三十九日目
身支度を整えて食堂へ向かうと、そこには見知らぬ女性が優雅に煙管を燻らせていた。
食堂にはマーレイ博士の香水の香りと煙の匂いに混じって、微かに女性モノの香水の香りが漂っていた。
私たちの存在に気がついた彼女は「あら、生きていましたの?」と驚いたような声を出した。
朝からおかしな挨拶をされて傍らのアッシュは無表情ではあるが繋がれた手に力がこもり、不快であることを伝えてくる。
私は彼の手を擦り落ち着かせてみると同時に、先に朝食を摂っていたマーレイ博士に促され席についた。
気づかれぬよう彼女の様子をうかがうと、その瞳は私たちを捉えて離さないようだった。
「おはよう、アッシュ。朝から不機嫌そうだな。」
「おはようございます、叔父さん。朝から礼儀知らずな女と出会えば清々しさも減ってしまいます。」
不快であることを隠しもしないアッシュに大人げなさを感じつつも、何時ものことなので、私はテーブルに並べられる朝ごはんたちに視線を移す。
焼いたばかりのソーセージに目玉焼き、サラダにジュース。美味しそうな食パンに、つい最近アッシュに教えてもらったチョコレート入りのクロワッサンまである。外で暮らす人々は毎日こんなに美味しい物を食べているのだろうか?もしそうだとしたら、早く一人前になってオランやBBみたいに外で活動できるようになりたい。
「───あぁ 紹介が遅れたな。彼女は──」
「ニーナですわ。私は愛しい人に言われて伺ったまで、渡すもの渡して伝えるだけ伝えたらさっさとおいとまいたしますわ。」
ニーナと名乗る彼女は煙管を片手に優雅に挨拶する。しかしながらその言動に対し、私は何処と無く挑発的に感じるのだった。
私は彼女の一連の行動についてアッシュがどう感じたのか気になり、彼の方を向く。そこにあったのは彼女を観察している半身だった。
何故だか分からないが胸の部分がモヤモヤする。
(あの人、綺麗ね。)
考えるよりも先に言葉が出た。
何が面白かったのか、アッシュの口角が少し上がっている。そして頬に口づけてきた、唇ギリギリに。
私はどう対処したら良いのか分からず、取り敢えず目の前の朝食を食べることにした。
ジュースを一口飲みバターのたっぷり染みたトーストを頬張り、思考は昨日を振り返る。
屋敷に着いて一息ついた後、私たちは屋敷の探検に出掛けた。
流石、研究所が用意した物件。様々なセキュリティと偽装が施されていて研究所の訓練施設よりも面白かった。書斎には多くの専門書が納められており、壁の殆どが書架となっていた。
夢中になって難しいタイトルの本を読んでいるアッシュをよそに、私は書架に納められた本の背表紙を横に指でなぞって行く。
殆どの蔵書が今回の為に集められ、数人の知らない人々がこの部屋を構築していくのが見えた。
──全部が春の夜の夢のよう。実践訓練が終われば全部が消えてなくなる。なんだかもったいない気もするけど。
残念な気持ちになりながら他の書架へと移ると、脳内に奇妙な映像が映し出される。それは酷くノイズがかりハッキリとしないものだった。
───りは──いや
たす───て───お───ん
おかあさん
水滴がノートに落ちる映像、何処かで聞いたことのある幼い声。
止まった指先にあるのはこの部屋に似つかわしくない薄いノート。取り出してみれば酷く汚れた汚いノートがでてきた。一枚めくれば、書かれた幼い文字が紙が汚れて醜いながらもなんとか判別することができた。
今日も一人つれてかれた。
その子はまだ7つだといった。同じにほんからきた子。買った人がどこかへつれていく。
わたしはその時まで、その子たちのおせわがかり。
また一人、もういやだ。
早く家にかえりたい。あたまが変になりそう。たすけてお母さん
かかれている言葉は平仮名と少しの漢字。日本と言う国の言葉だった。この言語をしっかり学んだことはなかったはずだが、何故だか私には読むことが出来た。
(なんでこんなモノがここに?)
パラパラとめくっていく。どの頁にも母親へ助けを求める言葉や謝罪、一人の恐怖が綴られている。
私はもっと深くこのノートの持ち主の事を知りたくて、残存する想いを深く読み取ろうとした。
(何をしているの、アリス?)
不意に聞こえたアッシュの声に、ビクリと体を震わせ振り返る。冷たい目が問いかけてくる。
(面白い絵本でもあった?)
(ううん、何でもないの。計算式とか研究用ノートがあって、私にもわかるかもってみただけよ。)
(そう、わかった?)
(ぜーんぜん。サッパリデシタ。)
笑って誤魔化してみたが上手くいっただろうか?
アッシュは「そろそろ部屋に戻って寝よう」と言ったので、私たちはそれで一日の日程を終えたのだった。
(あれは一体なんだったんだろう?)
明日は任務の日だし、今日も確認する機会は無さそうなのであのノートの謎は謎のままで終わりそうだ。
皿の上に残った一口分のパンを口に放り込む頃には、マーレイ博士とニーナの話が終わりを迎えた。
隣のアッシュも食事を終えて食後のお茶をゆっくり飲んでいる。
挨拶もせず立ち去った彼女を見送ると、マーレイ博士は「明日の朝ミーティングで話す。」と、メモリーがなんなのかも伝えることなく自室へ戻って行った。
私たちはこの後の予定を相談することにした。
(道具の手入れの後にお庭に行ってみましょう?昨日はお部屋を見て回ったのだし。)
(そうだね、そうしようか。今日は天気も良いし少し隣の具合も覗けたら良いね。それに二人でゆっくりすごすのも久しぶりだし。)
一日二人だけで過ごすのはこの訓練では久しぶりだった。私はなんだか嬉しくて頬が緩んでしまう。
お茶を飲み干すと、手をとり部屋を後にした。
改稿と表示されていますが、誤字脱字をちょこちょこ修正しているためです。
チェックしていても投下後に見つかる不思議。
なぜじゃ。




