3.巻き戻り1日目-2
◇◇◇
ぽたぽたとしたたる水滴。
湿った呼吸とともにか細く「なん……で……?」と明日香は口にした。
怒号にも似た悲鳴を上げる智樹。
ああ、うるさい。
ゆっくりと視線を向けたわたしに、真っ青の彼は逃げようと尻餅をつく。崩れ落ちた明日香に駆け寄ることもせず、ただじりじりと声にならない声を上げながらあとずさるだけだ。
情けない。こんな男。
見下ろし、彼に近づくにつれ、わたしの中で彼に対する熱が急速に冷めて行くのを感じた。同時に、妙な高揚感と多幸感が押し寄せる。
今、わたしの手にこの人の全てがかかっている。
「ひっ…………!」
わたしから目を逸らせない彼は、喉の奥から悲鳴を漏らす。なにをそんなに恐れるというのか。明日香の元にすぐに行けるというのに。
カタカタと震え出す彼に、わたしは腕を振り上げ、突き立てる──血濡れた包丁を手にした腕を。
「……ゅる……さ……ぃ……」
熱を帯びた液体が首から止めどなく流れる中、彼はようやくつぶやいた。その言葉が意味ある言葉だと気付くまでに少々時間が必要だった。
「許さない」という彼の精一杯の呪いだと分かったわたしは声を上げて笑った。心底おかしい。彼に言われるとは思ってもなかった言葉だから。
「許さなくていいよ。わたしも、許さないから」
ひとしきり笑ったわたしは、もう一度智樹を見下ろす。好きだった力ある瞳からは輝きが失われ、くたり、と壁にもたれるような体勢のまま動かない。人形のように動かない。人形というよりもしぼんだ風船みたいだ。
しぼんだ、赤い、風船。
心からの笑いはいつしかなりを潜め、突如として深い後悔に襲われた。
わたしが愛した人は死んでしまったのだ。わたしが殺したのだ。友もわたしが手をくだしたのだ。わたしが──。
包丁が落ちる。からん、と音を立てて。
どうすればこんなことをせずに済んだのか分からない。できることならこんなことは起きてほしくなかった。
自分が起こした出来事を受け入れられない。誰か別の人間がやったこと、そうであってほしい。どうして、なんで。
胸が軋む。軋んで、ちぎれて、粉々になってしまいそうになる。少し前まで高笑いを上げていた自分が嘘のようだ。何一つ、楽しくも面白くもない。
震える手でもう一度包丁を持つ。ひどく生ぬるく、ぬめぬめとして気持ち悪い。
しかしそれ以上にわたしはわたしが気持ち悪くて仕方がない。
これは夢だ。夢であって欲しい。そうだ、これは誰かが見てる夢で、そこからわたしは目を覚ますんだ。
逃れたい、その一心でわたしはそれを胸に突き立てた──。
◇◇◇
「カナ、ちょっと変わった? いつもと雰囲気違うから最初誰だか分からなかったよ」
無邪気に笑う明日香をよそに、わたしは対面の椅子に腰掛けた。
雰囲気が違うのは当たり前だ。普段はデニムにTシャツといったラフな格好で明日香に会ってたのだ。
それよりも顔がひきつってないだろうか。
わたしの気など全く感知しない様子で、明日香は肩までの黒髪を耳にかけた。シルバーの大きめのイヤリングが揺れる。
オフショルダーの服から覗く肩が白くて眩しい。パンツスタイルで甘さを緩和しているが、露出したデコルテがあざとく感じられる。日差しのあるオープンテラス席に座っているから尚更だ。わたしはメニュー表に視線を這わせた。
ダメだ。どうにも全てを悪く受け取ってしまう。彼女はただいつも通りの格好のまま座っているだけだ。あの時のようにひたすらに鋭い敵意と強靭な意思を持って、わたしに相対しているわけではない。
店員を呼び、アイスコーヒーをひとつ頼む。明日香はすでに頼んであったオレンジジュースに手を伸ばした。
「で、最近どうなの?」
明日香は毎回この質問をしてくる。具体的に何が『どう』なのか、曖昧にして。
以前までは、カナは智樹との思い出を話した。どこに行った、智樹がこんなことをしておかしかった、智樹と──。
ニコニコしながら聞いてくれる明日香のことが好きだった。彼と喧嘩した時などは、話を聞いてもらうだけで落ち着いた。
彼女は彼女で、所属する劇団がどうとか、劇団員の誰かがかっこいいとか、今度の役はこんなものだ、と生き生きとした顔で語るのが常だった。「今は端役しかもらえない劇団員だけど、いつか絶対売れてやる」と野心たっぷりにいう彼女に憧れていた部分もある。
その野心が、まさか仕事以外にも向いているとは思っても見なかったのだが。
一度だけ、智樹の両親に挨拶して婚約したと伝えた時、彼女は驚いて固まっていたのを覚えている。ただ驚いただけだと笑っていたため特に気にも留めなかった。
アイスコーヒーが運ばれてくる。真っ黒な水面にミルクを垂らすと、シミのようにじわりと黒を侵食して広がっていく。
明日香が智樹と一年前から浮気していたことを知ったのは、殺してしまった当日だった。
今思えば、明日香は何も知らないわたしの近況を聞くことで嘲笑っていたのだと分かる。わたしが浮気に気づいていないか確認するために聞いていたのかもしれない。が、むしろこれだけ何回も聞いてるのだ。こっちに気づいて欲しかったくらいだろう。
どす黒い感情が湧き出てくる。こちらが何も言わないからか、手を替え品を替え聞き出そうとしてくる明日香のキンキンした声が余計に癪に触る。
その声で智樹をたぶらかしたのか。
「どうって、何が?」
遮るように口をついた言葉が思いの外冷たく、アイスコーヒーの氷がからん、と音を立てた。コップの外側に結露した水滴が落ちる。
まさか聞き返されるとは思っていなかったのだろう。「えっと……ほら、仕事とか?」と、明日香は動揺したように視線を揺らした。
明日香は言った。「雰囲気が違う」と。
当たり前だ。何も知らなかった転生前とはもう違う。人を殺めた時点でわたしは変わった。そしてそれは転生してからも変化してる。わたし以外の人間からしたら、「昨日とはちょっと、何か違う」程度の違いにしかならないだろうが。
わたしは知識も教養もあまりないが、少なくとも、以前までのやり口に引っかかるほど馬鹿な女ではない。
わたしは仕事についての当たり障りのない話をして「ちょっと、体調悪いみたい。帰るね」と席を立った。
腹立たしい。これ以上、彼女との会話という作業は無意味だ。最初から分かり切っていたことだ。浮気された女と浮気相手が直接やり合うなんて、こちらが殴られ続け血を流すだけだ。
──だが、ただストレスを溜めに来たわけではない。
「ああ、そういえば」
カバンから財布を取り出す手を止め、わたしは明日香を見下ろした。
「……わたしにこんなこと言われたくないと思うけど、明日香ちょっと太った?」
明日香は固まった。まるでわたしと智樹が婚約したと伝えた時のように、シミひとつない白い顔をもっと白くさせて。
──ああ、この顔はもう、分かっているんだ。
「え、そ、そうかな?」と取り繕うように笑う明日香をただ無言で見下ろす。
正直、明日香は見た目には太ってなどいない。転生前どころか、高校時代から体型は変わらずスレンダーだ。今のようにゆったりとしたオフショルダーのチュニックを着ていても、彼女が折れそうなほど細いということは誰が見ても分かる。
わたしはひとつため息をつくと、「ごめん冗談。忘れて」とその場を去った。
来た道とは反対の道を進む。
やっぱり会わなきゃよかった、今朝断っておけばよかった。
でも確かめなければならなかった。明日香への、自分の殺意が抑えられるのか。1ヶ月後の彼女の言葉は真実だったのか。
しかしそれが嘘だったと理解してしまった。真実だったならマシだったのに。本当だったなら、諦められたのに。
カフェが立ち並ぶ細道から大通りに出る。車がひっきりなしに通り、濃い排ガスに思わずむせた。
このまま暮らせば、1ヶ月後、またあの悪夢がやってくる。絶望に打ちひしがれ、衝動のまま二人と自分を殺すのだ。
それだけは避けたい。避けなければならない。
またあの異世界で暮らすなんてまっぴらだ。
前のような愚かな過ちは流石に起こさないだろう。大人しくしておけばいい。しかしそれでは追放される。追放先で幸せになった妹みたいに上手くやれる自信はなかった。誰も知らない土地で、野垂れ死ぬことだけはしたくない。
人道的な理由で殺したくない、なんて綺麗事は言えない。実際もう人殺しを経験している。異世界でのそれを入れればシリアルキラー並みに数をこなしてる。自分はそんな綺麗な人間ではない。
自分はどうせ、何をやってもうまくいかない。何をしなくともうまくいかない。
気づけば一人、居酒屋にいた。
どこをどう歩いたのか、いつから居酒屋に入ったのか全く覚えていないが、カフェからU駅を挟んで反対側に出たらしい。カフェ側は小綺麗でお洒落な店が並ぶが、反対側はいわゆる飲み屋街だ。もう少し先を歩けばオフィス街が続く。そこまで行けばまだお洒落なバルなどもあっただろうが、今わたしがいるのは店内装飾もゴミゴミしていて、床も粘ついた汚い居酒屋の店の端だ。
お似合いだ。こんな真っ昼間から飲んだくれて。
うつろな目でビールの泡を見つめる。濁った小麦色の中を一粒一粒ゆっくりと気泡が上がるのがじれったい。
振り切るようにビールを飲み干すと、店員におかわりを要求した。少し戸惑い気味に「お客さん、ちょっとこれ以上は」と返され、水をすすめられる。文句が喉元まで出かけたが、食い下がったところで酒は出ない。より困惑させるだけだ。
わたしは「それで」と言うと、テーブルに突っ伏した。
惨めだ。見ず知らずの人に憐れみの視線を送られるなんて。
家には帰りたくない。智樹は仕事中だ。帰っても彼はいない。それでもそのまま帰宅するつもりになれなかった。
帰っても智樹は明日香とのことを聞いてこないことはわかっている。自ら藪蛇に突っ込むようなことは彼はしない。慎重だ。逆に言えば、口に出せばすぐバレると自覚しているのだ。
嘘がつけない彼だからこそ、のほほんと構えていたわたしはぎりぎりまで気づくことができなかったのだが。
「えー、何? どしたの?」
しばらく机に突っ伏していると、頭上から声がした。
顔を上げると見知らぬ男二人がニヤニヤとこちらを見ている。だぼっとした服に明るめの髪色。品定めするように上下する目つき。明らかにナンパ目的だろう。
わたしはあからさまに顔をしかめた。
「ねぇ、ひとり? 名前は? ヒマなら俺らと遊ばない?」
「間に合ってるんで。ヒマでもないし」
「ええーいいじゃん、ひとりなんでしょ?」
軽い誘い文句に冷淡な視線を送る。
いつもならはっきりと断れば大抵手を引いてくれるが、今日はやけにしつこい。泥酔した女ならば力づくでどうにかできると思われたのかもしれない。
店員に助けを求めようにも偶然なのか狙ってたのか、フロアにそれらしき影がない。
「いいから、こっちこいよ」
業を煮やした男の一人が、わたしの腕に手を伸ばす。力に訴えられたら流石にどうにもできない。わたしはせめてもの抵抗に、手にした空のジョッキに力を込めた。
ぱし、と腕を掴まれたのはわたしではなかった。
何が起こったのか一瞬わからなかった。どうやら店の奥から出てきた誰かが男の腕を掴んだようだ。
「俺の連れになんの用?」
智樹よりも低く、ドスのきいた声が響く。声の主は下から視線をすくい上げるように男への睨みを効かせる。酔いが一発で醒めそうなほどの睨みだ。
「な、……なんでもありません。おい、行くぞ」と、男たちはそそくさと去っていく。店から姿が消えるまで、彼は睨み続けていた。
た……すけてくれた……んだよね?
わたしは彼を見上げた。
男性にしては少し長めの金髪に、耳にピアスが多数。顔は整っているが睨みをきかせてるせいか人相が悪い。歳は分からないが、少なくともわたしよりは若そうだ。黒のTシャツからのぞく腕はたくましく、浅黒い。ナンパ男たちより明らかにやばい人に見える。
その彼が、ぎろりとわたしを見下ろしてきた。
「あんたさ……こんなところで何してんだよ」
視線の鋭さはそのままに、声色の刺々しさは和らいでいるように感じる。むしろ若干呆れてるように聞こえた。
口ぶりからして、知り合いだろうか? わたしにはこんなにピアスの穴が空いてる知り合いはいないのだが。少なくとも記憶にない。
とはいえ、ここは感謝を伝えるべきだろう。わたしは立ち上がり、頭を下げた。
「あの……どなたか存じませんが、助けていただきありがとうございます」
「……………は?」
頭を下げて数秒。頭上から降った声は間が抜けたように高かった。
「……お前……俺のこと覚えてねーの?」
あんただのお前だの、呼ばれる筋合いないわよ、と口から出かけた言葉を押し留めた。外見も怖めな向こうがわたしのことを知っているなら、あまり挑発的な言葉は言わないほうがいい。本当に知り合いだったらまずい。
「……ごめんなさい」
頭を上げず、そのままの姿勢で謝る。怒られる、呆れられる、と思いきや意外にも彼は小さく笑い声を漏らした。ちらりと盗み見ると、口元を押さえてくつくつと笑っている。
何がおかしかったのだろう。見た目に反しておおらかなのだろうか。それとも単にわたしが変な人に見えているのだろうか。
思い切って聞いてみようと、口を開きかけたその時。
「………大貫キヌ、って言えば分かるか?」
おおぬききぬ、オオヌキキヌ、おおぬき……と数度反芻した後、反射的に顔を上げた。
──そうだ、この人のことをわたしは知ってる。
「……!? き、キヌさんのところの?!」
「やっと分かったか。そ、キヌの孫の海斗。ババアがいつも世話になってんな、千秋サン」
からりと笑う彼──海斗の口元からいたずらっぽい八重歯がのぞいていた。