5.巻き戻り1日目-4
◇◇◇
悪役令嬢だった時の記憶は半分ほどしか思い出せない。特に巻き戻り直前は曖昧だ。
智樹に捨てられた腹いせのように婚約者に執着したこと。
幼い頃から妹に濡れ衣を着せつづけたこと。
追放後も執拗に妹に嫌がらせをしたこと。
気に入らない働きをした者を、他人に殺させたこと。
そこまでの悪行を重ねても、わたしの執着はなお消えなかったこと。
どうせゲームの世界だ、モブなどどうでもいい。好きなようにさせてもらう、とわたしは罪を重ね続けた。
しかし、ひとつだけわたしが後悔し、心変わりしたことがある。あるメイドの死だ。
思い通りにならない人生を呪い、すべてを消そうと屋敷に火をつけた。自分さえも消えればいい。そう思っていたのに庇った人間がいた。
彼女はゲームの中で名すら持たないモブだった。その彼女に命を救われたが、彼女はわたしを庇ってあっけなく死んでしまった。
情けない話だが、彼女が亡くなってから彼女の名を知った。『モブ』などという物語の風景のようなものではなく、ずっと付き従ってくれたたったひとりの『ひと』だったのに。
救われて急に、命が惜しくなった。自分の命以上に、他人を失うことが怖くなった。
もっといえば、自分の行動で他人が死ぬことに耐えられなくなったのだ。人を殺した経験があるにも関わらず、だ。
智樹と明日香への憎しみは未だ胸にある。殺意すら確かにある。
それでも今生は、包丁に伸ばす手を止められる程度には自分を保つことができるに違いない。あの時の自分とは違うのだから。
1ヶ月後の惨状を避けたい、人が死ぬところを見たくない、などと言ったら、おぼろげな記憶の中の彼女はどんな顔をするのだろうか。
もうその答えはわからないけど。
◇◇◇
日が沈む頃、わたしは自宅に戻った。
海斗には引き止められたが、やはり智樹と付き合ってる手前、「帰りたくない」という理由で留まるわけにはいかない。
それに、海斗に胸の内を吐き出し、ある程度気持ちの整理がついた。今ならば、智樹と冷静に向き合うことができるのではないかと思えたのが一番大きい。
自宅マンションを見上げる。カーテンに遮られてるものの、自室から明かりが漏れているのが見えた。
智樹が、いる。
どくり、と心臓が音を立てる。
存在を認識するだけで嫌な記憶が蘇ってくる。目も眩むような鉄の匂い、手に残る生あたたかさ、肉が食い込む感触、うつろな瞳、終わってしまった絶望感。
生ぬるい夜風も相まって、気分が悪くなってくる。空気の塊が喉の奥で詰まったように留まり、うまく息が吸えない。
わたしはマンションの植え込みのへりによろよろと座った。呼吸を整える。明日香の背中をさする智樹の姿が思い起こされる。
なんでこんな時に。
浅い呼吸が続く。微熱のような風が一筋吹くだけでも忌々しさを感じ、耐えきれず手をついた。
いつからこんなに弱くなったのか。それともずっと、わたしは弱かったのか。智樹がそばにいて強くなったと錯覚していたのか。彼の存在はこんなにも大きかったのか──。
『千秋サンが何選んでも、俺は味方です』。
話し合うという決意が消えかけたその時、不意に浮かんだ言葉に喉からひゅっと変な音が鳴る。
そうだ。
智樹の存在は確かに大きい。付き合いも長い。過去何をしたか、と思い返せば必ず智樹が出てくるほどに、大きい存在だ。
そしてわたしは弱い。ふたりから告げられた決別を暴力で強制的になかったことにする程度に弱い。
──本当にそうか?
付き合いが長くても、浮気してると言われるまで気づかなかった。それは存在が大きいのではなく、ただ自分と相手を盲目的に過信していただけではないか。彼のうわべしか見てなかったからではないか。
あの時は確かに圧倒的な暴力で二人を黙らせた。しかし、今は少なくともそれを回避しようと動いてる。この段階ならば実際回避できるのではないか。
その選択を、他の誰でもない。わたしが選ぶのだ。
わたしは深呼吸を幾度か重ねた。日没後の、急速に生ぬるさが消え、冷えた夜風が胸に浸透する。呼吸は完全に落ち着いていた。
ゆっくりと立ち上がり、再び自室を見上げる。漏れ出た明かりを目に焼き付けると、わたしはマンションの中へと歩みを進めた。
「きょう、明日香ちゃんとなんかあったの?」
大方、明日香から「わたしの様子がおかしい」と連絡をもらったのだろう。自宅に帰り着替えたわたしに、智樹は白々しくもこう聞いてきた。
わたしの顔を覗き込む彼は、どこからどう見ても彼女を心配する彼氏そのものだ。
「なんでそんなこと、気にするの?」
二人がけソファに座りながら、そっけなく返す。イラついていると思われたのだろう。智樹はカーペットの上に正座した。
「なんか、その、元気ない気がして」
要領を得ない彼の口ぶりがそらぞらしい。
元々、智樹は隠し事も嘘も不得意なのだ。わざわざ彼女と浮気相手のいざこざに首を突っ込んで無事でいられるほど、彼は器用な人間じゃない。馬鹿正直な人間なのだ。
そこが彼のいいところでもあり、隙でもある。
「そりゃね。元気ないよ。智樹と明日香のことで悩んでるんですもの」
きっぱりと言い放ったわたしは、テレビをつけた。
クイズ番組で、若手芸人がわざとらしく答えを間違い、笑われている。好きでも嫌いでもない芸人だが、なぜか無性に腹が立った。
しばらくぼうっとテレビを観ていたが、智樹からはなんの反応も返ってこない。
もしかして聞こえなかったか、それとも意図が伝わらなかったか、とわたしはため息混じりに彼の方に視線をやった。
「…………は?」
苛立ちと驚きで声が出た。彼はカーペットの上でただ無言で土下座していた。
わたしが無視し続けてたらこの人どうしてたんだろう。こんなパフォーマンスなどどうでもいい。せめて「ごめん」のひとつも言えよ、とイライラが募る。
「……それさ、謝ってるつもり?」
「……ごめん、いや、すみませんでした!」
頭をこすりつけるように智樹は一層小さくなる。その姿勢のまま、彼は聞いてもない明日香とのなれそめを語り始めた。
約1年前、わたしから友人だと紹介された時、明日香から連絡先が書かれた紙を渡されたこと。わたしに言うか迷って、結局言わなかったこと。しばらく連絡を取らなかったが、わたしと一度ケンカした時に腹いせで連絡を取ったこと。そのままいけないと思いながらもずるずると関係を続けたこと。
聞きたくもない話を懸命に話し続ける。わたしにはそれが退屈な念仏にしか聞こえなかった。真面目に聞いたところで理解不能なことは分かっていたから。
「でも、カナとは別れたくない、それだけは信じて」
ようやく話し終えたのか、そう締めくくると顔を上げる智樹。うっすらと黒い瞳がうるんでいるように見えるが、そんなもので信じられるようになる程、簡単な話ではない。
わたしは首を横に振った。
「今はそう言うけど、智樹は必ず明日香を選ぶよ」
「そんなことない! 今、連絡先全部消す。カナの気が済むまでなんでもする。家事を俺が全部してもいいし、高いものでもなんでも買う。旅行だって行こう! 本当になんでもする。だから信じてほしい」
「そんな償いみたいなことされても困るし、一生は続かないでしょ」
冷めたわたしの言葉に、智樹は絶句した。
ほとぼりがさめた頃に償いはやめればいい、くらいに思っていたのだろう。本当に馬鹿正直で甘い人だ。心底嫌になる。
それに、とわたしは付け加えた。
「気が済むまでって……なんでわたしの気がいつか済む前提なの? なんであなたはいつか許される前提なの?」
わたしの指摘に、それは、と智樹はくちごもる。
馬鹿正直な人でよかった。口が達者で嘘も上手い人なら、なんだかんだ言いくるめられていたかもしれない。
「……ごめん、でもカナが一番大事なんだ。愛してるんだ。別れたくない」
うつむいた智樹は、小さくつぶやいた。細身の彼がこうしていると、いつもより頼りなく、薄っぺらく感じる。
「一番大事ならなんで浮気したの? 二番目の女が欲しかった?」
「それは……むしゃくしゃしてて……」
「1回目は魔がさしただけかもしれない。喧嘩が原因なら、わたしも悪かったかもしれない。でも2回目以降は断れたよね?」
「カナにバラすって言われて無理だったんだ。バレるのが怖かった」
「うん、そりゃ怖いよね。でもさ、そもそもなんで連絡先書いた紙なんか大事に保管してたの? 普通捨てるかわたしに報告するかするよね? 連絡先残しておいてる時点で個人的に会う気満々だったんじゃないの?」
「……………」
痛いところを突かれたのか、智樹は黙り込んでしまった。
いつもこうだ。肝心なことや図星に対する反論はしてこない。だんまりを決め込む。
それが最悪の一手だと、ここにきてもなお気づかない智樹に、わたしはひざの上で拳を握りしめた。
「……智樹が浮気なんかしなきゃこんなことにならなかったよ。どうせ明日香にもお前が一番とかなんとか言ってたんでしょ?」
「違う!」
「違わないよ。一年も隠れて浮気するくらいだもの。智樹は情がうつっても仕方がないくらいの時間を明日香と過ごしてるよ」
「情なんてない。本当だ!」
『じゃあ妊娠させた義務感であの子と結婚するの?』と言いかけて慌てて口をつぐんだ。
1ヶ月後のことは私以外、誰も知り得ない。冷静さを欠いていた。
しかし、今の様子からして、智樹は明日香の妊娠を知らないのではないか。知らない、となると、やはり明日香が智樹を確実に略奪するために黙っている可能性が大だ。
罠にはめられ、人生の選択を決められてしまう彼が少し不憫にも思える。
しかし、それは浮気をやめなかった彼の自業自得だ。
彼自身の行いの甘さと明日香の狡猾さが招いたこと。それをわざわざ教える気にはなれない。
教えたところで堕胎をすすめる智樹を想像するとやはり嫌悪感が増す。いずれにせよ彼女を妊娠させた時点で八方塞がりなのだ。
もっと前に巻き戻っていれば違っていたかもしれない。が、たとえ明日香との浮気をやめさせたとしても将来的にまた別の人と浮気するかもしれない不安がつきまとう。
智樹に振り回される堂々巡りの人生はもう、歩みたくなかった。
わたしは長いため息をつくと、ソファから立ち上がった。
「とにかく、やり直すとか、別れないとか無理だから」
「待って」
智樹がわたしの腕を取る。もう話すことなど何もないのに。
「お願いだから、待ってほしい」
もう一度、今度は手に力がこもっている。これを振りほどくこともできる。だがしなかった。
これまで明日香への情を否定し続ける彼が、本当は何を考えているのか最後に知りたかったからかもしれない。
彼は腕を掴んだままゆっくり立ち上がり、「そこで待ってて」とリビングから出て行った。かと思えば、すぐに顔を出す。
わたしの姿を確認すると、ほっとしたように顔を緩ませかけた。
わたしの前まで来ると、彼は芝居がかったようにひざまづく。その手には深い紺色の小箱があった。
彼は緊張した面持ちでそれを開いた。
「……」
指輪だ。
密かな驚きと喜びが生まれかけ、それが瞬時にして恐怖と憎悪にとって代わるのが分かる。
これはさすがに、あんまりだ。むちゃくちゃだ。
息を呑みかけた表情でわたしが固まっているからだろうか。呆けているわたしをよそに、智樹は演技めいた口調で、優しく語り出した。
「婚約指輪。カナは必要ないって言ってたけど、やっぱり俺は、俺の気持ちを形にしたいと思ったんだ。付けなくてもいい。持っていてくれるだけでいい。明日香ちゃんとは、別れる。だから……」
「出て行って」
告白を裂いて鋭く飛んだ言葉に、智樹は目を丸くする。指輪まで見せたのに信じられない、といった表情だ。
正直、こちらの方が信じられない、ありえないと言ってやりたい。
「え……?」
「出て行って。もう顔も見たくない」
青くなった智樹から目をそらす。許せない。
しかしそれ以上に悲しかった。
「出ていかない。俺はカナと一緒にいたい」
膝立ちのまま、すがるように腕を取られる。本当はもう、声も聞きたくない。触られるなんてまっぴらだ。
わたしはそれを思いっきり振りほどくと、冷たく微笑みながら振り返った。
「なら私が出て行くね。今後のことはまた後で連絡するから」
「待っ……!」
追いすがる彼を背に、リビングを出て行く。
部屋でキャリーケースに、最低限の荷物をつめる。元々、荷物は少ない方だ。すぐにまとめ終わった。
ジュエリーボックスを手に取りかけ、やめた。
あとで片付けようと置いてあった真珠のネックレスだけ奪うように取る。
玄関まで念のためキャリーケースを転がさないよう持ち上げたが、智樹が出てくる気配はない。
これでいい。最後まで不毛で面倒なやり取りをしたくない。これ以上関わったらそれこそ1ヶ月後の惨劇の再来だ。今ならこのキャリーケースが凶器になるかもしれない。
わたしはひと息つく間もなく、足早に自宅をあとにした。
「……………うん、うん、……ごめんね。よろしく」
それじゃ、と短く言ってわたしは電話を切った。
夏の夜風を楽しむ間もなくビル風がごおっと吹き荒ぶ。腰より少し短い程度の髪が、てんでバラバラな方向に毛先を踊らせた。
マンションからほど近い、大型オフィスビルの下にわたしはいた。オフィスビルといっても、食事処やお洒落なバー、屋上には空中庭園があり、この時間でも仲むつまじくじゃれ合う男女がそこかしこに見られる。
電話の相手は、父親。婚約解消の顛末を話した。
わたしの説明を聞いた父は、「事情はわかった。住むところが決まったら言ってくれ。婚約解消の旨はこちらからもあちらに連絡しておく」とあっさりしたものだった。挨拶の時から何か感じるものがあったのかもしれない。
思えば古風な父も指輪の有無にこだわっていた。父だけでなく、智樹の両親も。入籍前の同棲には何も言ってこなかったのに、なぜか指輪にこだわっていた。「今の結婚ってそういうもんだから」と智樹が説得してくれ、ようやく落ち着いたのだが。
──指輪。
智樹が差し出した指輪を思い出す。
本来ならそれは幸せの象徴で、受け取る側も嬉しいものなのだろう。彼もそういう反応を期待して、あの場のあのタイミングで見せたに違いない。
とぐろを巻くように、ざわりとした感覚がゆっくりと胸の奥から這い上がってくる。
小箱に入っていたのは、なんの変哲もないダイヤモンドの指輪だった。飾り気もないわたしのために、きっと身につけやすいものを選んでくれたのだろう。
しかし、その指輪には見覚えがあった。ちょうど転生前、明日香が付けていたものと同じデザインだ。まるっきり、同じ。
きっと何も知らない明日香はそれを見せられた時、小躍りするくらい喜んだに違いない。
彼女の罠にかかっただけならまだ、智樹のことを許せたかもしれない。
しかしもう、何もかも遅いのだ。
彼にとってわたしとの5年は、指輪や自分の人生をプレゼントする相手すら簡単に変えられるほどのお手軽さしかなかった。それに気づいてしまったらもう、戻れない。
彼らにとっては始まってすらいないが、未来を知ってるわたしには全てがどうにもならないくらい遅い。
「最低」と小さく呟く。相変わらずビル風は強い。若い男女がけらけらと笑いながら通り過ぎて行った。
「朝の占い、当たってたなぁ」
閉じた目から涙が流れた。