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1.舞い戻る元・悪役令嬢

 ◇◇◇


「……忘れません。貴女がいなかったら、私は今の私になれなかったから」


 風鈴の音のように穏やかな、それでいて芯のある声が響く。


 誰かは思い出せない。でもわかる。このひとの言うことは信頼できる。なぜだかわからないけど。


 あたたかで遠慮がちなこの声は、近しいひとなのか、遥か遠い異国のひとなのか。


 柔らかな光の中、誰かもわからない言葉は、魔法のようにわたしの心に染み渡り──。


 ◇◇◇




「……………今日の最下位はごめんなさい、みずがめ座のアナタ。思ってもいない言葉で相手を傷つけてしまいそう。そんなアナタのラッキーアイテムは…………」


 ごめん、とも思ってなさそうな聴き慣れた女子アナウンサーの声。

 占いが終わり、男性アナウンサーがはつらつと、「おはようございます! 今日は7月20日……」と喋り出す。いつも観てる、朝の番組の流れだ。


 口にしたトーストはそのままに、わたしはぼんやりと、きょうは最下位かぁついてないなぁ、とテレビを見つめていた。


「……ナ……カナ? 聞いてる?」


 隣からかけられた聞き慣れた声にはっとしたわたしは、思わずトーストを落としかけた。


 そうだ。わたしは、カナ──千秋(ちあき)カナ。26歳。独身のみずがめ座。


 白い壁、量産型のテレビ、4人がけのダイニングテーブル、2つ並んだ食器──。

 今の今まで自分を忘れていたような、しっくりこないような曖昧な感覚が消え、代わりに周囲の様子が鮮明になって目に飛び込んでくる。


 どうしてわたしは今、ここにいるのだろうか。


 戸惑いつつ、恐る恐る声の方を向くと、見慣れた、それでいて懐かしく()()()()彼と目が合った。


「ご、ごめん、智樹。聞いてなかった、何?」

「いや、カナが朝からぼーっとしてるの珍しいな、って声かけたんだけど」


『今日は7月20日』──男性アナウンサーの声が呼び起こされる。


 不思議そうに見つめてくる隣の彼、降谷智樹(ふるやともき)とこの1LDKのそこそこ広い部屋で同棲を始めて、たしか今日で半年。プロポーズも終え、お互いの親とも挨拶を済ませた、いわば婚約状態の彼氏だ。

 優しく社交的、よく笑い、一緒にいると落ち着ける智樹と、ずっと一緒に添い遂げるつもりだった。


 小首をかしげる彼から顔をそむける。顔が引きつり、変な汗が噴き出すのが分かった。


『今日は7月20日』。それが本当ならば、智樹にこんな思いは悟られてはいけない。


「疲れて、るのかも。私ほら、介護士の二交代勤務だし」


 混乱しつつも、つとめて冷静に彼に伝える。うまく笑えてるか不安だ。

 ほんの少し声がゆれたが、智樹は気付いただろうか。


「ならいいけど、今日だろ? 明日香(あすか)ちゃんとの約束。体調悪いならキャンセルした方がいいんじゃない? せっかくの休みなんだし」


 智樹はさして気付いた様子もなく、むしろ心配そうにのぞき込んでくる。ざわり、と全身の毛と心臓あたりが毛羽立った。


 なんてわざとらしい。わたしはあなたたちのすべてを知ってるのに。


 ほの暗い思いが毛羽立つ胸元からじわじわと這い出てくる。作り笑顔はこわばり、汗のせいか急速に手足が冷たくなるのがわかった。

 サラダの横に置かれたフォークが妙に鋭く、不気味に光る。緩やかな流線形が妙に艶かしく、わたしは魅入られるようにそれを手に取る。


 朝、ふたりきり、誰もいない、相手も油断してる。今ならば誰にも気付かれずやれるかもしれない。


 フォークを持つ手だけが異様に熱い。


 ──だめだ。今はまだ、7月20日なんだ。


 ふ、と幾分か冷静さを取り戻したわたしは、十分に赤く熟れたミニトマトをフォークで刺した。


「そうだね。昼の約束だから、それまで休んで考えるよ。あ、そろそろ出ないと遅刻しない?」

「あ、やっべ」


 テレビに表示された時刻を見た智樹は、残していたサラダをかきこむように食べると、慌ただしく準備をし始めた。

 その様子にわたしはほっと息をつく。


 とりあえず普段通り接していれば、智樹に気取られることはない。彼は鈍感……いや、わたしのことなど見ていないのだから。


 いつもの休日のように玄関まで見送り、慣れた手つきで智樹のネクタイを整える。「この色がいいんだよね」と言う智樹に、誕生日に贈ったえんじ色のネクタイは、色黒の彼には正直少しクドい。


「ありがと、いってきます」


 そう言うと、いつものようにわたしを軽く抱きしめる。出勤前の儀式みたいなものだ。


 以前ならば、彼の気持ちが昨日と変わらぬ証拠だと小さな高揚感を持っていた。が、全てを知ってしまった後からすれば、ただのルーティンをこなしていたに過ぎないとぬくもり以上の醒めた感情が湧き上がってくる。既にかいた変な汗と、昨今の猛暑で噴き出てくる汗が、肌に衣服を張り付かせた。


 その気持ち悪さが表情に出ていたのかもしれない。

 彼は身体を離すと、さっと逃げるように出て行った。


 扉が閉まる乾いた音が響く。


 緊張の糸が切れたらしい。わたしはその場にへなり、と座り込んだ。汗の代わりに変な笑いが浮かぶ。頭にはやはり、「どういうことなの?」と疑問符ばかりが埋め尽くす。


 しかしこうしてはいられない。


 わたしは立ち上がると、リビングに直行した。つけっぱなしのテレビからは相変わらず滑舌のいいアナウンサーの声が聞こえる。


 壁に張り付いたカレンダーは20XX年7月。同棲を始めた年だ。

 テーブルの上のスマホをつける。浮かんだホーム画面には、わたしと智樹の自撮り写真と共に7月20日と書かれていた。


「やっぱり……7月20日…………」


 ちぎれたレタスに刺さったままのフォークが鈍く光る。

 わたしは呆然と呟くことしかできなかった。


 ──1ヶ月後の8月20日、智樹と親友の明日香の二人を殺害し、自死する。


 それが()()()()()()の結末だった。

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