水底の鳥 第一節
「ほら、見えてきたぞ。海」
ヴァラムが指で示した先に、青い空と緑の大地の間から、碧い水平線が顔を覗かせた。
「ああ、<オーシヴ>は巨大な商業都市だ。貨物船も複数あるだろう。停泊地に、混ざって着陸しよう」
タナーシャの提案通り、ヴァラムは海に隣接し、大小さまざまな飛空艇が停泊する港へと着陸する。
「さて、まずは街中へ行こう。まだ聖騎士隊の連中は報道機関に我々の情報は流していないらしいからな。いや、恐らくは今後、我々に大々的に手配が回ることはあるまい」
「確かに、タナーシャに関しては、聖騎士隊の連中、わざわざ一人一人に直接聞き込みしてたもんなぁ。けど、俺らはどうなんだ?タナーシャが無理でも、俺たちを手配することなら……」
ヴァラムの疑問に、タナーシャは静かに首を振る。
「いや、それも心配する必要はない。君たちは孤児だ。孤児を聖騎士隊たちが追跡している、なんて報道機関への心証は最悪に近いだろうからな。それにアムゥの直属の部下である第一部隊はほぼ全壊。それ以外の部隊は、治安維持や災害救助を担当しているから、彼は今自由に動かせる配下がいないはずだ」
「そう、なのか……」
その後、三人は飛空艇を降り、街へと向かう。<ユーメク>や<フュヌター>と違い、往来を行きかう人々は賑やかで、活気づいていた。二歩、三歩と歩く度に、異なる人間の異なる営みに出会う。会話、運動、商売、人の喧騒のあらゆる形が、街の中に溢れていた。
「さて、まずは……」
ヴァラムが今後の予定について話そうとするが、それを腹の音が遮る。
「飯、だな!」
腹の音に答えるように、彼はひとまずの行先を決定した。
「へい、お待ち。海老の網焼き、黒海貝の酒蒸し、鮮魚の五種盛り、サラダに、スープ、どれも全部、この近くの海で朝に取れた海鮮尽くしだ。たーんと食べな、旅人さん」
恰幅が良く、太陽の影響で健康的に焦げた料亭の主人が、大量の料理を一人で抱えてやってくる。
「うはぁ!美味そうだ!」
思わず飛び上がりそうになるほどに、机の上の馳走に目を輝かせるヴァラム。彼ほどではないが、他の二人も、表情が綻ぶのを抑えることができない。
「うーん、どれもこれも絶品だね。この網焼きも、素材は勿論のことだが、味付けが妙だ。簡素な料理に見えて実に奥が深い。ああ、是非これらの調理法を教えてほしいものだ!」
全ての皿から少しずつ取っては、すぐに口に入れ、そして二周、三周と、繰り返し料理を吟味しては、毎回異なる感想を言っていた。バルーとタナーシャは、よくもまぁそこまで饒舌になれるものだと、料理以上に感嘆していた。
「ふふ、こりゃ、二皿目食べるころには秘密を全部暴かれちまいそうだね。あんた、多分料理人、いや機械技師だね?」
ここにきて彼は初めて手を止める。
「いや、驚いたな。どうしてわかったんだ?」
「はは。料理が得意な人間は大抵機械いじりも得意なもんさ。逆もまた然り。私も子供の頃は機械技師の母から色んな技術を学んだもんさ。結局は料理の道を選んだが、今でもたまに通信機や家電を自分で直したりはできるんだぜ?」
彼女はそう言いながら、自慢げに、それでいて力強く微笑む。
「機械と料理は似てる、ってことか?」
「その通りさお嬢さん。料理も機械も、本来交わることのない素材を、長所を活かしつつ、短所を補わせながら、組み合わせたり、削ったりする。どちらも必要なのは同じ。素材の本質を見極める目と知識、作品を完成させるまでの正確な道筋を建てる知恵さ」
タナーシャの質問に答えながら、主人はヴァラムに目を配る。
「しかし、俺はそんな大層なもんじゃないよ。技術者としても、まだ半端ものさ」
彼はそう自分を卑下しながら、目の前の料理を見つめる。
「ふふ、謙遜しなさんな。いや、アンタはそんなタマじゃないねぇ。だとすると、うん。私にも覚えがあるがね。アンタ、誰か師匠みたいな人がいるんだね?そしてその人は、きっと偉大で、越えがたい壁なんだろう」
「ああ。俺の父親が残していった発明品を見ると、俺の矮小さをいつも思い知らされる」
すると主人が、隣の机から椅子を一つ引き、ヴァラムたちの席の近くに座る。
「私の師匠は、非常に著名な料理人でね。しかし弟子は決して取らないことで有名だったが、志願者は後を絶たなかった。彼は皆の目標と言える人物だったし、それに彼の料理が一代限りで途絶えるなんて許しがたかった。私もそんな中の一人だったが、運よく弟子に選ばれてね。それで彼の料理の中には『黄金の一皿』と呼ばれるほどの、究極の作品があったんだ。私はその味に憧れ、そして後世に伝えたいと躍起になった。彼はその料理についても私に教えてくれた。けど、何故か上手く行かなかったんだ。何度も失敗したよ」
全員のコップに氷水を注ぎながら、彼女は話を続ける。
「そんなある日の正午、彼は私に『黄金の一皿』を振る舞ってくれたんだ。失敗続きの私を慰めるためか、何かを気づかせるためだとその時は思った。実に美味しかったよ。これが憧れていた味だと。感動の声を上げた。さっきの君みたいにね。そしたら、彼はこう言ったんだ。『それは今日の朝、お前が失敗作と言って机の上に置きっぱなしにしてたものだ』ってね。彼はその後こう続けたんだ。『達人の模倣ができるのは達人だけ。だが達人はそれに満足しない者だ』とね」
「だけど……」
ヴァラムが何かを言い返そうとしたとき、主人は彼の口に右手の人差し指を当てる。
「『だけど』は無し。それは道を見失う第一歩だ。まずは自分が自分を信じないと。もし模倣に納得いかないのなら、新たな作品を作ってみると良い。想像力を働かせ、創造性を呼び覚ます。きっとアンタはそれでも自分を疑い続けるかも。けど最初の一歩を踏み出した時、きっと私が正しいことを理解できる」
そう言って、彼女は座っていた椅子を元に戻し、厨房へと踵を返した。
その後、彼ら三人は残った料理に舌鼓を打ったが、ヴァラムは先程のように喋ることは無かった。
食事を終えた後、三人は拠点として旅籠を探し、そして手ごろなものを見つけ、部屋の中で今後の作戦を話し合っていた。寝所の上には、<オーシヴ>の地図と、研究者であり、ヴァラムの母の手帳が広げられていた。
「さて、君の母の手帳では、神居が<オーシヴ>のどこにあるかまではわからない。しかし彼女の研究を信じるなら、この神居には十年以上前から既に、神聖晶が存在することになる。つまり」
「魔獣が昔から大量に発生していた場所がある、ってことだな」
その通り、と頷くタナーシャ。
「だけど、街は平穏そのものだ。とてもじゃないが、魔物に溢れかえっているようには見えない」
バルーの言う通り、街は賑わいを失っていない。
「だが、それはある可能性を導いている。神居は、神の属性に近い場所に存在する。<トゥーム>は山の神だから、神居は山の麓にあった。そしてもし、この神居が海の神なら、その神居は当然」
タナーシャが指さす先には窓があり、そして窓の外側には青い海が広がっていた。
「海の底か……。それなら魔獣が増えても、影響はわかりにくい。ひょっとすると漁には影響が出てるかも。まずは漁師に聞き込もう」
バルーの提案を、二人は頷いて同意する。だがヴァラムはその後すぐに、顎を擦って、浮かび上がった疑問に頭をもたげる。
「うーん?そいや気になってたんだが、どうしてあの神居の神が<トゥーム>ってわかったんだ?山神って言ったって、色々いるんじゃないか?」
「ああ、玄黄星は神気が少ないから、<外なる神族>だけが呼べるんだが、<ジェヴァイヴ>大陸だと、基本的に<セタク>神の系譜の力が強いんだ。実際、エネテヤが君の前で使ったのも、どちらも<セタク>神族の<パルヴューシ>と<ペキトゥート>の術だっただろう?この神族では山神は<トゥーム>だけ。もしこの近くの神居が海の神の物であるなら……、<ウサップ>だろうな」
ヴァラムはタナーシャから答えを貰ったにもかかわらず、未だ納得がいっていないような表情をしていた。
「そうなると、第二の試練って、なんで試練なんだろうな。その知識って、神術を使う巫なら、誰でも知ってるんじゃないか?」
「それは……。神の意思を完全に諒解することは不可能だが、第二の試練は恐らくは神の名を唱えることが重要なんだろう。神の居所を清め、神の名を唱え、神にその力を証明する。試練と言われてはいるが、実際はこれら三つは、神術を使う要素と酷似している。もしかしたら本当は逆なのかもしれないが、真相はユーファンに聞くしかないな」
ユーファンという名前を聞いて、ヴァラムは頭の上に疑問符を浮かべる。
「ユーファン、知らないのか?」
「し、知ってらぁ!学校でちゃんと習った!ほら、あれだろ。七つの風を纏うっていう……」
「それはカドック。ユーファンは神術の鼻祖にして、最初の英雄。つまり歴史の出発点だぞ。全く、本当に君は、昔っから歴史についてはからっきしダメだな」
友の言葉に、ヴァラムは少し赤面する。
「お、俺だって、歴史上の人物は知ってるぞ!黄金王伝のヘイオス!」
「むしろ君は、ヘイオスしか知らないだろ」
バルーとヴァラムのやり取りを、タナーシャは一人、微笑みながら眺めていた。
今までの逃避行において、ここに来るまで切羽詰まっていたためか、二人がこうして仲睦まじく会話しているのを彼女は見たことがなかった。
だからこそ彼女は、この景色を二度と奪ってはならないと、決意を新たにした。
潮の香りが鼻孔を擽り、海鳥が獲物を狙って空を滑空する。眼前に広がるのは、計り知れぬほど膨大な水を湛えた巨大な海洋。海と大陸の境界には、鼠色の人工的な大地が、波濤を受け止め、船をつなぎとめる。人々は新鮮な魚で一杯になった巨大な箱を運び、船の整備を行う。まだ西日は差しておらず、未だ日は高いが、この場にいる人々も船も、既に仕事を終えたようであった。
その一角で、船から降りようとしていた一人の船乗りの男性に、ヴァラムら三人は聞き込みを行っていた。
「魔獣が増えたか?うーん、この十年、ずっと魚を取ってきたが、漁獲量が大きく減った、ということはないねぇ。どうしてだい?」
「いえ、そういうことなら大丈夫です。ありがとうございます」
そう言って、バルーは一礼をした後、残りの二人を連れて港を離れた。
「どの漁師も、それも長いことこの仕事を続けている者でさえ、魔獣は増えてないと言う。なら、それが示すのは……」
「神居は海に無い、ってことか!?」
「違う」
少しは頭が回ることを示そうと、ヴァラムがバルーの言葉に割って入ったが、その内容は彼が意図したものではなかった。
「もし海に無いなら、それこそ魔獣が街に襲撃をかける。可能性としては二つ。神居が既に攻略された、ということだが」
バルーがちらとタナーシャの方を見ると、彼女は頭を横に振る。
「いや、もし神居がヴァラムの母親の後の調査後に攻略されたとしても、その前後で魔獣の増加は確認されている筈。しかしこの辺りの漁師は魔獣の出現はおろか、釣果の変動すら確認してないという。攻略はあり得ないだろう」
「ならあり得るのは、神居から流れ出した魔力で生まれた魔獣が、浅瀬にまで出てきていない、ということだろう。生命もいない深い海の底では、濃い魔力は神居の周辺にしかないから、魔獣は海面近くへと出向くこともないんだろう」
「けど、そうなると、深海かぁ。どうやって行く?」
ヴァラムの疑問に「可能だ」と答える声は無かった。
「私の神術が万全な状態なら、海に関する術も使えるはずだが、しかし今の私は<トゥーム>との繋がりで、漸く大地の属性に関係のある神の言葉を用いることができる程度だ」
バルーとヴァラムの唯一の頼みの綱も、あっけなく切れてしまう。
「なら、やっぱり飛空艇を改造するしかないかな。元は星原を飛ぶために設計された船だ。深海の水圧には問題なく耐えられるだろ。とはいえ、そのまま海の中突っ込むわけにはいかんから、機能の追加や、改造が必要だけどな」
すると、ヴァラムは自身の脚絆の衣嚢から、長方形の薄い通信端末を取りだす。彼が端末を少し操作した後、眉を吊り上げ、苦い顔をする。
「あー、ダメだなぁ。<フュヌター>でいくらか食料やら、資材やらは確保したから、流石に船を改修するほどの資金は残ってない」
彼が二人にその端末の画面を見せる。確かにそこに表示された金額は、三人の滞在費としては十分ではあったが、工事費としては心もとない数値であった。
「ふむ、食費や滞在費を切り詰めたとしても、あまり意味はなさそうだ。私の神気と記憶が、どれほどの神聖晶で回復するかはわからないし、今後のことも考えて、少し金子を稼ぐべきなのかもしれないな」
タナーシャの提案を待ってましたと言わんばかりに、バルーは即座に鞄から複数枚の紙を取り出し、二人に手渡した。
「そのことで考えていたことがあるんだ。ヴァル、タナーシャ、良ければ、魔獣退治をしないかい?」
彼の渡した紙は、魔獣退治の依頼書で、それぞれ魔獣の出没地と、特徴、そしてそれに対する謝礼金が記載されていた。
「討伐依頼とは、また古風だな。最近は魔獣の数も減少しているから、あまり盛んではないと思っていたが」
「いや、星界同盟が結成されてから、各国は独自の自衛組織や、軍事配備が中央の許可なしで行うことは難しくなっていて、そのせいかあまり重要度の高くない魔獣の出現地は軽視される傾向にあるんだ。だから魔獣の総数は減っても、魔獣の被害自体はそんなに変化してないんだよ」
バルーの依頼書を二人は受け取り、その内容を確認していた。
「果樹園に夜な夜な魔獣被害、橋の下に魔獣が時折近寄っては魚を食っている。それに……飼い犬の敵討ち、か。小さな被害が多いけど、うん……?」
ヴァラムがぱらぱらと依頼書の内容を読み上げながら捲っていると、そのうちの一枚に目が留まった。
「巨大な海竜が出現……って、おいおい、こりゃ、相当な大ごとじゃないか。報酬金もめちゃくちゃ高い。どうしてこんな魔獣が放っておかれてるんだ」
「……わからない。一旦、依頼主のもとへ行ってみよう。もしこれが本当の話なら、船の改修費のお釣りがくる」
三人は依頼書の金額に釣られて、特に誰も疑問を口にせず、すぐに飛び出した。
夕暮れ時、三人は<オーシヴ>の街の居住区へと訪れた。目的地の家は、二階建ての長屋であった。外からの見た目は、白い塗装で整っているように見えたが、住居の真ん中を貫く階段は埃を被り、鉄製の手すりには錆が付き、夕時というのに照明がついていないものだから、妙に陰気が強かった。
二階の東端にある一室が依頼主の住居であった。
「よし、じゃあ、呼び鈴、鳴らすぞ」
扉の右側の壁についていた端末のボタンを押そうとすると、隣の部屋の扉が開いた。
「あれ、ああ、また来たの」
扉から出てきた、二十代後半くらいの男性が、少し呆れた表情で、三人を見てきた。
「また、ですか?」
「ああ、どうせ海竜討伐のヤツだろ?それなら聞くだけ無駄だぜ。そこの爺さんの与太話なんだよ、海竜なんてさ」
家を施錠しながら、慣れた口調で依頼主についてその男は説明している。
「与太話?嘘なのか?」
「ああ、爺さんが魔獣依頼を要請して、ことの重大さから、聖騎士隊の第二部隊がやってきたけど、言われた場所に海竜なんていなかったんだよ。しかも爺さんは、ずっと胡乱で曖昧な話しかできないもんだから、完全に妄想とみなされたってわけ。けど爺さんが未だ報酬金を取り下げないもんだから、こうして定期的に金に釣られて無駄骨を折りに来る連中が後を絶えないんだよ」
「そうか、情報ありがとう。とはいえ、今日は何もすることがないし、話だけでも聞いていくよ」
無駄だと思うがね、と呟いた後、彼は階段の方へと歩き始めた。
三人は、これからどうするかを決めあぐねたように、互いの表情を見つめ合い続けていた。
「ま、突っ立ててもしょうがない。面白そうな爺さんだし、ちょっと会っていこうぜ」
ヴァラムはそう言って、呼び鈴のボタンを鳴らした。端末からは返事は数秒、帰ってこなかったものの、しばらくしたのちに
「鍵は開いとる」
と声がした。以降、端末から声が聞こえることはなく、三人は意を決して扉を開き、中へ入った。
「お邪魔します。依頼を聞いてやってきた者です」
部屋の中は、一層奇妙な雰囲気だった。部屋は灯りが点いておらず、階段のように闇に包まれていたが、窓から僅かに差し込む西日で、辛うじて部屋の内装を捉えることはできた。
玄関からは廊下が真っ直ぐと伸びており、その左右にいくつか部屋が設けられている間取りであった。その廊下の奥、南側の硝子戸から差し込む橙色の光の中に黒い人影があった。
「貴方が、依頼主のシスラさんですか?」
影の主は、隣人の言う通りかなりの老齢で、元は艶やかな赤色であっただろう髪は、まるで鉄さびのように鈍く、それでいて細く弱っていた。腕には血管が浮き上がっていたが、その身体や顔つき以上に年配に見えるのは、恐らく彼が身に纏う衣服が、古布のようにくたびれていたからだろう。
「おお、おお、よくお出でなすった。私は貴方達をずっと待っておった」
三人を目にすると、途端彼は目を輝かせ、生気を取り戻したかのように、三人のもとへと駆け寄った。
「え、ええ。あの海竜退治の件で……」
「ああ、ああ。竜だ。竜が来るぞ。竜は海だ。海から来る。大いなる竜ではない。偽物の竜。魔の霧より生まれし模造。しかし油断なさるな。あれは強い。この世で最も強いもの、神に唯一牙剥くもの、その模倣者が弱いはずがあろうか!否!」
今まで止まっていた時間を取り戻すかの勢いで、シスラは早口でまくし立てる。それに三人はただ圧倒されていた。
「えと、その、海竜は一体どこに?」
「場所、場所か!皆そればかりを聞く!場所は<ムヴュリウ>の第二区、二番地、〇〇一!海に突き出した岬!灯台の先に行け!そこで竜が姿を現す!だが重要ではない!竜が目覚めれば、場所などは無意味だからだ」
どうする、と、二人に目線を無言で移すヴァラム。一方バルーは、彼の言葉に引っかかって、何かを思案していた。
「『来るぞ』、『場所は重要ではない』……、そうか。シスラさん、その竜は『いつ』、現れるのですか?」
バルーの言葉に、タナーシャも理解が及んだ。
「魔の霧が竜を模すのは、もうすぐだ。竜はもうすぐ現れる。今日と明日の狭間、月明かりに照らされやってくる!それを止められるのは貴方達だけだ。貴方達だけなのです。姫様」
最後にその翁が口走った言葉に、三人は戦慄した。
「待て、何でそれを……」
タナーシャが言葉を発しようとすると、シスラの指先がまるで土人形のようにひび割れた。その亀裂は、徐々に腕へと伸びていく。
「あぁ私の時は尽きた。これが我が役目。姫様に未来の道を作ることが、我が使命。私は常に貴方の傍に」
三人が声をかける暇もなく、シスラは土埃となって、衣服だけを残し、消えていった。
「一体、何が、どうなって……」
シスラだったものにヴァラムは触れるが、それが明らかに人の肉体ではなかった。
「これは、一体……」
「魔力が尽きたんだ。いや、元々尽きてたんだ。物見の塔の連中と同じだ。魔力を術として操るのではなく、魔の中を歩む者たち。自身の『生き方』を固定することで、魔力を手に入れる誓約者。彼の目的は、『姫を助ける』こと……」
バルーはタナーシャの顔を見る。
「だが……私は彼を知らない。そもそもだ、仮に彼が誓約者だとして、未来を見るなど、いや魔力の流れを読めば、あるいは可能か?」
タナーシャにとっても、彼の存在は極めて未知のものであった。そのためシスラの言うことを簡単に信用できなかった。
「まぁ、信用ならない、ってんなら、海竜は無視するってのも手みたいだがな」
彼だったものの懐を漁っていたヴァラムは、立ち上がって二人に一枚のカードを見せた。そのカードには、数字が「一千万」と表示されていた。
「一千万テレム……、報酬の五倍以上じゃないか」
「勿論、本来の報酬だけ引き出して、残りはここに置いておく、ってのも良いと思うが、多分これ全部、姫に渡すための金なんじゃないか?」
肝心のタナーシャは口を紡いだままだった。未だシスラが、正体不明の偏物か、あるいは王家の忠臣かはっきりとしない。
「……わからない。まずはさっき言われた場所へ行こう。もし竜が出るならば、我々で退治する。もし竜型の魔獣なら、被害が出る前に早々に手を打つべきだ。このカードのことは、その時また改めて考えよう」
そう言って、タナーシャは死者に対する祈りの句を唱えると、逃げるようにこの部屋から立ち去った。その後を追うようにバルーも同じく足早に家を後にした。ヴァラムは、いつも冷静な二人が、珍しく焦燥に駆られているのを目にして、しばらくじっと、二人が辿った廊下を見つめていた。その後、指先に張り付いた砂の感触を改めて確かめるように、指先を何度かこすり合わせる。その度に床に零れ落ちていく砂の一粒一粒に、彼は別れを告げ、立ち上がった。




