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紅血の遺財 第一節

「初めまして、ヴァラム、バルー、聖騎士隊の隊長殿、そしてアース、久しぶりだね」

 その車椅子に乗る女性は、恐らく自分の足で長く歩いていないのだろうことが伺えるほど、衣服越しでもわかるほどに足は細かった。上半身も、比較的細く見えたが、しかし彼女が纏う、どこか不敵で強い雰囲気は、どことなくアースに似ていた。

「お前……、ネーナ……」

 先ほどまで飄々としていたアースの表情に、感情が露になる。

「おや、覚えていたかい。アース、君は随分髪を伸ばしたんだね。また私が切ってやろうか?」

 その車椅子の女性は、にたりと嫌味な笑みを見せる。

「ネーナ、貴方は、また痩せたんだね」

 そのネーナの皮肉に対して、アースもまた対抗するかのように、いつもの冷たい笑みで返す。

「ははは、まだ君は私の真似しているのかい?成長しないわねぇ?」

 突如、ネーナは自身の膝を叩きながら大笑いし始める。

「おいおい、ちょっと、俺たちを置いてけぼりにするなよ」

 突然始まった、アースとネーナの対決に、すっかり先ほどまでの険悪な雰囲気が流れていく。

「あー、ごめんね。実は私とアースは、元々学友なの」

「学友!?」

「幼少期に多少付き合いがあっただけさ」

「ひどいな、アース、私達は何度か肌を重ね合った仲でしょう?」

 アースを良く知る者には、その場にアースが二人、そしてネーナと旧知の者には、その場にネーナが二人いるかのようだった。言葉使いは似ていないが、口調は似ていて、全く体躯が異なるというのに、身振り手振りは一致しているというのだから驚きであった。

「はぁ、今からでも聖騎士に戻って、君たち全員を牢屋に入れたくなったよ。そうすればその功績で、今までの謀反はひょっとして許してもらえるかもね?」

 そのアースの言葉で、『正義の僕』の者たちはざわつくが、何故かネーナは満面の笑みで彼女を見ていた。

「いやーん。私にひどいことをするつもりなのね?困っちゃうなぁ」

「君は、本当に……」

 流石に呆れたのか、アースはとうとう、シヴィの後ろに隠れるかのように引き下がっていく。

「ネーナ、って言うのか。貴方は、『正義の僕』の指導者なのか?」

 そうヴァラムが尋ねると、彼女は首を横に振る。

「いやいや、私達の組織には階級はないよ。強いて言えば皆、指導者だね」

「それで、これから僕たちはどうするんだ?ネーナさん」

「ネーナでいいよ、バルー。そうだなぁ、君たちはこれからどうするつもりなんだい?一応今日一日の宿は、シヴィに必要になるだろうって言われたから抑えているけど?」

「ありがとう、ネーナ。僕たちはこれから物見の塔に向かうつもりだ。ただすぐに出発するわけじゃない。色々準備が必要になる。だから、ご厚意に甘えて、その宿に今日はお世話になるよ」

 バルーが、そう答えると、ネーナは近くにいた『正義の僕』に声をかけ、一枚の紙きれを渡した。

「これを彼らに渡してくれ。宿の場所と、私からの案内状だ」

 その紙を渡された『正義の僕』の一人は、そのままそれをバルーへと手渡した。

「ゆっくりしていくといい。私のことをよく知っている宿だ。きっと悪いようにはしないだろう。ああちなみに、六人までは部屋を抑えているよ、アース、君も行くかい?」

 すっかり離れた場所にぽつんと立っているアースにも聞こえるように、ネーナは声を張り上げる。彼女にもきちんと聞こえたようで、アースはちらりとネーナを見やると、すぐに視線を外した。

「ヴァラム君、バルー君、案内頼むよ」

 わざとらしく、ネーナのことなどいないかのように、アースはヴァラムの元へと歩いていった。

「シヴィ、ユイスナ、君たちもくるかい?」

 その途中にいた、聖騎士隊の友にも、アースは声をかける。二人は無言で頷き、そのまま彼女の後ろを追いかけていく。

 ヴァラムとバルーは、ネーナに一礼をし、地図通りに歩いていく。しかしその後ろをついていくアースはとうとうネーナのことを見すらせずに、ただ無言でその隣を通り過ぎていく。

「私の真似ばかりしても、君は救われないよ」

 ネーナがそう、自分を顧みないアースに呟いた。




 五人が、ネーナ達が確保していた宿に到着する。案内された部屋は三室、一部屋は一人用、二部屋は二人用だったので、ヴァラムとバルー、シヴィとユイスナという風に分かれた。

 そのまま特に五人は、夜に食事が出されるまで、お互い部屋を出ることもなかった。そしてその食事の席でも、特に深い会話を交わすことはなかった。四人とも、アースが浮かない表情をしていたことには気づいた。それがネーナとの確執が原因であることも察していたが、見慣れぬ彼女の様相に、ヴァラムとバルーはおろか、旧知の二人すら声をかけられないでいた。

 その後、各々部屋へと戻ると、ヴァラムは、寝台の上に横になりながら、考えに耽っていた。その様子を隣で見ていたバルーは、ヴァラムの寝台に腰かける。

「どうしたんだ?」

「いや、タナーシャ、大丈夫かなって」

「彼女なら大丈夫だよ。それは君も理解してるはずだろ?彼女の精神を挫くのは、決して容易じゃない」

 その答えにヴァラムは「うーん」と生返事で返す。

「悩んでるのは、そのことじゃないんだろ、本当は」

「ははは、ばれちゃったか」

 ヴァラムは、上体を起こして、バルーに向き合う。

「なぁ、アースと、あのネーナっていう『正義の僕』の関係、気にならないか?」

「気にはなるよ。けど、人には色々あるもんだろ?まぁ君みたいなお節介は、踏み込まないと気が済まないかい?」

「俺、お節介なのか?」

「お前がそうじゃなきゃ、この星に『世話焼き』は一人もいないだろうね」

 バルーの皮肉めいた冗談に、ヴァラムの固い表情は和らぐ。

「はは、それなら、ちょっと、お節介してくるかぁ」

 ヴァラムがそう言いながら、寝台から立ち上がる。

「ああ、行っておいで」

 バルーは、そんな彼を、優しい表情で見送る。




 ヴァラムは、アースの部屋の前に立っていた。扉を叩こうか悩んでいると、突然扉が開く。

「おや、誰かと思ったらヴァラム君か?どうかしたかい?」

 気配を察し、アースは扉の外の来訪者を確認すると、少し作ったような笑みを見せる。

「いや、すまん。ちょっとさっきのネーナっていう人の話を聞きたくてさ、ほら、もしかしたら信用していいのかどうかとか、気になってさ?」

 そう言うと、アースは苦く笑って、ヴァラムの目を見つめる。

「ははは、本当、君は嘘が下手だね」

 顔だけ覗ける程度に小さく開けていた扉を、ヴァラムの顔を見て、彼女は広く開け放つ。

「入りなよ。お話、したいんだろ?」

 アースにそう促され、ヴァラムは彼女の部屋に入った。

「それで、一体何のことが聞きたい?私のこれからの宰相への昇進計画?それともネーナとの関係?」

 アースは、寝台の前にある小さな鏡面台の前の椅子に、彼を座らせて、自分は給湯器からお湯を出し、二人分の茶を入れ、それを差し出す。

「どっちも、って言うのは欲張りかな?」

 アースは、ちょうど彼と向かい合うように、寝台の上に腰かけていた。目の前のヴァラムは、少し気まずそうにしていて、それがどこか彼女には愉快だった。

「ふふ、良いよ。ネーナと私は、君とバルーくんに似ているよ。二人とも最下層生まれの孤児だった」

「最下層生まれ?俺てっきり、お前は最上階層の生まれだと」

「ふふ、それだけ私には身に纏う雰囲気が高貴だってことかな?」

 アースは軽く冗談を言い放ち、茶を一口すする。

「でも生まれつき私の魔力が強いのは確かさ。そしてネーナ、彼女は見ての通り、生まれつき魔力は低く、自分の足で歩けたことがない」

「そう、だったのか」

 ヴァラムは、自分が目にしたネーナの細い体躯を思い出していた。アースの一言もあり、彼は彼女に自分を重ねてみようとするが、どうしても、そこから想像できる彼女の苦悩は、自分を遥かに上回るように思えた。

「おや、もしかして君は、私とバルー、ネーナと自分を重ねているのかい?違うよ、逆逆。この場合、私が君だよ」

 そう言われて、ヴァラムは驚きで、手に持った茶が思わず零れそうになるほど、身体を揺らす。

「はは、まぁ最後まで聞けばわかるよ。私は確かに、幼児の頃から身体は強かったし、大人でさえ赤子の手を捻るように倒せた。けどね、少し心が弱かったんだ。揶揄われるとカッとなってしまう。そのくせ、言葉を紡ぐのは下手だから、上手くそれに対処することもできない。そのせいで毎日生傷は絶えなかったよ。でもね、ネーナは違った。彼女はあの身体で、あの境遇でさえ、その魂から輝きを失うことはなかった。どんな相手にも阿ることはない、どんな状況にも屈しない。ひもじい思いをしても、みじめな状況でも、絶対に折れなかったのさ。そんな彼女を、私はどこか羨ましいと思っていた。彼女から学びたいと思っていた。それでいつの間にか、一緒にいるようになっていたのさ」

 そこまで話し終えると、一旦アースは深く呼吸をした後、再び茶をすする。

「そんなこんなで私とネーナは、十五になるまで、一緒に暮らしていた。時には廃墟で借りぐらし、時には私が働いて、安い宿に泊まったりね。けど、そんな暮らしを続けているとね、私はいつの間にか、彼女を守ってあげたいと思うようになった。もっと良い生活をさせてあげたいと思ったのさ」

 ヴァラムは、アースの声が徐々に弱く、震えているのに気づいた。しかし彼はただ、黙って彼女の続きの言葉を待っていた。

「聖騎士隊の募集に目がついて、私はそれをネーナに話したんだ。私が聖騎士になれば、もっといい暮らしができる。上の階層に行って、贅沢ができるってね。だけどいつも私のやることに反対しないネーナが、その日は初めて首を横に振ったんだ。混乱したよ、空すら拝めない地の底で、泥と灰を被りながらの生活から抜け出せるっていうのに。それで問い詰めたんだ、するとね、ネーナはこう言ったよ。『聖騎士になれば、二人で一緒に暮らせなくなる。もし一人の時間が増えれば、否が応でも、自分がアースに支えられなければ生きていけないことを実感してしまう』ってさ」

「そんな、でも二人は仲が良かったんだろ?どうしてそれだけで」

「さぁ、私もその時は全く分からなかった。ネーナが、何故この状況に不満を持つのかさえ理解できなかった。だけど、後で思ったんだ。この状況に甘えていたのは、ネーナじゃない。私なんだって」

 アースの言っていることが理解できず、首をひねるヴァラム。

「私はね、彼女から、何かを学べると思った。実際彼女から毅然とした振舞、そして話術を得ることができた。けど、私は一度も、彼女に何も与えなかった。ずっと力を借りていたのは、ネーナじゃない。私だったんだよ」

「いや、でも、暮らすための金とかは、お前が稼いでいたんだろう?」

「私もそう思っていたよ。けど、それは与えたとは言えない、そう気づいたのは随分、後のことだがね。愛する者と暮らす、というのは、扶養することじゃない。お互いに何かを与え合うことだ。その点で言えば、私は貰ってばかりだった。彼女自身も、負い目があったのかもしれない。私が金銭を稼いでいたから、言うに言いだせなかったのかも。何より生活も苦しかった。自分の不満は、身の丈に合わない。だから口を噤み続けた。その結果、彼女の裡にはずっと小さな傷が重なり続けていった。なのに、私はたった一度の口論で、心が砕けてしまったわけだ」

 アースがそこまで説明すると、ヴァラムは、不思議なものでも見たような表情をする。

「いや、あの、お前って案外、人を良く見てるんだな」

「ははは、そりゃそうだ。ネーナは人間観察が得意だったからね。言っただろう、私は彼女から沢山の物を貰ったって。これはそのうちの一つさ」

「ふーん、そっか。なんか、お前が似ているって言った意味が分かった気がするよ。こう言いたいんだろ。バルーは俺を変えて、救ってくれた。けど、俺はバルーを本当の意味で助けられてないって」

 ヴァラムのその言葉に、アースは少し笑みを見せる。

「ほう、何だ、君自身気づいていたのか」

 短くヴァラムがため息をつくと、アースはぐいと残りの茶を口に全て入れる。

「勿論、相手の深い心傷に、むやみに触るべきじゃないよ。何もせずただ寄り添ってあげることも大事だ。小さな傷は自然と癒える。だが大きな傷は、それだけでは塞がらない。それどころか包帯の裏で、徐々に化膿し、ひどくなるばかりだ。深い傷は、多少の痛みを伴ってでも、針と糸で縫うべきなんだ」

「俺も、それはわかっているつもりだった。けどバルーの古傷と向き合うことで、二人の仲に溝が入るんじゃないかって。それならこうやって、バルーが自分で話したくなるまで待っているのが楽だって……そう思ってた」

 ヴァラムは、静かに俯きながら、茶の水面に映る自分と目を合わせていた。

「傷ついた人を慰めるんだ。傷つきもするさ」

 ここで彼は、自分がアースに話を聞きに来たことを思い出し、何故か自分の悩みの話に変わっていることに気づいた。

「あー、もしかしてお前が聖騎士になって、えっと、『そう』なったのは、ネーナとの別れが原因だったりするのか?」

 ヴァラムは話の軌道を戻すと共に、二つの問いが自然と繋がるような質問を投げかける。

「まぁ、それもある。弱い人間と共にいることは、とても疲れる。お互いね。なら初めから、世界を分けてしまえばいい、私はそう思っていたんだよ」

「思っていた?じゃあ、今は?」

「勿論、そんなことはもう思ってもいないよ。確かに互いを理解し、歩み寄るのは疲れる。でもだからといって、他者や弱者を切り離す社会に甘んじるのは、結局永遠の被害者を生み出す構造を再生産しているに過ぎない。そんなの、私が二十歳になるころには気づいていたよ。実際、こうして私でさえ、真っ逆さまに落ちるんだから、余計実感するよ」

「ならどうして、お前は未だこの国のそんな構造に拘るんだ?」

 そう聞かれ、アースは一息ついた後、足を組みなおして、こう答えた。

「なぁヴァラムくん、君はアムゥ様を倒して、その後どうするつもりだ?」

 質問に質問で返され、ヴァラムは少したじろいだ。

「確かにアムゥ様は、魔人だ。けどあの方の言う通り、この世界の諸悪の根源はアムゥ様ではない。我々人間の存続のために、彼を打ち破るのは確かに必要だ。けど、それとは別に、彼を宰相に選んだのは、他でもないこの星の人々だ。そこの手続きには、別に不正なんてなかった。私達が、自ら「弱きを虐げる強者の世界」を選んだんだよ。彼を倒しても、この星が改善し、善の道を歩むことはない。次のアムゥが再び現れるだけだ。そして次の宰相が、都合よく世界を滅ぼすような大望を抱いているとは限らない。いや万に一つも無いだろう」

 ヴァラムはただ、黙ってアースの畳みかけるような問い詰めを受け止めていた。

「君は確かアムゥ様に、人々に善性を教え、導くのが政治家の仕事だと啖呵をきっていたね?けど、正義を貫くなんて、並大抵の人間にはできない。正義とは、変わり続ける倫理、道徳の中で、絶えずその最善を模索すること。終わりなき開拓だ。一体誰が好き好んでやる?そんなことを民に説く政治家が本当に選ばれるとでも?人々が望むのは、この世界は変わらぬのだと、努力は必要ないと教えてくれる扇動者だ。正義など存在しないのだと、善に目覚める意味は無いのだと、そうやって思考も行動も否定し、慰めてくれる詭弁家だ。そうして人々は、世界の改善案を模索する碩学と、構造を変えようと動く活動家を嘲笑い、満足げに自身を虐げる構造に甘んじるのだ」

 アースが言いたいことを言い切り、ヴァラムの顔を見ると、意外にも彼は困惑した様子はなく、むしろ極めて強い意志に満ちた瞳をしていた。

「それは、そうだと思う。世界は、人間は、それほど上出来じゃないのかもしれない。けど、完璧じゃないからこそ、前へと進める。俺は、バルーのお陰で、タナーシャのお陰で、光を知った。なら俺も、そういう人になりたい。そしてその光の温かさを伝えた誰かが、また誰かに伝えていく。そうすりゃ、俺が貰った光は、いつかは遥か彼方まで届く。そう信じたいんだ」

 真剣な顔でそう答えるヴァラムに、アースは何故か笑いがこみあげてきて、くつくつと笑っていた。

「なんで笑うんだよ」

「そりゃ。いやはや。君にはもう勝てんな。いやぁ、昔のあの意志薄弱、優柔不断の少年はもういないようだな。本当に、あの二人は、随分君に良い影響を与えたようだ」

 笑いながら、自分たちを褒めるものだから、ヴァラムはアースが皮肉を言っているように思えてきた。そんな不審な目つきに気が付いて、アースは必死に笑いを抑え込み、一度咳ばらいをした後、表情を変えて、ヴァラムに向き合った。

「いやね、決して君のことを嘲笑ったわけじゃないよ。むしろ感心したんだ。本当だよ?私も、君みたいな人にもっと早くに会っとけば、少しは変わっていたのかもしれない」

「今からでも、遅くはないだろ」

「そうかもしれない。けど、私は、君の最後の敵として立ちはだかるよ。知っての通り、この国の聖騎士隊長や政治家の殆どが、搾取で余禄を得ている者たちばかり。そして彼らを人々は自分の指導者として選び、許容した。君がこの星に再び善なるものを蘇らせることができた暁には、人々は自ら、我々を打ち倒さんと決起するだろう。それこそが君の勝利だ。ま、それも、まず私達がアムゥ様に勝てれば、の話だがね」

 アースがそう言うと、ヴァラムも残っていた茶を一気に飲み干し、椅子から立ち上がる。

「それは任せとけ。俺と、二人がばっちりアムゥの策略を止めてきてやる」

「ふふ、頼もしいね……ところでヴァラム、君は愛する人は一人に絞る派かい?」

 アースは突如、全く脈絡と関係のない質問をしながら、寝台から立ち上がり、ヴァラムへと迫っていく。

「えっと。俺は一応、恋人は一度に一人まで、かな。まぁ恋人は作ったこと無いんだけど」

「残念、少し君の事、可愛いと思えてきたところだったのに。私は何人でも気にしない人だから、もしヴァラムくんの気が変わったら、いつでもおいで。相手してあげるよ?」

 恐らく本気なのだろうと察してはいたが、この場は冗談でも聞いたかのように、ヴァラムは笑って聞き流した。アースも結局彼にそれ以上迫ることはなく、あとは帰るだけの彼のために、客室の扉を開ける。

「さ、もう夜も遅い。君は、明日、物見の塔へ行くのだろう?それならもう寝ると良い。首都から随分離れなきゃ、君の飛空艇も呼べないだろ?明日は、朝日を拝む前に出発だよ」

ヴァラムは、彼女の開けた扉の前まで行ってから、挨拶に一度立ち止まる。

「ああ、そうだな。じゃあまた明日、アース。今日は色々ありがとうな。本当は、俺がお前のことを知るつもりだったんだが、何か俺の方が逆に分析されちゃったな」

「ははは、それだけ君はわかりやすいのさ。それは短所にもなりうるが、今の君なら問題ないだろうね」

「そうだと良いな」

「そうだとも」

 それきり、ヴァラムは廊下に出て、後ろを振り返り、軽く会釈をしたが、特に二人は言葉を交わさなかった。アースも穏やかな表情で、手で別れの挨拶をすると、扉をゆっくりと閉めた。

 ヴァラムはそれを見届けた後、一人、最低限の灯りだけが等間隔に点る、そのほの暗い廊下を歩いて、バルーの残る、自室へと戻っていった。




「ねぇねぇ、君は、どこから来たの?ここは危ないよ?」

 少年の姿をした存在に対し、少女はにこやかな笑顔を見せ、話しかける。

 その少年は、彼女の言葉を聞いて、頭の中で記憶の渦を整理する。彼女の発したその言葉と、似た言葉を収集していく。夥しい記憶の中で、少しずつ、粉々の割れた硝子の山から、欠片を探し、繋ぎ合わせるような作業であったが、しかし彼はそれを静かに、それでいて高速で処理する。結果、彼は、少女の先ほどの質問の意図を理解することができた。そしてそれに対する回答も、編み上げることができたのだ。

「ぶぉク、モぉリ、くァら、キた」

 言葉を上手く紡ぐことはできたものの、身体の発話機能がそれに付いていっておらず、たどたどしい発音になってしまった。とはいえ、少女トゥフビは、その言葉自体は聞き取ることができた。

「えっと、森に、すんでるの?親とは一緒にいないの?」

 トゥフビのこの言葉について、少年は少し答えに悩んだ。『親』という、彼女の発した言葉の意味は理解できたが、それがどういう存在なのかを定義しかねていたためである。

 記憶の中で『親』は、自身の命の半身を渡して作った、あるいは誰かが代理で生み出した生命の後継者を、育てるものであるということは、何となく理解できた。しかしそれに値する存在が、自分にいるのかの判断ができないでいた。

「えっと、やっぱり気にしないで!私はトゥフビ、あなたは?」

 中々答えを出さない、あるいは先ほどの、見た目よりもかなり稚拙な発話から察してか、彼女は質問を取りやめ、自己紹介に切り替える。

 しかしやはりその質問は、彼を更に苦悩させてしまう。『トゥフビ』という言葉が、人名であるということに中々気づけなかった。

「たダしい」

 少年の返事は、少女にはとうとう理解できなかった。

「違う、名前、だよ?それを教えて欲しいの」

 『名前』という言葉を聞いて、少年はようやく、『トゥフビ』という言葉の意図が理解できた。自己を表象する記号のようなものだと気づいた少年は、記憶の中で、自分がなんと呼ばれていたかを手繰り寄せようとする。だがたちまち、いくつも候補が現れる。二つ、三つどころではない。百、千、そして万を超えたところで、彼は記憶の旅をやめた。ここに答えはないと、漠然と直感したためだ。

「ちょっとトゥフビ、あなた……って、あれ、その子は?」

 草むらをかき分け、静かな声で少女を呼びかける女性が現れる。その姿はトゥフビをそのまま大きくしたかのようで、肌は艶やかな黒で、それに負けぬほどに潤いのある長い黒髪を蓄えていた。

「お母さん、この子、もしかしたら親がいないのかも」

「孤児?捨て子ってことかしら?」

 少年は「孤児」と「捨て子」という言葉に反応する。その意味を理解すると、それが今の自分の状況を説明するのに、極めて都合がいいことに気づき、少年は頭を縦に振った。

「やっぱり……」

 どうやら意図は伝わったらしく、少年は「親」という概念の定義という、面倒な作業から解き放たれた。彼は立ち上がり、少女の顔と、その母親の顔を交互に見比べる。

「にて、いる」

「あら、ありがとう。私達よくそっくりって言われるのよ」

 少年の呟きに、母親はにこにこと微笑みながら近づいてきた。

「ねえ、お母さん、この子、凄く体が汚れてる。裸だし、一度私たちの家に連れて行かない?」

「そう、ね。君、お名前は?もしよかったら、うちに来る?」

 「名前」について改めて考えなおすと、突如ある記憶がしきりに反復する。そしてその記憶の中で繰り返される不思議な言葉を、彼は何故かそれを「名前」として使うことに決めた。

「たふぁぱ、な、まえ、たふぁぱ」

 その少年は、それが自分の名前ではないことは重々理解していた。それは誰かの借り物であり、偽物の名前である。しかし何故か、それが自分を意味するものとしては、あまりに適切だと直感したのだ。

「タファパ、あまり聞いたことないけど、良い名前、だね。じゃあタファパ、行こうか?」

 そうして、タファパという名前を選んだ、少年の姿をした呪いは、は、親子二人に自身の家に導かれていった。

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