代償 第三節
「はっはっはぁっはぁ、はぁ」
ヴァラムは息を切らしながら、必死の逃亡を続けていた。力を三割解放する、そう宣言したアムゥは、ひたすらにヴァラムのみを執拗に追いかけまわした。その間、タナーシャとバルーが、ヴァラムを守り、アムゥの道を阻むが、彼はそんなものを全く気にも留めなかった。軽く振り払っては、ヴァラムの追跡の繰り返しを続けた。
「馬鹿に、しやがって!!」
そんな自分を無視するかのような戦い方に、バルーは業を煮やして、髪の毛を炎のように逆立て、光らせながら、「竜の尾」を冠した炎の剣を、アムゥの背後から全力で切りつけた。
だが彼に寸前で躱され、その力んだ攻撃を利用されて、軽く転ばされる。そして無防備な脇腹を、アムゥに乱雑に蹴り飛ばされ、彼は床に体を激しく擦りながら、壁際まで転がっていく。更に成りそこないの神の槍を携え、タナーシャもヴァラムの窮地に駆け付ける。
「お前は、弱い」
彼女の振るった刃無き槍の穂先は、アムゥの後頭部を強く打ち付けるものの、彼は一切動じていなかった。タナーシャを嘲るかのような反応に、彼女も流石に怒りを覚え、槍を握る手が強くなるものの、アムゥにその槍を握られた後、軽く持ち上げられ、そして激しく地面に叩きつけられる。
「おの、れ」
タナーシャが意識を朦朧とさせながらも、悪態をつく。しかしそんな彼女をやはり無視して、アムゥは再びヴァラムへと視線を戻す。バルーはすぐに態勢を立て直そうとするが、蹴られた脇腹が痛み、上手く呼吸が整わない。タナーシャも頭を強く打ち付け、意識はなんとか繋いでいたものの、霧がかかったかのように思考が定まらない。ヴァラムの窮地に、すぐさま駆け付けられる友は、もういなかった。
アムゥは一瞬で距離を詰め、ヴァラムが避けられぬように素早く、それでいて確実に仕留められる程度の威力を秘めた拳を、彼の腹に振るった。
だが、その拳が捕らえたのは、ヴァラムの身体ではなく、彼が身に纏っていた、機械翼の胴体であった。ヴァラムはまるでその攻撃を予想していたように、重力装置を最大に稼働させ、自分の身体を一瞬で上空に浮かせることで、その攻撃を避けていた。だがそれでは終わらない。ヴァラムはあらかじめ、その翼に、特定の進路を取って飛行するよう、命令していた。激しい火花をあげながらも、未だ腕を深々と刺していたアムゥごと、上方向に飛翔し始める。突然の出来事に、アムゥも上手く対処できなかったのか、彼はその翼と共に、皇居の天井を突き破って、遥か上空まで飛行を続けた。一定の距離を飛行した後、翼はもう一つ、事前の命令を実行した。搭載した全魔力を全て消費し、再び最大の重力魔術を起動する。それは先程のような重力反転ではなく、巨大な重力の渦を作り出していく。機械翼が、音を立てて、その重力の渦により、潰れていく。だがそれと共に、アムゥの身体も奇妙な方向へ捻じれていった。最後に機械翼は、大きな音を立てながら、激しい爆発によってアムゥ共々飛散した。
天井に大きく空いた穴から、機械翼だったものが少しずつ落ちてくる。しかし、しばらくすると煙の中、更に大きなモノも降ってきた。それは、あの超重力の中で、一切その体に損傷を負わず、表情も一切変えなかった、アムゥであった。
「無駄なことを」
当然といえば当然の結果だ。例え三割程度であっても、今のアムゥの魔力量は、タナーシャの神術を弾き、バルーの魔術を防ぐほど。いかに持たざる者を戦場に立たせることを可能にさせる機械装甲の全力の攻撃であっても、彼を傷つけることなど不可能なのだ。しかも当のヴァラムは唯一の戦いの手段を失った。アムゥの視点では、それは全く無駄な攻防であった。
しかし少しずつ煙が晴れ、視界が明瞭になると、そこには、人が一人、すっぽり入る程度の大きさの棺にも似た柱が、ヴァラムの隣に立っていた。
「無駄じゃないさ。今のは時間稼ぎ、兼、これを持ってくるための大穴を開けるためだったからな」
そう言うと、ヴァラムは、その柱に空いた二つの穴に、腕を突っ込む。すると穴から小さな無数の粒子が出てきて、彼の腕伝いに彼の身体を覆っていく。そして瞬きもしない間に、その粒子は、薄い灰色の分厚い外套のようなものを形成していく。その外套は目立つ大きな立ち襟を持ち、それは鼻先まで覆うほどであった。そして更にその上から頭巾を深々と被り、結果、ヴァラムの顔が一切見えなくなっていた。よく見ると、その外套の背後には、背負い鞄のような、推進器も備わっていたが、今までヴァラムが用いていた機械翼と比べると、一回り以上小ぶりな飛翔装置であった。
更にアムゥの興味を引いたのは、最後、ヴァラムがその柱から手を離すと、両手の甲に備えられていた、小さな銃であった。実際掌に収まる程度の小ささで、例え二つあったとしても、この星の命運をかける戦いの場には、あまりに不釣り合いな兵器であった。
重厚な装甲もなく、大掛かりな火砲もない。空を素早く飛び回る翼も、巨大な推進器もない。だがこれこそ、ヴァラムがここ数週間、考案を続け、辿り着いた最新の魔力機械である。
アムゥはそれを一目見て、それが脅威であるようには全く思えなかった。だが、この土壇場で、出来損ないの機械を持ち出すほど、ヴァラムを愚かだとも思えなかった。だがどれだけ考えても、この場を凌ぎ切れるような、優れた装甲服であるとも彼は微塵も感じなかった。
従って、アムゥは、ただひたすら、最短最速の動作で、ヴァラムの命を取りに行った。普段のヴァラムの反射神経であれば、決して反応できない速度、そして同時に、決して防げぬ威力を秘めた一撃。だが、振りぬいた拳は、ヴァラムの肉を貫通することはなかった。赤い光が、アムゥの拳を阻んでいた。そして、その困惑隠せぬアムゥの顔面に向けて、ヴァラムはその右手に小銃を持ちながら、お返しと言わんばかりに殴り返した。当然握りこぶしがアムゥに届く前に、小銃の銃口部分がアムゥに触れるわけだが、その瞬間、銃口より激しい力が放出され、アムゥはそれにより後方へと吹き飛ばされる。
大した衝撃ではなく、傷害も無いに等しかったが、アムゥの質量を吹き飛ばすのに十分な威力であった。アムゥは一瞬中空に体を投げ出されるが、魔力を動かして、その状態で体勢を制御、そのまますとんと、地面に降り立った。だが優美な着地を邪魔するかのように、再びアムゥの身体に強い衝撃が与えられる。先ほどと同じくヴァラムが小銃を以て、アムゥを殴打したことによって生じたものだったが、驚くことに、今のアムゥですら、ヴァラムが急速に接近する様子を視認できていなかった。
勿論油断と驚嘆も多分に原因である。しかし巨獣が羽虫に後れを取るはずもない。つまり確かに今、ヴァラムの力と技術は、アムゥに通用することが証明されたのだ。バルーとタナーシャを悠々とあしらうほどの魔人の水準に、無名の孤児が開発した機械が達したのだ。
アムゥはすぐさま、ヴァラムの機械の性能を推測し始めた。膨大な記録と知識を用いた機械的計算にさえ匹敵する思索能力を、彼は最大限稼働する。
彼はまず、ヴァラムの装甲服の性能を理解した。装甲服と言えど、その材料は極限まで軽量化しつつ、ある程度の硬度を保てる水準を満たしたもの。つまり装甲自体は大したものではない。アムゥの拳を防いだのは、魔力障壁。周囲の力と物質の変動を感じ取り、自動的に障壁を『部分的に』展開する。それがあの装甲服の機能であろう。
背中に備えられた推進器についても、ほぼ完全な結論が得られた。あの推進器自体も、大した性能ではない。いや、あれほど小型に纏めながら、これほどの速度を得られるのは、アムゥでさえ見事な発明と技術と賞賛せねばなるまい。しかし単純な出力であれば、先ほどまで使っていた旧型の翼には全く適っていない。
この速度を生み出しているのは、推進器だけの力ではない。彼の手の甲に備えられた二丁の拳銃。あれらは、実際は弾丸を打ち出す小銃ではなく、重力を操作するための装置であろう。極限まで軽量化に成功した装甲服と推進器によって、それら飛行装置の重量の軽減に重力操作を行う必要がなくなった。彼の小銃は、重力操作だけでなく、運動力の変動まで行っており、結果、『ある方向にかかる力』を『増減』させることが可能になった。突然の急加速は、小銃の能力によって、飛行装置の性能を向上させることで生じている。小銃を使った殴打があれほどの威力を秘めていたのも、飛行装置による加速と、装甲服による運動補助に、運動力の増幅を全て掛け合わせた結果であろう。
ここまでがアムゥの出した推論である。それはほぼ全てが正解である。彼は見事、このわずかな攻防で、ヴァラムの飛行装置、装甲服、そして小銃全ての性能を事細かに分析し、およそ九割の性能を精確に当てていた。そして同時に、これらの機能から、平たく言えば、彼はその装甲服が「宇宙服」であることに気づいていた。であれば、最後の一割の機能が何であるかも、ある程度予想がつく。というのも本当に宇宙服であるなら、あと一つ、二つほど必要な要素があるからだ。
だが、その追加の推理はやや手遅れだった。タナーシャとバルーとの戦い、先程のヴァラムの飛翔装置の自爆攻撃、それによって玉座の間は、天井、壁、床、あちこちが激しく損傷していた。そして当然、それらの断片には、夥しいほど貼り付けていた黒泥も未だへばりついていた。
それらの泥は、アムゥの管理下から完全に外れており、言い換えれば「小さな固形魔力」があちこちに飛散しているという状況だった。
ヴァラムは激しく飛行を続けながら、時折、そうした断片を拾い上げては、強く握りしめていた。そしてすぐに手放すが、よく見ると、それら断片にはもう黒い泥が付着していなかったのだ。
彼の装甲服にも、当然魔力吸収の機能は付与されていた。それも装甲服であれば、どこからでも液体魔力、固形魔力を燃料化できる代物である。そして、今までの戦いで、アムゥの身体から離れた黒泥は、固形魔力、あるいは魔力瘴気に値する状態にあることを、ヴァラムは知っており、従って、今のこの玉座の間は、ヴァラムがある程度であれば魔力の供給に困らない極めて好都合な状況であったのだ。
ヴァラムは、高速移動を続けながら、時折重力操作で攻撃、撹乱を繰り返す。アムゥの反撃は、その速度と、自動障壁を活かしたヴァラムを完璧に捉えることはなかった。だが決してその均衡は、互角な力関係を示すものではない。
ヴァラムの攻撃は、確かにアムゥを怯ませるに足りるものである。しかし、その威力は、決してアムゥの身体を傷つけることはない。また、その魔力障壁も、何度もアムゥの攻撃を防げるほどの盾ではない。更に、その速度もやや虚を突いた状態だからこそ優位であったに過ぎず、少しずつアムゥの目も彼の動きに慣れてきていた。
だが、最初からヴァラムも、その程度のことは理解していた。自分の装甲服は所詮こけおどしの姑息な手段に過ぎない。彼はどれだけ自身を最新へ更新し続けていても、自身の役目は変わらないと考えていた。バルーとタナーシャ、その二人を補助することこそが、彼の役目であると。
油断は無かった。全力を賭し、死力を尽くした。だが、ヴァラムの腹部を、無慈悲にもアムゥの拳が捉える。宇宙の高速の飛来物を想定した自動防御は、十全に機能していたにも関わらず、彼の身体はその衝撃で後方に飛ぶ。そして、アムゥは追い打ちをかけ、ヴァラムの脳天を目掛け、足を断頭台の如く振り下ろす。先の攻撃で、性能が減退していたものの、未だ機能していた障壁、そして両腕を交差し、頭を守るが、その威力は凄まじく、ヴァラムの身体は地面に叩きつけられた。床に入った大きなヒビからも、その破壊力は伺える。
辛うじて、ヴァラムの意識は残っていた。しかし止めを刺さんと、振りかぶっていたアムゥの拳を防ぐことも、避けることもできないほどに、思考も運動機能も鈍化していた。
アムゥの攻撃が、ヴァラムを仕留める前に、彼の身体を、何者かが突き飛ばした。炎を撒き散らしながら、バルーが友の窮地を救ったのだ。
「おのれ……」
思わず漏れる悪態は、アムゥの余裕の無さを表していた。バルーの竜の力は、今のアムゥにとって、最も油断ならぬもの。彼が今、アムゥの身体に突き立てている竜の尾を模した大剣は、少しずつアムゥの身体を焦がしていた。今まで殆ど傷害を負っていなかったが、ここにきて彼は焦りを覚えざるを得なかった。身体を捩る。腕を振り回す。だが刃は彼の身体から抜けること無く、そしてバルーの炎の勢いもやまず、そのまま玉座の間の壁に、勢いよく叩きつけられる。しかし、未だバルーは、その足裏から噴出させる炎を止めず、そのまま壁に磔の状態で、アムゥの身体に完全に刃を突き通そうと試みていた。アムゥもそれに気づいていたが、空中戦の主導権を握られた状態では、刃を自分の身体から抜くことも、バルーを退けることも難しい。
するとアムゥは右腕に力を籠め、思い切り壁を叩いた。彼の無理な姿勢と、皇居の頑丈な壁もあって、彼の拳はその壁を崩落させるには至らなかった。しかし壁が歪んで角度が変わったことで、バルーの炎の推進がずれた。未だ刃はアムゥを捉えて離さなかったものの、二人は先程の静止した状況から一変、まるで制御を失った砲弾のように、空中のあちこちを暴れまわっていた。壁、床、天井と、次々にアムゥは体を打ち付けられるが、バルーもまた、暴れるアムゥのせいで、上手くその飛空を制することができなかった。
乱雑な飛行が、アムゥの傷口も少しずつ広げていったが、そのせいで、しっかりと突き立っていた炎の刃もまたグラグラと揺らぎ始める。力が大きくぶれた時を見計らい、アムゥはその炎の刃の腹を、思い切り拳で薙ぎ払った。すると、少しのアムゥの肉片と共に、刃が離れ、アムゥはそのまま大地に降り立った。だが、同時に彼の背後から、再び意識を取り戻したタナーシャがその槍を振るう。アムゥにとって、今のタナーシャの力はバルーほどの脅威ではなく、例え直撃を浴びても先ほどのように一切怯むことはなかったはずだった。しかしアムゥの想定は裏切られ、タナーシャの一撃は、確かにアムゥに痛みを与えた。それは決して無視しきれるものではなく、更にその力でアムゥの身体が浮き上がった。
これは決してアムゥの衰弱がもたらした結果ではない。明らかにタナーシャの力が上昇していたのだ。本来であれば、アムゥは焦燥に駆られるべきなのだろうが、何故か彼は腹部の痛みにも関わらず笑みをこぼしていた。
その異変に、他ならぬタナーシャ自身も気付いていた。この力の由来が何であるかも。
タナーシャの隣にバルー、そしてヴァラムも立ち上がって並んだ。
「アムゥ、一つ、聞きたいことがある」
趨勢が僅かに拮抗してきたことを悟り、バルーがアムゥに話しかけた。
「皇族の三人、彼らを助けることは可能か?」
それを聞いたアムゥは、未だ痛みの残る腹を抑えながら、突然今まで聞いたことの無いような笑い声をあげ始めた。
「……何がおかしい?」
老爺のしわがれた喉奥からひねり出された笑い声は、耳障りな裏返りを繰り返し、それは三人へと不愉快さを与えるほどであった。
「おかしいさ。皇族を助ける!?何から助けるんだ?」
「それは、お前の支配からだ。物見の塔で僕たちは見ているんだ。お前は彼らに力を与えるが、同時に命を奪っている。だがお前ならば、奪った命を返すことも可能なはずだろう。手遅れになる前に、彼らを解放しろ」
「つくづく、つくづくおめでたい奴らだ。何故私が、アースのような選ばれた戦士のみで、七番隊を構成していると?」
その問いの答えを、三人は当然知っていた。だが問題は、その問いかけが意味することである。三人はそれを理解しきれず、言い知れぬ不安に口ごもる。
「何故物見の塔の誓約者たちにしか、私の黒土を与えなかったのか?考えろ!いやお前らは知っているはずだ。優れた魔力の持ち主だけが、黒土を上手く使いこなせる。間抜けどもに与えたところで、持ち腐れにしかならん。”過剰償却”?笑わせるわ。文無しの貧者に、一体どこの金融業者が金を貸す?」
「一体何を言って……」
「まだわからんか。物見の塔の誓約者、七番隊、彼らの命は確かに私の黒土が奪った。だが皇族どもは違う。奴らには、私の駒になる資格さえなかった。だから彼らにも誓約者になってもらった。勿論物見の塔の連中と異なり、元々の魔術の才能さえ無い奴らだ。自由意志程度の代価ではとても足りない」
ここで、バルーはアムゥが言っていることを、はっきりと理解することができた。
「まさか、彼らに魂を捧げさせ、一級の魔術師に比肩する魔力を持たせたのか?」
「いかにも。いやはや、彼らを見た時に気が付いていたと思ったが。意外と頭が悪いんだな、お前たち」
「それじゃ、今踏ん張っているアース達は……」
「全く、我が部下ながら愚かだ。救える命などないのに、守るべき貴人などいないのに。無駄な労力を費やしているとは」
アムゥはそう言って再び嘲るような高笑いをあげた。
ヤムニーヴァを交え、アースら聖騎士隊長が、未だ力を与えられた皇族たちと戦いを繰り広げていた。このまま戦い続ければ、皇族を救えると信じている者、場合によっては、彼らを打倒してでも、自分、あるいは仲間の命を優先しようと思う者。その思惑は少しだけズレてはいたが、しかしこの場で皆が一丸となり全力を尽くしていたことに変わりはなかった。
彼らに、アムゥの嘲笑など聞こえるはずもなく、ひたすらに戦い続けた。徐々に傷が増え、魔力が失われていく聖騎士たちに対して、魔獣たちはその勢いが一切衰えない。先ほど必死に拵えた拘束さえ、数分で抜け出されてしまった。同様の拘束を再び行うこともできず、大暴れを続ける皇族だったものを、小手先の技だけで何とか凌いでいた。
だが堰を切ったように、その拮抗は一瞬で崩れ去った。
アースが、度重なる高度な魔術の行使により、魔力の急速な欠乏による眩暈を起こしたのだ。とはいえ、彼女は鍛え抜かれ、死線を何度となく潜り抜けてきた戦士だ。集中力が切れるだけでなく、倒れてもおかしくなかったほどの強烈な意識の剥離の中であっても、紡いだ魔術が一瞬揺らぎ、発動がやや遅れた程度に留めたのは、アースの類まれな精神力だからこそ可能だった。しかしその一瞬の遅れが形勢を完全に決すことになった。
アースはこの戦い、魔剣の未所持もあり、基本的には後方支援に徹していたが、経験豊かな彼女の采配は、ある意味でこの死線において最も重要な役目を果たしていた。彼女の動作の一瞬の遅れは、従って決して無視できるような誤差ではなかったのだ。
まずはヤムニーヴァ、続いてユイスナ、そしてシヴィが、魔獣たちの攻撃を浴びる。皆命に関わるような重症は負っていない。しかしすぐさま立ち上がれるような軽傷でもない。前線が一瞬で瓦解し、残るはアースだけになる。彼らはまるで、この場で一番の脅威がアースであることを知っているかのように、倒れた者たちへの追撃ではなく、アースに対して一斉に攻撃を行った。触手、そして彼らの巨躯、それを十分に活かした包囲網は、理性なき獣に似合わず、的確な詰めの一手であった。
避ける?不可能。
防ぐ?不可能。
生き残る?不可能。
これまで精緻な状況判断を務め続けたアースの思考が、無慈悲な答えをすぐさまはじき出してしまう。
だが、アースは不思議なことに、その表情を曇らせることはなかった。諦観にも見える落ち着きようではあったが、しかし彼女の心中は決して、未来を諦めてはいなかった。
それは信仰にも近い。彼女は根拠なく、希望の星が降り注ぐことを期待していた。当然、それは死を目前に混乱しているわけでもない。彼女は、優れた魔術師であるから、論理的思考に長け、状況の把握と筋道を立て問題解決に導くことも得意である。だが一方で、超自然的、超越的な存在の、常人には伺い知れぬ大いなる意志があることを強く信じていた。この世界は全て神の被造物であり、従って過去未来、全てが決定されている、つまり「運命」は存在するという発想を好んでいた。
だからこそ彼女は死を前にして笑うのだ。必ず「救われる」と。奇跡は起きると。
そして、彼女の信心に答えたのか、それともあらかじめ決まっていたことだったのか。
アースが致命的一撃を浴びるその寸前、彼女の前に何か黒いものが落下してきた。そしてアースはまるでそのことを「知っていた」かのように、困惑一つ見せず、それを握りしめた。その黒塊は、まるで櫂のような形状をしていたが、よく見れば刃がついている。それは柄が剣より長いが、剣より刀身は短い、そんな不思議な形状をしていた。
それをアースが手に取った瞬間、剣が強い光を放ち、同時にアースの身体から魔力が迸る。見てくれはどうあれ、その光景が示すことは、その櫂のような剣が、魔剣であるということである。
「<烈火・壊劫の浪>」
先ほどの魔力欠乏など無かったかのように、アースは大魔術の詠唱を平気な顔で唱えきる。剣とアースを中心に、突如強烈な熱波が生じる。それは巨体の魔獣たちを押しとどめるほどに強力で、そして今まで攻撃をいくつも防いできたその魔力の鎧の表面を一瞬で焦がすほどに激しい。更に徐々に熱波は、強烈な炎の壁へとなり、魔獣たちをどんどん後ろへと押し返していく。あまりに高温であったが、その魔獣たちが影となり、その背後にいた聖騎士二人とヤムニーヴァは、その炎に巻かれることは無かった。
「三人とも、離れた方が良いよ!炎はもっと激しくなる!」
突然のアースの復活と魔剣の飛来にきょとんとしていた三人に対し、どこからか、声が聞こえてきた。ユイスナとシヴィはそれに聞き覚えがあったが、すぐには誰の声か思い出せなかった。しかしヤムニーヴァも含め、その声の言う通りにして、魔獣を盾にしながら、アースの繰り出す炎の波の死角へと移動する。だが魔獣たちは、まるで炎の渦に囚われているかのように、自由に身動きがとることができなかった。
その移動を見届けると、アースは更に炎の勢いを強めた。いや、そもそも今までが手加減をしていたのだ。魔獣を止めながら、同時に三人が炎の波に巻き添えにならない程度には弱めるという高度な調整を、アースが行っていたのだ。
炎の波は、大きな津波のように、魔獣たちを遥か後方に押し流していく。炎を直接浴びていないシヴィたちでさえ、その熱気に思わず顔を背けたくなるほどであった。
皇居の天井や壁が、強烈な炎に巻き込まれ崩れていく。魔獣たちとアースの間に十分な距離が開くと、アースは魔術の行使を止めた。
一面を覆っていた魔力の泥さえも、ところどころ熱に犯され、溶岩を思わせるように斑に赤く光っていた。
「いやいや、久々だけどやっぱり魔剣は良いね!良いものを見繕ってくれたじゃないか、ネーナ!」
そう大声でアースが叫ぶと、他の三人も、彼らの頭上、崩落した天井の隙間から、中型の飛空艇が滞空していたことに気づいた。
「どういたしまして、さぁ存分に暴れると良いよ、アース」
先ほどのアースの叫びで、その声の正体に、シヴィとユイスナはようやく辿り着いた。ネーナ、『正義の僕』の顔役は、飛空艇からかつての友の雄姿を見届け、飛空艇を操作していたイパ・ジャスラに、熱波に巻き込まれぬよう高度を上げることを頼む。船はネーナの指示通りに少しずつ高く昇っていった。
その様子を実際に見ていたわけではないが、その推進器の音が遠ざかることで判断したのだろうか、アースは飛空艇が去ったことを理解し、更に魔力を滾らせる。
「はは、さっきのはほんの小手調べだ。さあどんどん盛り上げていこうじゃないか!」
剣から溢れる炎を見て、魔獣たちはまるで「怯えている」かのように、一歩下がる。獣の本能が警戒したのだ。目の前にいる「それ」は、間違いなく「強者」であると。




