平成二十五年三月二十日(水曜日) 曇り
平成二十五年三月二十日(水曜日) 曇り
春休みだが、留年しかかっている4年生のために特別講義の期間。
今日は私の講義はないが、昨日のいきさつもあり、大学へ行くことにした。
「あら、なんですの、あなた。今日も授業ですか」
今朝の定子はそう不機嫌な声ではなかった。
「いや、出来の悪いのがいてね、研究室でレポートの訂正をさせようと思ってな」
「ご親切なこと」
「ちゃっかり就職は内定貰っているからな。もうすぐオリエンテーションだと」
「…そうですか」
弁当を包んだ手提げを持って陶子が立っている。
「お父様、学食は開いてないのでしょう?」
「ああ、すまんね。有難う」
外へ出ると、マスクをした人が多い。外出の度にマスクをつけるなど、数年前までは気にしたこともなかった。
三月中に河川の拡張工事は終わるということだったが、交通整理の日雇いが今日も立っている。
信号を渡ると、川沿いの家の敷地に一本だけ、染井吉野の樹がある。五分咲きといったところか。
花冷えというが、今日は風が強い。
大学の敷地内まで、あと少しのところで、学生の自転車とすれ違う。
「おはようございます」
「おはよう」
裏門を通る。こちらのほうが運動場に近い。桜並木がキャンパス内よりも見事だからだ。
五年程前だったか、台風で学内もかなりの被害があった。職員が総出で作業をしていると、倒れた桜の樹のうち、ある一本の根が自ら立ち上がった、と大騒ぎだったそうだ。
五時半頃、帰宅。定子は台所にいるようだ。陶子が書斎の前まで来た。
「お父様、昨日のお金ですけど」
「…?」
「見つかりまして?」
「いや、それが、まだ」
「そうですか。お困りですわね」
親身に心配してくれるのは陶子だけだ。
「陶子さん、あんたにだけ言っておこうと思うのだが」
「何ですの」
「無くなった金額だが」
「はい」
「一万円なのだ」
「え…」
「いや、あんたの言うように、三万円とかそんな金額ではないのでね」
「そうでしたか。なくなったことには違いないのですから。金額の多寡ではありませんよ」
良く出来た嫁だ。恒夫の女房には勿体無い。
「あの、お父様」
「なんだい」
「わたくしにだけ、と仰いましたけど」
「そうだ」
「皆にも言ったほうが。特に、お母様には」
「うん…」
「恒夫さんもお母様も、金額のことなんて気にしませんよ。茉莉絵は、子供ですから」
「そうだな」
「わたくしから申し上げても良いのですが、やはりご自分で仰ったほうが」
「そうだな」
陶子が書斎を出て行った後、ため息が出た。恒夫がいくら無くなった、とか特にしつこかったのを思い出した。
夕食の席で皆に金額を言う。一様に困惑したような、呆れたような表情。
サイコロステーキの一切れを頬張りながら、定子が「まあ…。そんな金額で恥をかくのはあなただけではないんですよ。無くなったのがかえってよござんした」と言う。
「何がいいんだ」
「きょうび、その金額でお祝いだなんて、あなた、結婚式ですよ。甥姪の入学祝じゃないのですから。改めて少し多目に用立てなさいな」
「言われなくてもわかっとる」
「父さん、それでまだ見つからないんですか」
恒夫がビール片手に、帆立と大根のサラダをつつく。
「見つからんのだ」
「おじいちゃん、今日大学も行ったでしょう。研究室は探したの」
「ATMから家へ直行したからな。書斎から動かしてないはずだ」
「なんか、やーなカンジ。あたし達、疑われているわけ?」
「茉莉絵。やめなさい。おじい様はそんな事言ってませんよ。お父様、おつゆをもっと召し上がる?」
「いや、いい。有難う」
恒夫と茉莉絵は面白がっているし、定子は体裁ばかり。何かあるとこの家でまともな反応をするのは陶子だけだ。