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平成二十五年三月二十四日(日曜日)  晴れ。

平成二十五年三月二十四日(日曜日)  晴れ。


今日も風が強い。

 大学図書館は閉館日。朝から、市立図書館の閲覧室に行く。閲覧室の椅子と机は数が限られていて、朝早くないと空いていない。三階の自習室は学生ばかりで、気恥ずかしいし、必要な本があれば手元に置ける閲覧室のほうが望ましい。

 日曜日は四階の会議室で英会話サークルをやっている。講師をお願いされた事もあったが、退職してから考えてみる、と口約束をさせられてしまった。たまにネイティヴの講師も来るようだし、中々楽しそうではあるが。

 6時半頃帰宅。

 夕食はグリンピースご飯、蛤のうしお汁。ぶりの照り焼き。刺身サラダ。切干大根と人参の炒め煮。


書斎で図書館から借りた資料をあたっていたら陶子が茶を持ってきてくれた。

イリコとカシューナッツを甘じょっぱく炒り煮した物が添えてある。陶子がジャムの空き瓶に常備している。

「これこれ。いい組み合わせだなあ、陶子さん、あんたが考えたのかい」

「いいえ。お隣の奥様に頂いたときにあんまり美味しいものですから、作り方をお聞きして」

「そうか。朝も早くから外を掃いたりして、気のつく人だもんなあ。」

「ええ、ええ。毎朝、今日こそは、と思うのですけれどいつも梶村さんが外に出ていらして」

「陶子さん、あんただって早起きじゃないか。何も梶村の奥さんと競争しなくったって」

「競争、じゃないんですよ。年上の方が掃いてらっしゃるので、そうそう出遅れるわけには」

陶子らしいことだ。定子なんぞ、新婚の時こそそういうところもあったが…


陶子が何か思いつめた顔をしている。いつもは茶を置いたら「お邪魔でしょうから」と早々に立ち去るのだが、何か言いたげにしている。


「あの、お父様…お話が」

「何だい」

「この前の…」

なんだ、なんだ。まさか。

「この前の、お父様のお金が無くなったって、あれは…」

…待ちなさい、その先は、言うんじゃない、と叫びそうになった。陶子の端正な顔が能面のように見えてきた。

「あれは、私が…取ったのです」

「あんたまで、一体、何を」

「…まで…とは…?」

いかん、いかん、他の連中が同じ事を言ってきたとまた口を滑らすところだった。

「いや、何も言うとらんよ。まだ見つからないからって、陶子さん、気遣ってそんなことを言うとるんだろう?」

「お父様。申し訳ございませんでした。必ずお返ししますから…」

「陶子さん、あんたが取ったなんて到底信じられんが…そうだとして、何に使うために?」

「…それは…どうしても、言わなくてはなりませんの?」

陶子は俯いていたかと思えば、おとがいをあげた。

「いや…あんたのことだ、取ったなどと信じちゃおらんよ。仮に、あんただとしよう、一体何のためにそんなことを」

「あの…」

陶子の声は震えていたが、かたちのよい唇はいつもより赤みがさして見えた。

「恒夫さんが…」

「恒夫?恒夫がどうしたというのだ」

「恒夫さんが、浮気を…」

「何?恒夫が。馬鹿な。あんたのような出来た女房がおって、あんなつまらん男が、そんな甲斐性があるわけは」

「私が到らないのです」

「そんなことはないよ。…信じられんが、それも。それで、恒夫の浮気と一万円と何の関係が」

「…私、興信所に依頼しようと思って…その、調査を」

「興信所?」

茉莉絵が幼稚園に行っていた頃を思い出した。

陶子が同窓会に行く日のことだ。午前中に美容院に行っていたと思う。髪を強めにカールして、いつもよりも濃い目に化粧をしていた。白いワンピースにベージュのジャケットだったか。真珠のネックレス。バッグも珍しくブランド物だった。ハイヒール。

「お母ちゃま、きれい、きれい」

茉莉絵は陶子のまわりをぐるぐる回って、「いつもそういうお洋服着てなきゃだあめ、だあめ」とおしゃまな事を言っていた。

いつもの清楚な陶子は何かこの日は、近寄りがたい威厳と華やかさがあった。

陶子が夜も八時ぐらいに帰ってきたのか、茉莉絵が起きている時間だったと思う。

「まあ、お母様、すみません、洗い物、そのままになさって」と言いながら、着替えに行った。

質素なセーターにスカート姿でエプロンを着けて、台所に戻った陶子を見て、茉莉絵が泣き出した。

「だあめぇぇぇー、お母ちゃま、さっきのお洋服をずーっと着てぇぇー」

「まあまあ、どうしたの、マリィ。あのお洋服を着たままじゃあお片づけできないわ」

陶子はおろおろと、泣いている娘の頭を撫でた。

「いやぁぁぁー、お母ちゃま、きたないーー」

陶子は娘が涙でべかべかに光った頬を恐ろしげに見下ろして、呟いた。

「きたない…」

茉莉絵は、母親の服装がみすぼらしくてきたない、と言っていたのだろうが、陶子は別の意味に取ったようだった。

何でこの事を思い出したのだろう。

「お父様?」

はっと我にかえって、「…ああ、ちょっと。興信所で依頼って。一万円じゃあ済まないだろう」

「…ええ。まだお願いしていませんが」

「そうか。恒夫に何か、不審な点があったのか」

「それは…思い当たることが、ありまして…」

「うむ…私は何も気がつかないが、いつものあいつだよ。興信所に頼むのは、もう少し様子を見なさい」

「…そうします。あの、お金は来月にお返ししますから」

「…いや、いいよ。それは」

「でも。興信所にはお願いしないかもしれませんし」

「もし、恒夫が本当に浮気をしていたとしてだ、私があんたにお詫びするのは一万円じゃあ済まんよ、それこそ」

「そんなこと。戴く理由には…」

「いいから。私も混乱しとるよ。今日はもういいから、おやすみ」

「…はい…おやすみなさいませ」


 一番、あってほしくない事だ。取ったと思いたくない人間が、「私が、取った」と言ってきた。

私は引き出しをそっと開けて、例の封筒を見つめた。手にとって中身を確認する。何も入っていない。

茉莉絵。恒夫。定子。陶子。

誰だ。いや、誰でもないはずだ。なぜ、引き出しに入れた一万円が無くなったのだろう。


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