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真星界エト・ルムン -三界の世子-  作者: ネコ一世
錆びし天穹、灰の坤儀
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錆びし天穹、灰の坤儀 第二節

 黒き鎧は、光を飲み込むほどに暗く、

 黒き刃は、空気を切り裂くように鋭く、

 執務室の中、ヴァラムらを取り囲むその魔人の勢力は、ただ存在するだけで常人には耐えがたい威圧を放っていた。

「アムゥ、まだ話は終わっていない、刃を納めさせろ!」

 先ほどまで冷静さを保っていたタナーシャも、仲間たちの危機に、思わず声を張り上げる。彼女はこれがアムゥの脅迫であることは気づいていたものの、指一本動かすだけで、友の首が飛びかねない一触即発の状況に、焦燥に駆られざるを得ない。

「ああ、そういえば、要求のほかに質問もあるんだったな。それくらいは聞いてやろうか」

 そう言って、アムゥは飲み終えた茶器に、更にもう一杯茶を注ぐ。と、同時に、七番隊たちは、右腕に光らせる刃を収納した。

「聞きたいことは一つ。どうしてお前は<玄黄星>を滅ぼそうとする?」

 彼女の問いかけに、アムゥはまるで聞き飽きたかのように、ため息をつく。

「前にも言っただろう。私は魔人、それだけ知れば十分と思うが?」

「いや、不十分だ。私は魔人という存在をきちんと理解しているわけではないが……、仮にお前の言うような、魔人が人と文明に仇なす存在であるとしても、お前のやっていることは、世界を滅ぼすというには矛盾だらけだ」

 タナーシャがそう捲し立てると、アムゥは一瞬表情を歪める。

「ならば問おう。私の何が矛盾しているのかね?」

 茶器を机に置き、アムゥはタナーシャに向き直る。

「お前のその力が証拠だ。お前は神の門と神の力を封じる知識を持ち、そしてこの星最強の騎士であるアースすら上回る僕を、十数体従えている。それほどの力があれば、お前が、私や巫の力、そして、終局神<オセネオス>を利用する必要はない。過剰、いや、そもそもいつになれば、達成できるかもわからない、その計画に頼るなんて、効率が悪すぎる」

 タナーシャの推理に、アムゥはただただ静かに聞くだけであった。

「だが恐らく、『人を滅ぼす』ということが目的であるのは間違いないだろう。死の神を呼び出す以上、生命の絶滅は必定。如何にお前が強大な魔人といえ、終局神の力を掌握することも不可能」

 そしてタナーシャが、とどめと言わんばかりに、アムゥを指さし、更に語気を強めて、こう続けた。

「しかしその目的は、終局の力に頼らずとも可能。となれば、お前にとって重要なことは『目的』ではなく、その『過程』だ。だとすれば、お前は決して、人を滅ぼすことを天命とする魔人であるから滅ぼすのではなく、人間に対し、何らかの感情を抱くからこそ、滅ぼしたいと望んでいる。違うか?」

 タナーシャが言い終わると、アムゥは手を叩きながら「ご明察」と笑いながら言い放つ。

「質問に戻るぞ。アムゥ、私はお前が人を滅ぼすと決断した理由が知りたい」

 しばらく沈黙した後、アムゥは一口茶をすすってから、改めて口を開いた。

「タナーシャ、君は<ルスヌ>に行ったそうだな?七番隊を通じて、水晶門を調べさせたよ」

「ああ、神の導きか、私はかの地で、神居を訪れ、記憶と力を取り戻した」

「神の導きかどうかは知らんが、まぁ偶然ではないだろうな。あの場所は、お前たち<ドゥスエンティ>にとって、忘れがたき都市だからな」

 そう話すアムゥの言葉に、ヴァラムは引っかかり、思わず口を開いた。

「待て、<ルスヌ>は<ドゥスエンティ>の領地じゃないだろ。何でタナーシャたちにとって『忘れがたい街』なんだよ?」

「ああ、ヴァラム、君は知らないんだな、なら教えてやろう。<ルスヌ>、あの街は魔力炉の爆発事故で無人の廃墟と化したが、その事故を引き起こしたのは、<ドゥスエンティ>ということになっているんだよ」

 ヴァラムの疑問に、アムゥはあっけらかんとした表情で、そう答えた。

「は?」

「そして、<ユヴァート>はそれを開戦事由とし、国際社会からの協調の中で、堂々と<ドゥスエンティ>を侵攻した。いわば、<ルスヌ>は、<ドゥスエンティ>の滅亡の原因」

「それがどうした?その事故はアムゥ、お前が仕込んだことで、我が祖国を侵攻するため、そして私たち巫の力を略奪するための……」

 タナーシャが感情を露わにし、声を荒げるが、彼女が言い切る前に、アムゥが割って入った。

「違う。残念だが、<ルスヌ>の魔力炉建設も、富裕層を優遇した経済政策も、亜人を虐げ、凡人どもを満足させる社会運営も、星界統一同盟も、<ドゥスエンティ>侵略も、全て全て、私が提案したものではない」

「何を言って……?」

「それなら、アース、君が教えてあげたまえ。議会で私は、大抵愚かな議員たちが提案する、愚かな政策をそのまま承認するだけだと、ね」

 それを聞いたタナーシャが、アースの方へと顔を向けるが、彼女は静かに首肯した。

「<ルスヌ>魔力炉事故、あれは実に凄惨な事故だったが、あれは私が宰相となる前から既に構想としてはあったのだ。識者の安全性への憂慮と、<ルスヌ>に住む人々の反発から、ただ着工にこぎつけていなかっただけ。学者の信用を失墜させるため、人々に『学者は非国民ども』と思い込ませ、更に当の<ルスヌ>の人々に、『魔力炉特需』などと言って、就職率や年収の向上、観光客の流入などを説き、更には道路の整備などで『いかに<ルスヌ>に魔力炉ができることが幸せなのか』を喧伝することを決定したのも、私ではなく、全て議会の連中。だが、予想通り、建設から四年で、魔力炉は爆発だ。そしてそれを<ドゥスエンティ>の破壊工作として発表することを決定したのも、私じゃない」

 それを聞いて、怒りに拳を震わせるタナーシャ。しかしそれに義憤を感じていたのは、彼女だけではなかった。

「ですが……、アムゥ様、貴方がこの星の人間を滅ぼすことが目的であることは、間違いないんでしょう?」

 耐えかねて、ユイスナがタナーシャとアムゥの問答に割り込んだ。

「はは。その通り。だが、だからこそ私は死の神の制裁を選んだ。健全な国、星なら、どれだけ巫を虐げても、<オセネオス>の声など聞こえないよ。人々の悪意、際限のない欲望によって、人々は自ら滅亡の道を歩むことを選んだのだ。星を滅ぼす巨悪は私ではない。私は人間から諸悪を受け流しているに過ぎないのだから」

 あまりに堂々した彼の言動に、思わずユイスナはたじろぐ。

 だが彼の言葉の端に何か違和感を覚えたのが、タナーシャとアースだった。

 二人が、その違和感の正体を確かめるようにアムゥの話した内容を静かに吟味していると、突然ヴァラムがアムゥの前に立ちはだかる。

「あーあ、もう聞き飽きたよ、その手の詭弁!人間の悪性が原因だ!?それはお前がその側面しか見ないからだろうが!」

 啖呵を切って見せるヴァラムに、アムゥは驚くことに押され気味で、先ほどまでたたえていた余裕の表情が僅かに歪んでいた。

「つまり、ヴァラム、君は人間には善なる側面もあると?ならば、何故、他人の抑圧で得た物を自由と呼ぶ?何故、発展と言いながら自ら生活圏を脅かす?何故、先細る人間の未来を知りながら、誰もそれを止めようとしない?何故、なぜ、なぜ!?」

「……、知るか!!そんなもん!!」

 アムゥの熱のこもった問いかけを、ヴァラムはそう言って一蹴する。最早その光景にこの場にいる皆が呆気に取られていた。

「どう言葉を返すかと思えば、言うに事欠いて『知らぬ』だと?」

 ヴァラムのそんな返答に、苛立ちを隠せないアムゥ。

「ああ、知らねぇよ。人間には、悪意に抗しがたい時だってある。俺だって経験者だ。だが、俺は人の善性を信じることの尊さと価値を教えてくれる友がいた。簡単なことなんだ。『善意に価値はない』と教えられれば、人は善性に蓋をする。その反対を教えてくれる人がいれば、悪意に抵抗する術を身に着けられる」

 ヴァラムはそう言いながら、タナーシャとバルーの顔を交互に見た後、またアムゥに向き直り、続ける。

「そして、お前たち政治家は、そうやって人々を導く存在だろ。俺にはむしろ、お前が何故、と問いかけることの意味がわからねえよ。お前がそれではならぬと人々に教えればいいだけだろう?」

 ヴァラムの言葉に納得しかけているのか、アムゥの表情からは少しずつ怒気が薄れていた。

「……は、子供の駄々だな。現実が見えていない。人の破滅的な性質を実際に目にしたことが無いから、そう言えるのだ」

 ぼそりと、呟いた負け惜しみが、タナーシャの思考の間隙にぴったりと嵌る最後の一欠片となった。得心が行ったおかげで、快活になった彼女の顔は、アムゥからすれば、また自分に不都合な真実を明かされる予感がして、非常に不気味であった。

「まるで、アムゥ、お前は人の破滅的な姿を目にしたことがある、かのようだな」

「何が言いたい?」

 久しぶりに口を開いたタナーシャは、アムゥとの距離を詰めていく。

「考えていたんだ。お前は人の愚かさから、人類の滅亡を企てたと言うが、それではやはり、道理に合わん」

「ほう、未だ私の計略に穴があると、君は言いたいのかね?」

「違う。迂遠ではあるが、事実、私は死の神の声を聞いたんだ。お前の計略は見事成功したと言える。だが、一つだけ引っかかる疑問があった。何故お前は神の門を閉じた?」

 タナーシャの問いに、アムゥは答えず、視線を外す。

「なぁ、アース、聞かせてくれ。先ほどアムゥは多くの政策を議会から提出されたものであって、自分の発案ではないと言っていたな」

 答えが期待できないことを察し、タナーシャは隣にいたアースに質問を投げる。

「あ、ああ」

「では、聞かせてくれ。神の門の閉鎖、これを提案したのは、議会ではなく、アムゥではないか?」

 タナーシャのその言葉にアースは目を丸くした。彼女の言った通り、神の門の閉鎖は、アムゥが珍しく自らの口で提唱した政策であった。

 一息置いてから、アースがゆっくりと首を縦に振る。

「やはりな。これで合点がいく。星間を行き帰する門を何故貴様が閉鎖するのか。自身の悪政や、人を滅ぼすという企みを察知され、阻止されぬようにだと思っていた。だがそれでは、一つだけ引っかかることがあった。何故、お前は人の愚かさを説きながら、<玄黄星>のみを滅ぼそうとするのか?もしかしたら、お前は<紅玉星>も<天藍星>も滅ぼすつもりなのかもしれないが、しかしだとしても、私達の星にこだまする終局の声は果たして、他の二つの星に届くのか?終局を呼び出すための、死の匂いがこの星に充満しつつあるのは事実だろう。だが他の星ではこの呪いは十分に行き渡っていない。なら他の星の人間はどうやって滅ぼす?同じ手を打つわけにもいくまい?」

 タナーシャの推理を、アムゥは感情を露にせずに、じっと静かに聞いていた。

「もし終局神の力を使って他の星の人類も滅亡させるなら、神の門は閉じるべきではなかった。何故なら、この策略は、他の星では使い難い。まして<紅玉星>では、神の声を聞ける巫を探す方が至難というもの。お前がそれを気づいていないはずはあるまい。だが、お前とヴァラムの問答の中で、この矛盾を解消する糸口が見つかった。そして確信した。お前が人類滅亡の望む起因となった、個人的な感情あるいは経験は、他でもない、復讐だ」

「復讐?つまり、こいつは人間じゃなくて<玄黄星>に対して復讐するのが目的、ってことか?」

「その通り」と、ヴァラムの質問に彼女は答える。

「魔人であるがゆえに、この星の人類を滅ぼすというのは、間違いなく嘘。そしてお前が先ほど言っていた通り、アムゥよ、お前は証明したいだけなんだろう。この星の住人が滅びに値する存在であるだけだと。もしそうなら、教えてくれ。何が、あるいは誰が、お前をそこまで苛烈な復讐に駆り立てるのか?」

 タナーシャがそう言い終わった途端、この場にいた者たち全員に戦慄が走る。部屋が揺れるような、アムゥの怒気の発露と共に、質素な壁紙と床面は、光沢を持った不気味な赤黒い物質にみるみる覆われていく。窓から差し込む光が途絶え、唯一の灯りが天井からぶら下がる飾り照明だけになり、しかもその照明も、弱々しく明滅するようになっていた。

 よく見ると、周りに待機していた七番隊が、自らの鎧を開放し、その手を壁や床に付いているのが目に入る。そうした状況から、部屋を覆うその物質が、これが全て七番隊たちの身体を包んでいた泥であったことは、皆が理解できた。

「貴様ら人間は、私のこの怒りを知ることさえも値せん」

 音と光が遮断されたこの空間で、アムゥのその囁きは、不気味なほどに皆の耳に鳴り響いた。その殺意が開戦の合図であることを察し、各々武器を出現させ、戦闘態勢を取る。

「貴様がそれを望むならば、仕方あるまい。私も抵抗させてもらおう」

 タナーシャもまた、神器を召喚し、先日見せた姿に転身する。

 だが、彼女は、自分の身体に僅かな違和感を覚え、一瞬意識がアムゥから逸れてしまった。

 

 集中し続けていたアースも、ユイスナでさえも気付けなかった。

「え」

 最初に気づいたのは、ヴァラムだった。

 隣にいたはずのバルーが、いつの間にか消えていたのだ。暗い空間ということもあり、最初は攻撃に打って出たバルーの姿を見失ったのかと思った。

 が、違った。

 鈍い衝撃音が背後から聞こえ、その音を辿るように後ろを振り返ると、黒い壁に叩きつけられているバルーの姿があったのだ。

 バルーは力なく床に倒れ込むと、そのまま意識を手放した。

「ヴァラム、伏せろ!!」

 タナーシャの叫び声で、何が何だかわからなかったが、ヴァラムは咄嗟に体を伏せる。

 すると、彼の頭上を、何かが高速で過ぎていく。

 そして更に刹那、激しい衝突音が鳴り響く。

 ヴァラムには何が起きているのか理解できてはいなかったが、「すぐにこの場を離れるべきである」と直感し、前方に転がって、距離を取る。

 そして振り返ると、自分がいた場所で、タナーシャとアムゥが取っ組み合っていた。最初は僅かな明かりで、ヴァラムはその状況をはっきりと把握できていなかったが、タナーシャが持つ神器の杖が、何かとぶつかり、火花を散らしていたのがわかった。

 そして徐々に、杖と衝突している物の正体が、アムゥの操る人間がしばしば用いていた、黒泥で形成された刃であることもわかった。しかし操られていた者たちと少しだけ異なっていたのは、アムゥは腕に直接刃を生やすのではなく、剣のように、柄を右手で握っていた。

「貴様ぁ!私ではなく、何故バルーとヴァラムを狙った!?」

 ヴァラムも今まで聞いたことがない、タナーシャの怒りの籠った唸り声だった。

「私は戦士ではなく策士でね。倒せる敵から倒す。当然のことだと思うが?」

 それに対し、わざとらしく癇に障るように軽く返すアムゥ。

 だが、タナーシャは感情に全てを支配されていたわけではなく、自分の身に起きた違和感と、何故アムゥが自分ではなく、バルーとヴァラムから狙ったのかを、すでに推測し始めていた。

 すぐに結論を導くことはできなかったが、彼女はこの部屋を文字通り包み込んでいる黒泥が気にかかった。

 何故この泥を部屋に巡らせてから、戦いを開始したのか。

 バルーが、失神するほどの勢いで叩きつけられても、黒泥の壁は破壊されなかった。

 では、戦いで部屋が損壊、あるいは外の人々に争いが生じていることを悟られないようにするためか?

 妥当そうな仮説だが、何かを見落としていると直感した。

 確かに一つの謎は解けるが、全ての疑念の解法ではないからだ。

 しかし、そこまで考えると、途端に思考がぼやけていく。昂る感情を抑えきれず、それが自身の思考を遮っているわけでもなさそうだった。

「まさか……そうか、これが噂の、封神の術か」

「ああ、そうだ。だが驚きだ。この空間内では神の力は使えないはずだが……、その神器のおかげかね?」

 タナーシャの膝が思わず崩れそうになる。彼女の身体から、少しずつ力が抜けていく。同時に先ほどまで互角だった剣と杖の鍔迫り合いも、徐々にアムゥが優勢になっていく。

「だが、どうやら、君も完全というわけではないらしい。先ほど、君がバルーへの攻撃を対処しきれなかったのが、その証左」

 アムゥはそう言って、剣を振り上げる。剣に弾き飛ばされ、タナーシャの腕が、杖と共に上空へと跳ね上がる。そしてその隙を狙い、アムゥは左手で、タナーシャの首を掴み、彼女を持ち上げた。

 強く喉を締められ、もがくタナーシャは、アムゥの腕を何度も叩くが、しかし彼は全く手の力を緩めなかった。

「諦めろタナーシャ。こうなった以上、お前に勝ち目は……」

 アムゥが勝利を宣言しようとすると、彼の身体に槍が突き立てられる。鋭く、かつ重い一撃ではあったが、それをもってしてもアムゥは一切たじろがなかった。

「ユイスナ、これは私への背信だと受け取っていいのかね?」

「私は、<ユヴァート>のために仕える者であり、貴方の僕ではありません。私は貴方をこそ、この国の最大の障害と認めました。彼女を離しなさい、アムゥ」

 ユイスナが、敬称を用いず彼の名を呼んだことは、アムゥだけでなく、友のアースにも驚きであった。

「だが非力だな。力なき信念ほど無駄なものも無いぞ、ユイスナ」

 しかしアムゥは、彼の身体に突き立てられていた槍を、右手で軽く払うと、ただそれだけで、ユイスナの身体が後ろに吹き飛んでしまう。決して足から力を抜いたわけではなかったが、アムゥの腕力は遥かに彼女の膂力を凌駕していた。

「この場で、私に歯向かえるのは、タナーシャのみ。黙って貴様らは裁きを待つがいい」

 すでにタナーシャは限界に来ていて、意識を失いつつあった。

 一方で、傷つく友人を見て、ヴァラムはある行動に移っていた。彼は、決してその行為が状況を打破するものだとは思ってはいなかった。ただ彼は、自分にできる唯一のことをしようと、思ったに過ぎなかった。

 彼は懐から、手のひらに収まる程度の小さな金属の容器を取り出し、それを黒泥に覆われた床に突き立てる。するとその容器は、蒸気を噴き上げ、容器の側面についた発光体が、赤い光を明滅させる。その光が強くなるにつれ、その容器が突き立てられた床から、黒い泥が消えていき、元の床の絨毯が露になる。容器の発光体は、徐々に明滅を止め、完全に赤い光が常に点灯するようになったのを見て、ヴァラムは即座に右腕に機械義手を装着し、全力で床を叩いた。

 床板が崩れ、人が一人か二人入れる程度の穴が開いた。それと同時に、虚ろになりつつあったタナーシャの瞳に、再び力が宿る。彼女は再び自分を絞めるアムゥの腕を叩く。すると今度は、彼の腕はぐしゃりと、鈍い音を立て、その前腕が真ん中で歪にひしゃげる。結果、アムゥはタナーシャの首から手を離し、タナーシャもすかさず離脱する。アムゥはしかし痛みなど感じていないかのように、すぐに状況の把握に努める。この事態を招いたのが、ヴァラムの開けた床穴であることには、瞬時に気が付いた。

 アムゥは折れていない右腕をその穴に向けて掲げる。するとたちまち、穴を再び黒い泥が包もうとする。だがそれに気づいたのはアムゥだけではなかった。

 穴を包もうとする泥は、突如動きを鈍らせた。それを阻害していたのは、タナーシャであり、彼女もまた穴に向けて杖の穂先を向けていた。

「ヴァラム!私が泥を止めている間に、その穴を通り、ここから逃げろ!!」

 タナーシャがそう叫ぶが、ヴァラムは困惑した様子であった。

「待てよ、それだとタナーシャが!!」

 ヴァラムにも、それが意味することが、彼女を見捨てることであると理解ができた。そして、彼がそう言うことも、タナーシャは予測できていた。

「アース、私の友人を頼んだ」

 タナーシャのその言葉の意味は、アースには理解できた。

 アースはタナーシャに礼を言うように一瞥した後、床に臥せっていたバルーと、そして困惑した様子のヴァラムを両脇に抱える。

「ちょ、アース!離せ!」

 必死に暴れまわるが、しかしひ弱なヴァラムではアースの拘束から逃げることはできなかった。彼の抵抗もむなしく、アースは穴に飛び込んでいく。

「ユイスナ、君も逃げろ。彼はもう君にも容赦はしないだろう」

 ユイスナもまた、わずかに逡巡するものの、すぐさま意を決し、穴をくぐった。

 彼女が通った後、床の穴はただちに泥に覆われてしまった。

「愚かな、自分だけ逃げることもできたものを。どうやら判断も鈍ってきたようだな、タナーシャ」

 アムゥはそう言いながら、再び力を失って床に膝をつくタナーシャの首を、手でつかんで持ち上げた。

「いや、私の判断は間違っていないさ。お前を止めるのは、私ではない。何故ならお前にとって、最大の障壁は私ではなく、ヴァラムとバルーだからだ」

「負け惜しみを……」

「違うな。確信を持って言えるよ。お前が最初にバルーを襲った理由、それは彼が魔力を喰らう力を持っていることを知っていたからだ。そして次にヴァラムを狙ったのは、彼が宇宙を旅する飛空艇を開発している以上、『あの技術』を手にしている可能性が万に一つもあったから。この結界を張った時点で、私は最早お前の敵ではない。だから貴様は、この結界を壊すことが可能なあの二人を先に狙った」

 力は弱りながらも、まるで自分が優位にあるかのように、勝ち誇った表情を見せるタナーシャに苛立ちを覚え、彼はタナーシャを全力で壁に投げつける。

「……が、は、はは。その怒り、どうやら、私の仮説は正解らしい。アムゥ、彼らは必ず貴様の元へ戻るぞ。お前を倒す力を、そして知恵と技術を身に着けて」

 アムゥは煮えたぎる怒りの炎を必死に抑え込み、タナーシャを見下す。

「ならば、私は、追手を出し、貴様の友を裏切り者共々皆殺しにするまで。貴様の加護がない彼らに何ができる?私の結界に綻びをもたらす程度の技術と魔術で、七番隊の手から逃れられるとでも?」

「ああ、その通り。私は彼らには不可能などないと信じている。どのような困難も彼らには打破できると知っている」

 虚ろになりつつある意識の中で、タナーシャは最後まで希望を口にした。

「……もしそうならば、私は終末を早めるのみよ」

 しかしタナーシャは既に意識を手放しており、そのアムゥの最後の呟きは、彼女の耳には届かなかった。


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