翻訳者後記
本書は、原題「リ・ビシュ・エト・ルムン(翻字)」の第一部、「ルムン・アシム:パン・エト・ウパシュグ(翻字)」の全訳である。現在読んでいる読者の母語に合わせ、直訳すれば、「真の地 大いなる三星」、「玄黄星:三界の世子」となる。この「リ・ビシュ」に「真星界」という訳を充てたのは、「リ」が「星」「大地」「世界」などを包含する語であり、一方で、それのどれか一つを抜き取るのでは、「リ」の持つ意味、及び我々エト・ルムンの人間の感覚を上手く伝えられぬと判断したために、「星界」という造語を作ることとなった。
我々の翻訳作業は、多くの場合、現地の星の知的生命体から、協力者を募り、彼らと共に進められる。しかしこの星では、言語が複数存在するため、最初はどの語での翻訳が適切かの作業から始まった(読者諸君には驚くべき事実かもしれないが、多くの星における、言語分割は三か、四程度が一般的である)。私はこの星に降りる際に、不慮の事故で不時着してしまい、その際に追った傷を癒す必要があったのだが、その折に、「日本」と呼ばれる国の知的生命体に世話になった。これも何かの巡りあわせだろうと思い、この「日本語」での翻訳を進めることとなった。つまり、協力者は、その私を助けてくれた人物である。
話を戻そう。私はその協力者から言語を学ぶために、一か月ほど生活を共にした。言語の翻訳だけであれば、ある程度の情報収集さえ済めば、あとは機械に任せて行えるが、それでは元の物語にあった叙情性が失われるのではないか、ということ、そして現地の星の文化や言語習慣と噛み合わない表現を用いる可能性があるため、このように翻訳者は、現地の星で、調査の一環で生活することになる。つまり、この星で言うところの「文化人類学者」に近い調査を行い、協力者には単なる翻訳協力だけでなく「インフォーマント」としての役割を担ってもらうのである。
さて、この翻訳作業であるが、多くの星で活動した先達同様、やはり多くの苦悩があった。まず単純に、我々の世界と、「地球」と称されるこの星の間にある、文化、社会、及び生物的な差異があったこと。そして我々が用いている言語と現地語の一つ「日本語」の間の文法的差異や、語彙の差異が顕著に多かったことなどが代表的であろう。この苦悩について、注釈の意図も込めていくつか事例を挙げていきたい。
まず、そもそも我々の生態系は、この地球の生態系と全く違うことを述べておかなければならない。例えば、「羊」と本書の中では訳している「アファ」であるが、これは「体毛が利用され、食肉でもある家畜」であるという文化的類似性と、そして「分厚い体毛や蹄」といった、生物学的特徴の類似性から、この訳語を当てただけであり、実際本質的にはこの「羊」と「アファ」は同一の生命体ではない。それは我々とて同じであり、「人間」と称される地球の知的生命体は、我々エト・ルムンの「人間」と同じ種ではない。知的生命体であること、二足歩行であること、身長や寿命の長さなどがある程度近似していることなど、類似点は多いが、重大な差異などもあり、つまり君たちにとって我々は、「エト・ルムン人」というエイリアンである。特に生物学的な性別と、自認する文化的性別の存在は非常に興味深い。何故なら我々にとって、文化的性別と生物学的性別として呼称されるものは、同一のもので、その区分は存在しないからだ。
この差異は、インフォーマントである、私の協力者も頭を悩ませていたので、少しだけ説明しておきたい。我々にも、この星でいう「男=精細胞を持つ者」「女=卵細胞を持つ者」というものは存在する。しかし我々にとってこの「男」と「女」は、二元論的捉え方はされていない。わかりやすい例えとしては座標軸であり、このy軸を「男」、x軸を「女」とする(性染色体を”xy”とこの星では表すので、適切な例えであろう)。そして我々はその「男」と「女」の二値を好きなだけ増やしたり減らしたりすることができる。大半の人間はまるで呼吸するかのように、これを行うことができ、そうして現在自認する性に合わせ身体を変化させることができる。勿論バルーのように、何らかの抑圧や、ある種の身体的(魔力的・神気的)障害により、この性変化を自由に行えない事例もある。
また本書内でも少し触れられていたが、「精細胞を持つ雄」と「卵細胞を持つ雌」の間での性行為による、出産はもう殆ど我々の社会では行われていない。魔術あるいは神気の交配による子供の生産が主であり、「卵細胞と精細胞のやり取り」には、少し儀礼的な意味を与えられなければ滅多に行われない(インフォーマントは、「むしろ逆ではないか」、とひどく混乱していた)。そのためエト・ルムンと地球の生態系は、全く異なり、「人間」「犬」「羊」などと本書で呼称される生命体は、この地球における人間、犬、羊とは全く異なる生命であるということには注意していただきたい。
続いては、言語の翻訳における文化的、文法的差異が問題となった。我々は言語としては主に三つの言語を有する。常用語の『新星界語』、神術に用いられる『神語』、魔術に用いられる『魔術形式言語』である。私は、『日本語』において、外来語をカタカナで音写するという慣習があることを知り、従って、『神語』と『魔術形式言語』は、カタカナで表記することにした。実際、原著でも『神語』には、神語未習得者のために、その意訳が添えられていたため、この三つの言語の訳し分けには苦労しなかった。だが問題は、我々の言語と、日本語の差異である。
代表的な事例は、格変化である。我々は一人称、二人称、三人称、そしてそれらの複数形を有するのだが、三人称には、そちらの言語における「女性形」「男性形」を有さない。それどころか三人称無生、有生さえ区分しない。日本語でいう「彼」「彼女」「それ」は全て我らにとっては同じ三人称なのだ。これはかなり大きな問題を生んだ。というのも先述の通り、我々には、厳密な性別の概念がない。無論「男性」「女性」という語も存在するが、どちらかといえば、それは読者諸君にとっての「雄」「雌」の意味に近い(人間にも問題なく用いられる単語であるが)。更に性別については、前述のような我々の生物学的特徴から、他にも「両性」「中性」「無性」などもあるのだ。
私が翻訳作業を進めている時に、協力者に私の原稿を読ませたところ、人間どころか、無生物に対しても「彼」と表現していることに気づいた。私は「三人称はその単語だろう」と反論したが、「彼女」や「それ」の存在を教えてもらったのだ。そして「その男」や「その女」と今では訳されている箇所も「その人」となっていることに疑問を覚えていた。間違ってはいないが、「その人」という表現が連続することは、言語的な慣習では違和感があるとインフォーマントは言っていた。先ほども言った通り、私が本書の登場人物で「男性(つまり「性の比重が男性に寄っている」)」と断言できるのは「バルー」くらいだったので(多くの人の場合、男性や女性、そして中性、両性、無性といった自認をしていないため)、訳語の適応は最後まで困難な作業となった。最終的には、「男性(女性)の割合が大きい」「どちらかと言えば男性(女性)」という人物区分を作り、無理やり「日本語」の言語慣習に一致させることとなった。従って登場人物で、「女」や「彼」と呼ばれている人物が必ずしも、そちらの世界における「男性」「女性」と一致するわけではないことを留意されたい。一方性割合が完全互角の両性、中性、無性は、極力こうした表現を避けた(これは本来前書きですべき注釈だっただろうが、後記での言及となったことを、この場を借りてお詫びする)。
またこの性別の概念に関係するものとして、「王」と「女王」、「息子」と「娘」、「夫」と「妻」などの、我々の語にない性分化表現も私の頭を悩ませた。我々には男性王女性王を区別する習慣は当然無いし、更には「子供」という単語はあっても「息子」「娘」には別れない。そして「配偶者」という言葉に当たる語しか持っていないのだ。これについて協力者は、「女性が王と呼ばれること、夫や妻という語を用いないことには違和感はないが、息子と娘を全て子供と呼ぶのはやや複雑な印象がある」。と述べていた。特に「王子」については最後まで私と言い争った部分であった(王の子という意味なら男女の指示はないはずだと私が述べると、「文化的には男性に用いられる」と言われ続けたが、結局納得がいかず、本編では王子の語訳を当てた)。
ただ、我々にもやや性別の比重が違う単語は存在していることは確かである。例えば「王」を意味する「マフーム」は、比較的男性的な意図がある。勿論女性にも問題なく使えるが。「王」や「統治者」を意味する語には、他にも、「エプ」、「マーガス」、「ギン」などがあるのだが(どれもほぼ同意語だが、敢えて訳し分けるなら「君主」「統治者」「主人」)、このうち、前者二つには無性的な印象がある一方、「ギン」は少し女性的な意図がある。例えば創世や終局に匹敵する秩序の神である「力の神」は、皆女性の要素が強い七柱の神で構成されている。「ギン」は元々、この神々を表す称号として用いられていたという背景からか、女性的な意図が含まれているのだ。これは、新星界語でも同様で、作中、シスラがバルーのことを「姫」と呼ぶ一節があるが、この「姫」と訳した語は、原著では「ギン」に「子供」を意味する「ファナ」と併せ、「ファナ・ギン(直訳すれば、『子たる主人』)」という語である。事実、作中ヴァラムやタナーシャが反応していた通り、性の意図を含まず、より一般的な「ファナ・マフーム(直訳すれば、『子たる王』)」や「世子」「貴子」を意味する「パン」ではなく、わざわざ「ファナ・ギン」と言われたことで、「女性的」な意図を感じ取ったから、彼らは違和感を覚えたのである。
また神語、魔術形式言語の音写も苦労した。というのも「日本語」は、文字に関しては我々と変わらぬ「表音表意文字」を用いており(後で知ったが、表音表意は現存する語では、地球では事例が少ないらしい。私はこれを聞いて、「なんたる僥倖」と喜んだ覚えがある)、そのため違和感なく語を転写できるかと思いきや、肝心の表音文字であるカタカナの音素の少なさに大変驚かされた。特に一人称所有格「私の~」に値する神語を「~ハ」と音写しているのだが、これは本来の発音とあまりにかけ離れているため、どうにかならないかと試行錯誤していた(発音としては、ヘブライ語などに同一のものが確認できた)。母音、子音共に、日本語にない音声が多く、無理のある表記になっているものも多いことを留意されたい(想像しやすい事例としては、英語のalbumとartのaはどちらも発音が異なるが、これをカタカナで表記する際に「アルバム」と「アート」という、同じ「ア」を用いて表現する。これと同様のことが、本書の音韻転写には多分に含まれている)。
他にも多くの注釈をすべきことが複数存在する。例えば、我々の星の環境、文明崩壊という現象、三星に分裂する前の旧星の末路。我々が何故、こうしてエト・ルムンの伝説を、様々な星で翻訳を進めているのか。そして(私の翻訳が上手く行っていれば)、タナーシャたちがどのように今後歩んでいくのか、気になった人もいるだろう。しかしこれについては、また第二部、紅玉星の物語と、第三部、天藍星の物語で関連し、触れるものもあるので、そちらの翻訳作業を待っていただきたい。
ところで、章ごとの冒頭に、旧星で活躍した偉大な英傑たちの物語を引用しているが、これは私による試みで、実は原著には存在しない。それは私が、これらの古代の英傑たちの物語と、現代の英雄であるヴァラムたちの歩みに、重なる部分があったと感じたからである。
そして最後に、私は黄金王ヘイオスの物語、『黄金王伝』の第九章の一部を抜粋したい。この内容は、ヴァラムたちのこれまでの旅路、そして今後、彼らに待ち受ける冒険や試練と関係するものでもあるからだ。
五人の仲間を全て失った黄金王ヘイオスは、敵に取り囲まれた。ヘイオスもその身に数多の傷を負い、今に倒れてもおかしくはなかった。
「汝らは誤った仲間を作った。黄金王、汝は英雄になれたにも関わらず、間違った道を選んだのだ」
敵はヘイオスにそう語りかける。
「否、我らは決して間違った仲間などではない」
ヘイオスは答える。
「愚かな、汝らは間違った道を選んだから、こうして皆倒れたのだ」
敵は、愚か者を見るように、彼を嘲笑する。だがヘイオスは瀕死にあってなお、不敵に笑って見せた。
「否、汝らこそ、英雄とは何かを知らぬのだ。英雄とは後世の人のために世界を変える者。ユーファンが、神の光を人に与えたように。カドックが神の力で人を守ったように、トナティフが魔の扉を開いたように、タミーナフが魔の智慧を人に与えたように」
「ならば汝は何を残す?」
「我々は、神と魔、人が互いに手を取る強さを伝えるのだ。我々が過ちであるかは、後世の人々が証明してくれる。だが私は確信している。必ず、我らの後に現れる新たな英雄たちは、神も魔も人も、全てを伴う英雄であることを」
敵は皆、ヘイオスの宣言を嘲笑い、彼の言葉を最後まで信じること無く、彼の命を奪った。 英雄ヘイオスの物語は、ここで終わりを迎えたのだ。
『黄金王伝 第九章より一部抜粋』
ヘイオスの言う通り、彼の次の世代にして、旧星最後の英雄ゼットは、神と魔の力、どちらも有する仲間を集め、見事魔王ディシティフを打倒し、三星創造という偉業を成し遂げた。だが皮肉にも、この黄金王の物語は、この悲しい結末から、時折「相反する者同士が手を取ることは好ましくない結果になる」という教訓に用いられることがある。しかし、読者諸氏は、このヴァラムたちの物語を目にしても、まだそう思うだろうか?
「大いなる三星」の一つ、「玄黄星」の現代の英雄たちの物語は一旦の終わりを迎えた。勿論、彼らの旅はまだ終わっていない。まだまだ、魔人アムゥを上回る、多くの試練が待ち受けている。だがこの極彩色の人の星、「玄黄星」の英雄たちは、ゼットやヘイオスのように、様々な人々と手を取りあい、この難関へと果敢に挑んでいく。第一部として銘打たれた、これまでの物語に勝るとも劣らぬ偉業を更に彼らは成し遂げていくのだ。
だが、忘れてはならない。まだこの宇宙の中心には、赤き魔の星、「紅玉星」と、蒼き神の星、「天藍星」が残っている。 ヴァラムらの時代は、まさに現代の英雄の時代である。 すなわち、まだ語るべき現代の英雄たちが数多くいるのだ。魔人アムゥが失墜し、星を繋ぐ門も、タナーシャの就任演説から数週間後に開通する。つまりここから、本格的に「大いなる三星」の物語が始まっていく。更に多くの人々が登場し、そして「玄黄星」とは全く環境や社会の異なる二つの星が舞台となる。エト・ルムンに暮らす人には、この「玄黄星」の物語が、一つの星の中で完結しているため、他の二つの星の物語と比べるとやや地味で、小規模といった印象を抱く人も多い。
しかし、ヴァラム、バルー、タナーシャ、そして彼らと関わった多くの人々が成し遂げたことは、他の二星にも多大な影響を与えている。従って、彼らの伝承を語らずに、「エト・ルムン」の物語が始まることは決してないのだ。




