先輩ごめんなさい
三月。昼間の寒さは和らいだけれど、まだまだ朝晩は冷える時期。
玄関を出た私はほうっ、と溜め息を吐いた。朝の空気に白い息が流れていく。
二月のバレンタインデー、井上先輩のチョコレートはすごく迷った。迷って、迷って、迷った挙句に義理チョコにすることにした。
義理チョコはお父さんと君、そして男子テニス部員。そうしてお茶を濁した。
けれど今日こそ先輩に返事をしなければいけない。なぜなら今日は卒業式。井上先輩は今日、卒業する。返事はこれ以上引き延ばせない。
卒業式の後、私は井上先輩と校舎裏にいた。先輩はいつかと同じように緊張に顔を固くしている。
私も同じように強張った顔になってると思う。何かにすがっていたくて、自分の手をぎゅっと握っていた。
誰もいない校舎裏、私と向き合っている先輩が口を開いた。
「前にも言ったけど佐藤さん、俺は君のことが好きだ。俺と付き合ってほしい」
桜のつぼみはまだ固くて、ほころぶのはまだ先だ。日差しには温度が混じり始め、肌を温めるものなのに私の体は緊張で冷たい。
「返事、聞かせてくれないかな」
表情は固いけど、先輩の声は優しかった。
私は温めることで緊張を和らげようと冷たくなった手をこすり合わせたけど、全く効果がなかった。あきらめて口を開く。
「先輩、私」
先輩はかっこいい。すごく優しい。テニスも上手くて、落ち着いていて尊敬もしてる。
先輩といたらきっとすごく大事にしてくれる。楽しいと思う。
だけど。だけど。
言葉よりも先に、私の目からぽろぽろと滴がこぼれ落ちた。頬が濡れる感覚に自分でも驚く。
やだ。こんな時の涙はずるいから嫌だ。
「そうか」
私の涙を見た先輩は目をつむって、胸にたまった息を吐くように言葉を押し出した。
「ごめん、困らせて」
私は勢いよく首を横に振る。頭と一緒に揺れた髪が、うつむいた私の頬へ涙でくっついた。
先輩、違うんです。困ってなんかいません。
困っていないけど、涙が止まらないんです。
「ご、ごめんなさい」
もっと何か言いたいのに。私から出たのは謝罪だけ。
ごめんなさい。先輩。あなたは悪くないです。悪いのは私です。
あなたの気持ちに応えられないんです。
どんなに考えても時間がたっても、先輩への『好き』は、恋愛の『好き』ではないんです。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ぽろぽろぽろと、言葉の代わりに涙だけがこぼれる。それが先輩への答えだった。
引き延ばして、引き延ばして。挙句の結論がこれだなんて。
先輩のことをどう思っているのか、恋という意味で好きなのか。何度も考えてみた。だけど、どんなに考えても私にとって井上先輩は先輩でしかなかった。
先輩が卒業してしまって会えなくなっても、少し寂しいな、それだけ。
会いたくて会いたくて、たまらない気持ちにはならない。ずっと一緒にいたいとは思えない。
うつむく私の視界の中で先輩の靴がくるりと反対へ向いた。それから動き出す。立ち去っていく。
先輩が行ってしまう。
鈴木先輩に告白した時の彩菜を思い出した。井上先輩もきっと同じように、迷ったり悩んだりしてから勇気を出して告白してくれたんだと思う。
だったら私は答えなきゃ。自分の想いを伝えなきゃ。
「先輩、私」
私はぐい、と涙を袖で拭いた。
「先輩とは付き合えません。けど!」
制服が汚れたけど、構わなかった。先輩の背中に向かって精一杯の声で叫ぶ。
「先輩に付き合ってくれって言われて、びっくりしたけど嬉しかったです。可愛いって言われて、嬉しかったです! ありがとう、ございました!」
私の叫びに、先輩は振り返らず手だけを上げて歩いて行った。その背中を私は黙って見送った。
告白を断るのって辛いんだね。
断られた先輩はもっと辛いんだよね。
先輩の背中が見えなくなっても、私は校舎裏に立ち尽くしていた。長い時間が過ぎて、もう先輩は帰ってしまっただろう頃を見計らい、私は校門へと向かった。
すみれと彩菜には先輩になんて言うつもりなのかを話してある。待っていようかって言ってくれたけど、先に帰ってもらった。
校門をくぐり、学校の前の通りを歩き角を曲がる。通い慣れた家路一人で帰ることは滅多になかったけれど。
角を曲がった途端、私はその場で立ち止まった。
「よ」
なぜか曲がった先の道に君がいたんだもの。
「なんで」
なんで君がここにいるの。
なんで。なんで。
「別に」
君は体重をかけていた壁から背中を離すと、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「帰ろうぜ」
にっと笑った君の子供みたいな笑顔に、私の中へ何かがあふれた。
なんで。なんで。
なんでここに君がいるの。
なんで。
私は今、すごくほっとしてるんだろう。すごく嬉しいんだろう。
なんで君は、いて欲しい時にいてくれるんだろうね。
私の胸へといっぱいに広がった感情は温かくて。また涙が出てしまいそうになったけど、ぐっとこらえた。
流してしまったらもったいない。そんな気がしたから。
だから私はにーっと口の端を上げた。出来るだけ元気よく「うん!」と返事をしてから、走って少し前にいる君の横に並んだ。
 




