平成二十五年三月二十二日(金曜日) 曇りのち晴れ
平成二十五年三月二十二日(金曜日) 曇りのち晴れ
大学図書館は五時までは開いているので、それまで過ごす。
部外者で熱心な利用者が数人いる。
一人、私の英会話サークルに参加できないかと聞いた女性がいたが、職員と学生のための活動ということで難色を示す者がいた。狭量なことだ。女性に申し訳なかったが、そんな経緯の後も快く挨拶してくれる。
五時二十分頃、帰宅。
夕食メニュー。鶏肉の空揚げレモンソース煮。ひじき炒り煮。あらかぶの味噌汁。海草サラダ。
茉莉絵が何か言いたそうにしていたが、黙っていろ、と目で合図をした。
雨の翌日の空は爽快だ。夕焼けが美しかった。
夕食後の散歩をしていたら、恒夫が後を追って来た。
「何だ、お前も散歩か」
「たまにはお供しようと思いましてね」
「珍らしいな」
傍によると、ビールの匂いがかすかにした。恒夫は右側を歩く私と位置を入れ替えながら、
「お父さん、ちょっとお話が」と切り出した。
「うん?どうした、改まって」
「この前、祝儀のための金が無くなったって言ってましたよね」
何だ、恒夫まで何を言い出すのだ?まさか。
「あれ、僕なんです」
「どういうことだ」
「僕が取ったんです。一万円」
私は歩くのを止めて、恒夫の顔をまじまじと見た。昨日も、茉莉絵が同じ事を言ってきたぞ、と言いかけたが思い留まった。何か父娘で申し合わせでもしているのだろうか。
「お前が…だったとして、だね。私の部屋に何の用事で入ったのだ。」
「金曜日の夜、パソコンの調子が悪くなって。ちょっと使わせて貰おうと思って、お父さんが風呂に入っていると知らずに書斎に入ったんですよ。そうしたら…」
引き出しが開いていた、とでも言うのだろうか。茉莉絵と同じことを?
「机の上に銀行の封筒が置いてあったんです」
何だって?茉莉絵の言い分と違うぞ。
「そんなはずは無いんだがなあ」
「それで…つい、開けちまって。お金が入っているのに無用心だなあって思って。…僕も入用だったんでつい、持ち出したんですね、ちょいと借りるつもりで」
開いた口が塞がらないとは、このことだ。ことの真偽はともかく、二日続けて家族が二人、同じ事を(内容が違うにせよ)言ってくるとは。
「信じられないが…お前の言い分が本当だとして、何故、何のために持ち出した」
恒夫は茉莉絵そっくりの、いや、茉莉絵が似ているというべきか、細い目をしぱしぱさせて息を吸い込んだ。
「デジカメの…コンパクトだけど一眼レフに近い機能のものがあるんですよ、そいつが欲しくて」
「カメラだと?」
「そうです、一万八千円ぐらいで。今はそれぐらいでも結構機能のいいものがあるんですよ」
「お前、写真とか趣味だったか?」
「同僚で鉄道好きがいましてね、そいつに付き合って川浦鉄道の路線の駅で桜並木がいい所があるんです、日曜日に一日往復券が半額で桜と鉄道の撮影会、としゃれ込もうってね」
桜と鉄道、いい被写体だが。
「申し訳ない、お父さん。来月の給料日に返しますから」
「…いや、いいよ」
恒夫がきょとんとしている。一語一語区切るような口調で、
「いいって、お父さん、何を言ってるんですか。それじゃあ、あんまり」
「いいから。…そうさな。そのカメラ、時々私にも貸して貰えんか」
「何だ、そんなことなら。お安い御用って、そもそも、お父さんのお金から出てるんですから」
茉莉絵も恒夫も本当のことを言っているとは、ちょっと思えない。
いつもなら、早足ですます散歩も今日は調子が狂う。
近所で桜が植わっている家が数軒ある。そのうちの一軒に差し掛かると、庭の桜は二分咲きといったところ。
「お前、そのカメラは持ってきておらんな」
「そうでした、持って来ればよかったな。人の家の軒先で撮影とか、失礼ではあるけどこのお宅なら、塀に沿って咲いていますからね」
梯子酒ならぬ、梯子桜。そんな気分を味わうまで、あと数日だ。