二十四日目
三歳くらいまでの子どもは、生まれる前の記憶が残っている。しかし成長とともに新しい記憶に塗り替えられ、消えていくと言う。
キミも半身を得て、ようやく本当のキミが生まれた。
早く成長できるよう、私が手をかそう。
そう、生まれる前の記憶……願望などキミには必要ない。
運用実験の後、俺たちはメディカルチェックを受けるため離ればなれになった。
医務室に入ると、本来の担当者マーレイやシンシアが居なかった。いたのは白髪混じりの年配の女性、微笑を浮かべてこちらを見ている。
「さぁ、こちらへいらっしゃい。あぁ、警戒などしなくてよいのですよ?」
「何故貴女がここにいらっしゃるのですか?カジョール博士。」
俺のあからさまな嫌悪感に、博士はフフフと可笑しそうに笑う。
研究所内で他者の研究物に共同研究以外で関与するなどほぼ無い。ある意味禁忌とされている。それが権力者の一人ともなれば、何かある。
後ろに控えた助手から医療ベットに寝るよう命じられる。ヨアキム博士の下で働く助手のはずが、恐らく懐柔されているのだろう。
医療ベットに寝そべり彼女の検査を受ける。テンポ良く進めているようだが、何故かわざとらしく感じた。
「何か俺に用でもあるのですか?」
動きを止めて、ゆっくりと彼女がこちらを見る。待っていましたとでも言うように。
「用件……と言いますか、貴方と一度ゆっくり話をしてみたいと思いましてね。」
そんな筈はない。彼女はコンピューターとネット関係、数式にしかほぼ興味がないのだから。
「私のEEとクイーンが良い性能結果を出してくれましてね、先ずはそのお礼を。」
「何の事か分かりませんが?」
「フフフ、それならそれで構いませんよ。」
「……本来の用件は何ですか?」
「そう急かさないで下さいな?年寄りは急に動けないのです。」
博士は少し離れた作業台から茶封筒を取る。中から幾つかの束になった書類を取りだし、ベットの傍らに置かれた椅子に座る。細かい文字が見辛いのか、胸ポケットから眼鏡を取りだし、掛けて読み出す。
「私も大概酷い人間ですが、人並みの友情はそれなりに抱いているのです。」
突然意味のわからない話をはじめる。友情と俺に何の関係性があると言うのだ?研究以外の会話をこの研究所内ですることは少ないはず。少なくとも実験体の前では。友情とやらを教えたいのなら、御免被る。ベットから上体を起こして彼女の話を終わらせよう。
「友情と俺に何の関係が有るのですか?検査は終わったのですから、部屋に返してください。」
「実験は成功ですが、アリスは強制停止されました。今頃、ヨアキムが再調整を施しているでしょう。」
話が噛み合ってない。はなから俺と会話をする気が見えてこない。しかし、それを抜きにしても変なことを言っている。
アリスがヨアキムに再調整されている?彼女は一時的な混乱であって、再調整される筋合いはない。
何故この博士は、明かされない筈の内容を俺に話すのか。慎重に見極める必要がある。
「どうしてですか?」
「貴方と会う前に調整されていたのですが、L1に触れて元に戻ってしまったようです。ヨアキムは彼女を特別に思っているようです。」
「戻るって言っても全てでは無いでしょう?再調整する必要は無いはずです。」
「彼の言葉を借りるなら、"本来のアリスに戻す"為だそうですよ。」
意味がわからない。俺はヨアキム博士の元に生まれ、随分長く生きているが未だに彼と言う人物を理解できていない。耳にした噂や彼の言葉から、アリスが他者と違う対応を受けていたのは知っていた。俺の半身となった今も、変わっていない。
なんだか不愉快だ。
「俺のアリスを返してください。」
「それは出来ません。しかし、知ることは出来ます。」
これを、と一枚の写真を見せられた。そこには汚れた壁に文字……日本語の文字が書かれた壁の写真。
◻ル◻
ごめんね、ハ◻
俺◻ちもうダメみたいだ
いっし◻にここから◻げる約◻、守れそう◻ない
目が◻めて、どうかこのメッセー◻に◻がついたら
◻たちにかまわ◻
にげてくれ
「アリスになる前の彼女が居た檻で発見されました。出会った者と何らかの約束をしたのでしょう。」
「約束……。」
文面から察するに、逃げるつもりだったようだ。それがアリスになる前の彼女が願っていたことなら、それは本心。約束を交わした人物はもういない。
叶えられるのは、俺だけだ。
「さぁ、話はここまでです。お帰りなさいな。」
俺が考えていると、博士が帰るように促す。扉の前で振り返り、軽く会釈をして助手と共に自室へ戻った。
「どうやらあの子は気づいたようですよ。半身の本当の願いに。」
カジョールは携帯端末の画面を指でなぞる。懐かしむその目は、三人の男女が写った画像を見つめる。
「大丈夫ですよ、あの子はヨアキムと同じ道を辿ることは無いはずです。……きっと、ね。」
人の気持ちを理解する……大事なことです。
大切な人ならなおのこと。




