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紅血の遺財 第四節

「繰り返します。速報です。<ルペット>が<イタクス>に、『治安維持』の名目で軍を派遣することを決定。これに対し、先月、<イタクス>の独立支持を表明した<ユヴァート>は、対<ルペット>とし、<イタクス>への軍事援助を行うことを決定しました。繰り返します……」

 報道番組は、淡々と、二つの事実を繰り返し続けていた。

「始まっちゃったね」

 その重苦しい報道内容に反して、ララの反応は思った以上にあっさりとしたものだった。

「どうなるんだろ、ねえどうなるの、タファパ、母さん」

「わからない……。もしかしたら……」

 そう言っていると、突然家の扉が勢いよく開け放たれた。

「『母さん』、首都に行ったんじゃ」

「こんな報道聞いて、行けるかって。電車乗る前に帰ってきた」

 そこにいたのは、息を荒げた、イミトゥミルの姿だった。

「イミ……、あなた」

「多分、近いうちに徴兵がかかると思う。ララも私も……」

「そんな、そんな!この国には軍隊はあるじゃない!それに<ユヴァート>の人達も力を貸してくれるって」

「聞いただろ。軍事援助だよ。武器を渡すだけだ。奴らめ、自分で嗾けといて、自分たちは戦う気なんてないんだ」

「ちょっと、イミ、まだそうと決まったわけじゃないでしょ」

 怒りで拳を握りしめるイミトゥミルを、ララは優しく抱きしめる。

「この国がどうなるかわからないのは、今に始まったことじゃない。それは<ルペット>から独立を宣言したときからずっとそうだった。だから今は、家族皆で、出来る限り長く過ごしましょう。ほらおいで、トゥフビ、タファパ」

 ララは左手をイミトゥミルの腰に回したまま、右腕は話して二人の間に空間を作る。そこに、自分の娘と息子を、案内するかのように。

「いいの?」

 申し訳なさげに、タファパは二人に問う。

「当たり前でしょ。貴方も私たちの子なんだから」

 それを聞いて、トゥフビとタファパは、共に二人の母の懐に飛び込んだ。


 後日、イミトゥミルの予想通り、ララとイミトゥミルに、徴兵の連絡が届いた。軍役にある者に限らず、魔力の高い者たち全員への戦役の参加を、<イタクス>の政府は決定した。

「仕方ないさ。私達が前に出ることで、もしかしたら一人でも命を救えるかも」

 戦争に行く準備を進める二人を、トゥフビは泣きながら阻むが、しかしイミトゥミルは優しく諭していた。

「けど、危ないんでしょ!?今戦場は凄いことになってるって!皆言ってるよ!」

 だが、必死の説得もむなしく、ララとイミトゥミルは荷物を詰め終え、もう今にも家を出ようとしていた。

「わかった、それなら私も連れて行って!私も戦える!」

 トゥフビは、玄関扉の前に立ち、そう言って二人を止めた。

「駄目だよ、貴方は、まだ十四、徴兵の年齢を下回ってるじゃない」

「そんなの関係ない!私は強いんだ!だから……」

 目と頬を真っ赤にしながら、叫ぶトゥフビを、ララは優しく抱きしめる。

「なら、この町と森と、そして私たちの息子を、貴方に任せるわ」

「え」

「これから先、戦争の行方はわからない。だから、貴方のその強さで、守ってあげて。貴方は神の子、私達の家系には一人もいなかった、神気を纏う、選ばれし子。ほら、貴方の名前の意味を思い出して。貴方なら私達よりも、きっと多くのモノを守れるはず、トゥフビ、貴方が生まれた時から、ずっと私たちはそう思っていた。だから、タファパを、お願い」

「ずるい、ずるいずるい!そんなの、そんなの言われたら……」

 トゥフビが必死に流れまいと目元に溜めていた涙が、その母の言葉で一気にあふれ出す。と同時に、彼女は膝を力なく折った。

「ごめんね。でも絶対に、絶対に帰ってくるから。その時はまた家族四人で、温かいご飯を食べましょう?ね?」

 それを最後に、ララとイミトゥミルは家を出ていった。

 二人の後ろ姿すら見送れず、ただただトゥフビは床に涙を流していた。そんな三人を、タファパはじっと、静かに見守ることしかできなかった。



「なんて、なんてことをしてくれたんだ!!」

 黒衣の男が、弱々しく立ち上がりながら、バルーの胸ぐらをつかみ、怒りをぶつけていた。

「待ってくれよ。バルーはお前を救ったんだぞ!」

 ヴァラムが彼を引き離そうとするが、一体どこからそんな力が沸き上がるのか、機械腕を装着したヴァラムでさえ、彼を引き離すことができなかった。

「救った!?私とアムゥ様の繋がりを断っておいて、何て言い様だ!」

「繋がり……、待て、お前らは望んでこの状態になってるのか!?」

「そうだよ。ここにいる者は全てそうさ」

「な、なんでだよ。自由を奪われているのに……」

 そう言うヴァラムに対して、今度は黒衣の男が掴みかかってくる。

「自由だと!?私達は誓約者だぞ!!元々そんなもの、魔の理に売り渡しているわ!それをアムゥ様は、誓約者ですらたどり着けぬ境地へと導いてくれたのだ。我々はこの柱を通じて、あらゆる知恵を手に入れた。魔力流図の精度も、遥かに上がった。魔力という深淵に、これほど近づけたのは、千年の物見の塔の歴史の中でも初めてのことだ!」

 どんどん彼の目は血走っていき、声量も上がっていく。

「待て、ここにいる者は、と言ったな。それならこの下の階にいた、数名の誓約者たちはなんだ?」

「ふん、奴らは、アムゥ様のお力に恐れ、逃げようとした者たちの末路だ。だが死してなお、その亡骸は偉大な計画の一部になっている。その寛大さ!貴様らには想像もつくまい!」

「それって……つまり」

 バルーの問いに対して、その誓約者が返した言葉が意味することは明らかだった。

「わかった……、なら聞かせてくれ、アムゥ様のその偉大な計画とは何だ?」

「教えるものか!さしずめ、お前らはアムゥ様に仇なす反逆者であろう!?どうして……」

「なら、交換だ。お前を再び、アムゥのその黒柱に繋いでやる」

 そのバルーの一言に、誓約者の怒りに染まった表情がみるみる変わっていく。

「何を、はったりだ。そんなことできるわけが」

「僕はお前を引き離したんだぞ?再度繋ぎなおすことも可能だ。何故なら僕は竜の因子を持つ者だからな」

「な、竜因!?貴様、竜因なのか!?馬鹿言え、そんなはったり」

 その誓約者の言葉に対して、バルーは歯を食いしばり、全身に力を入れる。すると、数秒間だが、髪と瞳は真っ赤に燃え盛り、肌も一瞬だけ褐色に変化する。

「なんだ、今の、今の巨大な魔力は。まさか本当に竜因」

「……はぁ、はぁ。どうだ、これで信じる気になったか」

 無言でバルーの変身を眺めていたヴァラムだったが、しかし彼はその様子に違和感を覚えていた。確かに今までのバルーの転身も望まぬものであったが、今の変身は、そういった意味ではなく、まるで必死に、無理やりしたかのようだった。

「……本当に、戻せるんだな?」

「ああ」

 それを聞いて、数秒間、誓約者は逡巡した。

「わかった、アムゥ様の目的を話したところで、どうせお前らには阻止できんだろう。私たちの役割は所詮端末でしかない。重要なのはこの黒柱。これは第二のアムゥ様だ。アムゥ様の半分の魔力の結晶だ。だが意思が無いから、それに代わって私達が頭脳代わりを果たしている。魔力の流れを随時アムゥ様にお伝えするのも我々に任せられた大事な役目だが、それはあくまで副次的なもの。本当の我々の役目は、魔獣どもをこの塔へとおびき寄せることだ」

「魔獣を?なぜ?」

「アムゥ様は魔人だ。彼を超える魔獣は存在しない。魔獣はこの島に上陸した途端、アムゥ様がこの島全域にかけた魔術によって隷属する。そして、このアムゥ様の半身たる、この黒柱のもとへ辿り着くと、この黒柱がその魔獣を喰らうのだ。黒柱ははじめ、八ラットほどの高さしかなく、人が抱きつける程度の太さしかなかった。だが今や、まるで大樹の如き!アムゥ様はきっとお喜びになる」

「つまり、アムゥがこの塔でしていることは、魔獣を喰らって、魔力を蓄えること、だと?なるほど、最近魔獣の数が減っている、というのも、これが原因だったのか」

 バルーは、その誓約者の説明を聞くと、その柱の元へと向かう。

「その魔力で何をする気か知らんが、今この場でこの柱の魔力を吸収してやれば、アムゥに大打撃、ということか」

 バルーは、その黒柱に剣をあてがう。しかしバルーの期待とは異なり、アムゥの黒柱からは魔力は吸い取れず、その辺りを僅かに漂う魔力の霧を少し吸い取った程度であった。

「はは。その様子だとお前は魔力吸収が使えるのか。だがさっきも言った通り、これはアムゥ様の半身、アムゥ様の魔の霧や泥とは訳が違う。柱から魔力を吸うには、アムゥ様が魔獣にしているのと同じように、この黒柱を遥かに上回る魔力の持ち主でなければな。お前は竜因と言えど、所詮は人の子よ」

 それを聞いて、バルーはそこから剣を離す。

「さぁ、もう答えただろ?さ、私を再びアムゥ様に繋げろ!」

「嘘だよ。お前を繋げる方法なんて知らん」

 ぶっきらぼうに、バルーはその誓約者に背を向ける。

「な、なな、お前、騙したのか?」

「どうやら現世離れしすぎて、他人とのやりとりすら忘れたみたいだな」

 珍しく、まるで苛立ちをぶつけるかのように、バルーは彼をあっさり見捨てる。

「ふざけやがってふざけやがって!おおアムゥ様!私をどうか、再び智慧の神殿へ連れて行ってくだされ!!」

 その誓約者は、まるで神に嘆願するように、その柱のもとに縋り付いていた。

 少しだけ、その姿にヴァラムは哀れに思って、さっさと立ち去ろうとするバルーとは異なり、立ち止まってその男の姿を眺めていた。

「おお……私は、私はまだ、貴方様のお助けになれます。どうか、どうか!私にもう一度機会を……」

 恐らく彼は泣いているのだろう。だが涙は瞳から流れていなかった。今までずっとここに繋がれていたのだ。彼の身体に残る水分は僅かである。この柱に彼は生かされていたと言っても過言ではない。それにはバルーも薄々気づいていて、心の裡では、強い罪悪感に苛まれていた。だが彼はそれでもなお、黙って立ち去ろうとした。

「アムゥ様、それはどういう……、おお、おお、アムゥ様、わかりました、この私、その大役、必ずや果たしてみせましょう!!」

 突然、その誓約者は、何かと会話し始める。そのことに気づいたのは、少し立ち止まって彼の様子を伺っていたヴァラムだけで、バルーは気づかなかった。

 その誓約者が、黒柱に手を触れると、そこから彼の身体に向かって黒い砂鉄のような粒子が現れる。そしてその黒い砂鉄は、一本の巨大な針になると、その誓約者の心臓を貫いた。

「お、おいバルー、様子が変だぞ!?」

 その様子を遠くから眺めていたヴァラムは、階段を降りようとしていたバルーを呼び止める。そうこうしている間に、針が突き刺さったその男は、痛みに喘ぎながら、胸を掻きむしる。だがその表情は苦悶ではなく、まるで快楽に溺れるように恍惚な表情をしていた。

「何があった?」

「わからん。あの男が柱と話していたら、突然柱から何か出てきて、それがあの男に突き刺さったんだ」

「柱から?」

 その男は、最後に大声で叫び始めると、胸から溶岩のようにどろどろとした赤黒い物質が噴き出て、彼の身体をとうとう包み込んでしまった。七番隊にも似ているが、しかしその体積は、明らかに彼らよりも大きく、そして鋭利で洗練された見た目であった七番隊に対し、彼の鎧は頑丈そうではあったが、粗放で、まるで岩のようであった。

「ぐご、ががが、どごぐう」

 言葉にならない声を発しながら、その誓約者は、ヴァラムの方へと駆けつけてくる。

「おいおい、やばいぞ」

「ヴァラム!こっちだ!早く階段を降りろ!」

 ヴァラムは翼を展開しながら、バルーが待つ階段の方へと飛行する。途中、バルーを拾い上げ、彼はそのまま階段を飛んでいく。そしてすぐ背後では、爆発のような衝突音が鳴り響く。

「おいおい、追いかけてくるぞ」

 後ろを振り返ると、階段をやはり猪のように突貫してくる魔の岩の姿があった。

「くそ、結構な速さで飛んでるのに、追いつかれそうだぞ、どうなってんだ」

「ヴァラム!透明な床の位置を考えれば、階段の上を飛ぶより、踊り場を抜けたらそのまま、直下に落ちて、踊り場まで行った方が良い」

「なるほど、確かに!」

 これまで馬鹿正直に階段に沿って彼は飛んでいたが、次の踊り場を通り過ぎると、そのまま横に抜け、真下に飛ぶ。そして同じく踊り場へと降りると、それと同じことを続けていく。

 だがそれを見て、魔の鎧を纏った誓約者も、階段を途中で飛び降り、透明な床に降りていくようになった。しかし機動力において、ヴァラムの翼は勝り、その距離はどんどん離れていった。

「しかし、アムゥは結局魔力を集めてどうしたいんだ?もうすでにアイツかなり強いだろ?」

「……もしかしたら、アムゥはまだ、何かを隠しているのかも」

「隠してるって?」

「タナーシャは指摘しただろう。この星を滅ぼすという計画は復讐だと。だが、その復讐の種はなんだ?何故魔人たるアムゥが、純粋な生命に対する食欲を上回り、人に復讐せんと望んだのか?そこに何か、隠されているんじゃないか?」

「なるほど。まあだけど、俺たちの本来の目的だった、実験は成功……。ってそうだ、バルー、今追いかけてきているヤツも、ひょっとすると魔力吸収で解除できるんじゃねえか?」

 ヴァラムは、少し距離に余裕が出てきたので、速度を緩めながら、安全に階段と透明床を縫って飛んでいた。

「試す価値はあるが、彼は聖騎士隊七番隊の連中よりも少し荒々しい。それにあの柱はまだ未知数だ。もしかしたら、あの柱同様、彼の今の鎧も、魔力吸収するには、その魔力を上回っている必要があるかも」

「まぁ確かに。ここは逃げるのが一番かもな」

 そうこう言っていると、ヴァラムたちに、あの昇降機が見えてきた。

「よし、乗るぞ!」

 昇降機の前に降りて翼を閉じ、開閉のボタンを押す。昇降機は当然誰にも使用されていないから、すぐに扉は開いて、彼らを迎え入れた。特に効果があるわけでもないが、その焦りから、ヴァラムは地上階のボタンと、扉の閉めるボタンを繰り返し連打してしまう。

 扉が閉まり、安堵の表情を見せる二人。しかし突如大きな音が頭上に鳴り響いたかと思うと、昇降機は不自然な速度で、落ちていった。

「まずい、アイツ、昇降機を壊しやがった!」

 昇降機は軌道を外れ、上も下も無いほどに回転しながら乱暴に落ちていた。

「ヴァラム、扉を僕が破る。そしたら僕を抱えてすぐに飛び出せ!」

「おお!」

 ヴァラムは、バルーの腰に手を回し、バルーは昇降機の扉に向けて手を掲げる。

火炎(エクスト)!」

 彼の手のひらから、強烈な火球が放たれ、扉を勢いよく砕いた。それと同時にヴァラムも、重力装置を起動して、浮遊した後、壁を思い切り蹴とばして、その扉から飛び出した。中空に出ると、翼を開いて、そのまま地上に向けて飛行する。

「うごおおおおぽ」

 だが、それと同時に彼は頭上から、先程聞いた不快な叫び声が、徐々に迫っていることに気づいた。上を見上げるまでもなく、誓約者だった者が、昇降機の抜け落ちた穴から同じく飛び降りていることに、二人は察知できた。

 ヴァラムは空中で姿勢を取り、そのまま真下に推進器の出力を全開にして落下していく。 

 床に落ちるすれすれで、重力装置を最大稼働し、落下の衝撃を全て対消滅して、無事地面に降り立った。しかしのんびりしているわけにもいかず、バルーとヴァラムはすぐに目の前の出口の扉に駆けだした。二人が扉をくぐると同時に、誓約者も大地に落下した。二人は振り返らず、急いで外に駆けだすが、しかし目の前には、思わぬ光景が広がっていた。

「七番隊……」

 バルーの呟いた通り、目の前には、七番隊が八人ほど並んでいた。

『君たちを放っておくのはさほど危険ではないが、万全を期すべきだと思ってね。悪いが、死んでもらうよ』

 顔を白布で覆われた聖騎士たちからは、アムゥの声が聞こえてくる。と同時に、彼らは皆、身体を魔の泥で覆い、鎧の姿に変化した。

 そうこうしている間に、扉をくぐって、誓約者も追いついており、とうとうヴァラムたちの逃げ場は完全に失われた。




 トゥフビは、あれからずっと、ふとした拍子に涙を流し、俯いて座り込むことが多かった。 タファパは、そのたびに、慰めの言葉も思いつかず、ただただ、じっと立ち尽くすだけであった。そんな、悲しみだけがこだまする日々が約一年続いたのち、二人の耳に、ある報道が届いた。

「戦争は終わった」

 待ちに待った報せであった。ただただ戦争が終わったという事実だけが重要であり、トゥフビは最早、それが<イタクス>の勝利に終わり、祖国が念願の独立を手に入れたということすら、耳に入らなかった。

 これで、二人は帰ってくる!

 そんな希望に膨らんだ彼女の胸は、その報道を聞いて五日後、無残に破裂した。

 帰ってきたのは、右脚を失い、杖をついたイミトゥミルだけだった。

 ララは、戦場で散った。

 イミトゥミルは別の部隊だった。だから彼女も、ララの死を信じることができず、三日三晩、彼女の戦死が記録された戦場で片足にも関わらず血眼になって探した。しかし彼女が目にしたのは、まるで芥のように投げ捨てられていた遺体の山の中で、血と臓物に塗れた、ララの身体だった。

 その日、トゥフビは泣かなかった。時が止まったように、じっと、扉の前にへたり込むだけだった。




 それから、二週間がたった。街は、表向きは戦勝の祝いで盛り上がってはいたが、大事な親族や友を失った人々も多かった。戦勝の幟はむなしく靡いていた。

 イミトゥミルとトゥフビもまた、戦争の傷は癒えていなかった。イミトゥミルは車椅子で生活するようになったが、自分から動こうとはせず、トゥフビもまた、一人寝込むことが多くなった。彼らを世話し、生かしていたのは、タファパだった。食事を作り、風呂で体を洗い、必要とあれば、彼がこの家を代表し、町の者と交流していた。そんなことを続けていると、ある日、彼が風呂でトゥフビの身体を洗っている時に、久しぶりに彼女が口を開いた。

「ねぇタファパ、貴方はどうして、ここまでしてくれるの?」

「支えるのが、家族だと」

 まるで数年ぶりに声を聞いたかと思うくらいに、タファパにとって、彼女の声は懐かしく、そして嬉しいものだった。だが、その後、彼女が発した言葉に、彼は思わず耳を覆いたくなった。

「タファパはきっと、悲しくないんだ」

「貴方は、家族じゃないから。失ってないんだ」

「だって、貴方は泣いてない。その顔を見るたびにうんざりする。戦争の前と、今の貴方の顔、何も変わってない」

 思わず彼は逃げ出した。言われたことは全てわかる。悲しいとは何か、それが彼にはわからない。まるで、最初に食事をした時のようだった。だがあの時と違って、誰もその感覚を教えてはくれなかった。初めて、人と出会い、この体を得た森に逃げた。彼にはもう、そこしかなかった。だが森の中にも、当然彼のことを迎え入れてくれる友も家族もいない。そんな当たり前のことを理解した彼は、町の方へと歩いていく。

 だが町は、いつにもまして騒がしかった。その騒ぎの方へと彼は向かうと、そこには人だかりができていて、町の人々は、硬い制服を身に着けた軍人たちに向き合っていた。

「私の後ろにいるのは、<ユヴァート>聖騎士隊、そして私はアムゥ、この度、<ユヴァート>政府より代表して派遣された、ここ<ネミーフ>地域の治安維持を任された者である」

 二十代前半に見える、アムゥを名乗る若い男の言葉に、人々は更に混乱していた。

「治安、維持。何を仰っているのです?」

 七十歳ほどの、この町の名士の老人が、群衆より一歩前に出て、そのアムゥの男の前に出る。しかしその途端、アムゥは一瞬苛立ちを露にした。

「我々は君たち<イタクス>の政府から直々に頼まれたのだ。この国には、親<ルペット>の、反独立派がいると聞く。諸君らが命を賭して戦い、この国を守ったというのに、あろうことか戦争に反対し、従属すべきと説いた者までいるそうじゃないか。更に、彼らは<ルペット>から逃亡した戦犯を、匿っている可能性がある。そうなれば君たちは危険だ。だから私たちは、派遣されたのだ」

 明らかに、それは建前、嘘だった。誰にでもわかる。街の人々は失意の底に落ち、中には膝を折り、涙を流す者までいた。

「それじゃあ、<ルペット>が<ユヴァート>に変わっただけじゃないか」

 ぼそりと、皆が心の中で隠し持っていた本音を、ある男が呟いた。

 静寂の中、彼の声は、不気味なほどに木霊し、当然それはアムゥら聖騎士たちにも届いていた。

「聖騎士隊、彼を捕らえよ」

 アムゥは、そう呟いた男を指差し、聖騎士隊に命令を下した。

「な、なぜ!?」

「<イタクス>政府より任を預かってきた我々の言葉を疑う、ということは、それはすなわち、この国を守り、自由を手にした人々を愚弄すること。ならば彼が<ルペット>に繋がる者かどうか、我々で確かめる必要がある。もし他にも私の判断に異議があるなら、聞くが?」

 それは脅迫だった。彼らは怒りを隠すしかなかった。もう彼らは、もう一つ戦争を戦うほどの余力は無かった。

「この、悪魔め!」

 聖騎士に取り押さえられたその男が、そう悪態をついた。しかしアムゥはそれに怒りを抱くことはなく、笑みを見せ、

「よく言われるよ。私は悪魔だと。きっとそうなんだろう」

 と穏やかに呟いた。

 タファパは走った。これは、知らせなければならない。例え家族だと思われてなくても良い。彼らに伝えねばならぬと衝動的に走り出した。

 イミトゥミルと、トゥフビの待つ家に着き、扉を勢いよく開く。すると、突然、彼の身体を強い衝撃が襲い、尻もちをついた。だが痛みは殆どなかった。その衝突の正体は、目に涙を沢山湛えた、トゥフビが抱きついたことによるものだった。

「ごめん、ごめんね……私なんてひどいことを……」

 彼女は必死に、嗚咽の隙間で謝罪を繰り返していた。その間も失いかけたものを、もう手放さぬよう、強く、それでいて優しく、トゥフビは彼を抱擁し続ける。

「大丈夫だ。大丈夫。僕は、僕は……」

 その時だった。彼に言い知れぬ感覚が、身体の奥から沸き上がってきた。その感情は、胸に、喉に、そして目へと、まるで沸騰した湯のように駆けあがる。

 そして気づけば、彼の瞳は、涙に濡れていた。

「謝るのは、謝るのは僕の方だ。ああ気づくべきだった。僕はこの五年、一体君から何を学んでいた……イミ母さんから、ララ母さんから毎日教えてもらっていたはずだったのに……どうして」

 彼は自分が流している涙を見て、初めて理解した。この、言い表せぬ僅かな痺れと、ほのかな痛みを伴うもの、それが、悲しみなのだと。

 

 一晩、トゥフビとタファパ、そして途中からはイミトゥミルも加わって、三人は泣いて過ごしていた。まるで互いの感情を確かめ合うかのように。お互いの傷を慰め合うように。

 そろそろ泣き疲れてきたというところで、タファパは二人に伝えなければならないことをようやく思い出した。タファパは、自分が昨晩目にしたことを、二人に話した。できる限り、特にイミの心の傷を刺激しないように、穏やかにそれを伝えた。

 彼の丁寧な伝え方も相まって、イミトゥミルは感情的になることも無かった。だが、心の奥で、イミトゥミルも、トゥフビも心の中では怒りに震えていた。この状況をどうにかせねばと、義憤に満ちていた。

「けど、こればっかりはどうしようもないねぇ。私たちは戦争には勝ったけど、それは私達のための戦争じゃなかった。納得はいかないけど、もう私は疲れたよ」

 イミは、杖を器用に使って立ち上がり、涙の疲れなのか、それとも犠牲が泡と化した失意のせいなのか、背を丸くし項垂れながら、とぼとぼと寝床に歩いて行った。

 トゥフビも同じだった。彼女は、もう戦いで何かを失いたくはなかった。理不尽ではあるが、今は兎に角家族三人で、穏やかな時を過ごしたかった。

「ね、タファパ、私朝ごはん作るよ。お腹減ってるでしょ。『母さん』は寝ちゃったから、二人で一緒にご飯を食べましょう?」

「ああ……ああ!僕も腹ペコだ!」

 二人は互いの身体を支え合いながら立ち上がり、そして手を繋ぎながら、共に家の中に入っていった。


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