼であろうと、檻の中にいる死刑囚など襲いようがないのと同じ理屈。今は刑務官のごとく俺を守ってくれている彼女も、この会話が途切れた瞬間、冷血な「執行人」へと変貌するだろう。
だからこそ、俺は全力で聞き役に徹した。俺を大蛇の餌にすることを思い出す暇もないよう、彼女を質問攻めにし、まるで首振り人形のごとく相槌を打つ。三文芝居もいいところだが、そんな俺の姿を含めて、彼女もまんざらではないようだった。他愛もない世間話といえばそれまでだが、喰う側と喰われる側という特殊な関係にあって、第三者に秘密がもれる心配もないからこそ、彼女も気兼ねなく話せるのだろう。
その中には、純粋に興味をそそられる話も幾つかあった。身の危険を減らすため、彼女たちは戦争の後半、マーラン軍の勝利がほぼ確定した段階から参加していたということ。「人と魔族が共存している」といえば聞こえは良いが、マーラン帝国内にも差別は存在し、現実問題として、オスは兵士や運搬作業などの重労働を強いられ、メスは性産業に従事せざるを得ないということ。さっき俺に絡みついてきた触手や、昼の戦闘で「大活躍」していたタコ型の軟体動物など、知能が低く、雌雄もはっきりしないような搾精生物は、マニアや独身者に人気のペットとして国内に流通しているものの、歯止めが効かず飼い主を死に至らしめるケースも多いことから、売り物にならなかった個体をマーラン軍が引き取り、このような前線に配備しているのだという。
しかし、それ以上に気になったテーマは——。
「クーデター?」
物騒なワードの登場に、俺はすっかり演技のことなど忘れていた。
「そうよ。私たちはこのまま市街地まで攻め込み、ウェスタリア全土を陥落させるよう命令されてる。今頃、うちのトップは勝利の美酒に酔いしれてるだろうけど……それが私たちへの『最後』の命令になるとは、夢にも思ってないでしょうね」
彼女の毒花のような微笑みに、俺はあらゆる意味で息を呑む。
「まさか、その後にマーランを……?」
「……帝国には感謝してるわ。外見や食性はもちろん、住んでいる地域もバラバラだった私たち魔族を、どんな魂胆であれ、マーランという国家の中に受け入れてくれたんだもの。私たちは一つにまとまり、やがてこう考えるようになった——この国を乗っ取ってみよう、ってね」
ショックのあまり、危険な「沈黙」を招いてしまった俺は、慌てて次の質問を巡らせた。
「あ、えっと……ウェスタリアの民間人はどうなるんでしょうか。俺の両親とか、兄弟とか……」
「それ、本当に聞きたい?」
口角を上げ、彼女は首を傾けた。
「『敵は飼い犬まで抹殺せよ』——それがマーラン軍のスローガンよ。でも、心配はいらないわ。私たちが軍の言いなりになるのは、ウェスタリア兵を殲滅させるところまで。民間人は捕虜にして、新しい国で『たっぷり』働いてもらうつもりよ」
そんな未来に震えるべき背中を、俺は持ち合わせていない。彼女たちのクーデターが成功し、人間と魔族の立場がそっくり入れ替わろうとも、その国の奴隷リストに俺の名前が載ることはないのだ。
「さあ、気は済んだでしょ。そろそろ観念しなさい」
その一言で、大蛇が待ちくたびれたように口を開く。
「お、お願いです、もう少しだけ……」
「だめよ。続きはこの子のお腹の中から、いくらでも聞いてあげる」
何か気に障ることでも言っただろうか。若干ぶっきらぼうな態度を見せ始めた女性には、もはやどんな質問も梨のつぶてだった。大蛇は俺に軽く巻きつき、ジャブ程度に鳩尾を締め上げてくる。上に押し上げられた空気が変な声となって飛び出したが、彼女はクスリとも笑わない。いよいよ「本気」で俺を仕留めにかかるということだろう。顎の骨を外した蛇の口が、ついに頭上から覆い被さる。
「う、嘘だっ、絶対におかしい! マーラン軍には人間の兵士もいたはずです! 貴方たち魔族がクーデターを企てているにしても、彼らがそんな行動を黙って認める訳がない!」
やけくそで言い放った次の瞬間、ゴムのように広がっていた蛇の口が止まる。正確にはそこに彼女の手が割って入り、大蛇を制止していた。
「……懲りないわね、貴方も」
とことん呆れたような台詞の後、蛇使いは顔を上げて口笛を吹いた。
「でも、今までで一番鋭い質問よ。ご褒美に良いものを見せてあげる」
その口笛にどういう意味があったのか、俺はすぐに知ることとなった。地面を埋め尽くしている死屍累々の上を、遠くからジグザクと這いずってくる巨大な影。その影が黒から紫に変わったのを見て、俺はそれが二匹目の大蛇であることに気付いた。鱗の色や身体の大きさまで、今、俺を締め上げている個体と瓜二つだ。
「まさか、もう一匹……?」
「あの子の名は『イスルギ』。貴方をお相手している方は『ホトリ』で、彼の妹よ。二匹とも腹ごなしの散歩が大好きだから、目を離すとすぐに居なくなってしまうの」
「腹ごな……えっ?」
嫌な予感がする。どうやら兄らしき「イスルギ」は女性の元にやって来ると、早速、顔を彼女にすり付け始めた。
「ふふっ、おかえりなさい。少しはすっきりした?」
イスルギが首を横に振ったため、彼女はその腹に視線を移した。
「そう……やっぱり『女性』は脂肪が多いものね。でも、ちょうど良かったわ」
この蛇使いが何の話をしているのか、まるで見当もつかない。ただ一つ明らかなのは、俺自身がその真相を「知りたくない」と思っている点だ。興味がないのではなく、漠然と「知るのが怖い」のだ。
「……結論から言うと、心配は無用よ。マーラン側の数少ない人間の兵士を篭絡するのに、あのサキュバスたちが手間取ると思う? 何組か後ろで見てたけど……吸い殺さなくて良いぶん、むしろウェスタリア兵より簡単そうだったわね」
その具体的なやり口を聞いて、俺は溜め息をついた。勝利を祝うハイタッチを装って近づき、疲弊した同志の顔を胸に押しつければ、その工程の半分は終わったも同然。後は労いの言葉をかけながら頭を撫で、耳元でそっと目的を伝えるだけだという。揺れ動く相手には太ももを絡ませたり、額にキスをするという追加サービスもあったようだが、その「単純作業」で半分以上のマーラン男性が寝返ったというのだから、何とも恐ろしい。
「冗談だろ……」
あくまで想像だが……俺たちウェスタリア兵が、妖艶な女性や怪物に次々と狩られていく姿を横目に、彼らも悶々としていたのだろう。ましてやマーラン人とはいえ前線の一兵卒に過ぎない男たちに、自国でサキュバスの店に足しげく通ったり、「ご自宅用」の搾精生物を飼う余裕があるとは思えない。ならば死ぬまで解放されないとはいえ、フルコースの快楽を「無料」で味わっているウェスタリア兵は、少なからず羨望の対象として映ったはず。その行き場のない感情を、最後の最後、彼女たちは巧みにすくい取ったのだ。
「でも、女性の兵士もいたはずじゃ……?」
「ご名答よ。彼女たちはこうなったわ」
蛇使いが指を鳴らすと同時に、イスルギが身をくねらせ始める。その口から何かが吐き出されることを俺が瞬時に悟ったのは、すでに何度も同じような光景を目撃してきたからだ。体液の搾りかすとなって軟体から排泄された男。ラミアの胃袋という安寧の地に入ったにもかかわらず、彼女の心がわりによって、無残に吐き捨てられてしまったキープ男。
しかし、大蛇の口から垂れ下がるように現れた女性の上半身を見て、俺はたまらず口を押えた。
「ひっ」
穴だらけになった衣服に、赤く腫れぼったくなった肌。顔の判別すら容易ではないものの、俺はその容姿に思い当たる節があった。この女性は確か、マーラン軍の剣士だったはずだ。妖魔の女性たちほど人を集めていたわけではないが、死に場所を求めるウェスタリア兵の駆け込み寺として、彼女も多くの男に引導を渡していた。
「アッ……アアッ……」
その魅力の一端を担っていた巨大な乳房も、いまや重力に従い、顎の近くまでぶら下がる肉塊と化している。彼女が不運だったのは、剣士として動きやすい格好——つまり露出の多い服を選んでしまったことだろう。それは見えている肌という肌に、強力な蛇の胃液をすり込まれた人間の末路だった。
「おねが……死にたくな……の……」
まだ辛うじて視力が保たれているのか、目が合った瞬間、女性はこちらに手を伸ばしてきた。
だが無情にも、再び蛇使いの指が鳴る。
「いやっ、いやああああっ!」
唾液と胃液に全身まみれているせいか、同情を禁じ得ないほどスムーズに、彼女はイスルギの腹の中へと戻っていった。チロチロと光る大蛇の舌と、蛇使いの氷のような笑みだけが、月夜の中にうっすらと浮かぶ。
「……彼女だけじゃないわ。ずば抜けた愛国心でサキュバスの誘惑に抗っていた男性も、きっと誰かが『処分』したでしょうね」
淡々と言いながら、蛇使いは反対側の指をパチンと鳴らした。俺に巻きついていた大蛇が、満を持して頭にかぶりついてきたため、ついに視界は完全な暗闇に包まれる。
「さて、良い時間つぶしになったわ。来世があるなら、ぜひ私のお店にいらっしゃい」
「ま、待ってくれ! 俺、まだ貴方に……!」
「ふふっ、さようなら」
口慣れたリップサービスによる強制終了。その華麗な切り上げ方に、俺は彼女のプロとしての一面を垣間見た気がした。そんな主人の意思に沿うように、大蛇も口の中をねっとりとした唾液で満たし、これ以上の俺の発言を封じてくる。人生最後のディープキスの相手が、こんな見上げるようなウワバミだと知ったら、十年前の俺はどんな顔をするだろう。
それにしてもこの蛇——確かイスルギの妹で、名前は「ホトリ」だったか。彼女が俺を荒っぽく喰らうのは、長く待たされたせいもあるだろうが、大前提として、俺が店の客ではないと知っているからだろう。日常生活では味わえない、柔らかい内壁に包み込まれる感触を楽しんでもらおう……といった「もてなし」の気配など一切ない。雑に唾液を浴びせ、滑りが良くなった部分から素早く呑み込んでいく動きからは、外敵に見つかる前に獲物を胃袋に押し込もうとする、捕食者としての本能だけが伝わってくる。
どちらにせよ、非日常的には違いないのだが……。
膝まで咥えこまれた時、俺は天地がひっくり返るのを感じた。
「うあっ」
遠くから蛇使いの「お疲れ様」という声が聞こえる。言うまでもなく、それは俺ではなくホトリに向けられた言葉だ。あとは重力と筋肉の蠕動に任せて、獲物が胃袋に落ちるのを待つばかりということだろう。
俺は彼女の言葉を思い出した。
——来世があるなら、ぜひ私のお店にいらっしゃい。
これから消化されるまでの間、俺はそのセリフを幾度となく反芻するだろう。単なる社交辞令であってもいい。この血なまぐさい戦場で、敵ながらも自分が一目惚れした女性から、そんな甘い言葉を引き出せたことに、俺はほのかな達成感を味わっていた。
それに、ここで「終わり」とは限らない。あの蛇使いが本当に俺のことを気に入ってくれた可能性も、ゼロではないのだ。彼女が口にした「来世」というワードも、実は「後で吐き出してあげる」という意味の隠語で、俺を店に連れて帰る気満々ということもあり得る。
——おはよう。よく眠れたかしら。
——さて、貴方には選択肢が二つあるわ。今日からこの店の掃除係として働くか、もう一度ホトリの胃袋に戻るか。
——貴方みたいに話しやすい人、初めてよ。今夜の掃除はいいから……あとで私の部屋に来てくれる?
だめだ、止まらない。
窮屈な肉のチューブを滑り落ちるスピードとは裏腹に、火のような妄想は加速していく。大蛇に呑み込まれる直前、死を覚悟してでも彼女に抱きつき、唇を奪わなかったことを密かに後悔していた俺だが、冷静に思いとどまって良かった。
そんなことをすれば、俺は危うく彼女に「嫌われて」いたところだ!
「……うっ」
頭に血が上る。肉壁がさらに狭まり、肺の中の空気が押し出される。
大蛇の鼓動だけがうるさい暗闇の中、プツリと線が切れるように、俺は気を失った。
——
「ん……」
意識を取り戻した瞬間、俺は期待に胸を膨らませていた。きっと自分は蛇使いの店にいて、豪華なフローリングに身を横たえているのだろう。そこにはあのラミアもいて、「久しぶり。今日からよろしくね」と声をかけてくれるに違いない。クリスマスの朝、枕元にプレゼントが置かれているか確かめる子供のように、俺はおそるおそる目を開けた。
グギュッ……グゥ……ゴポッ……
「は……ははっ」
広がっていたのは、気絶する前と何も変わらない闇だった。肉の壁から染み出した水分と、送り込まれてくる空気がグロテスクに混じり合う音だけが、俺がまだ「死んでいない」という唯一の証拠だ。もう何十年も眠っていたような気分だが、胃液に晒されている皮膚が少しヒリヒリとする程度であることから、実際は呑み込まれて三十分も経っていないのだろう。
「はは、ばっかみてえ……」
短時間の気絶とはいえ、俺の頭は見事にリセットされていた。沸き起こる感情は一つ、あんな思春期なみの妄想でしか恐怖を紛らわる術を知らない、自分への情けなさだ。彼女が俺を見逃してくれる可能性など、万にひとつもないとわかっているのに。
結果はこのザマだ。大蛇に丸呑みにされ、その体内で意識を取り戻してしまうほど、この世で悲運なことがあるだろうか。酸に侵され、変わり果てた姿となったマーラン兵の女性が脳裏をよぎる。俺の皮膚が原形を保っていられるのも、あと一時間くらいだろう。
「くそ……っ!」
もう一度気を失いたい——その衝動から、俺はがむしゃらに暴れた。しかし、頭を何度ぶつけ回ろうと、柔らかい胃壁が衝撃をすべて吸収してしまう。さらにどんなに腕を押し込もうと、最後は胃の外側にある強靭な筋肉に阻まれるため、俺の抵抗はせいぜい、空間を数センチ押し広げる程の効果しかなかった。
「あら、まだ意識があるの?」
肉壁越しに蛇使いの声が聞こえる。俺は蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。
「……気のせいね」
「あっ、生きてます! 生きてますよ!」
どうやら胃壁というのは、俺が思っている以上に遮音性が高いらしい。ねっとりとした液体に全身が包まれることへの抵抗感と、染み出してくる胃液さえなければ、これほど安眠にふさわしい有機ベッドも無いだろう。苦情が一つあるとすれば、空気が尋常でなく薄いことか。
「驚いたわ。常連さんを除いて、ほとんどの人は十五分もたないのに。ついさっき一人呑ませたから……きっと胃の中も広がってるのね」
客商売のプロだというのに、その冷静な分析がどんなに相手を怖がらせるか、彼女は気付かないのだろうか。ホトリが人間を呑み込んだのが何時間前か不明だが、少なくとも今、この空間には骨の一片すら残っていない。それだけ、蛇の胃液は強力ということだ。
——酸素不足が脳に与える影響はすさまじい。
俺はようやく、自分が彼女の客ではないことを「思い出した」。
「あ、あの、すみません」
「なあに」
「俺、ルーグって言います。貴方の名前も……教えてくれませんか」
この息苦しい環境下では、遠回しな言い方をする余裕もない。本来なら出会った直後にすべきだったその質問を、俺はストレートにぶつけた。
しばしの沈黙。そして——
「ドロテア」
しおらしく、だが胃壁越しでもはっきり聞き取れる声量で、彼女はそう名乗った。おそらく普段から、俺と同じ状況に置かれた客と会話しているに違いない。
「ドロテア、さん。俺、貴方のことが好きです」
「ええ……わかっているわ」
玉砕覚悟のセリフを軽く打ち返され、俺は拍子抜けしてしまった。こんな正面きっての告白、普通なら言葉にするだけで精一杯だというのに。
「ど、どうして?」
「どうしてって……ふふっ」
ただでさえ締め付けられている胸の上に、俺は何かがのしかかるのを感じた。ドロテアが大蛇の腹、それもちょうど俺が収まっている部分に腰を落としたとすれば、俺は今、彼女に「座られて」いることになる。大蛇の皮膚越しではあるが。
「出会った瞬間から知ってたわ。貴方の目、うちのお客さんと同じだったもの。常に身体のどこかを掻きながら、照れ臭そうにこちらを見つめて……時々、我に返ったように視線を外す仕草もね」
穴があったら入りたい——既に穴の中にいる身ながら、俺は顔中から火が噴き出す思いだった。好意を寄せている女性に、自らの行動を「正確に」なぞられる恥ずかしさ。
しかし、少し考えれば当然だ。その妖艶なボディラインと語り口で、男を虜にすることを生業にしている彼女にとって、愛の告白など、毎日ポストに投函されるチラシと大差ないだろう。
「この戦場で私に想いを打ち明けたのも、別に貴方が初めてじゃないわ。私に介錯してもらいたい一心で『君しかいない』とか、『愛してる』とか言う人はたくさん居たし……そういう人は胸ばかり見てくるから、わりと区別しやすかったけど」
「それじゃあ、さっきこの蛇に呑ませたって人も……?」
「ええ、お察しの通り。ただあの人の場合、地面でずっと死んだふりをしていて、私が近づいた瞬間に抱きついてきたから、ホトリが怒って呑み込んでしまったの。この子、怒ると相手の骨が折れるまで締め上げちゃうし、胃酸も強力になっちゃうから……ミノタウロスに斬られた方が、いっそ彼も楽だったでしょうね」
ドロテアの言葉を、俺は震えながら聞いていた。何が恐ろしいって俺自身も先ほど、その哀れな先人と同じように、彼女に飛びつこうとしていたのだ。彼女の顔を見た瞬間に足が止まり、その足を地下の生物に引きずり込まれるというアクシデントがなければ、俺も彼と同じ運命を辿っていただろう。
しかし、何より気になるのは——
「それじゃ、俺なんかと話してくれたのは……」
「……ほんのお礼よ。貴方が『ただ殺されに来ただけの人』なら、わざわざそんな時間を割くと思う?」
だとすれば、この戦場で彼女とまともに会話できたウェスタリア兵は、俺が最初で最後ということになる。そんなの、嬉しく思うなという方が無理な話だ。安い宿より余程プライバシーが保護されている空間を活かし、俺は思春期の少年のように身悶えする。
だが、甘い時間もそれまでだった。待てど暮らせど、彼女からそれ以上の音沙汰はなかった。蠢く胃壁だけが活発になり、いよいよ本格的な消化が始まろうとしているのが分かる。
「あつっ……!」
顔や首筋、服の生地が薄い部分に、焼けるような痛みがほとばしる。それまでと明らかに異なる悪臭も、俺の肌から生じたもので間違いなさそうだ。上下左右から俺を揉み込んでくる胃壁に抗いながら、俺はたまらず彼女を呼んだ。
「あ、あの……あのっ……!」
一度や二度、声を張った程度では届きもしない。呼吸を荒らげながら、俺は彼女の名前を叫んだ。
「……何?」
数分後、胃壁の向こうから返ってきたのは、妙にぶっきらぼうなドロテアの声だった。
「何って……俺、まだ返事もらってないんですけど……」
「返事って、何の話かしら」
「と、とぼけないで……さっき告白したじゃないですか! 俺、貴方のためなら何でもします! 下僕でも使い走りでも何でもいいから、ドロテアさんの側に居させてください!」
一の矢が外れたなら、二の矢、三の矢を放つまでだ。こんな歯が浮くような台詞、シラフなら逆立ちしたって捻り出せない。しかし、彼女が俺とのトークタイムを設けてくれたという成功体験が、俺にかつてない自信を与えてくれる。まるで物語の主人公になったような気分だ。
勝ち鬨を上げるには少し早いが、明日から忙しくなるだろう。いや、店の従業員を始め、身内には厳しく接していそうなドロテアの雰囲気から察するに、そんな悠長なことは言っていられない。今日、このあと吐き出された瞬間から、俺は彼女の「犬」として、新たな人生をスタートさせるのだ。最初はそれでいい。店の床磨きだろうと、イスルギやホトリの糞の世話だろうと、あらゆる命令をこなして信頼を積む。いつか右腕として認めてもらい、再び二人きりになる機会に恵まれたなら、その時にもう一度告白しよう。
彼女はきっと——
「ごめんなさい。私、夫がいるの」
「えっ……」
目が点になるという表現は、おそらくこういう時に使うのだろう。
だが驚いたことに、悲しみといった感情は湧き上がってこない。
むしろ、俺は無上の喜びに打ちひしがれていた。使い魔の腹の中でまもなく蕩けようとしている男からの告白など、本来なら鼻で笑い、「自分の立場、分かってるの?」と一蹴してもいいところだ。彼女はそれを一人の女性として受け止めるどころか、「夫」という伝家の宝刀まで持ち出し、俺にとどめを刺してくれたのだ。「ありがとう」「ご冗談を」「気持ちは嬉しい」——そんな護身用の『小刀』ではなく。
「でも、そこまで言うなら命じてあげるわ。貴方の肉、骨、髪の毛、爪の一枚に至るまで、全部私がもらってあげる。だからホトリのお腹を満たしてあげなさい。それがあなた……いいえ、『お前』の仕事よ」
この女性はどうして、俺の求めている言葉が分かるのだろう。示し合わせたかのように、胃壁が一層強く波打ち始める。最後のセリフを終えた役者に退場を促すように、これまでとは比較にならない量の胃液が分泌され、俺の肌をシュウシュウと焼く。
「ああっ、あがあああっ!!」
熱湯に放り込まれた甲殻類のごとくのたうち回り、俺は新しい主人の名前を繰り返し叫んだ。
反応は一切ない。どうやら仕事が果たされるまで、俺と口を利くつもりはないようだ。予想通り、「身内」には厳しいタイプということか。
「があっ、がんばり……まずっ……!」
言葉はないが、胃壁越しに感じる彼女の視線。徐々に身体が崩れていくのを感じながらも、俺は頭上に腰かけているドロテアの姿を思い、恍惚としていた。長い脚線をくの字に折り、濡れ羽色の髪を夜風にたなびかせている俺の主人。雄の本心を「ふるい」にかけるほど豊饒な胸は、品の良い赤と青の装束によって、どうにか決壊を免れている。夫の存在など知る由もなく、その感触を自分の手で確かめたいと願い、儚い夏虫となった男が何人いることか。
痛い。
苦しい。
それでも、俺はこの時間が永遠に続いてほしいと思った。筆舌に尽くしがたい苦痛と引き換えに、俺は自分の「仕事ぶり」を彼女に見守られているのだ。今、ドロテアの琥珀のような瞳が見つめているのは、大金を積んだ常連客でも、自身が愛する夫でもない。こんな僥倖の中で意識を失うなど、ただただ勿体ない。
「やった……」
大敗の戦場で見つけた、小さな勝利。
もし、あのポスターがウェスタリア軍の正式な募集広告で、ドロテアが一介の兵士か雇われモデルに過ぎなければ、こんな出会いはなかっただろう。こうして胃液に皮膚を焼かれるとっくの前から、俺の脳は彼女に灼かれていたのだ。美しい主人に「奉仕」できる幸せを噛みしめながら、俺はこう思った。
この人が敵で、本当に良かった。
【おわり】