三十七日目
遠くから声が聞こえる。叫び声なのか慟哭なのか、男なのか女なのか酷く雑音混じりで検討もつかない。ただただ、誰とも知らぬ何者かが私を呼んでいた。
「どうして私だとわかるの?」
背後に気配を感じる。どこかで聴いたことのある声で問いかけてくる。
「忘れちゃったくせに。」
そんな事はない、大事なことはちゃんと覚えている。任務に博士から学んだこと、アッシュとの約束にタイプTのこと、それからーーーソレ……カラ……アレ?
「ほら、大事なこと忘れてる。」
何を忘れてしまったの?私のなかに不安が芽吹き、ゆっくりとだが成長を始めたのだった。
「アリス……おはようーー」
心地の良い優しい声。慈しむような声は私だけに向けられたもの。体に温かな血が巡り目覚めを促されているのがはっきりとわかる。
(……ん~……うぅ。)
小さなうめきと共に上体を起こす。止められないあくびを手で隠すが、より自らの眠気を強調する結果となってしまった。
いつの間にか眠ってしまったようだ。夢を見ていたような気がするが、瞼が重くハッキリと見開くことができないほど、あまり良い夢ではないようだ。
(うぅ~、おはようアッシュ。……お家に着いた?)
(おはようアリス、良く眠っていたね。住宅街に入ったからもうすぐだよ。)
乱れた髪を整えて貰いながら、外を確認する。賑やかだった景色が、知らぬ間に閑静な住宅街となっていた。
ーー画面の向こう側にあった憧れに似た世界
当たり前のように繋がれる右手が、己を今へと繋ぎとめる。
大切な半身は、ほんの少し眉間の内側に波を作り対面に座すマーレイ博士を見ている。当の本人はナニか考え事をしているようだった。私が眠っている間に何かあったのだろうか?
気にしてもしょうがないことだけれど。
「ホワイト様、ホワイト様。」
運転席からポーターが声をかけてきた。その声にマーレイ博士は我にかえったようだ。
「何か?」
「もうじきの到着でございます。」
「そうか、わかった。」
見えてきたのは立派な門とその奥に建つこれも立派な邸宅、一見するとただ裕福な家。私たちの車が到着すると、自動で門が開き中へと誘われる。
(絵本に出てくるお家みたい!ねぇねぇアッシュ、後で探検してみましょう!?)
(そうだね、そうしようか。)
ポーターが運転席から外に降り、ドアを開けて降車を促す。先に出たアッシュが私に手を貸してくれるこの状況は、まるで本物のお姫様になったかのような気分にさせてくれる。
普通の裕福な子供たちは、こんな生活をしているのかしら?確かめる時間があったら、是非とも見てみよう。
メイドの後に続き、私たちは邸宅の中に進んでいった。
アイアン金具のついた美しい木造の扉のむこうは温かな色合い。むしろかわいいと言って良い。
「長旅お疲れ様でございました。荷物はお部屋に運ばせます。お茶の仕度を致しますので、此方で今暫くお待ち下さいませ。」
「頼む。あぁそうだ。この子達にはココアを出してやれ。牛乳でよく練って砂糖も入れて出してあげなさい。」
「畏まりました。」
優雅に一礼したポーターが通されたリビングから姿が消えると、私たち三人だけとなった。
(はぁーーー。)
大きな一息をついてソファに崩れ落ちる。慣れないなぁ。
「行儀が悪いことはやめなさいアリス。」
「お言葉ですが叔父上、アリスは初めての長旅です。緊張して疲れるのは当たり前です。何より、僕らと同じくらいの多くの子供たちはもっと行儀が悪いと思います。」
「あぁ、そうとも言えるな。しかしホワイト家の子どもである以上、礼儀作法を真面目にしてほしいものだ。お前たちは特に普段からやっておかないと、公で出来ないだろう。」
彼は鋭い視線と共に此方を一瞥して言い放つ。"お前は特に"とでも言いたげだ。
私は姿勢を正して座り直す。
(とても自然で違和感などないのに……マーレイの言うことなどきにする必要はないよ。)
(でも……)
(公と言っても今回は私的なパーティーに潜入するんだ。あまりにも行儀が良すぎるとかえって怪しく感じるのでは?多少くだけた動作も必要だよ。)
確かに、堅苦しすぎてはきっと相手の懐に入り込むことは難しい……と思う。
私の隣に腰を落とした彼の肩にもたれて、そうだねと呟きながら、彼の香りと力の温もりで気持ちを落ち着かせた。
「全くおまえらは……」
ため息混じりの呟きは、呆れていることを物語る。言葉に私たちのよく知る素のマーレイ博士が漏れでていた。
「失礼します。」
ノックと共にポーターがメイドを連れて戻ってきた。その手には美しいティーセットと美味しそうな幾つものお菓子。あそこに見えるのは、もしかしてケーキとか言うやつだろうか?かわいくて美味しそう。
表面が白みかかった茶色の液体……ココアと呼ばれる飲み物が私たちの前に置かれ、マーレイ博士は透明な茶色い液体が空のカップに注がれる。お茶の良い香りが漂ってきた。
「本日はアルマッドティーのアールグレイをご用意致しました。ココアはヴァルホーテル、本日の茶菓子はブルーベリータルトとイチゴのスポンジケーキ、マカロンにクッキーでございます。」
「流石この国は豊かだな。さぁ、いただこうか。有難うポーター、用があればまた呼ぶから下がって良いぞ。」
あぁ、キラキラ輝くお菓子と甘いかおり。一口食べれば白いクリームは見た目よりも甘味が少ない濃厚さ。しかしながらイチゴの酸味がまた良い……。ココアも少しの苦味を感じながら、ケーキとは別の旨味が舌を刺激して……こちらも美味しい。
(アリス、急いで食べなくてもまだ沢山あるから。)
(だってとても美味しいんだもの!ほらアッシュ、これも美味しいよ!)
タルトを掬ってアッシュの口許へと運ぶ。何故か彼は恥ずかしそうに一口食べた。
「おい……しい………。」
美味しさに緩んだ顔が何だか可愛くて新鮮だった。
「ウオッホン。あー、お前たち少しいいか?」
忘れていたが、マーレイ博士がわざとらしい咳払いをして私たちの食事を中断させる。
「アリスとお茶を楽しんでいるのに邪魔をしないでください。」
「話をしたいから中断してくれ。お願いします。」
彼は気づいているのだろうか?先程までの叔父様モードではなく、素の彼に戻っていることを。




