平成二十五年三月二十一日(木曜日) 雨
平成二十五年三月二十一日(木曜日) 雨
葉山君への補習終了。
「教授。お世話になりました。初任給で一席設けさせてくださいね」
「楽しみにしているよ。取りあえず三年は同じところで働くことだ。三年もてば、後はどうにかなるもんだ」
ニヤリと笑って、彼が応える。
「辞めても、ですか」
「そうは言ってない。まあ、君のことだから心配はしとらんが…」
「肝に銘じておきます」
葉山君は本来、優秀な学生だがある政治団体への活動に関わり、講義を休む事が多かった。
三時頃、帰宅。
夕食後、茉莉絵が書斎に来た。見頃がピンクで袖部分が白、というブラウス姿。二色遣いは今年の流行だという。
「おじいちゃん。話があるんだけど」
「何だ。珍しいな」
「あのね…この前、お金が無くなったって言ってたじゃない?」
「うん?」
「あれ、私なの」
「え?」
「私が取ったの。一万円」
茉莉絵が厚いつけ睫毛をパチパチさせてまばたきする。女の子だから、父親に似たのか。陶子に似ていたら、高校生でこんな厚化粧は必要ないのだ。
「茉莉絵。何を言っているんだ」
「だからさ、私が取ったって」
「信じられんな。何で私の机の引き出しに金がある、と分ったんだ」
「英語の辞書をね、借りに来たの。そもそも。そしたら、引き出しが開いていてね」
「開いていたって?」
引き出しが開いていた。そんなはずはないのだが。
「無用心だなあって思って、閉めようとしたの。そしたら、銀行の封筒が目に入って。中を見たら、一万円あるじゃない?」
「それで?」
「…出来心っていうのかなあ。ちょっと借りようと思って、持ち出したの」
信じられない。引き出しのことにしても、金額のことも。昨日、初めて紛失したのは一万円だと皆に言ったことだった。
「おまえが取ったとしてだな、何のために?お小遣いが足りないのか」
「あのね、彼氏にね」
「彼氏?ボーイフレンドがいるのか、おまえ」
「いるよ。同じ高校の一個、先輩だけど。誕生日なの、彼の。今月」
「誕生日?贈り物をしたかったのか」
「そう。イケメンだし、センスいいの、着る物とか」
「洋服を買ってやったのか?一万円も?」
「一万円って、おじいちゃん。いい服買おうと思ったら、それでも足りないよ。取っておいて言うのも何だけど。私の手持ちも足してやっと、ってとこ。メンズのほうが高いんだから、お店も少ないしさ」
「そうか。使ったのか」
茉莉絵に悪びれる様子が無いので、私の顔が険しくなったのに気がついたのか、ようやく、
「ごめんなさい!今は返せません、こんな事して何だけど、待ってもらえるかな?」
本当に茉莉絵が取ったのか、半信半疑だったが、自分から言ってきたことは評価しなくてはいけないだろう。
「いいさ。あれはお小遣いということにしておくよ」
「でも。それじゃあ」
「いいから」
「本当に、ごめんなさい…」
「うん…そうだな、これは私と茉莉絵の内緒事にしておこう」
「そんな、いいの?」
「私の不注意ということで、事を荒立てることもないだろう。父さん達に知られたくなかろう?」
「う…ん。いいの?本当に?」
「いいって、いいって。さあ。もう行きなさい」
「…はい。お休みなさい」
腑に落ちない。本当に茉莉絵だろうか。ボーイフレンド云々、も本当だろうか。
いやいや。何か男に買ってやりたいというのは茉莉絵なら、あるだろう。
陶子に似た器量ならば、男のほうからいくらでも機嫌を取るのだろうが。そう考えると、不憫だ。
「その男、逃すなよ」と言ってやれば良かったか。