狐狸(こり)
長岡は生まれつき病弱な性質だったので、兵役につく歳になってもまだ兵隊に行ったことがなかった。その代わり彼は勉強ばかりしていたが、よく人から世間知らずだと言われていた。
世間の感覚との間にややズレがあるのは長岡も自覚していたが、今まではそのために特に深刻な事態に陥ったことがなかったので、彼はあまり気にしていなかった。それに長岡の周りには、早いうちから「日本人の優れたる精神性」や「日本の優れたる技術力」などを賞賛する文書が出回っていたので、そのような真の日本人でありさえすれば、誰恥じることもあるまいと思っていたのだった。
長岡は勉強していたおかげで英語と中国語がだいぶわかるようになったが、子供の頃は、世間では、遅れた支那(中国)の言葉など学ぶことはない、文明国である西洋の言葉を学ぶべきだという風潮だったのに、最近は西洋の言語が敵性語だとか軽佻浮薄だとか言われて白い目で見られがちなのが不満であった。殊に戦争が始まってからは英語への風当たりが強く、そのせいでドイツ語やイタリア語まで(同盟国の言葉であるのに)とばっちりを受けて自粛するような事態が見られた。
さて長岡は戦争が始まってからもやはり兵役には就いていなかったのだが、戦況が苦しくなってくると、若い男のくせに兵役についていない自分に対する風当たりがだんだん強くなってくるのを感じ始めた。街を出歩いても若い男の姿は少なく、人目につくと「非国民」と陰口を叩かれる。食糧の配給も心持ち少ない上に、「兵隊さんはお国のために戦っているのに」などと当てこすりを言われる。
世間の目が気になって外を出歩くことも少なくなった長岡だが、さすがにこのままではいられないと思い、駄目もとで志願兵に応募してみた。すると、さすがに人が足りない時期だからか、今まで合格したこともなかったのに兵役検査に合格して、長岡も兵隊になったのだった。
長岡が出征する日、集まった人々は旗を振って歓声を上げて見送ってくれた。今まで見送る側としては何度も見てきた光景だが、いざ自分も見送られる側となり、これで俺もようやく一人前の国民になれたのだな、と思う長岡であった。
長岡はたまたま中国語が出来たためか、支那の戦地に送られた。軍隊での生活はさすがに厳しいものではあったが、結局のところは今まで学校や会社で経験してきた社会の延長のようなものではある。
とはいえやはり耐え難いことはある。特に長岡が面白くないのは、長岡を含む初年兵が特に理由もなくビンタされることであった。何かの罰とかではなく、精神注入のためと称して、教育係の鮫倉中尉はことあるごとに初年兵を整列させてビンタした。そして「タタミと新兵は叩けば叩くほど良くなる」と言っていたものだ。
さて長岡の隊は戦闘の末ある村を占領したが、そこで捕虜にした民間人の中に国民党のスパイとの疑いをかけられた者たちがいた。長岡は中国語が出来たので彼らを尋問したが、やがて彼らはスパイではなくただの民間人だと確信した。中には若い男も混じっていたが、彼は長岡と同じように病弱だったので兵士になれなかったらしい。外国でもやはりこういうことがあるものだなと妙に親近感を感じ、長岡は鮫倉中尉に報告した。
「例の捕虜たちですが、自分の調べたところ彼らはスパイではなく民間人でした」
中尉は言った。
「そうか。しかし捕虜にしておいて今さら解放するわけにもいかんな。利用することにするか」
さて鮫倉は隊を集め、長岡含む初年兵たちを整列させると、捕虜たちを引いてこさせた。そして地面に穴を掘らせると、初年兵たちに言った。
「この捕虜たちはスパイであることが判明したので処刑と決まった。しかしせっかくだから、貴様らの訓練のために使うこととする。貴様らも銃剣術を習っただろう。今から一人ずつ、銃剣術の要領でこいつらを突き殺せ」
長岡は面食らって言った。
「中尉、どういうことでありますか?その者たちはスパイではないと言ったではないですか」
「貴様がそう思ったところで、絶対に違うとは言い切れんし、今はスパイでなくともこれからスパイになるかも知れんだろう。禍根は今のうちに断っておかねばならぬ」
「そんな、無茶苦茶です」
「黙れ!上官の命令が聞けんのか!よし長岡、まずはお前からだ。さっき言ったように突き殺すんだ」
長岡は心が揺れた。頭では、大人しく命令を聞いておいたほうがいいと分かっていた。しかし、このような暴挙が許されてはならないはずだ。真の日本人としての徳行を示さねばならぬ、という良心が邪魔をした。昔から彼は世間知らずだと言われてきた。この時も、やはりそうであった。長岡は言った。
「自分にはできません」
「何だと?」
鮫倉は、笑ってるんだか怒ってるんだかよく分からない表情で言った。
「何を言ってるんだ、長岡?貴様は軍人勅諭を聞いたことがないのか?上官の命令は、畏れ多くも天皇陛下の命令と等しいものであるぞ。その命令が聞けんと言うのか?」
長岡は、やや声が震えたが、思い切って言った。
「お、恐れながら、このような命令はかえって陛下の大御心に反するものだと思います。大東亜共栄圏を築くためには、このような行いはかえって障害になるものと思います」
周りの兵隊たちの視線が長岡に集まった。兵隊たちは何かひそひそとささやき合ったり、せせら笑ったりしていた。長岡は顔が熱くなるのを覚えたが、何を笑うのか、俺は間違ったことは言っていないはずではないかと思い、奥歯を噛んで直立不動のままである。鮫倉中尉は、笑顔になって言った。
「ほう、そうかそうか。貴様がそこまで大局的な視点を持っているとは感心だのう」
そう言って長岡に近寄ると、銃を振りかぶって台尻で頭を殴りつけた。
「うっ」
膝を折る長岡。鮫倉は何度も何度も台尻で殴りつけながら言った。
「この不心得者めが!貴様なんぞが大御心を語るのは百年早いわ!上官の命令を聞けんような奴は、この場で処刑してやるぞ!」
殺される、と長岡は思った。しかしこの場では防ぐこともできないし、逃げることもできない。こんなところで死ぬのか、と思ったが、そこで鮫倉の上官が言った。
「鮫倉君、そのへんにしておきたまえ。なにも捕虜の前で仲間割れすることもあるまい。それに貴重な戦力を失ってはわが軍にとっても損失であるからな」
「はっ、そういうことでしたらやめておきます。おい長岡、立て!」
「は、はい」
長岡はフラフラと立ち上がった。
「もう貴様のような意気地なしには頼まん。そこで見学しておれ。おい、森!」
と、次の初年兵を呼ぶ鮫倉。
「は、はい」
「まずはお前からだ。さっき言った要領でそのスパイを突き殺せ」
「はい」
森は緊張した面持ちだったが、銃剣を構えて捕虜の心臓を突いた。しかし急所を外したのか、捕虜はうめいて口から血を吐いたものの死にはしない。森は慌ててまた突いたが、まだ死なない。さらに突くと、ようやく血が噴き出して倒れ、死んだ。鮫倉は森を殴りつけて言った。
「なんだ、そのザマは!今まで何を習ってきたんだ!」
「も、申し訳ありません」
鮫倉は死体を穴に蹴り落とすと、言った。
「よし、次!」
次の初年兵が捕虜を突く。今度は一突きで死んだ。
「よし、次!」
こうして一人ずつ突き殺して、終わると、鮫倉は言った。
「ま、初めてならこんなものか。新兵の訓練には生きた捕虜を殺させるのが一番いい。それで度胸がつくからな。おい、長岡!その穴を埋めておけ!」
「はい」
長岡は一人残って、死体の入った穴に土をかけた。もともと体が弱いせいか、殴られた頭がズキズキする。しかし、一歩間違えば自分もこの捕虜たちのように死んでいたかも知れないのだ。もうこれからは、今回のようなことがあっても断り切れないだろう。理不尽な命令であっても従わねばならぬ。考えて見れば、あの毎回のビンタも、理不尽さに慣れる訓練なのかも知れない。
その夜長岡は、片耳がやや聞こえにくくなっているように思えて不安になった。殴られた打ち所が悪かったのだろうか。聞いた話だが、軍隊では上官に殴られたために片目がつぶれたり、耳が聞こえにくくなった者がいるという。もしや自分もそうなるのだろうか?実際に戦う前に目や耳を悪くしては、戦いに不利になって本末転倒だと思うのだが、実際にそのようなことが行われているのだ。
さてそれからも長岡の隊は支那各地を転戦したが、新兵たちはあの経験で本当に度胸がついたのか、自ら進んで捕虜や民間人を殺したり虐待したりするようになった。あの森も、もともとは気弱そうな性格だったのに、今は率先してそういうことをやっていた。
時には捕虜を使って毒ガスの実験をして、その様子を撮影したこともあった。鮫倉は相変わらずその命令を出したり、自らやったりしていた。長岡は自らはやらないものの、命令されればやる。そのうち長岡も、これは軍事には付き物なのだ、やむを得ないと思うようになってきた。
しかしながら、支那の戦況は一進一退でなかなか決着がつかないまま、泥沼の様相を呈していた。
そんなある日、高杉参謀とかいう人物が支那派遣軍総司令部から派遣されてきた。彼は将校たちを部屋に集めて会議をしていたが、長岡はたまたまその部屋の前を警備していた。粗末な部屋なので中から声が漏れ聞こえてくる。長岡が聞き耳を立てていると、高杉参謀がこう言うのが聞こえた。
「こちらの戦況は泥沼で、支那事変は今に至るまで解決していないが、これは何が原因であるのか、諸君らの考えを述べよ」
将校たちは言った。
「英米が国民党を支援しているからでしょう」
「ソ連の支援のためではないですか」
「蒋介石の抗日教育のためでは」
「大陸の広さのためでしょう」
高杉参謀は言った。
「なるほど、諸君らの答えはそれぞれ理由の一部ではあるが、しかし本官を納得させるものではない。本官の考える根本的原因はこれである。すなわち、日本人が真の日本人たり得ていないことだ。
略奪暴行を行いながら何の皇軍か?現地の一般住民を苦しめながら何が聖戦か?この地における日本軍官民このありさまで、いったい陛下の大御心に沿っていると思うのか?
そもそもこの支那事変は命令によって始まったものではなく、現地軍が自ら戦闘を始めて、その後で陛下に責任を押し付けたものであるが、わが軍がこのありさまで民心を得ることができていないため、戦闘が進むほどにますます敵は頑強に抵抗しているではないか。
今わが軍に必要なのは、兵器でも弾薬でもなく、諸君らが自らを省み、自らを慎み、一挙一動、大御心にもとることなきかを自らに問うことである。今この時に、日本人が真の日本人たり得ないならば、支那事変は永久に解決しないであろう」
将校たちは黙って聞いていた。長岡は嬉しくなって、心の内で言った。
(そうとも、もっと言ってやって下さいよ。やはり総司令部の方は分かってらっしゃる)
さてその後で高杉参謀は退出したが、参謀がいなくなると、将校たちは言った。
「今のお言葉は、まあ有難いものではあるが、あまり外部にはもらさぬ方が良かろう」
中には、
「あの方はきれい事ばかり言って、結局自分だけいいとこ取りしているのではないか」
と陰口を叩く者もいた。長岡は、これで少しは現地の状況も改善されるかと思っていたのだが、これを聞いて思った。
(これは駄目だな。上辺だけ言うことを聞いておいて、しばらくしたら忘れられてしまうやつだ)
長岡がそんなことを考えていると、森がささやきかけて言った。
「おい、あの高杉参謀って方が誰だか知ってるかい」
「誰って、総司令部から派遣されてきた参謀だろ?」
「それはそうなんだけどさ。実は噂なんだが、あの方は皇族なんだ。天皇陛下のご兄弟なんだよ」
「えっ、まさか……。将校たちは、そのことを知ってるのか?」
「さあね。でもそれが本当なら、もしものことがあってはならないはずだから、上層部には知らされているんじゃないかな」
長岡は思った。
(だとしたら、あの将校たちはそれと知りながらあんな陰口を叩いているのか?いつもは何かと天皇陛下の権威を笠に着ている連中なのに、これでは本当に陛下を尊重しているかどうかだって怪しいものだな)
さてその後も長岡の隊は大陸を転戦していたが、ある時市街地に入ったところで、待ち伏せしていた敵軍に総攻撃を食らった。不意打ちをくらって兵士たちは次々に死んでいき、自軍は退却しながら戦ったが、敵は前から周到に用意していたらしく、次から次へと伏兵が現れて執拗に攻撃してくる。市街のどこからか中国語で、「今こそ積もり積もった恨みを晴らすぞ!」と聞こえてきた。
遂に隊は四散して、長岡はわずかな仲間と共に街を脱出した。近くにいるはずの別隊に合流しようと思ったが、その行く道行く道でまた伏兵に襲われ、遂には長岡と森だけになった。山を越えようと思っていたが夜になったので、そこで野宿していると、森が震えながら言った。
「な、長岡。笑わないで聞いてくれるか」
「なんだ?」
「情けない話だが、お、俺は怖いんだ。今まで何人も捕虜や民間人を殺してきたから、今度は国民党軍にどんな目に遭わされるかも知れない」
「……」
度胸をつけるために捕虜を殺しておいて、今になってそのために怯えていれば世話はない。やっぱり度胸なんてものは急についたり落ちたりするものではないなと思ったが、長岡は言った。
「まあ、そうでなくたって、戦争ともなればいつだってどんな目に遭うか分からないものさ。とにかく今は少しでも休んでろよ。交代で見張りをしよう」
「ああ……」
さて次の日になって、いざ友軍のもとに行こうと思っていたら、100メートルもいかないうちにまた敵が現れた。二人は逃げたが、急に森が倒れた。見ると、森の左胸に穴が空いて、血が噴き出している。森は口をパクパクさせて何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。
長岡は一瞬立ち止まったが、あれではもう助からぬと判断して逃げた。後ろで森の断末魔の叫びが聞こえた。
長岡はどうにか別隊に合流したが、それからいくらもしないうちに戦争が終わり、日本軍は中国から引きあげることになった。敗戦というのもショックではあったが、それよりこの地から無事に引きあげられるかどうかが気がかりである。聞いた話では、中国に残った一般の日本人の中には、軍に捨てられて集団自決したり、中国軍に虐殺されたりした者もあると言う。また中には、親と生き別れた日本人の孤児が、中国人の家庭に拾われて育てられたという話も聞いた。
さて長岡は除隊して日本に帰ってきたが、軍からは大した手当てもなく、家も焼けていなかっただけマシだが、貧しいことには変わりない。とはいえ、これからはようやく平和に暮らせるという期待と、体制が変わったことによる一種の開放感はあった。
なにしろ昔は、特高警察や軍の目を気にして自由にものが言えない世の中であったから、これからはもっと自由に生きられるかもしれないと思われた。
そう思っていた矢先のある日、長岡の家に誰かが訪ねてきた。玄関に出てみると、警官らしき人が二人いる。片方が言った。
「長岡さんですか?」
「はい」
「あなたは戦時中、中国でこれこれの部隊にいましたね?」
「そうですが、何か?」
「実はそのことで、あなたに逮捕状が出ています。戦犯としてね」
「えっ!?」
「あなたの部隊は現地で捕虜や民間人を虐殺したということで有名でしてね。それでそこに所属していた者には、戦犯として逮捕状が出ているんです」
「戦犯……」
そういえば、連合国側は今回の戦争の指導者や、捕虜や民間人を虐殺した者を戦犯として捕まえているとか聞いたことがある。捕まれば生きては帰れないとも。
「それじゃ、来てもらいましょうか」
もう片方が長岡の手をつかんだ。長岡はとっさにその相手を投げ飛ばし、逃げ出した。
「逃がすな!」
後ろから声がする。長岡は市街地を逃げ回った。まさか戦争が終わって、日本に帰ってきてまで逃げるはめになるとは思わなかった。
どうにか追っ手はまいたようだが、これからどうしよう。長岡は電車で別の町まで逃げようと思ったが、あいにくもう夜で電車も出ていない。明日になったら逃げようと思ってその夜は野宿した。
さて次の日、長岡が駅に向かってみると、駅構内の壁に貼り紙がしてあるのを見つけた。それには長岡の名前と似顔絵が描いてあり、「この者戦犯なり。捕らえし者には賞金を与える」と書いてある。
「なんてこった……」
長岡が頭を抱えていると、声がした。
「いたぞ!あそこだ!」
振り返ってみると、人々の一団がこちらに向けて駆け寄ってくる。女子供も含まれており、見知った顔もいる。長岡は逃げ出したが、逃げた先にもまた別の一団が回り込んでいて、長岡は取り押さえられた。人々は長岡を囲んで殴ったり蹴ったりして、罵声を浴びせた。
「戦犯め!逃げられると思うな!」
「この獣め!」
「大人しくお縄につきやがれ!」
長岡は、己の出征の時、旗を振って歓声と共に見送ってくれた群衆を思い出した。そして丸まって身を守りながら、言った。
「やめてくれ。なんでこんなことをするんだ。お前たちは俺が出征する時、旗を振って見送ってくれたじゃないか。俺が兵隊に行ってなかった時には、非国民だと罵ったじゃないか。それがいざ兵隊に行って帰って来たら、こんな仕打ちをするのか?」
それに対して、蹴りと共に罵声が飛んできた。
「ふざけるな!お前ら軍人のために、俺たちがどんな生活をしてきたと思ってるんだ!」
「食料も衣服もなにもかも、お前らに搾り取られてきたんだ!のこのこ帰って来やがって、名誉の戦死でもして来やがれってんだ!」
「民衆の怒りを思い知れ!」
(なんだ?これは……?なにが起こっているんだ?もう、わけが分からない……)
長岡は、多分に八つ当たりを含めた暴行を受けたあと、わけが分からないまま連れて行かれた。
さて戦犯裁判を受けることになって、長岡は思いがけない人物と再会した。忘れもしない、あの捕虜を銃剣で突き殺させた鮫倉中尉である。彼も戦犯として訴えられていたのだった。もっとも、数ある戦犯のうちの一人だったので直接顔を合わせて話したりしたわけではないが、遠目にも鮫倉はそれと分かった。
長岡は戦犯として連行され、収容所では看守にも暴行されて散々な気分だったが、鮫倉も捕まっていたということで少しは溜飲が下がった。そうだ、もともとあいつが命令してやらせていたことではないか。もう自分は助からないかも知れないが、鮫倉も死ぬのならせめてもの救いだ。
さて検察側の訴えがあり、弁護側の陳述があったあと、被告も陳述することになった。鮫倉が話す準備をしているのを見て、長岡は思った。
(鮫倉め、もうお前も逃げ切れまい)
そして、鮫倉は話し始めた。
「……確かに、部下の暴走を抑えることができなかったのは、私の責任でもあります」
「え?」
長岡は耳を疑った。鮫倉は続けて言う。
「私は部下に軍規を守らせ、略奪暴行に走ることがないように教えさとしておりましたが、部下たちは獣心やみがたく、もはや抑えがきかない状態になっており、上司のほうでも、部下が反乱を起こすよりはよかろうということで黙認しておりましたので、私一人の力では彼らの凶行をとどめることができませんでした。
いわれなき苦しみに遭われた中国人民の方々には誠に申し訳なく思っていますが、私がこのような行為をとどめようと努めていたことはご理解いただきたく……」
「嘘だ!!」
長岡は立ち上がって叫んだ。周りの視線が集まる。
「嘘だ!お前が命令してやらせていたんじゃないか!!」
「な、なんだお前は?俺はお前のことなど知らんぞ」
「静粛に!君の発言は許可されていない」
「みんな、騙されるな!こいつは……」
「静粛に!」
結局、鮫倉は証拠不十分で無罪となった。彼がその後どうなったかは知らない。長岡もやはり証拠不十分で無罪になったが、有罪になって死刑になった者たちも多かった。だが、そのうち本当に有罪な者はどれだけで、無罪な者はどれだけだろうか。長岡は憤懣やるかたなく、肩をいからせて街を歩いた。
戦後しばらくは日本全体が貧しい時期が続き、どうなることかと思われたが、しばらくすると朝鮮戦争がはじまり、その特需で一部の産業はにわかに活気づいてきた。
まだ日本中が豊かになったとは言えないものの、繊維業や重工業などは戦前の水準にまで生産量を戻し、さらに技術も戦前より上がって、ここから貧困を脱せる望みが見えてきた。それはそれで良いことではあるが、長岡は素直には喜べなかった。
(朝鮮はかつては日本の一部で、朝鮮人は同胞だったはずではなかったのか。それが独立した後になって朝鮮人同士の戦争が起こり、そのおかげで日本が豊かになる、なんてことでよいのだろうか。人々はもはや東亜の諸民族の共存共栄というスローガンなど忘れてしまったように見える。いや、最初からまじめに信じてなどいなかったのだろうか?信じていたのは俺だけだったとでも言うのか?)
長岡は最近はレストランに勤めていた。たまに外国人も訪れる店で、看板には英語で“restaurant”と書いてある。
そういえば、最近は街中でよく英語を見かけるようになった。かつては敵性語だとか軽佻浮薄だとか言われて白い目で見られ、とばっちりでドイツ語やイタリア語まで自粛していたのに、最近は英語を使うのが洒落ているという風潮らしい。これもまた、訳の分からないことの一つだ。もともと英語と中国語を学んでいた長岡にはなんだか冗談のように思えた。
そんなことを考えながら街中を歩いていると、傷痍軍人の一団が物乞いしているのが目に入った。彼らは手や脚が欠けていたり、目がつぶれたりしていて、昔の軍服を着て、ギターを演奏して軍歌を歌っていた。先頭で、片手と片脚がない傷痍軍人が、地面に置いた皿を前にして言っていた。
「皆さん、私たちはお国のために戦ってこんな体になり、そのせいで仕事にもつけないでいます。どうか親切な皆さんのお恵みをお願いします」
長岡は、中国で見捨ててきた森やその他の兵隊のことが思い出されて胸が痛み、皿に小銭を入れた。長岡の前には二人の老紳士がいて、その内の片方も金を入れていた。
しかし、そこを離れてしばらく行くと、老紳士のうちもう片方が連れに言った。
「君、なにもあんな連中に金をあげることはないだろう」
「なぜだ?」
「だって、あの連中が外国で乱暴狼藉を働いてきたせいで、我々一般の日本人はとばっちりを受けているのではないかね。あの連中が生活に困ったとしても、それはまあ自業自得というやつさ。
それに、あの連中はすでに国から軍人恩給を貰っているはずではないかね。だったら我々が助けてやることはないし、だいたい本物の傷痍軍人かどうかだって怪しいものさ。傷痍軍人のふりをして怠けているだけかも知れんからな」
「なるほど、それもそうだな。ハハハ」
長岡は歯ぎしりして、心の内で思った。
(何を勝手なことを言ってやがる。自分たちには関係ないとでも思っているのか。誰のために、俺たちが兵隊に行ったと思ってるんだ。好き好んで戦争に行ったとでも思ってるのか)
長岡がレストランで働いていると、アメリカ人らしき客が二人やって来た。給仕をしていると、彼らのうち片方が英語で話していた。
「この国も変わってきたな。終戦後すぐとはさすがに違う」
もう片方が言った。
「来たことがあるのか?」
「ああ。俺は昔、占領軍の一人としてこの国に来たんだ」
「へえ」
「俺は街中に入った当時、正直びびっていた。日本人は戦時中あれほど頑強に抵抗して、狂信的とも言えるような戦い方もしていたから、たとえ降伏した後でも、どこで反乱が起こるかもしれない。どこから攻撃を受けるかもしれない、と思ってね。
ところが、実際に市街地に入ってみると、群衆は旗を振って占領軍を歓迎してくれるじゃないか。それでもしばらくはだまし討ちされるかもしれないと警戒していたが、やがて本当に、そのつもりがないということが分かってきた。確かに、米軍に対して敵意を持つ者たちはいたが、少なくとも反乱を起こしたりはしなかった。一応計画はあったらしいがね。
もちろん、それ自体は良いことだ。反乱が起こって、さらなる犠牲者が出て泥沼になるよりは、スムーズに占領統治が進んだ方が良いに決まってるからな。だがそれにしても、俺は不思議に思ったものだ。日本人がこれほど協力的で友好的な人々なら、なぜ彼らは戦時中あれほど頑強に抵抗していたのか?あの狂信的とも言える戦い方をしていた日本人、バンザイを叫んで突撃してきた日本人はどこに行ってしまったのか?と思ってね」
(そりゃ不思議にも思うだろうよ。俺だっていまだにわけが分からないのだから)
長岡がそう思っていると、新しい客が入ってきた。
それは髪をきれいにセットしてサングラスをかけ、高そうなストライプのスーツを着た男で、同じくこぎれいな格好の女を連れている。いかにも成金といった感じだ。朝鮮特需で儲けたのだろう。
その客は席について酒と料理を頼んだ。長岡は、この男をどこかで見たような気がしていたが、連れの女がこう言うのを聞いてショックを受けた。
「鮫倉さん、こんなところで昼間から酒を呑んでていいの?」
横目でうかがって見ると、確かにあの、捕虜を突き殺させた鮫倉中尉である。鮫倉は言った。
「なに、気にするな。金ならいくらでもあるからな。この歯を見てみろ。全部純金の歯に差し替えたんだ」
そう言ってニカッと笑うと、確かにその歯は金歯である。鮫倉は続けて言った。
「いやあ、それもこれも、朝鮮で戦争が起こってくれたおかげだ。俺は軍隊にいたころのコネで鉄くずを大量に仕入れることができたが、これからの時代、大して役には立つまいと思っていた。ところがいくらも経たないうちに戦争が起こってくれたので、鉄が高値で飛ぶように売れて今じゃこの身分さ。これこそ天佑神助というやつだ」
「あら、そうなの?でも、肝心の日本の戦争ではその天佑神助もなかったわね」
「ああ、あれは仕方ないさ。なにせ国民がバカばっかりで、上官も無能だったからな。あれではどうにもならん。
まあ、俺も昔はそういう連中のために苦労させられてきたが、コツコツと真面目に働いたおかげで、今ではこうして日の目を見ることができた。これこそ天佑神助、お天道さまは見ていてくださるってわけさ。ワハハハハ。
……ん?なんだお前は?」
長岡は、鮫倉のかたわらに立って、言った。
「鮫倉さん、私のことを覚えてますか?」
「誰だお前は?知らんぞ」
「そうですか。でも私は忘れませんよ。決して、ね」
そう言うと長岡は酒瓶を振りかぶって、鮫倉の頭に思い切り叩きつけた。酒瓶は砕け散り、鮫倉はひっくり返った。
「キャー!」
「ワー!」
「なんだ、喧嘩か!?」
騒然とする店内。長岡は倒れた鮫倉を何度も何度も蹴りつけながら、叫んだ。
「何が天佑神助だ!何がバカばっかりだ!!この犬畜生のタヌキ野郎!ぶっ殺してやる!!死ね!死ね!!」
同僚が後ろから長岡を羽交い締めにして言った。
「やめんか、長岡!気でも狂ったのか!」
「狂ってるだと?この俺が?」
長岡は叫んだ。
「狂ってるのは、この世界のほうだ!!!」