4.巻き戻り1日目-3
◇◇◇
「……いま……なんて……?」
呆然とつぶやいたわたしの言葉に、智樹は気まずそうに視線をそらした。
その隣に座る明日香は、真っ直ぐにわたしを見る。いつもならばその席は、わたしの席だったのに。
目の前のテーブルには料理が手付かずのまま置いてある。すべてわたしの手作りだ。明日香をもてなすために作った。できたばかりだというのに、もう冷めてしまったように匂いもしない。
聞き返しながらすべてを理解したわたしは、数分前までの考えなしな自分を後悔した。
「……別れて欲しい」
もう一度、はっきりと言う智樹。若干気まずそうに向けられた視線は、その奥に決意と決別の意思が明確に浮かんでいた。
「だから……なんで? わたしたち、婚約してるよね?」
「婚約は……解消で」
「式場の予約だって」
「それはもう電話してキャンセルした」
「なんでそんな勝手なこと……」
「どのみちこんな気持ちじゃカナとは結婚できない」
矢継ぎ早に責め立てるわたしの言葉を、智樹はシャットアウトするように言い放った。わたしと話し合いをする前に、決断してきたような言い方だ。
明日香の方を見る。
やはり彼女もわたしをまっすぐに見つめ続けていた。まるでわたしが見苦しくもがき、抵抗するのを憐れむように。
ふたりが言うことが正しくて、反論するわたしが間違っているとでも言いたげに、その左手の薬指にはダイヤモンドの指輪がきらり、と光っていた。
「ご両親にはどう説明するの?」
「それは俺がするから……」
「なんて説明するの? 『俺が浮気して心変わりしたからカナじゃなくて明日香と結婚します』って言うの? わたしに対する不義理はそれで通るの? ご両親はそれで許すの? それとも嘘でもつくつもり? たとえばわたしが浮気した、なんていうわたしのせいにするような嘘」
「…………」
押し黙る智樹を前にわたしは声を震わせる。
駄目だ。今は泣くな。
わたしがすんなりと頷くとでも思っていたのだろうか。そちらの決意が固いなら、こちらも黙ってなどいられない。5年付き合って、同棲までして結婚も目前だというのに、こんな仕打ちを受ける不条理はない。
「納得できない。一度両家でまた集まって説明の機会を持ちましょ。うちの両親にも説明してもらわないといけないし」
「それは……」
「やめて」
智樹が言いかけた言葉を、それまで黙っていた明日香が遮る。
「……もうやめて」
「明日香……」
智樹が気遣うように、泣き出しそうな彼女の背に手を伸ばす。わたしの存在などいないかのように振る舞う彼に、苛立ちが募る。
泣きたいのはこっちだ。まるで明日香が悲劇のヒロインで、こっちは悪役令嬢だ。お前はただ思い通りに行かないことを泣き落としで無理矢理こちらを従わせようとしているだけだ。そうはいかない。
わたしは奥歯を噛み締めた。
──しかし、彼女の口から出た言葉は、わたしの戦意を揺るがせるには十分だった。
「……いるの……わたしのお腹に赤ちゃんが……妊娠、6ヶ月なの……」
か細く、しかしはっきりと言うと、明日香はかすかに膨らんだ腹部を愛おしそうに撫でた。
それは絶対的正義で、まぎれもなく残酷な現実だった。
◇◇◇
いったいどうして、なんでこうなった。
笑う海斗を前に、わたしは一気に酔いが覚めた。
彼が言っていた大貫キヌは、わたしが勤める入居型施設の利用者だ。車椅子に乗って他の利用者とほがらかに笑う姿が印象的な貴婦人だ。そういえば、キヌのところによく金髪の孫が面会に来ていた。品があるキヌの孫にしては派手な孫だ、と思ったのをよく覚えている。
まさかその彼だったなんて。
利用者の家族にこんなところで会うなんて、まして泥酔姿を見られてしまうなんて……最悪だ。
見られたところで職場の人間に言いふらされたりするわけではない。が、やはり信用問題に関わる気がする。わたしは彼のことを覚えていなかったわけだし。
それ以前に、アラサーに片足突っ込みかけている女が、泥酔の上にお持ち帰りされかけたなんてちょっとやそっとじゃなく恥ずかしい。
あたふたするわたしをしばらく眺めていた海斗は、呆れたように肩をすくめた。
「ま、いいけど。さっさと帰った方がいいぜ。この辺昼間から物騒な上にラブホ近いし。あんたみたいなのはカモられてヤられて終わり。ヤられるだけならまだマシくらい」
「……」
「……帰れない事情でもあんの?」
「それは……」
わたしはくちごもった。
なんと説明したらいいのだろう。現段階では浮気の証拠を押さえたわけではない。状況証拠すらないに等しい。
『同棲してる彼氏が自分の友人と浮気してるかもしれないから顔を合わせたくない』なんて妄言と受け取られても仕方がない。そもそも利用者の家族に、そんな個人的なことを言うべきではないだろう。
いいあぐねるわたしをのぞきこむように見ていた海斗は、「しかたねぇな」と呟いた。
「……わかった。ついてきな」
「ちょ、ちょっと……」
返事も待たず、腕を引かれる。強引とはいえナンパ男のときの不快感はない。どちらかというと困惑と混乱の方が強く、むしろ不快感がほとんどないことにさらに困惑した。
酔いが覚めた、と思っていたがやっぱり酔ったままなのかもしれない。
智樹と付き合い始めてから、他の男の人に手を引かれるなんてこと、なかったな。
そんなことを思いながら、わたしは海斗に引かれるまま、風に揺れる金の髪をただ見つめていた。
「……ええと、ここは……?」
「俺んち」
振り返った海斗は短く答えた。
半ば強引に連れられてきたのは、U駅から大通りを南東方向に少し歩いたところにある10階建はありそうなアパートだった。洒落たイタリア料理屋と、高層マンションに挟まれ居心地悪そうに建っている。1階には錆びた銀ののポストがずらりと並び、くすんだ赤レンガ調の外壁は、10年前ならさぞ綺麗な赤を放っていたに違いない。
海斗の自宅アパート。
いや、帰りづらいとは思っていたけど、さすがにこれはラブホよりまずいんじゃ……と、わたしは躊躇した。浮気されたとはいえ、一応彼氏はいる。他の男性の家に上がるのはいただけない気がする。
アパート前でまごまごしていると、海斗がため息をひとつついた。
「なんもしねーよ。千秋サン、俺の趣味じゃねーもん」
片手を軽く横に振った彼は、わたしの腕から手を離した。
趣味じゃない、と言われてもそれはそれで複雑だ。むしろちょっとムッとする。まるで女としてあり得ないとレッテルを貼られたみたいだ。
「別に俺は帰ってもらってもいいけどー」と彼はアパートの中に入っていく。
……そこまで言うなら行ってやろうじゃない。
わたしは半ばヤケクソで、彼の背について階段を上がった。
海斗の部屋は503号室、いわゆる角部屋だった。玄関から伸びる廊下は狭く、奥に大体6畳ほどのタタミの部屋が一部屋あるだけだ。昔ながらの漆喰壁で、ざらざらとした手触りに思わず手を引っ込める。洗面所とおぼしきドアは立て付けが悪いのか若干斜めに見えた。
「適当にそのへんに座ってて」
奥に案内した海斗は、座布団を用意したりエアコンをつけたりとテキパキと動いている。飲み物はいるかと聞かれたが、断った。
わたしは言われるがままに座り、あたりを見回した。
こざっぱりとした部屋だ。物もテレビやちゃぶ台などの最小限、襖の向こうは収納だろうか。
南向きの窓からは本来なら日が差してるはずだろうが、真正面のビルに阻まれ一筋二筋ほどしか日の光は入ってこない。外観や内部の様子からして、築何十年も経過してそうだ。
「あの」
「なに?」
タオルを持ってきた海斗は、わたしの方に放り投げながら返事を返した。これで汗を拭けということらしい。たしかに、髪が首にピッタリとくっついている。思えば居酒屋からここまで歩けない距離ではないが結構距離があった。
汗を拭うと、わたしはずっと聞きたかったことを口にした。
「わたしが施設職員だって、よく覚えてましたね。趣味じゃないのに」
「あー……ババアがよく職員さんの話するからな。あの人は手先が器用だ、とかあの人はちょっと雑でいかん、とか」
ぽりぽりと頭をかく海斗。わたしの嫌味は通じなかったらしい。予想外にも真面目に答えた彼に苦笑しつつも、わたしは聞いた。
「キヌさんが? わたしのことも?」
「ああ、いつも丁寧な対応でいいってよ。嫁にするならあんな子がいいねとか言われた。あ、ババアの冗談だから、本気にすんなよ?」
「……当たり前です」
笑う海斗から視線をそらした。
とはいえ、利用者からそう思われていることは嬉しい。気取られないよう、むずかしい顔を作って不機嫌なフリをする。
その後も他愛のない話をぽつぽつとした。海斗はやはり年下で、20歳の建設作業員だという。通りで日焼けしているはずだ。ガタイがいいのも納得できる。
「じゃあ俺の方が敬語使わないとっすね」と敬語になってない敬語を使い出したのでやんわりと止めておいた。ここまできて急に敬語を使われるのも変な話だ。
「……で、なんで家に帰りたくないんだ?」
ひとしきり話したところで、海斗は切り出した。多分、彼が一番聞きたかったことだろう。
わたしは視線をふせた。
「……あまり聞いても楽しい話ではない、と思います」
「別に千秋サン、俺に聞かれたからって話さなきゃいけないわけじゃないぞ。俺は聞きたいから聞いただけ。千秋サンも言いたくなきゃ言わなきゃいいだけだ」
「……」
「違うか?」
海斗は首をこきり、と鳴らした。
彼の言う通り、話すも話さないもわたしの自由だ。介護士と利用者家族という立場もある。
ただ助けてくれた恩と、まっすぐにぶつかってくる彼にどこか報いたい、聞いてほしい気持ちもまた、ある。
しかし、どう話したらいいものか……。
「……わかりました。海斗さんは未来視って信じますか?」
しばらく考えたのち、わたしはこう切り出した。
婚約者に浮気されていること。
浮気相手は友人でお腹に子供がいること。
それを一ヶ月後に言い渡され、婚約も解消されること。
流石にそれらを実際に経験し、二人に手をかけ転生したことは言わない。
未来視だけでも突拍子のない話なのだ。これ以上常人が理解できない要素を組み込むべきではない。当人ですら理解しきれてないのだから。
わたしの怪しげな話を黙って聞いていた海斗は、「千秋サンは……未来視が本当だとして、どうしたいんすか?」とつぶやくように言った。
「……え? 信じたんですか? 今の話」
思わず間の抜けた声で返す。まさかこんな胡散臭い話で真面目に返されるとは思ってもみなかった。
「いや、ぶっちゃけ未来視なんてよくわからないし信じられねーけど……結婚目前の彼氏が浮気に走って相手妊娠させるって話だけならなくはないっつーか、あるあるな話じゃん?」
「あるある……なの?」
「そんなよくある話じゃねーとは思うけどさ」
海斗は言いにくそうに口をもごもごさせる。
たしかに、未来視も抜きにしてみれば可能性としてある話ではある。
しまった、変に未来視なんて言うんじゃなかった、と今更ながら恥ずかしくなってきた。これじゃ痛々しい変な人じゃないか。
上目遣いにこちらを見てくる海斗は、気まずそうではあるものの気遣うように押し黙っている。先ほどまでのからかうような素振りはない。
普通、こんな荒唐無稽な話を初対面も同然な相手からされたら敬遠するだろう。わたしが逆の立場ならそうする。
対して海斗は、ただただわたしの言葉を待っている。
祖母であるキヌが好意的な感想を漏らしたからだろうか。キヌへの信頼が、彼にそうさせているのだろうか。
だとしたら少し、羨ましい。
わたしは座り直すと、ゆっくりと口を開いた。
「……正直言って、別れたいのか別れたくないのかも考えられないです。ずっと、考えてはいるけど……ただずっとそこにあると当たり前に思っていたものがなくなるのに、耐えられないだけなのかもしれない。ひとつだけ……確実に言えるのはあんな未来は嫌。それだけは、はっきり思ってます」
言い切ったわたしを海斗はじっと見つめてくる。
懐かしむような、悲しむような視線が向けられ、わたしは眉をひそめた。どうしてそんなに他人の色恋沙汰に感情移入ができるのだろうか。
「復縁、しなくていいんすか? 今ならまだ、なんとかなるんじゃないんすか?」
「……どうだろう。そりゃ愛されたいし、相手に取られてたまるかって思ってたけど、そんなの無理だと思う」
「なんで?」
海斗の茶色がかった瞳がわたしを見据える。
明日香の今日の様子から、確実に妊娠している。妊娠していることを知っている。1ヶ月後に6ヶ月ということは、現在5ヶ月ということだ。
5ヶ月──すなわち、人工妊娠中絶が可能な時期。
明日香が智樹に妊娠を告げたのがいつだかは分からない。もしかしたら中絶可能な時期が過ぎるまで気づかなかったのかもしれない、なんてことも考えた。
だがもし、妊娠の事実を知ってて中絶不可能な段階になるまで黙っていたとしたら──想定する中で一番最悪な想像が胸をかすめた。
むやみに疑うのは良くない、だが疑惑はある。疑惑は疑惑であってくれ、という願いはつい数時間前にあっさりと打ち砕かれ、憎悪が増す結果にしかならなかったのだが。
そうなると、智樹は拒否権もなく明日香との結婚を決める形になるのではないか。彼は彼女の罠に嵌っただけではないのか。
でも……。
妙に食い下がる海斗に若干の違和感を感じつつも、わたしは続けた。
「……わたしにとって智樹はもう、多分、好きとかそういうものではなかったのかもしれない。それは智樹にとっても、そうだったんだと思う」
自嘲気味に笑い、肩をすくめた。
5年付き合った年月の積み重ねは確かにある。愛おしいと思ったことも、これから先もずっと一緒に歩むのだと思ったことも忘れてはいない。
しかし、相手といることが当たり前で、当たり前すぎてもう、ふたりをつなぐものが愛や恋ではなくなってしまったのだろう。それでも一緒にいるのは、お互い5年という長さを理解しているからだ。
かけた時間を、年月を、手間を、労力を、無駄にしたくない。その一心で相手に執着しあってるだけだ。
浮気や明日香の妊娠がなくても、いずれ壊れていた関係だと今なら分かる。そうでなければ、話し合いの場であんなにわたしを拒絶し、明日香を労らない。あそこまで早く切り替えられない。
ほころびを取り繕うのに必死でわかっていなかっただけで、とっくにわたしたちは終わっていたのだ。
──執着してたのはわたしだけかもしれない。
わたしの答えに納得できなかったのか、海斗は首をひねる。
「……? 浮気されてるって分かって、やけ酒飲むくらいには好きなんだろ?」
「……うまく言えないんだけど、相手から好き、と言われたから付き合った、みたいな……」
「好きだと思い込もうとした、ってこと?」
海斗の言葉にわたしは首を曖昧に振った。
「というより……誰かに好きだと言われる自分が、価値あるものだと思い込もうとしたんだと思う。だから、捨てられたら自分から価値がなくなってしまうように思えて怒るし、相手の幸せが願えない、許せない、のかも」
「……」
執着するということは自分からは捨てられないということだ。
それが他人からいかに無価値だと言われても、自分には価値があると判断すれば捨てるのが惜しくなる。むしろ捨てるという発想すら湧かない。
だからこそ、智樹に捨てられると思った瞬間に抑え切れないほどの怒りと悲しみ、憎しみが湧き起こったのだ。
智樹に『お前との5年間は無価値だ、無駄だった』と突きつけられたと、少なくとも転生前のわたしは感じた。他人に愛される自分という、ぼやけた価値観にすがっていた自分の落ち度を棚に上げて。
恥ずかしいにも程がある。記憶を維持したまま巻き戻って、こうして誰かに聞いてもらって、やっと気づけるなんて。
沈痛な面持ちで黙ってしまった海斗に、わたしは続けた。
「友達に子供ができるって本来、喜ばしいことだものね。友達と、好きな人ならなおさら。それを祝えないのは……わたしがやっぱりおかしいから」
「おかしくない」
強く、はっきりと言い放った彼に、わたしは数度またたいた。
彼はもう一度ゆっくりと、「おかしく、ない」とつぶやく。まるでわたしではなく、誰かに言い聞かせるかのようだ。
「どうしたの?」
「……なんでもない。俺にできることなんてないっすけど、千秋サンが何選んでも、俺は味方です」
強い語気とともに、まっすぐな視線を向けられる。居酒屋で男たちに向けた威嚇ではなく、どこか悲痛で、熱のこもった視線だった。
「どうして……そこまで言ってくれるの?」
「似てるんすよ」
誰に、とはとても問えなかった。視線を外した海斗の横顔が辛そうだったから。
次回は明日の昼ごろ更新です