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7.元・悪役令嬢は歩み続ける

 ◆◆◆



「ん…………」


 カーテンの隙間から夏の日差しが入ってくる。朝だというのにこの時期の太陽は容赦がない。


 海斗は寝ぼけまなこでシーツをまさぐる。

 ある、と思っていたぬくもりはすでになく、彼は一気に目が覚めた。


 隣に寝ていたはずの彼女の姿がない。あたりを見回し、その気配すらないことに海斗は息をついた。


 きのうは結局、泣き疲れたようにふたりとも眠ってしまった。女性とふたりきりで朝まで過ごしたのになにもなかったとは。海斗は呆れ半分、ほっと胸を撫で下ろした。


 ちゃぶ台には昨日のまま、空のコップが2つ。その下に小さなメモ書きが置いてあった。


 置き手紙にはひとこと、『ありがとう』とやや崩した丸文字で書かれている。


「行っちゃった、か……」


 海斗はぽりぽりと頭をかいた。

 その表情は、以前よりすっきりしたものになっていた。



 ◆◆◆



 ごろごろ、とアスファルトの上にキャリーケースを転がせる。


 海斗の部屋を出てから、職場まで距離があるが歩くことにした。朝の日差しの強さに反し、風はまだ夜の余韻が残っている。

 ビルとビルの間をすり抜けるように進み、少しひらけた場所に出た。


「……沼?」


 それは沼だと勘違いするほど、おどろおどろしい色合いのため池だった。

 侵入禁止のフェンスが四方を張り巡らせ、整備もされてないせいか草やツタが方々(ほうぼう)に伸びきっている。心なしか、妙なにおいがするような気がする。ゴミの不法投棄でもされてそうな場所だ。


 でも、どうしてだろうか。足を止めずにいられない。


 不意に、ぶるぶる、と太もものあたりが規則的に揺れた。スマホだ。

 そういえば、しばらく誰とも連絡とってなかった。


 わたしはパンツのポケットからスマホを取り出すと、内容を確認した。


『新着メッセージ:49件』の文字に嫌気がさす。

 どうせ智樹からだろう、とわずらわしく思いながらロックを解除すると、意外な差出人名に思わず目をしばたたいた。


 父親からだ。


 要約すると、『婚約解消を智樹の親も同意した。謝罪と、少しばかりの慰謝料を払うと約束された。落ち着いたら折り返し連絡を願う』とのことだった。


 慰謝料……これはいわゆる口止め料も含んでいるだろう。智樹の家はちょっとした名家かつ一人っ子だから、長男が浮気して婚約破棄した、などとたとえ噂でも広まったら困るのだ。


 これだけあっさりと慰謝料を払うことを了承されたのも、名家だからこそ、元々自分の子供の身辺や私の身辺を結婚前に探っていたのだろう。その結果、清算するべきは妊娠中の浮気相手の明日香ではなくわたしであると結論が出されたわけだ。


 あとはほぼ、智樹からだ。


『いまどこにいる?』から始まり、『明日香とは別れた、もう一度チャンスをくれ』『やり直してほしい』『お願いだから電話に出てほしい』『何が悪かったんだ?』と、ほとんどが懇願するような内容だった。

 あくびが出るほどにくだらない。


 メッセージの切迫した様子から、どうも智樹は両親とは連絡をとってなさそうだ。さっさとご両親に明日香をあてがって貰えばいいのに、とすら思えた。


「……あ」


 大量の復縁メッセージの中に、1件だけ別のものがあった。明日香からだ。


『いつからわたしたちのこと、知っていたの? 知ってて自分にずっとノロケを聞かせていたの? だったら趣味が悪いよ。性格悪いよ。カナのそういうところずっと嫌いだった。おかげで智樹と連絡取れなくなったよ。わたしのお腹には彼との赤ちゃんがいるのに。わたしの幸せを返してよ。彼の近くにいるんでしょ? 彼を説得してよ』


 予想以上の内容に、思わず笑ってしまった。見当違いもはなはだしい。相変わらず、ふたりとも好き勝手に言う。

 そこはもう、1ヶ月後と変わらない。いや、未来だから当たり前か。


 茶色とも褐色とも灰色とも言えないドロドロとしたため池が、朝日を浴びててらてらと不気味な光を帯びた。わたしはそのゆらりとした光から目が離せないでいた。


 やはり、ふたりのことは許せない。少なくとも今は。


 だからこそ海斗に触れるのをためらった。泣き疲れて眠ったフリをした。

 触れたとして、その時は満たされるだろう。

 彼を好きかは関係なく、わたしはひとりではない、という安心感と充足感を得られたに違いない。全てを許せるような、ともすれば、自分自身も許されたような気になれるかもしれない。


 しかし、ふとした瞬間に許せないと暴走するかもしれない。

 目の前のため池と同じように、わたしの胸には落とし穴のように深い泥沼がある。それに引きずり込まれてしまうかもしれない。


 原因は智樹の浮気と明日香の裏切りだったにせよ、あの惨劇を引き起こしたのは、紛れもなく泥沼の中にいた自分なのだから。


 海斗のことも不倫の末にできた子だと、罵倒してしまうかもしれない。止めなくてはならないところで止められないかもしれない。

 思いとどまることができず、絶望したまま死を選ぶ──そんな思いだけはもう、絶対に味わいたくなかった。


 わたしは深呼吸をひとつすると、スマホに目を落とした。

 手短に文字を打ち込むと、電源を切る。


 いつか許し、愛せる日が来るのだろうか。相手も、自分も。


 泥沼はすぐそばにある。

 しばらく立ち止まっていたわたしは、再び歩き出す。


 ため池にぽちゃん、と何かが落ちる音がした。

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