真実の中で 第一節
一人、古いぼろ布の外套を羽織って、街を歩く少女がいた。ふらふらと、幽霊のように、今にも倒れてしまいそうな、おぼつかない足取りで、その少女は行く宛もなく彷徨っている。だがその様子を見て、不気味がる者はいない。街は、風と木の揺れる音、そして不気味なまでに低い、獣の唸り声のような雑音だけがあった。
人々の姿は見えない。ただ目につくのは、いつから取り残されたのかを物語る、街の至る所に繁茂する蔦と、建物に走る無数のひびだけ。しかし無人の都市には、その代わりに何かが住み着いていた。
彼らは久しぶりの来訪者にいきりたち、空腹を満たす新鮮な肉に、喉を鳴らす。無いはずの胃袋が、その欲を満たせと彼らを駆り立てる。毛皮の代わりに、赤と紫の血管を思わせる異様な光を全身に纏い、その瞳は赤く爛々と輝く。
自分を襲おうとしている存在が近づいているにも関わらず、その外套を纏う少女は、歯牙にもかけず、歩き続けていた。じりじりと、にじり寄る獣たち。何の合図もないのに、獣たちは一気に、少女へと飛び掛かった。
四方八方、数えることすらできないほど、無数の獣に囲まれながら、なお少女は動じない。
狼の姿をした魔獣は、その牙で、獅子の姿をした魔獣は、その爪で、鷹の姿をした魔獣は、そのかぎ爪で、少女に襲い掛かった。だが、外套が破ける中で、少女はその猛襲に血の一滴も流していない。埃や煤で汚れてはいたが。その肌に傷を付けられるものはいなかった。
「邪魔だ」
彼女がようやく反応したのは、しがみつく魔獣のせいで、その足が止まってからだった。
「<太陽神>」
少女が神の名を呟くと、彼女を中心に、強烈な光が放たれる。まるで太陽が地上に降りてきたかのような、強烈な光の爆心地で、たちまち無数の魔獣たちは塵となって消えていった。
魔獣たちが消え、足を阻む者がいなくなると、少女はまた歩き始めた。
それから、数分が経っただろうか。この街は、黒みがかった煙で包まれ、昼にも関わらず、暗く、そのため時間の経過を実感しづらかった。
もくもくと歩を進める少女は、突如足を止めた。また、彼女の近くに何かが近づいてきたからだ。
「タナーシャ様」
その近づいてきた何者かの正体は、その声を聞くと同時にすぐに彼女は理解できた。
「エネテヤ……?」
振り返ると、蒼い光に包まれた女性の姿。輪郭は光でぼやけ、はっきりと表情は見て取れない。しかしその声、所作、そしてその神気が、彼女が、亡くなったはずの祖国の巫長、エネテヤであることを示していた。
「こちらへ」
かつての友との再会に、タナーシャの顔に感情が戻る。しかし何と言えばよいか逡巡し、そしてその状況に混乱している間に、エネテヤは一言、そう呟いて、後ろを向く。
「待て、待ってくれ!」
エネテヤは、タナーシャの呼び止めを聞かず、浮遊しながらどんどん離れていく。タナーシャは慌ててエネテヤの後を追いかける。
最初は早足で追いかけていたが、何とか追いつこうと、タナーシャは足を速め、小走りし始める。しかし、一向にエネテヤとタナーシャの間の距離は縮まらない。それを不思議に思って、彼女は徐々に速度を上げていくものの、不可解にも、やはりその距離は縮まらない。
何度か曲がり角を曲がった後、その先にあった四つ辻で、タナーシャはエネテヤを見失う。恐らくは平均的に貧しい人々が住んでたであろう住宅跡は、複雑に細かな小道が入り組んでいた。
神気を辿って、タナーシャは三つに別れた道のうち、左の道を選んだ。自信は無かった。エネテヤとの再会で衝撃を受けたものの、長らく蒙昧なままでいたせいで弱った感覚は、かつての友の神気すらはっきりと追いかけられないほどに衰えていた。
突き当りまで行くと、またその道は左右二つに分かれていた。最初に右を見て、次に左を見る。すると左の道の先、その突き当りの曲がり角で、エネテヤの青く光る後ろ髪がちらりと見えた。
急いでタナーシャは走り、エネテヤを追う。その先は徐々に建物がまばらになり、そのおかげもあってか、もう見失うことはなかった。その道は真っ直ぐ続いていて、その両端の土地は、道よりも低くなっていた。土は荒れ、雑草が生い茂っていたので、初めはそれが何かタナーシャはわからなかったが、それが元々は畑で、自分が今歩いている道が、畦道であることに気づく。
畦道は長い一本道で、その先には平地の中で不自然に、背の高い木々が生い茂る林があった。エネテヤは、その林の中に入ると、初めて足を止めた。そして後ろを振り返り、必死に追いかけるタナーシャの顔を見るや否や、すぅーっと、足元から順番に消えていった。
「待って!待って!エネテヤ!!」
消えていくエネテヤを見て、最後に見た彼女の後姿が思い浮かび、涙を流しながら叫ぶタナーシャ。その声もむなしく、エネテヤはあっという間に消えてしまった。エネテヤがいたはずの場所に立つが、もう彼女の気配はそこにはなかった。悲しみのあまり、項垂れてしまいそうになるところに、突如として、タナーシャの頭に声が響く。
「何をしているのです。顔をお上げなさい」
その叱咤を聞いて、タナーシャは顔を上げる。しかしやはりエネテヤの姿はどこにもない。しかし少し冷静さを取り戻した彼女は、あたりの様子を伺う程度の余裕が生まれた。
最初に気づいた違和感は、この林そのものの雰囲気。強い魔力が籠っており、魔獣の唸り声や、足音が辺りの茂みから聞こえてきた。そしてその魔力の中に、また別の気配もあった。魔力が強すぎて、何かはわからなかったが、前の方をよく観察すると、繁茂する木々の僅かな隙間から、人工物のようなものが見えた。獣道すらない、茂みをかき分けながらその人工物へと近づいていく。数歩歩くと、その正体はすぐに分かった。
「神居……」
もはや見慣れた、あの巨大な石の扉。まるで樹木に守られるかのように、その林の中心には神居が堂々と屹立していた。
そして、それを見た瞬間、彼女は全てを察した。何故エネテヤが現れたのか。なぜ自分がこの街を選んだのか。この世界に偶然など存在しない。全ては、かの七柱の創世神がこの世を造った際に決まっていた。それは、精緻かつ巧妙な、大いなる青地図に書き込まれていたこと、すなわち、運命であるのだから。
タナーシャが、エネテヤの後を追って、神居に足を踏み入れるその一日前、つまり、タナーシャが、<ズクマット>の葬送祭殿にあった神居から走り去った後に、時は遡る。神居から、彼女の後を追って、急いで出たバルーとヴァラムであったが、もう彼女の気配すら感じられなかった。
「どこに行ったんだ、アイツ」
「ひとまず、野営地に向かおう。いずれにせよ、飛空艇が無ければ遠くへは行けまい」
バルーとヴァラムは体の困憊を忘れて、夢中で駆ける。行きは三十分かけて歩いてきた道を、その半分以下の十分強で走り切る。思わず呼吸困難になりかけ、激しく息を整えるヴァラムと、流石に疲労を隠せないながらも、バルーは辺りを見渡す程度の余裕はあった。
しかしそこにもやはり、タナーシャの気配はなく、すっかり燃え尽きた焚火の後と、ヴァラムの飛空艇しかなかった。
「ここに来た痕跡もない。一体……」
「なぁバルー……、もしかして……水晶門を……使ったんじゃ……ないか?」
ぜぇぜぇと呼吸を繰り返しながらも、ヴァラムは必死に言葉を紡ぐ。
「それはあり得る。どちらにせよ、街の方には行った方が良さそうだ。ヴァラム、走れるか?」
「ああ、何とか」
ヴァラムは体を起こして、何とか返事をする。だがそれを見て、バルーは、
「いや、君はここにいてくれ。もしかしたらタナーシャがこっちに来るかもしれないし。それにタナーシャが水晶門を使ったとしても、ここに飛空艇は置いていけないだろ?」
と、ヴァラムの肩に右手を置きながら諭した。
それもそうか、と少し申し訳なさそうな様子で、その場にへたり込むヴァラム。
「君はよく頑張ったよ、ヴァラム。あの連戦の後なんだ。少し体を休めた方が良い」
そう言って、バルーはヴァラムを置いて、あっという間に走り去っていった。
「全く、連戦の後、っていうなら、お前も一緒だろうに」
ヴァラムはそう呟いて、地面に仰向けに倒れ込む。実際に、彼はもう立ち上がる気力すら残っていなかった。彼にできるのは、悔しさに奥歯を噛むことだけだった。
その数分後、バルーは<ズクマット>の市街地に到着していた。水晶門は、以前ここに買い出しに来たときに目にしていたため、場所は覚えていた。それは以前、遷者が、街の人々に囲まれていた広場の近くにあり、その場へと通じる大通りの中央に、堂々と鎮座していた。
「ついた」
流石にバルーも疲れで体が重くなり、膝に手を置いて、大きく呼吸を繰り返していた。
ある程度呼吸を整えた後、水晶門の端末を操作し、移動履歴を確認する。本来水晶門の利用履歴は、一般市民には使うことができず、それぞれの門に設定され、その門の管理者、大抵はその地域の有力者や首長などだけが知る暗号を入力する必要がある。しかしそれは高い魔術の知識があれば別である。
「タナーシャが去ってからの移動履歴は、三件か」
端末の液晶には、利用時間とその行先、あるいは来し方が列挙されている。バルーは液晶画面を右手の人差し指でなぞりながら、文字を読んでいく。
「どれだ……、<プカミ>……確か<ディディミー>の旧首都だったよな。<ユスン>……どこだっけか。<ウッツ>大陸の方か?最後が、今から十分くらい前、<ルスヌ>……、<ルスヌ>?」
最後の地名は、バルーにも聞き覚えのあるものだった。思い出そうとするも、疲労と焦りが思考の邪魔をする。
「おい、そこの」
突如後ろから声がかかり、バルーの心臓の鼓動が跳ね上がる。水晶門の不正使用が指摘されたのだと思い、慌てて水晶門の液晶画面を隠そうとするが、焦りで上手く端末の操作ができない。
「おーい!」
もう一度声を掛けられたので画面を慌てて自分の身体で隠すようにしながら、勢いよく振り返る。そこにいた人物は、先日出会った、遷者の男性、エルファミーシャだった。
「なんだ、何をそんな焦ってんだ?確か、バルーって言ったか?あとの二人は?」
「えっとエルファミーシャさん、でしたよね?いや、何でもないんだ。ただ次に行く目的地を考えていてね!」
尚早からか、どんどんバルーの口の回りが早くなっていく。エルファミーシャは、何を隠しているんだとも言いたげに、身体を左右に傾けるが、それに合わせてバルーも同じ方向へ体を傾ける。このやりとりに業を煮やしたエルファミーシャは、バルーの腰に両手を添えると、思いっきり体を持ち上げてしまった。突然のことにバルーは脚をバタつかせて抵抗するが、エルファミーシャの拘束から逃れられるほどの余力は残ってはいなかった。
「おいおい、こりゃ、水晶門の移動履歴か。ははーん。ただもんじゃねえとは思っていたが」
「ち、ちがうんだ!これは緊急の事で!というか降ろしてくれ!!」
ぶらぶらと、高く掲げられたバルーの姿は、まるで親と戯れる子供のようで、バルーには気恥ずかしかった。
「おおすまん。しっかしお前さん、わりーことするようには見えなかったが、何してんだい?」
「いや、それが、僕たちの連れの一人と離れ離れになってしまったんだ。そうだ、エルファミーシャさん、僕たちと一緒にいた、長い金色の髪を持った少女を見かけなかったか?」
エルファミーシャは、バルーをそっと降ろす。
「悪い、見かけてねえよ。俺もあんまり外出する人間じゃなくてな。わかるだろ?それより、ちょっと気になるんだが、その画面は何か故障、とかじゃないんだよな」
「画面、って水晶門の端末のことか?壊してはいないとは思う。あくまで暗号を解析して、正規の処理をしただけだからな」
そう言われて、エルファミーシャは画面を近々とのぞき込む。
「うーん。ならやっぱり間違いじゃないのか。この<ルスヌ>行きの履歴」
「そうだ、エルファミーシャさん。<ルスヌ>、聞き覚えがあるんだが、知っているのか?」
そう言われ、エルファミーシャは少し苦い顔をした後、バルーの耳元でささやく。
「ちょっと、ついてきてくれるか?」
エルファミーシャは、顔をバルーから離し、静かに歩いていく。バルーは少し状況が飲み込めていなかったが、画面を元に戻した後、エルファミーシャの後ろをついていった。
少し離れた人通りの少なそうな路地に二人は入ると、エルファミーシャは足を止めた。
「それで、<ルスヌ>の話だったよな。お前さん、若そうだからまだ生まれていなかったんだと思うが、今から大体30年前だったか、魔力炉爆発事故があったんだよ」
それを聞いて、バルーはようやく記憶の点と点が繋がり、その街の歴史をにわかに思い出した。
「そうだ、そうだそうだ!魔力炉事故の場所じゃないか!」
「おー、知っていたのか。若いのに感心だな。既に報道では決して流されなくなったが、未だ魔力瘴気は濃いままのはず。もしお仲間が行ったのなら、早く追いかけた方が良いが……、とはいっても、対策無しで行けば、お前さんもタダではすまん」
バルーはこめかみに手を当て、考え込む。タナーシャは強い神気を取り戻しており、恐らく魔力瘴気の中でも、安全に過ごせる。単独で行動し、自分たちを避けるための場所としては、絶好の地だ。しかし一方で、瘴気の中で生まれた魔獣は強力。さらにここで追いかけなければ、タナーシャの消息は今度こそ完全に追えなくなってしまう。とはいえ、自分たちに、瘴気を防ぐ手段が無いのも事実であった。
「どんな事情かは知らん。喧嘩別れでもしたのか。お前たちの事だから、きっとお互いのことを思い合ってのことなんだろうが。けど、後悔だけは無いようにな。年寄からの助言だ」
そう言い残して、エルファミーシャは去っていった。しかし後悔だけは無いように、という彼の一言は、間違いなくバルーにとって必要な訓示であった。
バルーは急いで走り、ヴァラムが待つ、停泊所へと向かった。
疲れを忘れ、一心不乱に走る。
停泊所で、いつでも飛べるように飛空艇の推進器の火入れをし、機器の状態を確認していたヴァラムは、窓から走ってくるバルーを見て、飛空艇を降りた。
「バルー!手掛かりはあったか!?」
「ああ、タナーシャの行先はわかった。だが問題がある」
バルーは自分が呼吸をしていないことに気づき、一度息を大きく吸いこんで、一気にそれを吐いた。そしてそれを二、三度繰り返して、呼吸を整え、再び話し出した。
「<ルスヌ>に行ったんだ。だけどあの場所は、魔力瘴気が強くて、僕たちがあそこに何の対策も持たずに行けば、命に関わる深刻な症状が出かねないんだ」
「それ、タナーシャは無事なのか?」
「魔力瘴気は異常濃度の魔力だ。神気を持つタナーシャなら、そんな中でも無事だろう。だが、早く追いかけないと、タナーシャが、<ルスヌ>の水晶門を使って、別の場所へ行けば、そのまま水晶門を何度も経由されてしまうと、もう僕たちはタナーシャの行方を追う手段が無くなる」
ヴァラムは事情を把握し、自分にできることが無いか模索し始める。
「試したことはないけど、俺の魔力障壁が役立つかもしれん。だけど瘴気って、確か計器とか回路が駄目になるんだよな。飛空艇の設計図の中にそんなことが書いていたはず。宇宙空間飛行の障害の一つなんだと」
「つまり、魔力障壁が役立つか、それとも瘴気が障壁装置をだめにするか、ってところか」
「勿論、俺の親父の事だ。この魔力障壁が、宇宙空間での航空と大気圏突破のための防護壁である以上、瘴気も想定した性能のはずだ」
しかし、確信はできないのも確かだった。ただでさえ、彼の父の飛空艇は、魔力不足の問題が解決されておらず、更には魔力障壁の機能は、携帯用に改造したため、その性能に変化が生じたとも限らない。
「けど、答えは一つ、だよな」
ヴァラムが、そう呟きながら、隣の飛空艇を見上げる。
「行こう、バルー」
「ああ、行こう!」
二人はその後、すぐに飛空艇に乗り込み、<ズクマット>を後にした。
「はぁ。はぁ」
少女が、魔獣の群れの真ん中で立ち尽くしていた。彼女は肩で息をしながら、口から血を流していた。元々全身のあちこちに汚れが染みついていたが、そこに新しく赤い染みが点いている。
ここは神居の第一階層、第一の試練の場である。神の寝所に蔓延った汚れを落とす試練。今までの神居では、あまり苦戦したことが無い試練であったが、今タナーシャが倒した魔獣はせいぜい三体。そして未だ数え切れないほどの魔獣が、第一階層にひしめいていた。
「なるほど、今の私ですら力不足というわけか。よほどの神がいるようだな、エネテヤ」
青い光の亡霊であるエネテヤは、かつての王子の言葉に答えない。
一頭の、狼の姿をした魔獣が、タナーシャの方へと牙をむきだして走ってくる。彼女はその上下の顎を両手で受け止める。前歯がそれぞれの手のひらに食い込みはするが、最も鋭く尖った上下二対の犬歯が、その肌に突き立てられることはなかった。
「うおぉ!!」
歯を食いしばりながら、喉奥から唸り声をあげるタナーシャ。彼女は力一杯に、その顎を上下に引き裂こうとするものの、彼女の腕力と、魔獣の咬合力はほぼ互角で、その口は閉じもしなければ、それ以上開きもしなかった。
「<戦いの神、その腕は、大地を引き裂き、天を支える!>」
神術の詠唱と共に、タナーシャの身体が光に包まれる。光が強くなるたびに、魔獣の顎はどんどん開いていき、ついには、タナーシャは魔獣の身体を半分に引き裂いてしまう。
その後も、次から次へ飛び掛かってくる魔獣を、その神術で強化した両腕を用いて仕留めていく。自分の体躯の何倍もある巨体の魔獣さえも、片腕で吹き飛ばし、その拳は、硬い鱗に包まれた魔獣も、貫きとおすほどの鋭さを持っていた。
しかし六体目の魔獣を倒すと同時に、彼女は背後から静かに迫っていた、大蛇の魔獣の牙に襲われる。大蛇は、タナーシャを丸のみできるほどの大顎を精一杯に開き、タナーシャの胴体に噛みついた。下あごの一本の牙が、彼女の右の横腹にぐさりと刺さったが、残りの鋭い三本の牙は、不幸中の幸いにも、彼女の身体を掠めただけであった。
右ひじを、自身の身体に深々と刺さった牙に振り下ろし、それを真っ二つに折ったものの、傷口からどくどくと流れ続ける鮮血が、その傷の深刻さを物語っていた。
「おのれ……そう、容易くはいかんか……」
だが、決して彼女は諦めない。むしろ、痛みが、生気を失いつつあった彼女の瞳に闘志を燃やすための薪となったのだ。ギラギラとしたその双眼が見つめるのは、神の僕となり、彼女をここまで導いた、エネテヤの姿であった。




