平成二十五年三月二十三日(土曜日)
平成二十五年三月二十三日(土曜日)
晴れ。風が強く、肌寒さを感じる。
今日も大学図書館で五時まで過ごす。
昼食は近所の「百姓のれすとらん」でうどんとちらし寿司の定食。ここの店員で一番感じのよい女性に新聞のチラシにあったサービス券を差し出すと、「チラシをよくご覧になっているのですね、嬉しいです」とにこにこして言う。割引券など出して気がひけるのを、こんなに柔らかく返してくれる店員は他所にはいない。
五時半頃、帰宅。
書斎で論文を書きかけて、入浴のあと、寝室へ。
定子が顔に貼ったパックをはがす。そう変わらないと思うが、それを口に出したらおおごとだ。
電気スタンドを枕元に寄せて、今日借りてきた高見順の短編集を読んでいると、
「あなた。ちょっと、いいですか」と、つるつるした顔をてらてら光らせた定子が言う。
「何だ」
「この前のお話ですけど、あれ、私なんです」
「この前って、何のことだ」
「お金が無くなった件ですよ」
「…おいおい、何を言い出すのだ、お前まで…」と言いかけて、しまった、と思った。
「お前まで、って何がです」
「お、お前がか、と言ったのだ」
「ええ、私が取ったのですよ」
危ない、危ない。うっかり他の者も同じ事を言ってきたことを匂わすところだった。耳ざとい婆さんだ。
「書斎に入ったのか」
「そうですよ。椅子に載せているクッションを干していたから、それを戻しに。そうしたら、椅子の上に銀行の封筒が乗っていたじゃありませんか」
クッションを干すということは、二回入ったのか。悪びれない女だ、相変わらず。しかし、椅子に封筒が。そんなはずが。
「お金が入っていたから…ちょいと入用があったから、借りるつもりで私が持ち出したのですよ」
パックというものは鼻の穴まで広げてしまうのか。電気スタンドの灯りだけだから、布団の上に正座した定子のべかべかした顔が照らされて、薄気味が悪い。
「入用って、何だ」
「お花の立花先生の教室に最近、入ってらした佐倉さんって病院の奥さんがいらしてね。何事も大仰にしないと気の済まないお人柄で…。今度の発表会の後に、打ち上げをしましょうって仰るのね」
長くなりそうな話だ。茉莉絵や恒夫よりも。
「先生はそういうのお嫌いだから、忘年会新年会も断ってこられたの、今まで。さっぱりしたご気性で、皆もそれでお稽古続けていられるのに、佐倉さんが何かと仕切りたがる人で」
「…その話、長いのか」
ぬらぬら顔が目を吊り上げたので、私も慌てて、
「トラブルメイカーなんだな、その病院の奥様は」
「ええ、そうですよ。打ち上げとなると、先生のお食事は当然、弟子の私達の負担になりますからね、会費は一人一万円、っていうのよ。それが、佐倉さんの親戚の割烹料亭ですって」
「それで、その会費に借りたってことなのか」
「そうですよ。去年までそんなお付き合い、必要なかったんですから」
大きな鼻の穴をますます膨らませて、定子がいまいましげに言った。なんだかお金を取った定子よりも、その佐倉夫人が悪いと言わんばかりだ。
定子には茉莉絵や恒夫と違って「返して欲しい」と言いたかったが、延々とお仲間の悪口を聞かされそうな気がしたので、やめた。
「悪うござんしたけど、そういうことですから。再来週なのよ、発表会と打ち上げ。お金は来月お返しするわね」
「…そういうことなら、いいよ、もう」
「あら、そうですか。悪いわね。随分、気前がいいのね、あなた。じゃ、お休みなさい。あまり長
く本を読まないで下さいよ」
定子が電気スタンドに背を向けて、眠ろうとした。読みかけの本に集中しようとしても、頭に入ってこないのでスタンドを消したら、ため息が出た。
全く、茉莉絵と恒夫は返さなくてもいい、と言ったら一旦は辞退したのに、なんて婆あだ。