6.巻き戻り2日目
◇◇◇
「お腹に……え……?」
混乱するわたしをよそに、明日香は白黒の薄い紙を取り出した。
「……これ、証拠。お腹の赤ちゃんのエコー写真」
そこには横向きの人影らしきものがはっきりと写っていた。腕を曲げていることすらわかる。6ヶ月でもう人の形をしているんだ、とわたしはどこか冷静に思った。
ぽたり、と水滴がテーブルに落ちた。
「……この間、分かったの。妊娠してるって。もう気づいた時には堕ろせない週数で……」
顔を上げると、明日香の瞳からみるみるうちに涙があふれ、智樹はその背中をさすり続ける。わたしはただ、ふたりを遠い風景のようにぼんやりと見つめるだけだった。
短い嗚咽が響き、刻々と時間だけが過ぎる。わたしを責めるように睨む智樹の沈黙が、重くのしかかってきていた。
わたしがうなずけば、ふたりは笑ってくれるだろうか。
そんな思いが胸をかすめる。
……うん、いいじゃないか。ふたりはお似合いだ。智樹も明日香も、わたしの大切な人に変わりない。ふたりならきっと支え合って、わたしなんかより智樹は幸せになるに違いない。
諦めにも似た、しかしあたたかな気持ちで身を引く言葉を口にしかけた。
「……だから、別れて。お願い。この子の父親を取らないで」
涙ながらに訴えてきた明日香の言葉に、わたしは頭が真っ白になった。
取らないで? どういうこと? あとからきて略奪しようとしているのはあなたでしょ?
理解できない。あれ? 明日香ってこんな子だった? わたしの知ってる明日香はどこ?
なんで智樹は何も言わないの? わたしたち、まだ付き合ってるよね?
大量の疑問符が浮かび、徐々に目の前が真っ赤になっていく。
その中で、白黒のエコー写真だけは鮮明にその色を保っている。
こんな紙ぺら一枚で何の証明になるの? そもそもこれが明日香のお腹の子だって証拠は? 他人の写真を盗っただけかもしれない。
……そうだ、きっとそう。明日香は智樹と一緒に、わたしを騙そうとしている。
赤く染まった世界が、またゆっくりと元に戻り始めた。
その安心感からか声を上げて笑う。こんな見えすいた嘘に引っかかりかけたわたしを、ふたりは笑ってくれるかもしれない。
しかし予想に反して、ふたりは戸惑うように椅子ごとあとずさった。
「カナ……?」
「もうお芝居はいいって、ドッキリでしょ?」
わたしの言葉にふたりはくちごもる。
「……カナ、その、」
「いいのいいの、分かってるから。明日香はそんなことする子じゃないし、智樹だって婚約してるのに浮気なんてする人じゃないって分かってるから」
はやくネタバラシをしてほしい、そんな思いから早口になる。
お願い、お願いだから。
「カナ、全部本当だよ。俺と明日香は愛し合ってる。だから別れてくれ。カナのことを最後の最後で嫌いになりたくないんだ」
わたしの願いを打ち砕くように、智樹は優しい声色で言う。
嫌いになりたくない、でも別れる。
それは果てしなく残酷な響きで、世界は再び完全に真っ赤に染まった。
◇◇◇
行くあてもなかったわたしは、U駅近くの漫画喫茶で一夜を過ごした。
手持ちのお金がなかったのもあるが、わざわざATMに引き下ろしに行くよりも早く眠りかった。それに誰もいないホテルに泊まるより、常に人の気配がする場所にいたいと思ったからだ。
シャワーもあるし、漫画もある。インターネットもあるので狭いことを除けば快適だ。
体を丸め、時折誰かが発する音を聞きながら、どろどろと眠りについた。
その翌日。
わたしはキャリーケースを引き、仕事場である介護施設に着いた。今日からしばらく出勤だ。
狭い部屋で無理矢理寝たせいか体が痛い。それ以上に昨日は修復不可能なダメージを負った気がしたが、どこかスッキリした思いがあった。思っていたことを彼にぶつけられたからだろうか。
昨晩から今朝までに、智樹からの連絡はもちろん何度もあったが、通知をオフにしておいた。内容も大体予想がつくため、わざわざ読む必要は感じられない。
きょうが仕事の日だと知ってるだろうが、さすがに職場まで押しかけてくるほどの厚かましさは彼にはないだろう。
わたしの大荷物を見たベテラン職員が「あら、どうしたの?」と事情を聞いてきたが、曖昧にはぐらかした。昨日の今日でうまく話せる自信もないし、好奇の目にさらされて笑っていられるほどの強さもまだない。
業務は滞りなく進み、大きなトラブルもなく終業間際になった。
記録も終え、あとは時間を待つだけ、というところでふと海斗のことを思い出した。
閉じたノートパソコンを再び開く。
『似てるんすよ』と言った彼の表情が、妙に気になる。誰に似てるのか、よりも彼がなぜ、あんなにも辛そうにしていたのか。なぜか胸がずきりと痛んだ。
「ええと……あった」
彼の祖母、大貫キヌの利用者データだ。
緊急連絡先には息子の名前、第二連絡先に孫、海斗。
「あれ……? 星田海斗……?」
続いて家系図を見る。入居の時に書いてもらった手書きのものだ。
そこにはキヌと亡くなった夫の下に、息子とその妻に連なる線が描かれてあるだけだった。星田どころか、海斗という文字すらない。
わたしは首をかしげた。
息子の名字はキヌと同じ、大貫だ。そして家系図を見る限りでは一人っ子。星田という姓が入り込む余地すらない。
星田って……海斗って何者?
答えが出ないまま、17時ちょうどを告げる鐘が鳴る。
わたしはパソコンを閉じ、疑問を振り切るように立ち上がった。
「あ、千秋サンじゃないっすか」
着替えを済ませ、更衣室を出たところで後ろから声をかけられた。
海斗だ。
ひょうひょうとした笑みを浮かべ、こちらに手を振っている。忘れようと思っていた『星田』の謎が顔を出しかけ、わたしはぎこちなくも手を振った。
彼のいない家系図。見てはいけないものを見てしまったような気がする。
そういえば、初めて会った時も名字は名乗らなかった。それどころかわたしのことしか話してない。
今更ながら恥ずかしくなる。彼の何も知らない。
わたしは視線を泳がせた。
「……面会、来られてたんですか」
「まぁ。うちの業界、お客さんがいないと暇なんで」
「そう、なんですね……」
全然気づかなかった。
これだけ目立つ金髪がいたら自然と目に入るものだが、きょうのわたしはどこか余裕がなかったらしい。
「千秋サン……?」
「え、あ、なんでもない」
ぼんやりしていると思われたのか、怪訝そうに海斗は見つめてきた。慌てて首を振るも、彼の表情は変わらない。
「それ、なんすか?」
海斗は目で私のわきにあるキャリーケースをさした。
「ええ……うーん、なんというか……家出?」
迷った挙句、わたしは正直に話すことにした。
旅行、と一瞬答えようとしたが、明日以降も仕事の私と面会にきた海斗が鉢合わせても気まずい。それに、彼には昨日、事情を話しているので遅かれ早かれ分かることだ。
海斗はまじまじと、キャリーケースと苦笑いする私の顔を見比べている。
あまり見られると、やはり先程の謎が脳裏をかすめる。自分でも気になっていることは嫌でも理解していた。しかし、本人が話さない、話せないことをあえて聞く厚かましさを持てるほどの鈍感さも、受け止めるエネルギーも、わたしには圧倒的に足りない。
尻込みするように「それじゃ」と立ち去ろうとした。
が、それは海斗によって阻まれた。横をすり抜けようとした時に腕を掴まれたのだ。
「……千秋サン、ちょっといいっすか?」
のぞきこむように首を傾けた彼は、言葉の軽さとは裏腹、真剣な表情を私に向けた。
また来てしまった。
施設からバスを乗り継いで、海斗の自宅に着いた。くすんだレンガ調の外観が、夕日に照らされ昔の色を取り戻しているように見える。
部屋に招き入れられたわたしは、昨日と同じ場所に座った。
「あのさ、もしかして……分かっちゃった?」
ちゃぶ台にお茶の入ったコップをふたつ置いた海斗は、おずおずと口を開いた。
あけすけにものを言うあの彼が、珍しくぼかしている。やはり、余程のことなのだろう。
「……ごめんなさい。家系図、見ちゃって……その」
「星田、でしょ? うん……実は俺、婚外子ってやつなんだよね」
彼は頬をかきながらあっけらかんと言い放った。
婚外子、つまり、妾、愛人の、子。
『わたしのお腹に赤ちゃんが』と明日香の声と仕草が浮かび、わたしは振り切るように首を振った。
今は出てきてほしくない。少なくとも、違うと思いたい。
「昔、千秋サンと同じことを言った人がいるんすよ。うちの母親なんですけどね。あ、母親が星田なんすよ。父親に正妻サンがいるんで、母は名乗れないんですわ。大貫姓」
情報量の多さにうなずくしかできないわたしに、彼は言葉を続けた。
「で、母親が言うんすよ。あの人に捨てられたら自分は無価値になる。お金もなくなる。だから父親が来たら全力で媚を売れ、怒らせるなってね。俺はずっと、それに従ってた。けど……」
かすれかけた海斗の声が、切なく響く。言葉を詰まらせた海斗は、一旦お茶をひと口含んだ。
「なんか、心のどっかで母親も父親も汚ねぇな、嘘臭ぇなとしか思えなくて。ガキの頃は荒れて家出ることが多くて……で、そんな俺によくしてくれたのが正妻サンだったんすよ」
声をなくしたわたしを、海斗はじっと見つめている。
思えば彼は、わたしの反応をずっと確かめながら話している節があった。それも彼の状況や生育歴がそうさせているのかもしれない。
正妻とはうまくやっていたらしい。キヌと引き合わせてくれたのも正妻だと言う。
母親が亡くなった後も大貫家との交流は続いている。キヌの緊急連絡先に名を連ねてるのがその証拠だ。
正妻と父との間には子供がいないため、父親は会社──大貫建設というかなり大きな建設会社の社長らしい──を継いで欲しいが、自分にはその気は全くないと言う。
「正妻サンも辛いと思うんすよね。俺がいることで、っつーか、俺がいるだけで旦那が浮気して子ども産ませた現実見なきゃいけなくなるし。いい人だから、余計に。そもそもおれ、そういうドロドロ? 苦手なんすよ」
海斗は乾いた笑いを浮かべた。今までの快活な笑いとは違い、眉は下がり、どこか心細そうに見えた。
「俺は大貫の異物だから。千秋サンも、俺のこと軽蔑するっしょ?」
苦笑いする海斗が言い終わるか終わらないか、わたしは彼を抱きしめ背中に手を回した。
「ちょっ……」
「軽蔑、……しない。異物じゃない。あなたは、わたしに選択肢をくれた」
彼の背中を優しくさする。わたしなんかよりよっぽど逞しく、硬く、強そうな背中から徐々に強張りが消えていく。
この人に罪はない。
でも存在自体、許されないと思い続けている。気にし続ける人生を送らなくてはならないと自分を戒め続けている。
不条理だ。こんなのは。
ふつふつと怒りにも似た感情が湧き上がってくる。わたしの中にある、智樹と明日香を許さない、許せない気持ちが重なり混じり合う。
海斗を慮る気持ちと、自分の感情が激しくないまぜになって、涙があふれ出てきた。
おかしい。絶対におかしい。
許せないわたしも、許されない海斗も。
しゃくりあげるわたしの頭に、海斗の大きな手が乗る。
「はは、泣かないでくださいよ。おれは大丈夫っス。千秋さん、やっぱ優しいっすね」
頭をわずかに撫でるように手を動かす海斗の声は、熱く震えていた。
次回で最終話です。
明日の昼ごろ更新します。